「警察なら、安全だとそう思ったんですか?」
拘置所の冷たい空気が更に冷え込む。
目の前の男の、つり上がった口角が何よりも不気味で吹き出す汗が止まらない。
「愚かですねぇ。何故シヴァ様の権力が警察に及んでいないと思ったんですかぁ?ねぇ、聞こえてます?」
たった今、冷や汗をダラダラと流し、部屋の隅で震えているのは、最近クラスメイトの殺人容疑で自首してきた19歳の少年だった。
シヴァ様がまとめる『チャトランガ』という組織に入りたくて、現状を変えるためにクラスメイトを殺した、三日月に「生粋のサイコパス」と称された少年だ。
そんな少年を檻越しに言葉で追い立てている男は震えて何も喋りもしないその少年に、イラついたように舌打ちを零す。
「まあ、いいです。」
カツッと質のいい靴の踵を鳴らした男は、檻から1歩引く。
「貴方は何が罪で罪とはどのようなものかをしっかりと考えてくださいね。ま、貴方はすでに我々のブラックリストに乗っています。死にたくないのなら、大人しくしている事ですね。」
こくこくこくと首がとれそうになるほど上下させる少年を見て、男は満足そうににっこり笑う。
「あぁ、でも、貴方のせいで我々の存在が警察に露見してしまったのは頂けないですねぇ。」
しかし、次の言葉にヒュッと少年の喉の奥が引きつった音をたてた。
「大人しく、していて下さいね?死にたくはないでしょう?」
再びこくこくと頷く少年に、「素直なことはいい事ですねぇ。」と男はようやく踵を返し、去っていった。
それにようやく安堵した少年はズルズルと壁伝いに座り込む。
少年は正直言ってしまえば、大人に頼れば何とかなると思っていた。
なぜならシヴァ様はまだ10代の少年であると風の噂で聞いていたからだ。
幹部たちも軒並み10代。
子供ばかりで構成された組織だ、と。
所詮は子供の組織。
大人の所に逃げ込めば手なんて出せないと、そう高を括っていたのだ。
それがどうだ。
これのどこが、ただの子供の組織だというのか。
「……お、れは、ばかだ……!」
少年は頭を抱えたままその場に蹲った。
****
「黙秘ぃ?」
あのシヴァ様と呼ばれるやつに殺されると言っていた少年を担当している同期が重々しいため息と共に吐き出した状況に、代田は思わず首を傾げる。
「なんで今になって黙秘なんか始めてんだよ。」
「知らないよ……殺人の動機は『いじめられてたから』。シヴァ様に関しては『知らない』『わからない』の一点張りだよ……」
「おいおい、最初と言ってることが違ぇじゃねーか。」
そうなんだよ、と代田の同期は一気にコーヒーを煽った。
「今までどちらかと言えばサーンプとかいうやつに殺人を唆されたみたいな言い方してたのに、サーンプに関しても完全黙秘。チャトランガって組織も知らないって言い出して黙りだよ。」
「……そりゃちょっと様子がおかしいな。」
代田は顎に手を当て、唸るようにして考え込む。
手に持ったコーヒーの缶は少し温くなっていた。
「あ!代田先輩!ここにいたんですか!」
「おい大森、バタバタ走ってんじゃねぇよ。」
考え込んでいたが故に深く沈んでいた意識を無理やり浮上させられ、少し不機嫌そうに小言を零す代田。
しかし、それを全く気に留めた様子もなく、大森は「それどころじゃないんですよ!」と、声を上げた。
「あの林懐高校の不良グループが、ある人物の傘下に下ったそうです!」
「はあぁーっ!?」
「……おいおい、林懐高校っていやぁ、手の付けられねぇあそこだろ?」
大森の言葉に代田だけではなく、代田の同期も目を見開く。
彼ら生活安全課の人間から常にマークされている林懐高校の学生は、どうも治安が悪く、学校内に不良グループ『青龍』と名乗るやつらが存在し、辺りでやりたい放題している中々の問題高校だ。
現在のリーダーである高校1年生の野々本春は入学早々に3年生をボコボコにし、リーダーの座に着いた、近年でも特に血の気の多い少年だった。
そんなやつが誰かの傘下にくだるなど、天変地異の前触れかと聞きたくなるほどありえない事だ。
「何かの間違いじゃねぇのか?」
「いえ、大々的に声明を出したんですよ!あの野々本春が自ら!警察に!」
「はぁーっ!?」
どうりで大森が慌てるはずだ。
警察に直接声明を出してくるなど、自分たちがマークされていることを知った上での行動だろう。
「なんて声明を出してきたんだ?」
「『俺たち青龍は、槍の下につく。俺たちの真のリーダーがそこに居る。今を持って青龍は事実上解散し、俺たちは全てあのお方のものとなった。』と……」
「事実上解散……!?」
「おいおい……」
青龍は長らく存在していた不良グループだ。
3年生が卒業していけば1年生が加入し、常に一定数の人数がいた。つまりその規模は常に安定している。
それなりの人数、ましてやあの警察側がマークしている問題児である野々本という人物が、誰の下に着いたのか。
下手にヤクザや半グレ集団に関わる存在だとこれからの未来ある若者が喰いものにされてしまう。
「……しかし、『槍』か……」
「その『槍』と称された人間が、真のリーダーということでしょうか?」
顎に手を当て再び考え出した代田と同じように大森も唸りながら、考察を述べる。
「……『槍の里田』だ。」
ふと、代田の同期がぽつりと呟いた。
「知ってんのか?」
「ああ、中坊の頃からヤンチャしてる餓鬼がな。たしかそう呼ばれてたはずだ。」
「中坊から……そいつは林懐高校には行ってねぇのか?」
中学生でそこそこ名が通るほどの不良なら、林懐高校に進学していてもおかしくは無い。だが、林懐高校ならば、青龍に所属しているはずだ。
「ああ、あいつは確か鳥夢高校に行ったはずだ。」
「鳥高っていやぁここらじゃ1番の進学校じゃねぇか!」
「ああ、俺もびっくりしたよ。」
あくまで聞いた話だがな、と補足をつけた同期に、代田は「だとしても、調べてみる価値はあんだろ。」と、答えた。
「シヴァ様とか言うやつが、もしかしたらその槍っていうのと関わりがあるかもしれねぇしな。」
「その『槍の里田』ってやつは幹部なんでしょうか……?」
「わからねぇが、宗教上のシヴァ神は三叉槍を持ってるって言うしな。幹部の可能性は十分ある。それに、あの殺人を犯した餓鬼以外は、皆シヴァ様と呼ぶ人物に心酔していた。野々本のその声明も、心酔っぷりが見て取れる。『あのお方』ってのが、シヴァ様の可能性だってあんだろ。」
なるほど、と代田の考察に同期も大森も頷けば、代田は空になった缶をゴミ箱に放り投げた。
「俺と大森はその鳥高の里田ってやつを探ってみる。殺人の方は頼んだぞ。」
「おう。そっちは頼んだ。」
ほら行くぞと代田が大森の肩を叩く。
大森も慌てて「はいっ!」と返事をし、代田の同期に頭を下げてスタスタ歩いていく代田の後ろを追いかけて行った。
休憩スペースに残された同期は、残ったコーヒーを一気に煽り、「さてと、俺も仕事しますか。」と、缶をゴミ箱に放った。
****
「ええ、蛇。予定通り警察の目は三叉槍に向きましたよ。青龍を傘下に入れたのはいい切り札でしたね。」
『了解した。お前も、バレないように気をつけろよ。』
「おや、私がそんなミスをするとでも?」
『フッ、いや、思わないな。だが、慢心は油断を招くぞ。シヴァ様を悲しませるようなことはするな。』
「ええ、もちろんですよ。なんて言ったって私は、シヴァ様の為の太鼓なんですから。」
もちろん、裏であれこれ勝手に進んでいっている事に一切気がついていない芝崎汪は、
(おぉ……!これはあの哲学警察シリーズ最新刊!)
本屋で新刊を見つけてはしゃいでいた。
しかもまた2時間サスペンスになった小説シリーズである。きっとこれも犯人は崖に逃げ込む。
1週間を無事……無事と言っていいかわからないが、とりあえず乗り切り、迎えた休日。
特に部活動に入っていない僕は今日は読書に勤しもう、と頭の中で予定を組む。
ルンルン気分で書籍を購入し、さあ帰ろう!とした時、「きゃー!ひったくりよー!」という絹を裂いたような悲鳴が辺りに響いた。
(ひ、ひ、ひったくり!?)
思わずその声の方角へ顔を向ければ、こちらに向かって勢いよく走ってくるマスク姿の男性。
(えええぇぇ!?)
なんでこっちに来る。
いや、そもそもなんでこんな白昼堂々ひったくりをした。
パニックになっている僕の体は硬直し、逃げようにも足が全く動かない。
「どけぇ!!」と叫ぶ男が迫ってくる。それでも僕の足は動かない。
あ、ぶつかる、と覚悟を決めた瞬間。
「10時23分、現行犯逮捕!」
という声により、目の前で男が拘束された。
カチッとひったくり犯の手首に手錠が嵌められる。
怒涛の展開に状況の掴めない僕は、そのまま呆然と突っ立ってしまう。
(……あれ?この状況、哲学警察シリーズ6巻目のシーンに似てるぞ??)
1人のひったくり犯から始まるその事件。小説では女性が犯人だったが、白昼堂々と行われたひったくり。近くに警察がいてその場で現行犯逮捕され、それに犯人がどこか喜び、ひったくり被害者の方が顔色を悪くさせたこの状況。
まさに6巻の冒頭シーン!
(確か、ここでの主人公のセリフは……)
「おい、坊主。怪我はねぇか?」
「犯人さん。盗品に証拠能力はありませんよ。」
「……は?」
(やべぇぇぇ声に出てたーー!!!)
しかも、こっちを気遣ってくれた刑事さんのセリフを無視して小説のセリフを言い出すとかただの痛いやつだ。穴があったら入りたい。
こいつ何言ってんだ?という感情が刑事さんの顔にありありと書かれている。すみません、違うんです。声に出すつもりはなかったんです。
内心涙目になっているが、言うことの聞かない表情筋は引きつるだけで動かない。
「……そ、うですか……そうか……盗品は、証拠にならないのか……」
と、いきなりボロボロと泣き出した犯人。
そしてその犯人の様子にひったくりの被害者の顔色もどんどん青ざめていく。
(え?え?どゆこと??)
掴めない現状に、?マークを飛ばしていると
「おい、大森!こいつ連れてけ!被害者の方もな!」
「は、はい!」
あっという間に、犯人も被害者もどちらも到着したパトカーに乗せられ、遠くて顔はよく見えなかったが恐らく部下と思われる人も乗り込んで、颯爽と去っていった。
しかし、何故か拘束した刑事さんはここに残っている。そして何故か僕を見てくる。
なんで??
「おい、改めて聞くが怪我はねぇな?坊主。」
「はい。刑事さんが助けてくれましたから。」
腰は抜けそうだったけどな!!
なんて言えないので、曖昧に微笑んでおく。あ、だめだ、頬が引きつってる。
「はぁー……お前、なんであんなこと言ったんだ?」
「あんな事、ですか?」
小説のセリフのことだろうか。そうじゃないと願いたい。やめて、僕のやらかしエピソードをほじくり返さないで。
「『盗品に証拠能力がない』ってやつだ。」
(やめてー!!)
やっぱり僕のやらかしたセリフの事だった。
まあ、いきなり小説のセリフ言い出せば、何言ってんだってなるよな。
「犯人の反応を見る限り犯人はあれを何かしらの証拠として盗もうとしたんだろ。なんでわかった?」
(……ん?)
犯人の反応を見る限り?あ、だかれあんなにボロボロ泣いていたのだろうか。
もしかして、偶然の一致?
「たまたまですよ。」
と、そう素直に答えれば、
「ハッ。そういうことにしといてやるよ。」
そう鼻で笑われた。
(え、なんで??)
本当に偶然だから、そう言ったのに、何故僕はまた勘違いされている?
「……ま、犯人の前に立ちはだかるなんて無謀なこともうすんじゃねーぞ。」
(してませんけど??)
じゃーな、なんて手をヒラヒラ振って人混みに紛れていった刑事さん。
いや、僕動けなかっただけで、立ちはだかるなんてしてないのだが?
(……うん、早く帰って小説読もう。)
どうせ、もう刑事さんと会うことないだろうし、僕は考えることをやめた。
青龍が声明を出してから迎えた初めての週末。
俺と大森は鳥夢高校の里田大樹を調べるために、聴き込みに回っていた。
「槍の里田……本当に鳥夢高校の生徒だったんですね。」
「ああ、そんだけ勉強できる癖になんで不良なんてやってんのかね。」
わかんねぇな、と手帳のページをボールペンで突く。
成績も常に上位らしく、素行に多少の問題はあるものの、学校生活は基本的に大人しいものだった。
だが、不良たちの中で里田大樹はかなり有名で、喧嘩の強さや不良グループの規模もかなりのものだ。
槍の里田という2つ名は中学生のころ、当時校内に飾られていた槍のレプリカを勝手に持ち出し、敵対していた不良達をそのレプリカでボコボコにした1件により付いたものらしい。
シヴァ様、とか言うやつとの繋がりは見つからなかった。
(……実際にチャトランガの幹部が何人いるのか、サーンプとかいう人物も本当にいるかどうかわからないのが現状だ。なら、槍が三叉槍のことかと結びつけるのは些か強引か……)
なんて、頭を悩ませていたその時、
「きゃー!ひったくりよー!」
という絹を裂いたような悲鳴が辺りに響いた。
その瞬間大森とともに、声のした方角へと走り出す。
幸い近くでの犯行だったため、犯人は直ぐに見つかった。「退け退けぇ!!」と通行人にぶつかるのもお構い無しに走る犯人。
そんな犯人の行先に、1人の少年が立っていた。
犯人がぶつかれば簡単に吹っ飛びそうな、細身の少年。
しかし、その少年はただ犯人を見やるだけで何もアクションを起こさない。
ただ、犯人を見ている。
「どけぇ!!」
と犯人が叫んだ。それでも、動かない。
まるで、道を塞ぐように。
「くそっ……!」
悪態をつきながらも、犯人目掛けて走れば、あまりにも堂々と立ち塞がる少年に、僅かに動揺したのか犯人の動きが一瞬、止まった。
「10時23分、現行犯逮捕!」
その一瞬を逃さず、犯人と少年の間に割り込み、拘束する。腰にある手錠を手探りに取り出して、カチッとひったくり犯の手首に手錠が嵌めれば、犯人は諦めたように大人しくなった。
そこで一息付き、少年の方を見遣れば、少年は変わらず何も映さない表情で犯人を見ていた。
突然の逮捕劇にも動揺した様子がない。
(……おいおい、まさかこの小僧。俺ら警察が近くにいるの分かってたのか?)
俺たちが追いつくために僅かに足りない時間を立ち塞がって稼ぎ、同時に犯人に隙を作った。
それをこんな高校生くらいのガキが考えて行ったのだとしたらとんでもないガキだ。
(……まあ、偶然だろうな。)
犯人が人を傷つけることを厭わない人間なら立ち塞がる少年に動揺なんてしなかっただろうし、偶然そうなっただけだろう。
なんて、この時の俺はそう思い、ひとまず少年に
「おい、坊主。怪我はねぇか?」
と、声をかけた。
しかし少年はそれには答えず、フッと微笑み、
「犯人さん。盗品に証拠能力はありませんよ。」
なんて、犯人に声を掛けたのだ。
「……は?」
この少年が違法収集証拠排除法則(※証拠の収集手続きが違法であった場合、公判手続上の事実認定においてその証拠能力を否定する刑事訴訟上の法理)を知っていたことも驚きだが、それ以前に、何故今その事を犯人に教えたのか。
(いや、そもそもこいつは何故この時間帯にひったくりなんてしたんだ?)
ひったくり犯は人気の無い道、時間帯を選んで犯行に及ぶことが多い。
それに比べてここは人通りが多いし、真昼間だ。まるでこの鞄さえ取れれば、捕まっても良かったかのような犯行だ。
「……そ、うですか……そうか……盗品は、証拠にならないのか……」
(……おいおい、ただビビって動けねぇガキじゃねぇのかよ。)
地面に押さえつけられている犯人が、ボロボロ泣き始める。それはつまり、犯人はこの鞄が何かの証拠になると分かって盗んだ、ということだ。そして、それが証拠にならないと知って絶望するほどの重大な証拠。
ちらりと被害者女性に視線を向ければ、その顔色は酷く蒼白で、今にも逃げ出したいと訴えている。
だが、逃げないのはこの鞄を回収したいから、と言った所か。
どちらにせよ、この野次馬だらけの民衆の中、取り調べる訳にもいかない。
「おい、大森!こいつ連れてけ!被害者の方もな!」
「は、はい!」
既に応援は呼んであったので到着したパトカーに、犯人と被害者女性を連れていく。
まるでどちらも犯人かのような面持ちでそれぞれのパトカーに乗り込み、連行されていった。
「おい、改めて聞くが怪我はねぇな?坊主。」
そう、尋ねれば、今度は
「はい。刑事さんが助けてくれましたから。」
ちゃんと答えが返ってきた。
しかし、釣り上げた口角はどこかいたずらっ子のような笑み。偶然なんかじゃない。偶然なんかであるものか。
この少年は警察が近くにいることをわかった上で、あえて立ち塞がったのだろう。
それに、他にもこの少年には疑問が残る。
「はぁー……お前、なんであんなこと言ったんだ?」
「あんな事、ですか?」
わざとらしくキョトンとした顔を向ける少年。
「『盗品に証拠能力がない』ってやつだ。」
そう改めて言ってやれば、少年は笑みを浮かべたまま、何も言わない。俺はそのまま言葉を続ける。
「犯人の反応を見る限り犯人はあれを何かしらの証拠として盗もうとしたんだろ。なんでわかった?」
そう、俺は犯人の反応でそれが本当だとわかった。だが、犯人がひったくりを起こし、その犯人が自分の元へ走ってくるまでのあの数十秒で、どうしてそれがわかったのか。
それが俺にはどうしてもわからなかった。
「たまたまですよ。」
しかし、少年は微笑んだまま、そんなふざけた回答を投げてきやがった。
たまたまなものか。偶然でそんな的確なセリフが出てくるはずがない。
「ハッ。そういうことにしといてやるよ。」
まあ、悪いやつではなさそうだし、犯人逮捕に貢献したことは間違いない。
ここは見逃してやるか。
「……ま、犯人の前に立ちはだかるなんて無謀なこともうすんじゃねーぞ。」
それだけは注意して、じゃーな、なんて手を振ってその場を後にする。
そう、本来犯人の前に立ち塞がるなんて、子供がやっていいことでは無い。
仮に犯人が凶器を持っていたら。
警察が近くにいなかったら。
あの少年だって無事では済まなかった。
(……まあ、本人も分かっていたからあんなことしたんだろーがな。)
犯人が凶器を持っていない、と。
押しのけることはしても大きな危害は加えない、と。
「……変なガキだったな。」
俺は口に咥えた煙草にライターを近づけた。
結局、事の顛末を見届けた大森の話によれば、ひったくり犯がひったくった鞄は死んだ妻の鞄だったそうだ。
数年前、強盗が入り殺された奥さんに誕生日プレゼントとして渡したその鞄をたまたますれ違った女が使っていた。それを見た衝動でひったくりに及んだらしい。それが真昼間の犯行理由だった。
ブランドで、オーダーメイドも承っているそのショップで、寄り添ってくれる妻へのサプライズとしてオリジナルの革ストラップも付けてもらったらしい。
世界でひとつしかないはずの鞄。だからこそ、ひったくり犯はその女の鞄が妻のものだとわかった。
オーダーメイドということで、直ぐに確認が取れ、製造番号からもひったくり犯が購入した鞄だと判明した。
対して被害者女性は、知らない、中古ショップで買った、と繰り返していたが、このままだと強盗殺人の罪に問われる可能性がある、と告げれば、恋人と2人で強盗に入ったと自供したそうだ。
自分が欲しかったハイブランドのものだったこともあり、売るに売れず、自分で使っていたそうだ。
殺したのは彼だ、私は違う、と言っているが、真相はまだ調査中だ。
「……本当にあの少年が言った通りだったな。」
「証拠能力がないって言った少年ですよね?」
「ああ、このひったくり犯は捕まっても良かった。鞄さえ警察に押収されれば、奥さんを殺した犯人の証拠になる。……そう考えたんだろ。まあ、あの鞄が駄目でも今回は犯人の自供が取れたから他の証拠でなんとか起訴は出来んだろ。」
末恐ろしいガキが居たもんだ、といつもの缶コーヒーを一気に煽る。
結局あのガキに何故事件の全貌がわかったのか、俺にはわからなかった。
頭がいい、だけで済むような話ではない。
いっそ気持ちが悪いレベルだ。
(まぁ、もう会うことはねぇだろ。)
なんて、この時は思っていた。
「……え、鳥夢高校に潜入する?」
「潜入っつっても中ちょっと見て回るくらいだ。校長には話通してあるし、防火機器の点検職員として入り込む。」
「えぇ……それ、里田に気づかれたりしたら危ないんじゃ……」
「馬鹿野郎。刑事に危なくねぇ仕事なんざねぇよ。」
渋る大森にそう言えば「それはそうですけど……」と眉尻を下げる。
「……正直、俺は反対です。チャトランガという組織が本当に存在するかどうかを別としても、里田達の不良グループはただでさえ青龍が傘下に加わったことで規模を増しています。今、代田さんが無茶をする必要は……」
「バーカ。里田のグループがでかくなり、この辺りをシマにしてるヤクザの紅葉組が、ガキ共を邪魔に思ってる。ガキが犯罪に巻き込まれちまったら遅いだろうが。」
俺たち生活安全課は子供の未来を守るための部署だ。
だからこそ、ここで多少の無茶をしなくては。
(……とはいえ、1人で乗り込むのに刑事だってバレたら私刑食らうだろーな……)
だが、そんなことこのナヨナヨの新人である大森に言えば鼻水垂らして泣きわめくだろうから黙っておく。
ただ、同期にだけは何かあった時に頼む、とメールを打ってこう。
****
「……おいおい、さすが有名な進学校は違うな。」
ドーンとそびえ立つその校舎に、思わず目を剥いた。綺麗に整備されているその校舎は大きく、3棟も並び立っているのだから相当敷地も広いのだろう。
「……これは迷子になりそうだな。」
ただでさえ生徒の数も多いこの鳥夢高校。生徒の何人が里田のグループに所属しているかも調べなくては。
架空の会社のロゴが入ったキャップを被り直し、しっかりとしたその校門をくぐり抜けた。
こんにちはー、なんて声をかけてくれる生徒たちに挨拶を返しながら、点検しているフリをしつつ、各校舎、各教室をチェックしていく。
やはり、不良のたまり場となりつつある林懐高校とは違い、授業をサボって廊下に屯っても居なければ堂々と煙草を吹かすガキもいない。
授業が始まれば校舎内は静まりかえり、教鞭を取る教師の声だけが聞こえる。
(……同じガキでもここまで違うもんなんだな……)
なんて、よく警察に世話になっているやんちゃ坊主共を思い出しながら、次の校舎に向かおうとしたその時。
「おーい!里田!」
「あ?んだよ。」
(槍の里田……!)
今回の対象である里田大樹が、他の生徒に呼び止められているのが見えた。
「ほらよ、先生がこれ渡せってさ。」
「おー、サンキュー。」
そんな当たり障りのない会話。話しかけた生徒は深く仲がいいわけでもないようだが、里田に怯えている様子もない。
(……進学校に不良なんて、もう少し浮いてるかと思ったんだが……)
意外にも里田は授業態度もよく、ほとんどサボることもしない。まあ、他の生徒に比べれば多少サボることもあるようだが。
それに、担任からの話によれば、里田は常にテスト上位にいる成績優秀者らしい。
そのため、ピアスや染髪に関して教師も強く言えないという話だった。
(……ま、ピアス開けなくて髪染めなければ頭良くなんのかっつったら別の話だからな。)
元々日本はその辺の規制が厳しいが、学問に影響があるのか、といえばそれはまた別の問題だ。
(……だが、この里田に野々本が負けたとして、あれだけ血の気が多いと騒がれていた野々本が傘下に下るか?)
正直、人を引っ張るだけのリーダー性はあるのだろうが、人を惹きつけるカリスマ性が強いか、と言われるとそうは思えない。
交友関係が広く、人に好かれる質なのは見てればわかる。だが、何かがピンとこない。
微妙に噛み合わない歯車が、違和感を訴えている。
「あ、刑事さん。」
「……は?」
不意に後ろから聞こえたその声に身構える。
「お前は、確か……」
警戒しつつも振り返れば、そこに居たのは2日前のひったくり事件で出会ったあの少年が立っていた。
その少年はしっかりとここの制服を着こなしている。
学生だろうとは思っていたものの、まさかこの学校だとは思っていなかった。
「お前もこの学校の生徒だったのか。」
「はい。2年生の芝崎です。刑事さんはお仕事ですか?」
「……あー、まあ、似たようなもんだ。内密にな。」
「そうですか、お疲れ様です。」
まあ、あのひったくり事件の全貌を瞬時に理解した少年だ。あれほどの頭の回転の速さなら進学校にいても何も不思議じゃない。
「そういや、あのひったくり犯。お前の推測通り、あの鞄を証拠として盗もうとしたそうだ。」
「そうですか。推測なんて言うほどのものではないですが……」
そう謙遜する少年。
今、彼は推測なんて言うほどのものでもないと言った。それは彼の頭脳からしてみればわかって当然の事だったのかもしれない。
「なあ、お前どこまでわかってたんだ?」
会った日からずっと思っていたその疑問。
今回の調査には掠りもしない案件だが、せっかく少年と再会したのだ。
純粋に知りたかった。
「どこまで、と言われましても……あ、でも形見がひったくり犯さんに戻ったのは少なくとも嬉しく思いますよ。」
形見。当然かのように、この少年はそう言った。
あの鞄が犯人の奥さんのものであること。その奥さんが亡くなっているということ。それらも全てわかっていた、ということか。
(……本当に、末恐ろしいガキだ。)
そうか、なんて適当な相槌が口からこぼれる。いや、それしか口から出てくる言葉が無かった。
(……2年てことは17歳か。)
17歳でこれだけの観察眼と推察力。そして頭の回転の速さ。
むしろ、このガキの方が、里田よりはカリスマ性がありそうだ。
(……こいつと里田の繋がり、調べてみるか。)
里田との繋がりはわからなかったが、芝崎汪という生徒を調べて分かったのは『異端』である、ということだ。
成績は常に1位。むしろ入学試験から1位以外をとったことがないらしい。
あとは周りを惹きつけるカリスマ性。
あの少年の雰囲気に呑まれれば最後、絶対王者に君臨する彼に逆らう気持ちなど湧いてこない、と教師に言わしめるそれは『異端』以外の何物でもなかった。
光悦とした表情で『王様』と呼び、彼を讃える大人達は正直言って不気味だった。
(……まあ、教師達の話じゃ時折里田から話しかけることはあっても常に一緒という訳でもないらしいし、関係性としては知り合いとかそんなもんか?)
人物像から言えば、彼がシヴァ様だとしても驚かない。
だが、幹部候補である里田との関わりが薄い以上、安易にそうだと決めつけることも出来ない。
まあ、表面上そう見せているという可能性もあるが。
(それに、あれだけの規模の組織を17のガキが纏めているってのはやっぱり無理がある気がするな……)
仮に、里田の不良グループと青龍が全てメンバーだったとして、それだけで100人近くはいるだろう。それだけの人間を、ましてや荒くれ者ばかりの集団を10代の子供が纏められるだろうか。
(……はー、考えすぎて頭がパンクしそうだ。)
凝り固まったこめかみをグリグリ押して、1度思考をリセットする。
上手く点と点が繋がる感覚がしない。1本の線になるにはまだ点が足りなすぎる。
(……ひとまず、業者が1日中いるのは不自然だ。一旦、署に帰って外から調べてみるか。)
里田という人間の人物像がわかっただけでも収穫はある。
最後の教室を見終わった俺は、出来れば里田達の集まる拠点も確認しておきたいな、と思いつつ、くるりと踵を返した。
学校側に協力の礼を述べてから、校舎から出れば、ムワリとした暑さが身体を撫でる。
「……そろそろ本格的に夏が来るな。」
校舎内はちょうどいい温度で空調が効いていたので余計に外の空気が暑く感じた。
厚ぼったい作業着の袖をまくりながら、校門へと続く道を歩いていれば、
「あ、野々本君~!」
なんて、自分の横を1人の少年が通り過ぎて行った。
手を振って、親しい友人にかけるようなその声色の先には、
(……は?野々本春?)
俺たち警察がマークしている野々本春がそこにいた。
(おいおいおい、誰だあのガキは!?)
全くのノーマークの人物がいきなり重要人物と会話しているその状況に、頭が痛くなってくる。
ちらりと見えたネクタイの色は1年生の学年カラーだ。里田は3年生。芝崎汪は2年生だったため、1年生の存在はそれほど気にしていなかった。
(クッソ、今から戻って調べるか?いや、業者に扮している以上目立たないことが優先だ。下手にバレる訳にもいかない。)
ひとまず、野々本と話す少年の顔を覚え、署でデータベースと照合するしかない。
普通の業者を装い、何事もないかの様に彼らの横を通り過ぎようとたその時、
「気にしないで下さい。俺は貴方の部下なんですから。」
(……は?)
野々本は今、なんて言ったか。
平静を装いなんとか足を動かすも、頭の中は混乱し、呼吸が乱れるのがわかった。
まさか、まさか、まさか!
(あいつがシヴァ……!?)
ちらりと見た限り、芝崎汪のようなカリスマ性も、里田のようなリーダー性もない、これと言った特徴もない少年。
人混みに紛れてしまえば簡単に通行人bになってしまうような、そんな人物。
(その全身に被った平凡、いつか剥いでやる……!)
例えシヴァでなくとも、あの野々本が上司と呼ぶその人物。
そして、ここで野々本達青龍の里田達との繋がりの主張に矛盾が生じた。
(面白くなってきたじゃねーか!)
思わず口角が上がる。ここに来て浮かび上がってきた明確な人物。
ダミーの機材を持ち直しながら、俺は足早に署へと向かった。
そんな風にいい感じに誤解が誤解を呼んでシヴァの正体の露見を防いだ芝崎汪。もちろん、本人は何も分かっていない。いつも通りの勘違いの賜物である。
なんなら、学校で代田刑事に声をかけた時も『なーんかあの後ろ姿見覚えあるな~。既視感感じるなぁ~。』からの「あ、刑事さん。」という言葉が口から飛び出ただけであるし、更に補足を付け加えるなら「あ、(昨日のドラマに出てた)刑事さん(に、似てるんだ)。」というセリフになる。
つまりは代田刑事のことに気づいていた訳では無い。たまたま代田刑事だっただけである。なんて偶然。
他にも、代田刑事の「どこまで分かっていた?」という問いかけに関しても、
「どこまで、と言われましても……あ、でも形見がひったくり犯さんに戻ったのは少なくとも嬉しく思いますよ。」
というこの芝崎汪の回答。
これにも補足をつけると
「どこまで、と言われましても(僕はポロッと小説の1文言っちゃっただけだし)……あ、でも(あの小説で)形見がひったくり犯さんに戻ったのは少なくとも(読者として)嬉しく思いますよ。」
という風になる。なんて酷い。
必要な情報が全てすっぽ抜けても尚会話が通じてしまうこの悲劇。
テストに関しても、芝崎汪は自分がテストで軒並み1位を取っているだなんて気がついてもいないし、なんならテストの分からない問題はシャーペン転がして答えを決めている。
全ては運による奇跡である。これは酷い。
どうせ酷い点数だから、と受け取って直ぐに点数も見ず折りたたんでしまうテストも、周りからは「あー、王様点数見なくたって満点だって分かってるもんね。」と解釈されていた。
誰かこいつに日本語を教えてやってくれ。
しかも、芝崎汪はこのまま仕舞い込んだテストを見直すことも忘れてしまうので、気づくことは一生ない。他のプリント達とまとめてカバンから引っこ抜かれて自室の机上に放置されている。
閑話休題。
そんなこんなで僕、芝崎汪は本日最後の授業を、ぼんやりと聞き流していた。
僕は正直勉強が得意じゃない。
数学とかは公式を覚えておけばそこそこなんとかなるが、歴史や国語などは壊滅的で、いつもテストではシャーペンをコロコロしてマークシートの答えを埋めている。
その小説の作者の気持ちを答えろとか本人じゃないからわからなくない?
小説を読むのは好きでも、その辺は苦手。
古典はもっとわからない。前回のテストはずっとシャーペン転がしてた。
(……しかも最後が歴史って余計に眠くなるなぁ……)
おじいちゃん先生が教科書を読み上げるその声が更に眠気を助長させる。
このままだと寝てしまう、と「今日はチャトランガに誰が来るかなー」なんて考えながら眠気を逃そうと窓の向こうに流れる雲を眺め始めた。
松野君を誘ってもいいけれど、毎日毎日誘うのも申し訳ない。本人にも用事があるだろうし。
(今日も蛇さんとチェスかなぁ。)
蛇さんと三日月さんは大体は毎日チャトランガに顔を出している。
なので僕がチャトランガを訪れる時は基本蛇さんとのチェスを楽しんでいる。
以前なら三日月さんともよく対戦していたが、最近パソコンをいじっている事の方が多いので、彼女の作業が一段落したときは対局している。
あれ?ここ本当に反社会組織?
僕チェスしかしてないな??
まあ、そもそも僕は喧嘩やそう言った事に無縁の人間だ。
僕に出来るのはボードゲームだけだ。
(あ、そうだ。チャトランガにオセロ持ってこ。)
以前から持っていこう持っていこうと思いつつ、何だかんだで持って行っていなかったオセロ盤。
チェスを始めたばかり松野君も、オセロならルールが単純だし、チェスに行き詰まった時にはいい息抜きになるだろう。
それに、オセロもチェスと同じように奥の深いマインドスポーツだ。蛇さんがオセロではどんな戦法を見せるのかとても気になる。
後に、このオセロが更なる勘違いの火種となるのだが、この時の僕は蛇さんと対戦することに頭がいっぱいで知る由もないのだった。
と言うか知ってたら持っていかなかった。
絶対持っていかなかった。
オセロ、という名で日本で親しまれている『リバーシ』というボードゲーム。チェスと同じ二人零和有限確定完全情報ゲームだ。
黒と白の石を使った世界中で親しまれているこのボードゲームは、ルール自体は簡単だ。だが、覚えるのに1分、極めるのに一生というキャッチフレーズがあるように様々な戦法戦術のあるマインドスポーツでもある。
まあ、チェスと違ってルールが簡単な分、ボードゲーム初心者でも親しみやすいゲームだ。
そんなわけで僕は今日、チャトランガにオセロ盤を持ち込むことにした。
有言実行。僕偉い。
「あれ、今日は川さんも来ていたんですね。」
放課後、チャトランガに顔を出せば、最近来ていなかった川さんがソファで寛いでいた。
「シヴァ様!お久しぶりです!」
パァっと笑顔でこちらに駆けてきた川さんの頭をポンポンと撫でる。
川さんは中学生で、チャトランガに入ったのは三叉槍さんと同じくらいの時期だった。
理由はよく分からない。多分勘違いされてこうなった。
(でも、こう見るとただの中学生なんだよなぁ……)
チャトランガが組織としてやっていることを考えると、なんとも心苦しい。
とは言え、ボスである僕が最近何にもしてないのである意味チャトランガはチェスクラブと言っても過言ではないのでは?
(よーし、このままここをチェス含めたボードゲームクラブにしちゃおー!)
残念。本人が気づいていないだけで、しっかり組織は活動している。チェスクラブになんて一生なれない。
****
「アレ?シヴァ様、それってオセロですか?」
「たまには、と思ってね。」
川さんが首を傾げながら僕が持つボードを見やる。
蛇さんも珍しいのか目を丸くしてボードを見ている。
そんな二人を横目に、ボードの縁にある窪みにオセロの駒石をしまい込んで、準備は万端だ。
「良ければ1戦どうかな?」
と、ボードを覗き込んでいた川さんに声をかける。
「も、もちろんです!」
いそいそとテーブルの向こう側に座り直した川さん。この様子を見ると川さんはオセロが好きなのかもしれない。
いいよね、オセロ。
「シヴァ様はオセロも嗜まれているのですね。」
「割とボードゲームは何でも好きですよ。」
蛇さんが意外そうに言うので、確かにチャトランガではチェスしかしていなかったな、と思い返す。
「そうですか……」となんとも言えない顔で蛇さんはそう言葉を返した。
なんだか考え込んでいるようなので、内心首を傾げながら、とりあえず目の前のゲームに集中することにした。
先行を譲られたので、僕は黒。川さんが白の石を打っていく。
次第に盤上は石で埋まっていき、とうとう一角に黒石が置かれた。
「あっ!もうシヴァ様強すぎ~!こんなの勝てないよぉ~!」
と、角に置かれた石を見て項垂れる川さん。
ちょっと大人げなかったかな、と思いつつ、勝負に年齢は関係ないので、手は抜かない。
ただ、このまま気がそがれてオセロが嫌いになってしまったらそれは悲しい。
「角は確かに要だが、僕は角を4つ取られて勝ったことがあるよ。角を敢えて取らせて自分が別の角を取ることも出来るし、例え角を全部取られても勝敗は分からない。大切なことはここからどうするか、だよ。」
ここからでも挽回できるよ、と遠回しに伝えてみれば、川さんは「ここから、どうするか……」と顎に手を当てて、考え込みだした。
蛇さんも自分ならどうやって動かすのか思案しているようで、腕を組んだままジッと盤上を眺めて動かない。
まあ、僕の言った角を4つ取られても勝てた、というのは角と角の間の列を丸々僕の自陣の色に出来たから、なんだけれど。
あれを最初から狙って出来るかと言われれば絶対無理。相手が焦ってミス打ちしてくれたから出来たことだ。
多分蛇さんとかに角を4つ取られたら僕はボロボロに負けると思う。
「シヴァ様、もしかしてだけど、蛇のため、あたし達のためにわざわざオセロを?」
盤上に落ちていた視線をそろりとこちらへ向けた川さん。何となく質問のニュアンスが違うような気もするが、皆で楽しめるようにこのオセロを持ってきたことは間違いはないので、
「……まあ、皆で楽しめたら、と。たまにはチェス以外も楽しいだろう?」
そう素直に答えた。
そしたら、
「シヴァ様……!!俺は、俺は……!!」
(あぃえなんでぇぇえええ!!?)
蛇さんが号泣していた。
訳が分からない。
今のどこにそんな号泣する要素があったのか。
「一生シヴァ様について行きます……!!」
(アッ、これまたなんか勘違いされてるやつ。)
一体何をどうやって勘違いされたかは分からない。
けど、この状況、絶対勘違いされたとしか思えない。
「……僕は、皆が思っているような人物じゃないよ。」
と、なんとか勘違い脱却を試みる。
しかし、
「……シヴァ様、俺たちはシヴァ様の理想のために、全力を尽くします。ですからシヴァ様、ご自分を貶すような事を言わないでください。」
(違うんだよぉおおお!)
全然違う解釈をされていた。これ、僕にどうしろと。
結局、勘違いは解決しないまま、その日は解散になった。
解せぬ。
シヴァ様は組織の名前に準えたチェスをこよなく愛している。
それは幹部だけではなく、組織のメンバー全員が知っていることだ。
だからこそ、一般的にオセロと呼ばれるボードゲームを持ってきた時、たまたま来ていた川と思わず顔を見合わせた。
その後、挨拶を交わした川はシヴァ様に撫でてもらい満足気だが、やはり気になるらしく、シヴァ様が準備するそのボードを覗き込んでいる。
最近、川は動いてもらいっぱなしでアジトにも顔を出せない日が続いていた。だからこそ、シヴァ様は久々に川とのチェスを楽しまれるかと思っていたが……
(ここであえてオセロというボードゲームを持ってきたのには何か意図が……?)
「良ければ1戦どうかな?」
と、シヴァ様がボードを覗き込んでいた川に声をかける。
「も、もちろんです!」
いそいそとテーブルの向こう側に座り直した川。恐らく久々のシヴァ様の対面と、試合に緊張しているのだろう。わかる。シヴァ様との久々に対面すると神々しさに緊張するよな。
「シヴァ様はオセロも嗜まれているのですね。」
少しでも川に落ち着く時間を、と思い、質問をシヴァ様に質問を投げかける。
「割とボードゲームは何でも好きですよ。」
と、シヴァ様はなんて事ないようにお答えになられた。
「そうですか……」と言葉を返すも、初めて知ったその情報に、より考え込まされる。
他にもボードゲームを嗜まれるのに、あえてオセロを選択した理由は?
シヴァ様は基本的に意味の無い行動はされない。
川がシヴァ様に先行を譲り、シヴァ様は黒石をその盤上に置いていく。
ついつい自分ならどこに置くか、なんて考えながら見入ってしまう。
増えたり減ったりの黒と白の攻防戦を眺めていれば、次第に盤上は石で埋まっていき、とうとう一角に黒石が置かれた。
「あっ!もうシヴァ様強すぎ~!こんなの勝てないよぉ~!」
と、角に置かれた石を見て項垂れる川。
川も中々に食らいついていたが、やはりシヴァ様の方が1枚上手だった。
「角は確かに要だが、僕は角を4つ取られて勝ったことがあるよ。角を敢えて取らせて自分が別の角を取ることも出来るし、例え角を全部取られても勝敗は分からない。大切なことはここからどうするか、だよ。」
と、嘆く川に気を使ってか、シヴァ様はそう言葉をかけられた。
「ここから、どうするか……」と顎に手を当てて、考え込みだした川。
俺も、思わず考え込んでしまう。
俺はつい最近、自分の軽はずみな行動でチャトランガを危機に追いやってしまった。
それに関して、シヴァ様からのお言葉を頂いているような気がした。
角を全て取られるような逆境に陥っても、どうするか考えることをやめるな、と。
シヴァ様はそれを俺たちに伝えるために?
「シヴァ様、もしかしてだけど、蛇のため、あたし達のためにわざわざオセロを?」
どうやら、川も気がついたらしく、シヴァ様にそう問いかけた。
「……まあ、皆で楽しめたら、と。たまにはチェス以外も楽しいだろう?」
と、微笑んだシヴァ様。
『皆』で。
蛇を含めた、その言葉に一気に涙腺が緩んでしまった。
「シヴァ様……!!俺は、俺は……!!」
本当は、怖かった。
誰も被害者を出さずにあの犯人をどうにかできたんじゃないかとか、シヴァ様を危険に晒してしまったことも。全部がとても怖かった。
自分を見捨てる策を講じた時も、ずっと。
「一生シヴァ様について行きます……!!」
だからこそ、シヴァ様のその言葉が嬉しくて仕方なかった。
「……僕は、皆が思っているような人物じゃないよ。」
ふいに、シヴァ様がそんな言葉を落とした。
その横顔は無表情ではあるがどこか寂しそうで、シヴァ様も理想のための犠牲に心を痛めているのだと、その瞬間理解してしまった。
シヴァ様も、1人の人間だ。
本当は俺みたいに、怖いと思ったりすることもあるのかもしれない。
(……そういえば、シヴァ様はまだ17歳なのか。)
シヴァ様は上に立つ人だからこそ、弱みを見せない。見せられない。
けれども、呟き落としたその言葉に固く閉ざされた御心が少し、開かれたような気がした。
「……シヴァ様、俺たちはシヴァ様の理想のために、全力を尽くします。ですからシヴァ様、ご自分を貶すような事を言わないでください。」
強くあろうとするこの御方を、俺たちが支えるんだ。
一生の忠誠を、貴方に。
人物整理。
大体の主要人物が出揃ったので、まとめました。
今まで出た情報を簡易的に纏めただけなので、読み飛ばしても大丈夫です!
・芝崎汪(17歳)
今作の主人公。鳥夢高校2年生。極度の口下手と仕事を放棄した表情筋、そしてボードゲームバカのため、あらゆる方面に勘違いをばら撒き、何故か義賊的な一面を持つ反社会的勢力である『チャトランガ』のボスとなった。哀れ。
2時間サスペンスをこよなく愛する普通の少年。ボードゲームが得意なので地頭は良いが、テストは運だけで乗り切ってる人間なのでそんなに頭がいい訳でもない。
学校ではその圧倒的なカリスマ性(勘違い)を讃え『王様』と呼ばれている。
・神島洸太(19歳)
最近シヴァ様を盲信しすぎて思い込みがだいぶ激しい、幹部。蛇の名を関する幹部だが、元々はチャトランガの前身である組織、『チェス』のリーダー。
大学1年生。
主人公に勘違い補正が無ければ、主人公になれるだけの能力とカリスマ性を持つ人物。
最近、シヴァ様が尊すぎて毎日が幸せ。
・日向美夜(18歳)
三日月の名を持つ幹部。
主人公とは違う高校に通っている。高校3年生。
情報収集のスペシャリスト。所謂ハッカー。ネット上で彼女の隣に並ぶ人間は今のところいない。クラッキングも出来るが基本的に相手に情報が取られたことを気づかせないことが前提なので、あまりやらない。まあ、やれって言われたら遠慮なくやる。
元々はチャトランガの前身である『チェス』のNo.2。今では立派なシヴァ様信者。
・里田大樹(18歳)
三叉槍の名前を持つ幹部。自分の不良グループもある、根っからの不良。自称『シヴァ様のための武器』。
主人公と同じ鳥夢高校に通う3年生。
他の幹部と違って世の不条理を正したい、という理由ではなく、シヴァ様の力になりたいとチャトランガに加入した。間違いようもなく信者。
ちなみにチェスもシヴァ様のために覚えた。
・宮川小鳥(15歳)
川の名を持つ最年少幹部。
フルネームが判明している幹部の中で唯一過去が明らかになっていない幹部。大まかな組織加入までの流れは決まっているけれど、書く日が来るかはわからない……。
一応、主人公が卒業した中学校に通っている。三日月とは違い、対人での情報収集のプロ。噂などの情報操作も得意な幹部。
もちろん、信者。
・????(?歳)
現在本名も年齢も不明な幹部、太鼓。
チャトランガで唯一成人しているメンバーで警察関係者らしい。
その立場上中々チャトランガの拠点に顔を出せず、シヴァ様に会えない日々に泣いている。川曰く、グループチャットで1番うるさい。
最近はバレないように、いかに普通を装いながらシヴァ様を眺めるか試行錯誤している。
・松野翔(16歳)
主人公と同じ鳥夢高校に通う1年生。
次の幹部候補になってしまった平凡な子。シヴァ様ガチ勢への道を着々と歩んでいる。チェスは完全に初心者で、最終的にキングで追いかけっこ始めるタイプ。
・野々本春(16歳)
ある意味勘違いされ属性にも関わらず、無事信者入りした不良グループ青龍のリーダー。
現在、松野翔の直属の部下として活躍中。
彼の言動によって松野翔が警察に目をつけられているが気がついていない。
今後彼の地雷にシヴァ様の悪口と、松野翔への悪口が追加される。多分最後まで言わせないで地面に沈める。
・代田刑事
実は下の名前決まってない。今後も多分出てこない。
警察内で「サーンプとかチャトランガとかは犯人の妄言だろう」という空気の中唯一シヴァの存在に食らいついている刑事。生活安全課所属なので、少年犯罪の対応が主。
シヴァ本人と出会っているがまだ正体には気づかない。
今回、松野翔をロックオンした。
・大森優大
何故か先輩刑事の名前が決まっていないのに下の名前がちゃっかり決まっている後輩君。元々代田刑事に「おい、優大!」と呼ばせてたけど、何故か苗字呼びに変更になったためフルネーム決まっちゃった。
べそべそ泣きながら捜査している新人刑事。交番勤務の時は近所のおばあちゃん達に甘やかされてるタイプ。