親父がネオンに色づくホテルから出てきたのを見た。笠木よりも先に俺が気付けたのは、そこが父親の現在の職場だと知っていたからだ。
 すぐに踵を返し、背を向ける。

「どうしたんすか、先輩?」

 不思議そうに笠木が後を付いてくる。

「アイス、食いてえ」

「ふーん、珍しいっすね。でも、それならこの先にコンビニがあるじゃないっすか。なんで、わざわざ戻るんすか」

「いいんだよ。奢ってやるから、付いてこい」

 納得がいかなそうな笠木だが、ひとたび俺が足を速めると彼もそれに倣う。確かにコンビニは親父の出てきたホテルのすぐ横にあったし、苦しい言い訳だ。
 親父がホテルの清掃員だということは、笠木には伝えてあった。しかし、それがどういうホテルなのか、ということまでは彼は知らない。

 一度、恥ずかしいから辞めてくれと親父に相談したことがあった。偶然、さっきのように親父が仕事場から出てくるところを同級生に見られて、散々からかわれたからだ。
 職業に貴賤なし。当たり前のことを、年頃の俺は受け入れられない。その理由が、夜間の給与が高いからというのだから尚更のことだ。
 狭い世界で生きている俺たちにとって、親父の職場は異分子だった。

 すっかり生気を失った親父は見るに堪えられない。これ以上、酷い有様を周りに知られたくは無かった。
 我ながら、親不孝者だと思う。何もかもが、気に入らない。口を開けば不平不満。そこに感謝の言葉は一切無い。
 それでも、結局はつまらない見栄と意地を張って素直になれない自分が、一番許しがたかった。

「え、先輩珍しいもん買ってるっすね。それ高いっすよ」

 無意識にいつものいちご味と青い棒アイスを手に取っていた。

「……やらねーよ」

 棒アイスを笠木に渡し、俺はいちご味のカップアイスを食う。

「甘っ……」

 どうしてか、炎天の下で食べるよりも、あの空間で食べたアイスの方が美味しかった。それに、歩きながらのカップアイスは恥ずかしい。普通に後悔した。
 それでも、シェアハピなんてしてやらなかった。彼女が未だ目を覚まさずに食べられない分だけ、俺が食ってやりたかった。
 結局、渇きに悩まされながら帰路に付く。

 親父は既に帰宅していたようで、玄関を開けると微かに醤油の匂いが鼻をくすぐる。
 濡れた髪も乾かさず、親父がテーブルで野菜炒めだけを食べていた。白米も、味噌汁も、飲み物すらそこには無い。
 元々、あまり食べる人ではなかったけれど、鬱になってからは余計にその小食っぷりが顕著になっていた。
 鬱って、後遺症とかあるのだろうか。それとも、完治なんてのは嘘で、実はまだ治ってないとか。そう思ってしまうほどに、親父は様変わりした。実親に抱く感情ではないけれど、別人のようで、何となく怖い。
 不意に、脳裏に彼女が浮かぶ。
 嘘つかないって言ってたくせに。

「そんなんで足りるのかよ」

 やせ細った身体に意味もなくイラつく。

「あぁ、おかえり。日影の分も用意してあるから」

 台所に目を向けると、ラップのかかった野菜炒めが置かれている。ご丁寧に俺の分だけ豚肉入りだ。それに、小鍋からは白い湯気が立っているし、炊飯器は保温のランプが点灯していた。

「倒れても、看病なんてしねえからな」

 きっと、この家が冷たくなったのは親父のせいではない。俺のせいだ。
 分かっていても、ありがとうの一言が出てこない。いつも、何かの目の敵にして悪態をついてしまう。そんな資格、母親を殺した俺にあるはずがないのに。

「……明日は部活か?」

「昼、部活。夜、バイト。飯はいらねえ」

 トレーに野菜炒め、それと茶碗によそった白米と味噌汁を載せる。冷蔵庫を開けると、ジャムにしてもなお余っていたブルーベリーが一パック、寂し気に佇んでいた。

「そうか、父さん夜勤だから」

 そう言い、父親は財布を取り出す。

「金ならいらねーよ。賄い出るから」

 いつも言ってるのに。そう思い、ふと振り返る。
 俺だって嘘ついてんじゃん。

 小皿に分けたブルーベリーを親父の前に置く。親父は自分の買ってきたものにしか手を付けない。こうでもしないと、食べないのだ。
 突然差し出されたそれに目を向け、俺にぼんやりと一瞥を投げる親父。

「……そうか」

 結局、そんな一言が返って来た。だから、俺もそれ以上は何も言わず、トレーを持って逃げるように自室のドアを開けた。

 夕飯を食べ終え、ベッドに横たわって思いだした。
 親父の誕生日、今日じゃん。
 もうリビングから物音は聞こえなかった。