梅雨に入ったばかりの鈍色の空を視界の端に入れる。

小さなため息をつき、萌柚(もず)は大きな梅の実がなる屋敷の影を曲がった。

曇りのせいか、いつもだったら萎んでいるはずの露草がまだ、道端で空を見上げていた。

そういえば、昨日英語の先生が、梅の実の花言葉は Keep your promice(約束を守る) だって言ってたっけ。

そんなことを思い出すと、ついでに今日の忘れたかった記憶が蘇る。

今日の授業の発表で、盛大に失敗した記憶だ。

またため息をひとつ。曇りの空に失敗の思い出、なんて憂鬱なのだろう。

俯きながら歩いていると、薄茶色の物体がスカートの下を通り抜け、腰を抜かす。

「ひゃ、ひゃあ…」

なに、あれ。

木枯らしのような素早さとともに、まん丸の何かは角を曲がっていった。

しばらく立てずにいると、誰かが全速力で走ってくる。

その誰かは目の前で止まり、私に手を差し出してくる。

「大丈夫、ですか」

薄紺の髪がはらりと彼の顔にかかる。

耳の手前あたりに薄いほくろがちらりと見える。

長い前髪の間から、鋭く澄んだ目がわたしを覗き込む。

わ、めっちゃイケメンだ…。

切れ長の目が私に向けて心配そうに垂れていく。

「だ、だいじょうぶ、です!」

慌てて立ちあがろうとすると、足元にあった水たまりのせいでツルッと滑ってしまい、

彼を押し倒したような格好になってしまった。

「え…と…」

「うわあああすみません!!」

慌てて飛び退き赤べこのように謝った。

「こちらこそ、すみません」

謝りながらふんわり笑った顔に思わずときめいてしまう。

「あ、それでお聞きしたいことがあるんですけど…」

え、なになに?もしかして私、イケメンにナンパされちゃうの!?

そんな期待とは裏腹に、彼の口から飛び出た言葉は全く想像もつかないものだった。

「このくらいの、きつね、見ていませんか?」

「きつね…?」

「はい、このくらいの」

彼はもう一度胸の前で手を広げ、大きさを表してみせた。

小玉スイカくらいの大きさだった。

「あ、もしかして」

さっきの薄茶色の弾丸が…?

「さっき見たかもしれないです!」

「わあ、見かけてらしたんですね!よかった〜こっちで合ってたんだ!」

ほわほわとした笑顔で彼は言う。

「じゃあ、僕その子を追いかけるので失礼します!」

彼が立ち去ろうとするので頑張ってくださいなどと応援する。

しばらく歩いていると、「すみませーん!」と後ろから、さっきの人の叫び声が聞こえた。

ハスキーっぽいのに透明感がある、とても綺麗な声だったので、声すらもしっかりと覚えていた。

「なんですか…?」

そう言いながら振り返ると、丸いほわほわの物体を掲げてこっちに走ってくる人の姿が見える。

「さっきは狐の向かった方向を教えてくださりありがとうございます!それで、もうひとつお聞きしたいことが…」
「伏見稲荷大社ってところに行きたいんですけど、ここから遠いですかね…?」

お稲荷さんの場所を知らないなんて、京都のひとじゃないのかもしれない。

一瞬、スマホで調べればいいのに、と思ったけれど、これはイケメンと一緒に過ごせるまたとない機会であることを思い出す。

お稲荷さんなら、わたしの家のすぐそばだ。

「ここから近いので、よければご案内しますよ」

ちょっとでしゃばり過ぎたかな、と思いつつ提案してみる。

「ええ、いいんですか!よろしくお願いします!」

水面(みなも)に反射したように、きらきらと金色の目が輝いた。

今までにこんな目を見たことがなかった。

吸い込まれそうなほど透明感があった。

見た目も整っているし、おしゃれさんぽいし、カラコンでもしているのかな。

歩きながら聞く。

「それで、その子はなんなんですか?」

伏見稲荷大社に狐とお参りなんて聞いたことがない。

伊勢神宮に「おかげ犬」っていうのは聞いたことあるけれど。

「ああ、実はこの子、神様の使いなんです」

…変なひとだったのかもしれない。

心の中にぼんやりとした不信感が現れる。

案内します、なんて言うんじゃなかったかも。

「そうだ、今回のお礼にひとつ、魔法をお見せしましょう」

魔法…?

疑いの目を向けると、彼は空中へ手を伸ばす。

掌から紙の鶴が飛び出していく。

紙の鶴は舞い上がり、空へと昇っていく。

「え…?晴れた…」

さっきまで灰色だった空が、嘘のように晴れている。

「もう憂鬱じゃなくなった?」

彼が私の顔を覗きこむ。

あまりの近距離に、彼の長い睫毛が私の肌に触れそうになる。

彼の睫毛は、さっきの鈍色の空の色を吸い取ったような色をしていた。

金色の瞳はわたしの気持ちをすべて見透かしているようだ。

「…うん、晴れました」

根本的な部分での私は変われないけれど、気分は救われた気がします。

「それで、魔法って、狐さんを追いかけている時にはなんで使わなかったんですか?」

彼は目をスライドさせた。

「ところで、あれが伏見稲荷大社でしょうか」

彼が鳥居を指差した。

「あ、そうです!」

「本当に申し訳ないんですけれど、中まで一緒に来ていただけたりしますか…?」

しょぼんとした子犬のような目をされる。

彼のほうがだいぶ身長が高いはずなのに、まるで上目遣いをされているように感じる。

思わず「もちろんいいですよ!」などと調子のいいことを言ってしまう。

彼の目が一瞬だけ冷たくなった気がした。

「ありがとうございます!」

そう言って、笑った彼の笑顔はとてもあったかくて、さっきの目は見間違いだったのかなと思うのだった。

⭐︎


「この子がどうやらここの森から逃げ出してきちゃったみたいなんだよね。

 助かった、雪原さんが案内してくれて」

そうやってイケメンが微笑む。

山道を歩きながら自己紹介を済ませ、さっきの小狐さんを神社の森へ帰してきて、今は帰り道です。

「いえいえ、こちらこそ」

にへら、と微笑み返す。

どうやらイケメンの前なので頬の筋肉が緩くなっているようだった。

「そういえば、京都の方じゃないですよね」

お稲荷さんの場所を知らなくて京人だと言われたら、びっくりしてしまう。

「ああ、実は今日、東京から越してきたんです。
 今はホテル暮らしで、今日の晩御飯すら決まってなくて」

良いアイデアを思いついた。

「あ、じゃあよければうちのお店で晩御飯、食べて行きませんか?」

家(うち)はお蕎麦屋さんをやっている。

自慢ではないけれど、大正時代から続く老舗なのだ。

「わぁ、どんなお料理があるんですか?」

意外に食いつきが良くてうれしくなる。

「にしんそばが名物です」

「にしんそば…?食べたことないです」

不思議そうな顔をして彼は言う。

「今から行っても大丈夫ですか?」

彼に続けてそう聞かれたので、スマホを出し、ロック画面で時計を確認した。

6時半。

余裕でお店は開いている。

「開いてます!ぜひ来てください!」

私が招待したんだから、カウンター席の端っこを開けてもらおう。

東京の話とか、魔法(?)の話とか、色々聞いてみたいな。

わくわくと胸が膨らむ気持ちが抑えきれず、口元が緩んだ。

隣からくすくすと笑う声が聞こえた。