翌日、学校終わりにそのまま病院へと向かった。
 三月の後半ともなると、ようやく寒さが落ち着いてきたように思える。
 貝寄せの風がなだらかな坂道を吹き抜けて冬の終わりを告げ、病院脇に立ち並ぶ桜並木が出番を待ち望むように蕾を膨らませていた。

「――佐藤さん」

 院内に入り、いつも通り受付を済ませていると、不意に聞き覚えのある声がかかる。振り返ると、やっぱり彼女の母親だった。目元の隈が酷く、悄然とした雰囲気を漂わせている。

「……どうも」

 彼女の母親は受付の看護師を一瞥し、俺に向き直る。

「ちょっと、付いてきてもらえますか?」

 何の用と聞くのは野暮だ。
 小さく頷くと、彼女はすぐに歩き出した。その背中を大人しく追いかける。もちろん、会話の類は一切無い。俺からこの人に話すことは何も無いし、その代わりにシャツの第一ボタンを閉め、いつも付けることのないネクタイを鞄から取り出した。

 彼女の母親は病院内――といっても、一度外へ出て併設する喫茶店へと足を運ぶ。
 四人掛けの広いテーブルに案内され、俺は足早に彼女の母親を追い越して下座へ座る。意外そうな顔をされたが、彼女の母親は何も言わなかった。

「どうぞ、好きなものを頼んでください」

 メニューを手渡されたが、どうにも吟味して選ぶような状況でもない。

「じゃあ、アイスコーヒーで……お願いしゃ、します」

 注文したものが運ばれてくるまで、彼女の母親はじっとテーブルに視線を彷徨わせて一度も口を開かなかった。
 沈黙がやけに痛い。もちろん、俺も黙って座るしかない。

 ようやく、頼んだ飲み物がテーブルに置かれ、ウェイトレスが少し早足で去っていく。病院に併設されているだけあって、割とこういう訳ありな客も普段からいるのだろう。沈黙をかざす俺たちに訝し気な視線の一つすらない。

「娘のことになります」

 小さな声で、眼前の女性が発した。今まで何度か話した印象とはまるで別人のようだ。様相も、内面も、全てが様変わりしていた。
 それでも、俺は驚くことは無かった。そういう人間を、一番近くで見てきたのだから。

 彼女の母親から、その後の言葉が続かない。時が止まってしまったみたいに、口を半開きにして呆然と視線を微かに彷徨わせる。

「……蛍琉さんから色々と聞いています。病気のこと、それから、この先のことも……」

 堪らず、手元のアイスコーヒーに口をつける。味なんて分かるわけがなかった。舌に残るほのかな渋みに、俺は口を閉ざす。
 彼女の母親は疲弊しきった瞳で俺を捉える。

「あの子は私と主人の大切な……、本当に大切な一人娘です……」

「先日の言いつけを破ってしまった事は申し訳ないと思ってます」

「……いえ、その件に関しては私が間違っていました。娘にも散々、怒られて、挙句には泣かれてしまいましたし」

 彼女が俺のためにそこまで感情をあらわにしてくれていた。そのことは初耳だった。どうして、俺なんかに、と思うのと同時にじんわりと胸が熱を帯びる。
 しかし、それでは俺がここに呼ばれた理由は何なんだろう。てっきり、また会わないでくれと言われるものだとばかり思っていた。

「私は娘のことをこの世で一番愛しています。あの子のいない世界なんて、私には想像が出来ません……」

「……」

「娘は死にません。絶対に……。あの子はまだ十六歳なんです。この先、ずっと長い人生が待っているんです……! 幸せにならないといけないんですよ!」

 目の前で大粒の涙を流す彼女の母親を、俺は思ったよりも冷静に見つめていた。もちろん、この人の気持ちは十分すぎるほど伝わっている。これまでの態度と、今の様子がまるっきり違くとも、娘のことを一番に思ってのことだと分かるから。
 それでも、俺は知っている。心の強さに大人も子供も関係ない。愛する思いが強いほど、苦しみ、盲目的になってしまうということも。それは長い時間をかけても完全に解決しないことも、俺は実の父親から学んだ。

 きっと今でもこの人の中では、俺が彼女の見舞いに来ることを望んではいないのだろう。もしかしたら、憎まれているかもしれない。いや、そうに違いない。
 彼女が倒れた二度は、俺のせいでもあるのだから。あの件に関して、病気の進行とは関係ないと言われたが、この人からするとそんなことはどうでも良くて、俺はただ我が子を危険に晒す人物だ。

「お願いします……。娘を殺さないでください……。お願いします……、お願いします…………」

 殺さないでくれ。その言葉が胸に深く突き刺さる。古傷を抉られる痛みに思わず顔をしかめた。
 それから、彼女の母親は命乞いをするようにひたすら同じ言葉を繰り返した。ただひたすらに懇願するしかない。それが、今この人に出来る精一杯のことなのだろう。無力を嘆き、それでも娘のために行動する人に、俺は何も言えなかった。

 あなたは間違っている。
 そんなこと、口が裂けても言えないし、言いたくもない。

「……俺は蛍琉さんをすごく大切に思っています。親御さんに言うのも変な話ですが、ずっと一緒にいたい。傍にいて支えてあげたい。そう、思っています……」

 俺の話を彼女の母親が聞いているのかは分からない。俺が話している最中でも、この人は泣きながら同じ言葉を繰り返し呟いている。
 だから、俺もお構いなしに思ったことを全部吐き出してしまいたかった。

「俺も彼女には幸せになってもらいたい。だから、俺に出来ることは何でもします。きっと、疎ましく思われていると思いますけど、俺が彼女のことを大切に思っているのは本心です。絶対に、彼女に後悔はさせません」

 口で言うだけなら簡単だ。しかし、俺は彼女のために何かが出来ているのだろうか。彼女の支えに、希望になれているのだろうか。
 本当は俺だって彼女の母親と一緒に嘆き、悲しんでしまいたい。しかし、それをして何になる。それは彼女のためにはならない。

 だから、俺は早々に立ち上がった。無理矢理、気持ちに蓋をして隅へと追いやる。
 千円札を一枚、卓上に置いて店を出た。彼女の母親は何も言わずに、俺がいなくなってもずっと独り言のように懇願の言葉を続けていた。
 俺も彼女の母親も、同じ思いなのにどうしてこんなにも分かり合えないのだろう。彼女に幸せになってもらいたい。彼女に生きていてほしい。彼女の笑っている顔をいつまでも見ていたい。ただ、それだけなのに。