母親が亡くなってからの一年は、俺にとって忘れがたい地獄だ。
それまで当たり前に身の回りの世話をしてくれていた人が突然いなくなり、中学への進学時という変容も相まって生活が一変した。
事故以降、精神的に参っていた父親は早々に当てにならないと分かったから、とにかく自分で何とかするしかなかった。
朝起きれば、自分で朝食をつくらなければいけない。学校が終わったら、スーパーに寄らないといけない。帰ったら、洗濯機をかけないといけない。
掃除のやり方は知らなかったから、家中がとにかく埃っぽくて、生ごみの臭いも酷かった。
ただの中学生に家事をするのは中々に困難だ。それでも、俺がやらないといけなかった。ハウスキーパーなんて呼ぶ金は勿体ないし、何より腐り切った父親を他人に見せるのは嫌だった。その思いは父親への配慮なんかじゃなく、ただ俺がこんな人の子供なのだと思われるのが癪だったからだ。
父親は一日中、部屋で母親の遺影を眺め続けるだけ。声をかけても反応しないし、飯だって用意したものをいつ食べているのか分からない。朝用意していったものが、寝る前になっても手を付けられていないことだってよくあった。
正直、父親を気にかけている余裕なんて無かった。
だって、俺は母親を殺した罪悪感に涙を零す暇すらなかったのだから。
自分の罪から目を逸らしてはいけない。その思いが、俺をほんの少し現実と向き合わせたことで、何とか父親のようにならずに済んだだけのことだ。
父親を責められたらどんなに良かったか。でも、そんなこと出来るはずもない。父親はただの被害者だ。突然、最愛の人を失った可哀そうな人なのだから。
教室で友達がゲームをしている最中、俺は冷蔵庫の中身を思い返し、帰りにスーパーで買う品をスマホにメモっていた。
もちろん、心配はされたし、馬鹿にもされた。大人からは前者、同級生からは後者が圧倒的に多かった。仕方がない。中学生なんて、他人の境遇を理解しきれない。俺だって、母親が亡くならなかったら、こんなヤングケアラーまがいの生活をする同級生のことを同情は出来なかっただろう。
事故以降に定期的に訪れていたカウンセリングは、金がもったいないから早々に行かなくなった。優しい言葉で慰められ、あなたは悪くないと言われるたびに、苦しくなったから。
わざわざそんな思いをしてまでどうして時間を使っているのだろう。そんな暇があるのなら、少しでも休息に当てたかった。
きっと、この頃から俺の思春期が加速したのだと思う。父親はろくでもない。カウンセラーは人の心が読めない。学校の先生は話を聞くだけで行動してくれない。
大人はそういう生き物なのだと思うようになった。だから、俺も大人になるのが怖かった。このまま歳を重ねれば、いつかは俺もそんなスカスカな人間になってしまうと。その思いは成長した今でも変わることはない。
最初は気にならなかった父親の態度に、次第に腹が立つようになっていった。多分、母親への罪悪感より、今自分が置かれている状況が悲劇だと感じることが多くなったからだ。
自らの罪を忘れて、母親がやってくれていたことを自分が代わりにしているだけなのに、それを免罪符に父親に強い口を叩くようになった。
父親は言い返してこないし、反論も特にしないから、ストレスの吐きどころにちょうど良かった。今思えば、とんでもない話だ。
ある日、突然父親に殴られた。その日までずっと虚ろな目でぼーっとするだけだったのに、急に刺すような瞳で俺を睨むのだから、俺も無性に苛立った。
今さらキレるのなら、なぜもっと早く殴らなかったんだ。どうして、生活が落ち着きだしてから蒸し返すように暴れるんだ。そんな思いに、俺は殴られた驚きを塗りつぶすために父親を睨み返していた。
辛うじて、手は出なかった。父親が痩せこけすぎていて、怖かったからだ。
俺が殴ったら、壊れかけの父親が本当に壊れてしまう。だから、俺は震える握り拳をそっと床に降ろした。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。母親がいつも花を飾っていた花瓶に埃がつもっているのを見て、思った。
もう、何の花が生けられていたか覚えていない。そもそも、俺は生けられていた花の名前も知らないんだと思う。花屋で働いていた母親の好みだったのだろうけど、気にしたこともなかった。小学生の男子が花に興味を持てというのが無理な話だ。
だから、俺は今でも墓参りの花を自分で選べない。母親の好きだった花は思いだせないのではなく、知らなかったのだから。
あの事故が起こるまで、俺は母親が特別大切な人だと思ってはいなかった。生まれてから、ずっと当たり前に側にいるのだ。どんな時でも、帰ったら家にいておかえりと言ってくれる。その当たり前の幸せを、子供の俺は理解していなかった。
じゃあ、既に大切だと十分に理解している人が亡くなった時、俺はどうなってしまうのだろう。想像は付かないし、したくもない。そんなこと、起きないのが一番だ。
でも、現実は残酷だ。神様なんて、この世界にはいやしない。きっと、悪魔はいるんだろうけど。
それまで当たり前に身の回りの世話をしてくれていた人が突然いなくなり、中学への進学時という変容も相まって生活が一変した。
事故以降、精神的に参っていた父親は早々に当てにならないと分かったから、とにかく自分で何とかするしかなかった。
朝起きれば、自分で朝食をつくらなければいけない。学校が終わったら、スーパーに寄らないといけない。帰ったら、洗濯機をかけないといけない。
掃除のやり方は知らなかったから、家中がとにかく埃っぽくて、生ごみの臭いも酷かった。
ただの中学生に家事をするのは中々に困難だ。それでも、俺がやらないといけなかった。ハウスキーパーなんて呼ぶ金は勿体ないし、何より腐り切った父親を他人に見せるのは嫌だった。その思いは父親への配慮なんかじゃなく、ただ俺がこんな人の子供なのだと思われるのが癪だったからだ。
父親は一日中、部屋で母親の遺影を眺め続けるだけ。声をかけても反応しないし、飯だって用意したものをいつ食べているのか分からない。朝用意していったものが、寝る前になっても手を付けられていないことだってよくあった。
正直、父親を気にかけている余裕なんて無かった。
だって、俺は母親を殺した罪悪感に涙を零す暇すらなかったのだから。
自分の罪から目を逸らしてはいけない。その思いが、俺をほんの少し現実と向き合わせたことで、何とか父親のようにならずに済んだだけのことだ。
父親を責められたらどんなに良かったか。でも、そんなこと出来るはずもない。父親はただの被害者だ。突然、最愛の人を失った可哀そうな人なのだから。
教室で友達がゲームをしている最中、俺は冷蔵庫の中身を思い返し、帰りにスーパーで買う品をスマホにメモっていた。
もちろん、心配はされたし、馬鹿にもされた。大人からは前者、同級生からは後者が圧倒的に多かった。仕方がない。中学生なんて、他人の境遇を理解しきれない。俺だって、母親が亡くならなかったら、こんなヤングケアラーまがいの生活をする同級生のことを同情は出来なかっただろう。
事故以降に定期的に訪れていたカウンセリングは、金がもったいないから早々に行かなくなった。優しい言葉で慰められ、あなたは悪くないと言われるたびに、苦しくなったから。
わざわざそんな思いをしてまでどうして時間を使っているのだろう。そんな暇があるのなら、少しでも休息に当てたかった。
きっと、この頃から俺の思春期が加速したのだと思う。父親はろくでもない。カウンセラーは人の心が読めない。学校の先生は話を聞くだけで行動してくれない。
大人はそういう生き物なのだと思うようになった。だから、俺も大人になるのが怖かった。このまま歳を重ねれば、いつかは俺もそんなスカスカな人間になってしまうと。その思いは成長した今でも変わることはない。
最初は気にならなかった父親の態度に、次第に腹が立つようになっていった。多分、母親への罪悪感より、今自分が置かれている状況が悲劇だと感じることが多くなったからだ。
自らの罪を忘れて、母親がやってくれていたことを自分が代わりにしているだけなのに、それを免罪符に父親に強い口を叩くようになった。
父親は言い返してこないし、反論も特にしないから、ストレスの吐きどころにちょうど良かった。今思えば、とんでもない話だ。
ある日、突然父親に殴られた。その日までずっと虚ろな目でぼーっとするだけだったのに、急に刺すような瞳で俺を睨むのだから、俺も無性に苛立った。
今さらキレるのなら、なぜもっと早く殴らなかったんだ。どうして、生活が落ち着きだしてから蒸し返すように暴れるんだ。そんな思いに、俺は殴られた驚きを塗りつぶすために父親を睨み返していた。
辛うじて、手は出なかった。父親が痩せこけすぎていて、怖かったからだ。
俺が殴ったら、壊れかけの父親が本当に壊れてしまう。だから、俺は震える握り拳をそっと床に降ろした。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。母親がいつも花を飾っていた花瓶に埃がつもっているのを見て、思った。
もう、何の花が生けられていたか覚えていない。そもそも、俺は生けられていた花の名前も知らないんだと思う。花屋で働いていた母親の好みだったのだろうけど、気にしたこともなかった。小学生の男子が花に興味を持てというのが無理な話だ。
だから、俺は今でも墓参りの花を自分で選べない。母親の好きだった花は思いだせないのではなく、知らなかったのだから。
あの事故が起こるまで、俺は母親が特別大切な人だと思ってはいなかった。生まれてから、ずっと当たり前に側にいるのだ。どんな時でも、帰ったら家にいておかえりと言ってくれる。その当たり前の幸せを、子供の俺は理解していなかった。
じゃあ、既に大切だと十分に理解している人が亡くなった時、俺はどうなってしまうのだろう。想像は付かないし、したくもない。そんなこと、起きないのが一番だ。
でも、現実は残酷だ。神様なんて、この世界にはいやしない。きっと、悪魔はいるんだろうけど。