彼女が目を覚ましたのは、倒れてから五日後のことだった。というのは、俺の勝手な予想だ。だって、俺はもう一か月も彼女に会っていない。
彼女が倒れてから毎日病院に通い、面会を許されたのが、あの日から五日後だった。
俺は彼女の安否だけ聞き届け、そのまま病院を出た。
理由は二つ。一つは彼女に会うのが怖かったから。あの日、俺が見舞いに行かなければ、彼女と話していなければ、あの小学生たちが来ることは無かった。
俺のせいでまた人が死ぬかもしれなかったのだ。
彼女だって、きっと嫌な思いをしたはず。そんな感情では収まらないかもしれない。恨まれてもおかしくない。だって、本人は気を失うほどの高熱に何日も悩まされたのだから。
それこそ、医者の話では病院でなければ危なかったかもしれないと言っていた。
たった数秒の光に照らされただけなのに。
俺は〝死〟という言葉を聞いてもなお、彼女の病気について楽観視していたのかもしれない。その事実が、我ながら恐ろしい。人が簡単に死んでしまうことを誰よりも知っていたはずなのに。
そして、もう一つの理由は彼女の母親に言われてしまったからだ。もう、娘に会わないでください、と。
一時の感情ではなく、真摯に告げられた。
何も言えなかった。言えるわけがなかった。
その思いは流石に反発出来ない。彼女にアイスを食わせるなって言うのとはわけが違う。純然たる一人の母親としてのお願いだったからだ。
結果として、俺と関わって彼女は苦しんだ。だから、素直に頷く以外に出来る術がなかった。
またいつも通りの日常に戻るだけだ。
ライン際に鋭く刺しこむボールを辛うじてはじき返す。何度も経験したシチュエーションに足がついて行かない。
それまで難なく返せていたのに、練習をサボりすぎたツケが回ったのだろう。それか、試合中にずっと他のことを考えてしまっているせいだ。
いつも通りは、努力をしないといつまでも続かない。それまでの自分の努力について行かないと、成しえないのだ。
ふわっと浮いた緩いロブに瞬間的な諦めがよぎる。同時にまた一つ、俺を構成する何かが弾けて溶けた。
ここで相手がスマッシュをミスって、首の皮が一枚繋がる。そして、劇的な逆転。そんなあまりにチープなテンプレは無く、決して届かない線の内側にボールが叩き込まれる。
「ゲームセット、ウォンバイ 吉田 6-4」
一度も負けたことのなかった奴に敗北した。
正直、悔しい。しかし、それ以上に空虚な思いが試合前も、今も、ずっと胸中を染め上げている。
こんなもの続けて、一体何になるんだ。
彼女が欲してやまない世界で、どれだけ無駄な時間を過ごしているんだろう。
「よし、これで全員ローテしたな」
顧問の声に、その場にいた全員が何を言うでもなく輪になって集まる。
「それじゃあ、来週の地区予選団体の選手を発表する」
不平不満の出ない、部員総当たりでの順位決め。その十位までが学校ごとの団体メンバーに選ばれる。といっても、さらにそこから出場できるのはシングルスの三人、そして、ダブルスの四人。残りは補欠だ。コート内に入って試合に出れない、一番中途半端で歯がゆい人たち。
笠木を先頭に次々名前が呼び出され、十人のうちに俺の名前も告げられる。
「次、現時点でのオーダー順を発表する」
胃がチクりとする。最後の試合の負けは痛かったと思う。
「ダブルスは若元・田島、押野・坂本。シングルスは笠木、山内、そして吉田。以上の七名」
何故か、とても恥ずかしくなった。周りの目が見れない。
妥当だ、と思う。でも、今まで一度もスタメン落ちしたことは無かったから、名前を呼ばれないことに悔しさよりも、ある種の羞恥を抱いた。
そんな傲慢な思い上がりを張り詰めた一言が切り裂く。
「ちょっと、待ってください!」
話が終わり、輪が崩れかけた瞬間、対角にいた笠木が声を上げる。その緊張感のある大きめな声に、顧問を含む全員が笠木へと視線を向けた。
「どうした、何かあったか?」
顧問が不思議そうに首をひねる。
「なんで、佐藤先輩がスタメンじゃないんですか?」
ひゅっと喉が締まる。逸れかけていた視線が再び、俺を射抜くように向けられた。
「佐藤は四番手だ。誰か故障したり、言いづらいが敗戦処理に出てもらう」
顧問はきっぱりと言いのけた。予備メンバーというのはそういうものだと理解しているけれど、実際に言葉にされると結構しんどい。
「だって、佐藤先輩と吉田先輩は勝利数が一緒じゃないですか」
「だとしても、佐藤は吉田に直接負けただろ。それに、得失ゲーム数も吉田の方が上だ」
「でも、佐藤先輩は今まで吉田先輩に負けたことなかったはずです! 本当に勝ちに行くなら、そういうコンディションや過去のことも含めて選ぶべきだと思います!」
顧問は困ったように息を吐く。所詮、この人は外部コーチに言われた通りにしているだけだ。だから、困惑しているのだろう。
文句ならコーチに言ってくれと、渋そうな顔が物語っている。
「あのな、それじゃ実際に佐藤に勝った吉田が可哀そうじゃないか」
「それは……でも、大会に勝つならベストメンバーで挑むべきなんじゃ――」
「おい……!」
顧問と笠木の言い争いに、部長の山内が割って入る。
一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
山内は笠木をひと睨みすると、顧問に向き直る。
「先生、この後職員会議ですよね。話をまとめて後で報告に行きます」
「そ、そうか。じゃあ、頼んだぞ、山内」
逃げるように顧問がコートを後にする。正直、教師としてどうなんだと思わなくもない。でも、気持ちは分かる。俺だって、一緒に出ていきたかったくらいだ。
顧問の姿が見えなくなったのを確認して、山内が気怠そうに舌打ちをする。
「笠木、余計な面倒事つくんな」
きっと、山内だけの言葉じゃない。ここにいる全員の総意だった。
「でも、」
「でもじゃない! 一年が自分の考え押し通してんじゃねえよ」
「間違ったことは言ってません!」
「間違ってるだろ! 何のための総当たり戦だと思ってるんだ!」
二人の言い争いから目を離すように空を仰ぐ。
青すぎて、うんざりした。全てのみ込んでくれそうな気配を醸しているくせに、何も持っていっちゃくれない。
「でも、佐藤先輩は本当はもっと……」
ぎりっと奥歯が軋む。無意識に後ろ髪を引っ掻いていた。
「大体、いつも佐藤が、佐藤がって。そんなに佐藤が好きなら笠木、お前の枠を譲ればいいじゃねーかよ!」
いつの間にか、多くの部員が山内と同じ目を笠木に向けていた。どうしてか、俺が睨まれている気分だった。
「そ、それでも、構わないです!」
どろっとした何かが胸の内で落ちる。
刹那、思う。
あっ、駄目だ……。
せき止めていた何かが抜け落ちる気配がした。
「佐藤先輩は本当は僕なんかより全然上手いんです。だから、それでも――」
「――笠木ッ!」
自分の大声にびりびりと鼓膜が痺れる。
耳をすませばやまびこが聞こえてきそうなほど、辺りが静寂に染まった。
全員が、俺に意識を向ける。
もちろん、笠木も俺を見ていた。驚いた表情に、余計腹が立つ。
いつの間にか、ちぎれるんじゃないかと思うほど強く下唇を噛んでいた。
「ど、どうしたんですか? ……先輩?」
どうしたじゃねえんだよ。
怒鳴りたい気持ちを抑え、浅く息を吸う。わななく口をぐっと噛みしめて堪えると、今度は瞳が勝手に笠木のことを睨んでしまった。
どうしても、抑制しきれない感情が溢れ出してしまう。
もう一度、空を仰ぐ。今度は、いくらか感情を持っていってくれたのかもしれない。
「もうこれ以上、俺に恥をかかせんなよ」
吐き捨てるような言葉だった。
怖くて、笠木の顔は見れない。
「えっ、それは……」
「――だからっ! うぜえっつってんだよ!」
結局、声を荒げてしまった。
我慢しようにも、出来なかった。
ゆっくりと視線を下げる。笠木は、ひどく悲しそうな顔をしていた。
胸がえぐられるように痛む。でも、こんな顔をさせたのは紛れもない俺自身だ。
ただの八つ当たり。感情の昇華をしきれなかった俺の未熟さが招いたものだ。
逃げるように背を向けた。ラケットを握る手が痺れる。思いっきり握りしめていないと、零れ落ちてしまいそうで。
荷物をまとめてコートを飛び出す俺を、誰も追いかけては来なかった。
彼女が倒れてから毎日病院に通い、面会を許されたのが、あの日から五日後だった。
俺は彼女の安否だけ聞き届け、そのまま病院を出た。
理由は二つ。一つは彼女に会うのが怖かったから。あの日、俺が見舞いに行かなければ、彼女と話していなければ、あの小学生たちが来ることは無かった。
俺のせいでまた人が死ぬかもしれなかったのだ。
彼女だって、きっと嫌な思いをしたはず。そんな感情では収まらないかもしれない。恨まれてもおかしくない。だって、本人は気を失うほどの高熱に何日も悩まされたのだから。
それこそ、医者の話では病院でなければ危なかったかもしれないと言っていた。
たった数秒の光に照らされただけなのに。
俺は〝死〟という言葉を聞いてもなお、彼女の病気について楽観視していたのかもしれない。その事実が、我ながら恐ろしい。人が簡単に死んでしまうことを誰よりも知っていたはずなのに。
そして、もう一つの理由は彼女の母親に言われてしまったからだ。もう、娘に会わないでください、と。
一時の感情ではなく、真摯に告げられた。
何も言えなかった。言えるわけがなかった。
その思いは流石に反発出来ない。彼女にアイスを食わせるなって言うのとはわけが違う。純然たる一人の母親としてのお願いだったからだ。
結果として、俺と関わって彼女は苦しんだ。だから、素直に頷く以外に出来る術がなかった。
またいつも通りの日常に戻るだけだ。
ライン際に鋭く刺しこむボールを辛うじてはじき返す。何度も経験したシチュエーションに足がついて行かない。
それまで難なく返せていたのに、練習をサボりすぎたツケが回ったのだろう。それか、試合中にずっと他のことを考えてしまっているせいだ。
いつも通りは、努力をしないといつまでも続かない。それまでの自分の努力について行かないと、成しえないのだ。
ふわっと浮いた緩いロブに瞬間的な諦めがよぎる。同時にまた一つ、俺を構成する何かが弾けて溶けた。
ここで相手がスマッシュをミスって、首の皮が一枚繋がる。そして、劇的な逆転。そんなあまりにチープなテンプレは無く、決して届かない線の内側にボールが叩き込まれる。
「ゲームセット、ウォンバイ 吉田 6-4」
一度も負けたことのなかった奴に敗北した。
正直、悔しい。しかし、それ以上に空虚な思いが試合前も、今も、ずっと胸中を染め上げている。
こんなもの続けて、一体何になるんだ。
彼女が欲してやまない世界で、どれだけ無駄な時間を過ごしているんだろう。
「よし、これで全員ローテしたな」
顧問の声に、その場にいた全員が何を言うでもなく輪になって集まる。
「それじゃあ、来週の地区予選団体の選手を発表する」
不平不満の出ない、部員総当たりでの順位決め。その十位までが学校ごとの団体メンバーに選ばれる。といっても、さらにそこから出場できるのはシングルスの三人、そして、ダブルスの四人。残りは補欠だ。コート内に入って試合に出れない、一番中途半端で歯がゆい人たち。
笠木を先頭に次々名前が呼び出され、十人のうちに俺の名前も告げられる。
「次、現時点でのオーダー順を発表する」
胃がチクりとする。最後の試合の負けは痛かったと思う。
「ダブルスは若元・田島、押野・坂本。シングルスは笠木、山内、そして吉田。以上の七名」
何故か、とても恥ずかしくなった。周りの目が見れない。
妥当だ、と思う。でも、今まで一度もスタメン落ちしたことは無かったから、名前を呼ばれないことに悔しさよりも、ある種の羞恥を抱いた。
そんな傲慢な思い上がりを張り詰めた一言が切り裂く。
「ちょっと、待ってください!」
話が終わり、輪が崩れかけた瞬間、対角にいた笠木が声を上げる。その緊張感のある大きめな声に、顧問を含む全員が笠木へと視線を向けた。
「どうした、何かあったか?」
顧問が不思議そうに首をひねる。
「なんで、佐藤先輩がスタメンじゃないんですか?」
ひゅっと喉が締まる。逸れかけていた視線が再び、俺を射抜くように向けられた。
「佐藤は四番手だ。誰か故障したり、言いづらいが敗戦処理に出てもらう」
顧問はきっぱりと言いのけた。予備メンバーというのはそういうものだと理解しているけれど、実際に言葉にされると結構しんどい。
「だって、佐藤先輩と吉田先輩は勝利数が一緒じゃないですか」
「だとしても、佐藤は吉田に直接負けただろ。それに、得失ゲーム数も吉田の方が上だ」
「でも、佐藤先輩は今まで吉田先輩に負けたことなかったはずです! 本当に勝ちに行くなら、そういうコンディションや過去のことも含めて選ぶべきだと思います!」
顧問は困ったように息を吐く。所詮、この人は外部コーチに言われた通りにしているだけだ。だから、困惑しているのだろう。
文句ならコーチに言ってくれと、渋そうな顔が物語っている。
「あのな、それじゃ実際に佐藤に勝った吉田が可哀そうじゃないか」
「それは……でも、大会に勝つならベストメンバーで挑むべきなんじゃ――」
「おい……!」
顧問と笠木の言い争いに、部長の山内が割って入る。
一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
山内は笠木をひと睨みすると、顧問に向き直る。
「先生、この後職員会議ですよね。話をまとめて後で報告に行きます」
「そ、そうか。じゃあ、頼んだぞ、山内」
逃げるように顧問がコートを後にする。正直、教師としてどうなんだと思わなくもない。でも、気持ちは分かる。俺だって、一緒に出ていきたかったくらいだ。
顧問の姿が見えなくなったのを確認して、山内が気怠そうに舌打ちをする。
「笠木、余計な面倒事つくんな」
きっと、山内だけの言葉じゃない。ここにいる全員の総意だった。
「でも、」
「でもじゃない! 一年が自分の考え押し通してんじゃねえよ」
「間違ったことは言ってません!」
「間違ってるだろ! 何のための総当たり戦だと思ってるんだ!」
二人の言い争いから目を離すように空を仰ぐ。
青すぎて、うんざりした。全てのみ込んでくれそうな気配を醸しているくせに、何も持っていっちゃくれない。
「でも、佐藤先輩は本当はもっと……」
ぎりっと奥歯が軋む。無意識に後ろ髪を引っ掻いていた。
「大体、いつも佐藤が、佐藤がって。そんなに佐藤が好きなら笠木、お前の枠を譲ればいいじゃねーかよ!」
いつの間にか、多くの部員が山内と同じ目を笠木に向けていた。どうしてか、俺が睨まれている気分だった。
「そ、それでも、構わないです!」
どろっとした何かが胸の内で落ちる。
刹那、思う。
あっ、駄目だ……。
せき止めていた何かが抜け落ちる気配がした。
「佐藤先輩は本当は僕なんかより全然上手いんです。だから、それでも――」
「――笠木ッ!」
自分の大声にびりびりと鼓膜が痺れる。
耳をすませばやまびこが聞こえてきそうなほど、辺りが静寂に染まった。
全員が、俺に意識を向ける。
もちろん、笠木も俺を見ていた。驚いた表情に、余計腹が立つ。
いつの間にか、ちぎれるんじゃないかと思うほど強く下唇を噛んでいた。
「ど、どうしたんですか? ……先輩?」
どうしたじゃねえんだよ。
怒鳴りたい気持ちを抑え、浅く息を吸う。わななく口をぐっと噛みしめて堪えると、今度は瞳が勝手に笠木のことを睨んでしまった。
どうしても、抑制しきれない感情が溢れ出してしまう。
もう一度、空を仰ぐ。今度は、いくらか感情を持っていってくれたのかもしれない。
「もうこれ以上、俺に恥をかかせんなよ」
吐き捨てるような言葉だった。
怖くて、笠木の顔は見れない。
「えっ、それは……」
「――だからっ! うぜえっつってんだよ!」
結局、声を荒げてしまった。
我慢しようにも、出来なかった。
ゆっくりと視線を下げる。笠木は、ひどく悲しそうな顔をしていた。
胸がえぐられるように痛む。でも、こんな顔をさせたのは紛れもない俺自身だ。
ただの八つ当たり。感情の昇華をしきれなかった俺の未熟さが招いたものだ。
逃げるように背を向けた。ラケットを握る手が痺れる。思いっきり握りしめていないと、零れ落ちてしまいそうで。
荷物をまとめてコートを飛び出す俺を、誰も追いかけては来なかった。