真っ黒な蒸気機関車が黒煙と汽笛を轟かせて動き出す。
 その姿が見えなくなるまで見送った凜花は、駅舎を後にする。
 そして、路肩に停車する自動車に乗り込んだ。
「お待たせいたしました、時雨様」
「見送りは済んだのか?」
「はい」
「……話は、できた?」
 運転席で心配そうに眉を下げる時雨に、凜花はゆっくりと首を横に振る。
「遠くから姿を見ていただけで、声をかけることはしませんでした。……私も、お二人も、顔を合わせたところで話すことは何もありませんから」
 今日、凜花は田舎に引っ越す両親を見送るために時雨とともにここに来た。
 遠目に見た長嶺伯爵夫妻は、凜花の記憶の中の両親とはまるで違っていた。
 覇気もなく背中を丸くする父と、白髪がとても増えた母は、凜花に気づくことなく他の乗客にまぎれて消えていった。
 凜花と両親が再び顔を合わせることは、おそらくこの先二度とない。
 親子の別離にしてはあまりにあっけない最後だが、寂しさは微塵もなかった。
 でも、それは仕方のないことなのかもしれない。
 凜花と彼らが親子として触れ合った瞬間は、ただの一度もなかったのだから。
 それにもかかわらずこうして密かに見送ったのは、自分の中でひとつの区切りをつけるためでもあった。
 凜花はこれから「朝葉凜花」になる。
 だから、長嶺の名前にさよならを告げるために、ここに来た。
「凜花」
「はい」
「帰ろう。――私たちの家へ」
 私の家ではない。
 私たちの家と言ってくれるのが心の底から嬉しくて、凜花は笑顔で頷いた。

 東倭国を代表する名門公爵令息と伯爵令嬢による放火事件。
 放火先は令嬢の実家という前代未聞のこの事件は、人々の関心を大いに引き付けた。 
 新聞が連日この事件を報道する中、朝葉道景は騒ぎに乗じて逃げるように当主の座を退いた。これにより名実ともに朝葉家当主となった時雨は、軍務や当主業と並行して事件の後処理に奔走した。
 とはいえ、腐っても朝葉は御三家。
 朝葉公爵の名をもってすれば、報道を抑え込むのはそう難しいことではない。
 しかし、時雨はそうしなかった。
『弟を止められなかった私にも責任がある』
 そう言って、時雨は朝葉に集まる世間からの批難を一身に受け止めたのだ。
 凜花は、そんな時雨をそばで支えることに注力した。
 朝はみどりと共に時雨を見送り、少しでも彼が居心地良く過ごせるように屋敷の中を整え、夜は温かい食事を用意して出迎える。そして、数日に一度血を捧げる。
 凜花がしたことと言えば、今までとほとんど変わらない。
 しかし、もう「それしかできない」と卑下することはしない。
 ――時雨の隣にいる。彼の番としての役割を果たす。
 それは自分にしかできないことだと、今の凜花は胸を張って言えるから。 
 事件後、拘束された杏花と和泉は、速やかに貴人専用の留置所に送られた。
 今回ふたりによって引き起こされた火事は、長嶺邸の敷地内にあるほぼ全ての建物を焼き尽くした。いかに大雨が降ったとはいえ、それほどまでの大火だったにもかかわらず、死者がひとりも出なかったのは奇跡というほかなかった。
 とはいえ、放火は大罪である。
 そこに貴人、只人は関係ない。
 この先、ふたりは法のもとで裁かれる。
 死者がいないことから死刑は免れるだろうが、無期、あるいは少なく見積もってもむこう十年以上は塀の中で過ごすことになるだろう、と時雨は言った。
 自分の容姿や貴人という立場に何より誇りを持っていた杏花にとって、若く美しい時間を暗く孤独な牢で生きなければならないのは、ある意味死よりも辛い刑なのかもしれない、と凜花は思った。
 また、今回の事件で家も財産も、名誉さえも失った長嶺夫妻は、田舎に住む親戚の家に身を寄せることに決め、今日、逃げるように中央を去っていった。
 残された長嶺家に仕える使用人は、希望する者は皆、時雨が朝葉家で雇用してくれることになった。
 本当に、時雨には感謝してもし足りない。
 そして、屋敷への帰路につく車中。
「――そういえば、時雨様にいただいた水晶はお返ししたほうがよいのでしょうか?」
 凜花がふと気になっていた問いを口にした次の瞬間、車が急停車する。
 時雨が急ブレーキを踏んだのだ。
「し、時雨様?」
 慌てて隣をみれば、彼はなぜか信じられないように目を大きく見開き、こちらを見ていた。
 琥珀色の水晶は、今も小袋に入れて首から下げている。
 これは、凜花が生まれて初めてもらった贈り物だ。
 気持ちの上で言えば、一生大切に持っていたい。
 一方で、これはもともと『いざというときのために』と時雨が渡してくれたものだ。今回のような事件はそうそう起きないだろうし、もしかしたら返した方がいいのだろうか、と思って聞いてみたのだけれど――。
(そんなに驚くようなことを聞いたかしら……?)
 不思議がる凜花に、なぜか青ざめた顔の時雨は口を開く。
「入籍前から離縁の話はしたくないのだが……」
「離縁?」
 凜花は目を瞬かせる。
「なぜ、そうなるのですか?」
「水晶を返すというのはそういうことだろう?」
「……そうなのですか?」
 互いに見つめ合うこと数秒。不思議な間の後、先に口を開いたのは時雨の方だった。
「貴人が貴力を込めた水晶を渡すのは、求婚と同義だ。その逆は離縁を申し出たことになるのだが……もしかして、知らなかったのか?」
 まったくもって初耳の内容に、今度は凜花が目を丸くする。
「し、知りませんでした。姉からは入れ替わりの際によく渡されていたので……」
「……長嶺杏花が例外なだけで、貴人が水晶を贈る相手は伴侶だけだ」
「そ、そうだったのですね」
「ああ」
 時雨は疲れた様子で頷く。その姿に内心「申し訳ないな」と思いながら、凜花は以前みどりに言われた言葉を思い出していた。
『水晶まで贈られているのに、これで自覚がないと言われたら、さすがに時雨様に同情します』
 あのときのみどりがなぜ呆れていたのか、今ならわかる。
「知らなかった上での質問なら良かった。……正直、心臓が止まるかと思った」
「そんな、大袈裟な……」
「大袈裟なものか」
 ふっと時雨は真顔になる。
「今の私にとって、あなたを失う以上に怖いことはないんだ」
 まっすぐなその言葉に、熱を秘めた眼差しに、胸が一気に高鳴る。
 嬉しさと恥ずかしさが込み上げた凜花は、たまらず視線を逸らした。すると時雨は小さな声で「可愛いな」と囁き、再び運転を再開させる。
 それからしばらくしてようやく頬の赤みが引いた頃、凜花は言った。
「……先ほどの水晶の話もそうですが、私は知らないことがまだまだたくさんありますね」
 時雨と結婚すれば凜花は必然的に公爵夫人になる。
 その覚悟はできているが、一方で本当に自分に務まるだろうかという不安は尽きないというのも正直なところだ。
(これから、色々と頑張らないと)
 するとそれを感じ取ったのか、時雨は「大丈夫だ」と柔らかな声で笑う。
「あなたはそのままでいい。無理をする必要はないし、負担に感じるようなら住まいを本邸に移す必要もない。私は、あなたが笑顔でのびのびと過ごしてくれればそれだけでいいんだ」
「時雨様……」
 彼の言葉からは、凜花を大切に想ってくれているのが痛いほど伝わってくる。
 それを心から嬉しいと思いながらも、凜花は「それはいけません」と笑顔で答える。
「すぐには無理でも、努力はします。そうしないと胸を張って時雨様のそばにいられませんもの」
「凜花……」
「だから、頑張りますね」
 自分を鼓舞するためにもはっきりと言葉に出す。
 これに、時雨は前を向きながら小さく呻いた。
「……どうして今言うんだ」
「え?」
「運転中じゃ、抱きしめたくても抱きしめられない」
「なっ……!」
 一度は引いた頬の熱が再びぶり返す。それは時雨にも伝わったのか、彼は再び「やっぱり可愛いな」と、今度ははっきりと声にしたのだった。
 その後、帰宅したふたりをみどりが出迎えてくれた。
「大丈夫ですか?」
 両親との決別を済ませてきたことを知る彼女は、真っ先に凜花を気遣ってくれた。これに凜花が笑顔で頷くと、みどりはホッとしたように小さく笑う。
 その表情があまりに可愛いものだから、凜花はつい頭を撫でてしまう。
「……なんですか?」
「可愛いな、と思って」
 奇しくも先ほどの時雨と同じ言葉を言えば、みどりは照れくさそうにふっと視線を逸らした。すると、そんなふたりを見守っていた時雨がクックと笑う。
「時雨様?」
 凜花とみどりが揃って振り向くと、時雨は実に嬉しそうに目を細める。
「そうしていると、ふたりは姉妹のようだな」
 姉妹。
 凜花にとっては恐怖でしかなかったその関係も、みどりが相手なら違う。
「それなら私が姉で、みどりが妹ですね」
「そういうことになるな」
 そう、時雨と話していたときだった。
「……私は、前からそのつもりでいました」
 このやりとりを聞いていたみどりは、ぽつりと呟く。
 その様子もまた本当に愛らしいものだから、顔を見合わせた凜花と時雨はふたり同時に笑みを溢す。すると、それにつられたようにみどりもまた微笑んだ。
(なんて幸せなんだろう)
 晴れ渡る空の下、大切な人たちの笑顔に囲まれながら凜花は思う。

 ――私の居場所は、ここにある。

 多幸感に満ちたその光景に、凜花は改めて自分の願いが叶ったことを実感したのだった。