木枯らしが身体を叩くように吹き抜ける。感覚の無くなった手で握りしめたラケットも、ひんやりと冷たいことだけは嫌でも分かる。
 最近は陽が落ちるのもかなり早くなった。

「よし、今日は早いがここまで。寄り道しないでさっさと帰れよー」

 座って練習を眺めていただけの顧問が、部員よりも眠たげな眼を向ける。しかし、大変だなとは思う。わざわざ経験のないスポーツの責任役を任されるのだから。

 コートの整備が終わるや否や、俺はさっさと荷物をまとめてコートを後にする。スマホを見ると、バイトまで少し時間があった。しかし、病院に寄れるだけの余裕はない。

 結局、俺はテニスをやめることが出来ないでいた。あの日のことがあって以降、言いだすタイミングを見失ってしまったからだ。
 それどころか、前よりも練習に身が入っている気がする。もう二度と無いことだろうけど、彼女に恥ずかしい姿を見せたくないと思ったから。

 一日学業に勤しみ、薄明時まで部活。そして、その後に未成年が働けるギリギリの時間までバイト。相変わらず、そんな生活を繰り返していた。もちろん、病院に行ける日は無理にでも時間をつくって、彼女の見舞いに行った。
 今日は残念ながら、彼女の賑やかな声を耳にすることは出来なさそうだ。

 バイトや部活をサボってまで見舞いに行けば、彼女はすごく怒る。曰く、「恋人でもない人にそこまで尽くすのは犯罪です」とのことらしい。
 全くもって理解が出来ない。

 バイトが終わる頃には既に二十一時と半分を回っており、今日も一日があっという間に終わったような、ようやく一息付けたような、不思議な疲労感に襲われた。
 朔風がやけに身に染みる。乾いた空気に喉がちくっと痛む。夏以降――特に彼女と出会ってからは、やけに日々が早く過ぎ去っていく気がする。
 大学生にでもなれば、もう少し時間に余裕が出来るのだろうか。というか、そもそも俺は進学なんてするのだろうか。

 正直、我が家の経済状況はかなりギリギリだ。奨学金を利用するとしても、一人暮らしは到底難しいだろう。ここから通える大学に絞ったとして、俺はそこで何を学ぶのか。
 別になりたい職業があるわけでも、叶えたい夢があるわけでもない。それならいっそ、高卒で働いて家に金を入れるほうがいい。
 そうすれば、親父だって少しは昔のように戻るだろう。何の確証もない希望的観測だけが浮かんだ。

 出来ることなら、親不孝者の俺なんかじゃなく、寄り添ってくれる人でもつくればいいと思う。
 もうすぐ事故から五年。母親だって、いい加減許してくれるんじゃないだろうか。
 あの人はとにかく、心配性だった。今の親父を見ているのなら、きっと居ても立っても居られなくなってそのうち化けて出て来そうだ。

「そうすれば、俺だって謝れるのに」

 周りの人間が壊れていくのを見るのは、もううんざりだ。

 街灯を避けつつ、星を見上げて帰る最中、ポケットの中でスマホが震える。メッセージではない。電話だった。
 取り出すまでに思い当たる節を探すが、特に思い当たらない。親父は電話なんてかけてこないし、笠木とは未だにギクシャクしたままだ。連絡なんて寄こさないだろう。

 画面を見ると、電話番号ではなく『非通知』の三文字だけが表示されていた。じっと見つめ、コールが切れるまで待つ。
 知らない番号、特に非通知からの電話は出ないに限る。どうせ間違い電話か詐欺電話だ。一度、スルーしてしまえばかかってこない。

 しかし、ものの数十秒でまたしてもスマホが震える。やっぱり、非通知からだった。

「……こわっ」

 恐る恐る、受話器のマークを押す。

「……」

『あれ、これ繋がってます?』

 古い電話機特有のノイズ交じりな音声が耳に届く。それでようやく、公衆電話からの発信は非通知と表示されるのだと思いだした。

「なんでかけてきてるんだよ」

『あっ、やっぱり繋がっているじゃないですか。公衆電話初めて使ったのでよく分からなかったです』

「いや、そんなこと聞いているんじゃないんだが……」

 電話越しににやける彼女の姿が目に浮かんだ。

『まあまあ、いいじゃないですか。それより、今日はバイトでしたよね? そろそろ、終わりましたか?』

「……ちょうど帰り道」

『それは良かったです。じゃあ、います――』

 ブツンッという切断音が響く。そして、遅れてツーツーという通話終了の音。
 アパートの階段に足をかけ、思わず止まる。今日は親父は日勤のはず。この時間は家にいるだろう。彼女と電話しながら帰るのは、ちょっと気が引けた。
 どうせ、すぐにもう一度かかって来るのだから。

 案の定、三度目の着信がかかって来た。

『すみません、お金足りなかったみたいです。驚かせてしまいましたよね?』

「いや、やると思ってた」

 だって、初めて公衆電話使ったって言ってたし、どうせ十円で約一分ということも知らなかったのだろう。

『お見通しでしたか。流石、日影くんです』

「……で、何の用だよ」

 手すりに身体を預ける。正直、座り込みたいくらいには疲れていた。黒いベールに包まれた一面のキャンバスを眺め、今は何ルクスなんだろうかと空漠たる思いに駆られる。

『そうでした。お金がもったいないので簡潔に。私、病院の非常出口で待っているので、早く来てくださいねー』

 階段からずり落ちそうになった。思わず意味もなく画面を見てしまう。もちろん、公衆電話にビデオ通話の機能なんてものは存在するはずもなく、ただ無意味に通話時間を刻む数字だけが写し出されている。

「いや、何言ってんだよ。ってか、今病室の外なんだよな!? 何してんだよ!」

『人に見つかったら面倒なので、急いで下さ――』

 そこで、通話が途切れた。耳に残る切断音に、鼓動が速くなる。
 ほんの数秒立ち尽くし、俺は弾かれたように急いで階段を駆け上がった。靴が叩く鉄階段の音が、やけに響いて聞こえる。

 玄関の鍵を開け、財布を取り出して鞄は床に放る。明かりの漏れるリビングの扉に向けて、俺は大きく声をかける。

「ちょっと出てくるから!」

 親父の反応を待たずに家を飛び出した。
 バス……はもう無い。自転車の鍵を開け、またがる。

 十一月の夜に自転車でスピードを出すと、思わず震えてしまうくらい風が冷たかった。病院までは大体十五分ほどかかる。
 なだらかな坂道が、やけに長く感じた。一日酷使した足が悲鳴を上げていたけれど、俺は速度を落とさずに出来る限りペダルをこいだ。
 そうしているうちに、寒さは感じなくなっていた。むしろ、額にはじんわりと汗が滲んでいる。

「くそっ、本当に振り回してくれるな……」

 心臓が痛いくらい早鐘を鳴らしている。
 夜の病院の明かりはどんなものか。思い浮かべてみたけれど、分からなかった。そんな遅くまで病院にいたことはないし、ましてや普通なら明かりの有無なんて気に留めることでもない。

 一体、彼女は何を考えているんだ。大人しい顔して、やることがいちいち破天荒なのだ。付き合わされる身にもなってほしい。

 病院の正門は意外なことに開いていた。きっと、夜間診療もあるからだろう。
 入口に目を向ければ、エントランスは明かりがついていて、奥のカウンターには看護師が見えた。
 俺はバレないように自転車を門の外の暗がりに止めて、こっそりと裏手に回り込む。建物から漏れ出る明かり以外に特に目立つ照明はなくて、少し胸をなでおろす。

 建物の裏側、暗闇に包まれる中にぼんやりと緑色の蛍光で記されたピクトグラムが目に付く。その真下に彼女は座っていた。

 気配に気が付いたのか、彼女が顔をあげてこちらを振り向く。そして、その吸い込まれてしまいそうな透き通った瞳を暗がりで輝かせた。

「思ったより、早かったですね」

 そう言う彼女は私服に着替え、その上から何やら布のようなものを被るように羽織っていた。ちょうど、彼女の頭先からつま先まですっぽり隠れるくらい大きな外套だ。
 思わず、触れてみる。つるつるとした雨合羽のようなゴム引きの素材。生地は重く、とても衣服の類には見えない。

「あぁ、これですか?」

 彼女はその場でくるりと一回転して見せた。外套がふわりと靡く。

「えっへん、秘密兵器です! 遮光カーテンですよ。これなら、明かりの少ない夜であれば、私だって外に出られます」

「そんなこと言ったって、駄目に決まってんだろ! 一体、何考えてるんだよ」

「朝の看護師さんの見回りには帰るので大丈夫ですよ。この日のために徹夜で巡回時間とか覚えてきましたし」

 彼女は目元まで深くカーテンを被り、深呼吸をする。
 どうして、そんなにも満足そうな表情なんだ。
 意識して真似してみたけれど、冬の乾いた空気に喉がざらついた。

「久しぶりの外の空気、気持ちいいです。ちゃんと、生きているんだなって感じられますよね」

「……こんな林に囲まれた場所、青臭いだけだろ」

 あぁ、そうか。俺たちが当たり前に外に出ている時、彼女はずっとあの牢獄の中なんだ。暗闇でじっと、まるで繭の中で羽化を待つ蛹のように。
 だから、彼女の服装だってどこか変なのだ。遮光カーテンから覗く私服は、十一月の真冬にしてはやけにチェック柄が目立つ。
 乳白色の長袖のブラウスに、紅葉を想起させる橙色と薄茶色のチェック柄フレアスカート。三日月の意匠が施されたブレスレットがちらりと袖から覗いていた。

 長いこと病院にいるのだ。季節感だって、狂ってしまうのだろう。そういや、あの時も、秋だというのに夏の定番のような恰好だった。

「ほら、早く行きますよ。いつまでもここに居ては見つかってしまいます」

 彼女に手を引かれる。ひんやりとした中、微かに感じる温もりに彼女が長いこと外で待っていたことが伝わってしまった。

「あっ、おい!」

 そのまま、彼女は俺を引っ張るように歩み出す。カーテンで視界が悪いのか、やけに大振りに首を振って周りに目を配っている。
 彼女は一生懸命なのだろうけど、すごく非力だ。きっと、抵抗しようとすれば簡単に出来る。嫌がる彼女を無理矢理、病室に戻すことだって容易だ。

 でも、それでいいのだろうか。また、外よりもずっと暗いあの部屋に押し込んで、まるで腫物のように扱う。それでは、俺は医者や彼女の母親と同じじゃないか。

 だから、俺は強く抵抗出来なかった。もちろん、彼女を外に出すのはすごく怖い。でも……。
 もう、自分でもよく分からない。一体、俺はどうしたいのだろうか。

「日影くん、緊張してます? 手汗凄いですよ」

 そう言われ、思わず彼女から手を離した。確かに冷え性の俺にしては珍しく手のひらが湿っていた。
 コートで雑に拭う。その様子に彼女は小さく笑みを漏らす。

「大丈夫です、気にしませんよ。私なんかにも緊張してくれて、逆に嬉しいくらいです」

 彼女が手を差し出す。
 一瞬だけ、戸惑った。この手を取るということは、また彼女を外に連れ出すということだ。何かを間違えてしまえば、彼女を命の危険にさらすことになるかもしてない。田舎町とはいえ、この世界は人工的な明かりに満ちている。それだけ、彼女にとっては危うい綱渡りの世界なのだ。事故が起こらないなんて確証は一切持てない。

 ただ、それでも、俺くらいは彼女の味方をしてやりたい。
 多分、俺の選択は間違っている。彼女も間違っている。
 でも、その過ちで彼女に笑みが満ちるのなら――。

「ここまで全力でチャリ漕いできたから、あちぃんだよ」

 小さな手をしっかりと握った。そして、今度は俺が彼女を引っ張る。出来るだけ、急に明かりが降り注いでも、俺の陰に隠せるように。

 ぎゅっと彼女が手を握り返してくる。

「まあ、そういうことにしておきましょうか」

 小悪魔ちっくな彼女から目を背け、空を見上げる。鬱陶しいほどに、満月が煌々と輝いていた。