スポーツにおいて、イップスやスランプの原因は精神的問題が多いと言われている。継続的な鍛錬の中で、今までできていたことが急に出来なくなるのは、技術的衰退とは考えにくいからだ。

 だから、俺の場合はイップスやスランプには該当しない。ただの怠慢だ。
 過去の出来事を引きずっていると言われれば精神的問題なのだろうけど、俺の場合、そのせいでパフォーマンスが落ちていたのは一時のことで、技術的な衰退がすぐにそれを追い越してしまった。

 あの事故の後もずっと努力していたのなら、もしかしたら可哀そうなイップスということになれたのだろう。しかし、俺はそれを否定した。それだけのことだ。

 実際の所、イップスやスランプになるのは何も大それた出来事だけじゃない。案外、傍から見ればそれで? と思われるようなことでもなってしまうらしい。

 風見がスランプだと相談に来たのは年明けのことだった。
 面と向かって対峙するのはかなり久々だ。正直、かなり気まずい。あんなことがあったというのに、まだ俺を頼ってくれるのは、やっぱり今でも風見の憧れに俺が不躾にも居座っているせいなのだろうか。

 話を訊けば、原因は分かっているらしい。
 二か月ほど前の試合でネット前アクションをした際、足を滑らせてネットを張るポールに頭を思い切りぶつけてしまったらしい。こめかみが大きく切れて、それなりに出血もしたと。
 想像するだけで痛々しい話だ。ポールは鉄柱だし、そこに身体をぶつける痛みは俺もよく知っている。

「それ以来、ネットプレイが上手くできなくて……」

「まあ、お前からしたら致命傷だわな」

 風見は攻撃的なプレースタイルだ。積極的に前に出ることも多い。このところ、大会の戦績が芳しくないのはそのせいだろう。

「正直、すぐに治るかなと思ったんです。ちょっとビビってるだけだって。でも、なぜか時間が経つほど恐怖心が増して気が散るんです」

「それで、俺にどうしろと? 俺はスランプとやらになったことが無い。正直、専門的な医者に任せる方が良いと思うぞ」

「いえ、本当は相談というわけじゃないんです」

 風見は気まずそうに視線を下げた。やっぱり、俺たちの関係はギクシャクとしたままだ。
 氷が解けて薄くなった珈琲を啜る。温いし、嫌な苦みだし、まるで俺と風見の事を表しているみたいだった。

 男子高校生が二人、場違いにも喫茶店にいるというのにこの沈黙。やけに落ち着かない。

「あの……っ! 俺は先輩に謝りたくて……」

「はぁ? お前が俺に? 何を謝るってんだよ」

 俺が謝らなければいけないことはあれど、風見に謝罪を受けるようなことをされた記憶は特にない。そもそも、この数か月ろくに会話すらしていなかったのだ。甚だ見当もつかない。

「今はほんの少しだけっすけど、テニスしたくないんです。だから、俺、今なら先輩のこと分かるんです……。先輩がテニスにとっくに興味が無いことは気づいていたっすから……」

 盲目的では無かったということだろう。流石に中学からの俺の態度を見て、まだ昔のままだと言えるのは狂信的というやつだ。

「それでも、やっぱり昔の先輩が今でも俺の憧れで、無理矢理重ねていたんです。そして、俺の理想も不躾に押し付けて。それで、結局先輩に嫌な思いをさせてしまいました……。本当に申し訳ないっす!」

 風見は店内に響くほどの大声と一緒に頭を勢いよく下げる。額がテーブルを打ち、グラスがわずかに揺れた。

 風見の憧れだった俺はもういない。あの頃のように、今さらテニスに熱中できるとも思わない。
 たくさんの経験を積んで、目に見えない数字が増えて行ってしまった。もう何かを犠牲にしてまで、スポーツに人生を投資するのは難しい。
 きっと、風見も分かっているのだ。それでも、彼はまだ大事な高校生活をかけてまで、テニスに情熱を注いでいる。だから、その原動力の一端をわずかにでも担っている過去の俺の姿が忘れられない。
 その結果、あんな風に部内でもめ事を起こしてしまった。

「あれは俺が悪かったんだよ。風見は俺のことを思って楯突いているって分かってたのに、それを突っぱねちまった。悪かったな」

「いえ、本当に俺のせいです!」

「なら、この話はもう終わりだ。埒が明かねえよ。きっぱり、水に流す。いいな?」

「……おっす」

 少し不服そうだが、風見は渋々頷いた。俺だって、あんな意味の無いことで友人を失いたくはない。ちょっと、そりが合わなかっただけだ。互いの言い分は伝わっている。なら、もうそれでいい。

「なあ、一つ訊いていいか?」

「なんすか?」

 俺の胸の内を言葉にして表すのはちょっと難しい。だから、妙な間が空いた。

「悪い意味じゃねえんだけど、どうしてまだそこまでテニスに熱中できるんだ? プロ目指してんのか?」

 風見は質問の意図が理解できないのか、小首を傾げる。

「プロは流石に考えてないっすよ?」

「じゃあ、どうして一生懸命になれる。俺はもう到底、昔みたいに時間と熱を費やす気にはなれねえんだ」

 ようやく、俺の言わんとしていることが伝わったのか、風見は一言「なるほど」と呟き、俺をまっすぐ見据える。その瞳に映る俺の鏡像はやけに小さく感じた。

「俺は将来の夢とか無いですし、それどころか進学かどうかも考えてないっす。かといって、じゃあ俺はだらだら高校生活を過ごしていいとも思わないんすよ」

「だから、テニスに力を注いでいるってわけか?」

 その後に続く言葉を俺は飲み込んだ。
 尚更、どうしてと思ってしまう。

「今しか出来ないことをとにかく全力でやっておきたいんす」

 俺の心を読んだように風見が言う。
 今しか出来ないこと……。それって、俺に当てはめると何なんだろうか。俺にとってテニスはそうじゃない。もう、出来なくなったことだ。
 じゃあ、俺は今何をするべきなんだろうか。何に貴重な学生生活の日々を賭けるのが良いのだろう。

「俺は死にたくないんすよ」

 その言葉の意味が俺にはよく分からなかった。

「無意味に何も考えず一日が過ぎるのって、本当に生きているって言えるんすか? 大人になったら金を稼ぐとか名分があるんでしょうけど、じゃあ、俺たちの大義って何なんすかね」

 自問するように呟いた風見の言葉が、何日もずっと頭から離れなかった。