その日も、〈 青波ハル、引退か 〉という電光掲示板が光っていた。
雨のせいか、それとも、その事実に慣れてしまったせいか。
雨に濡れたハチ公の像と同じく、そのニュースを気に止めるものはないように見えた。
双子の片割れの彼が世界から忘れられていきそうな現実を受け止めきれず、
俯いてその光を見ないようにしながら、白線が剥がれかけた横断歩道を早足で渡った。
ポケットの中でスマホが振動する。
やっと考査が終わったから、今日こそは新しくできたカフェにでも寄ろうと思っていたのに…
ああ、また依頼か、と思いつつ手を伸ばす。
この世には退魔、占術、厄払いや祈祷などさまざまな術が存在しており、
それは決まって人知を越えた怪異によってもたらせるものに対抗する手段なのだ。
怪異によって引き起こされる問題を解決する。
それが陰陽師の家系に生まれた俺の、10歳の時からの仕事だった。
そう。
弟が回復した、なんてそんな連絡が来ることはとうの昔に諦めていた。
というか、この「弟が俺の世界からいなくなるとき」が来ることをずっと前から知っていたから、どこかでそれを心に留めておいたのかも知れなかった。
灰色の世界が目の前の画面に照らされ鈍く光る。
のろのろとスマホのパスワードを入れる。
雨がスマホにあたり、そのまま滑って落ちていく。
差出人は母だった。
件名に、「はる」とだけ表示されていて、喉に生唾がつかえた気がした。
いつもだったらメールでなんて送ってこないのに。
〈 波留、意識が戻ったって 〉
俺の喉が掠れた音を立てた。
鼻の奥がつんとして、画面に水がこぼれ落ちた。
雨も涙も混ざって、色彩が滲む。
あわててメッセージを打ち込む。
〈 ちょうど駅前にいるから、電車乗ってすぐ行く 〉
花でも買って行こうかと少し迷ったが、いや、それよりも早くあいつに会いたかった。
送信ボタンを押すと、すぐにreadとついた。
〈それなら、波留のアパートに寄って、あの子の着替えを取ってきてくれないかしら〉
〈 私は今から家を出るから 〉
あいつはずっと病院着だっただろうし、普段着も必要になるんだろうな。
わかった、と送信し、波留のアパートの最寄りまで電車に乗った。
電車に乗りながら、ふとさっき母から来たメッセージを思い出した。
母はいつも波留のことを名前で呼ぶけれど、そういえば俺が最後に名前を呼ばれたのはいつだっったけ、と。
流した視線。
俺の目が電車の窓ガラスに映る。
何よりも、疲れたような表情と隈だけが色濃く記憶の中に残った。
波留のアパートにて
薄汚れた白のアパートは、芸能人が住んでいるとは思えないほどのボロさである。
よくこんなところに暮らすよな、と来るたびに思う。
周りには活気がないのに、なぜか似たような新品の黒色の車ばかりが近くの駐車場に停まっているのが見えた。
ヤクザの組合でもあるのだろうか。
外付きの階段から2階にのぼり、〈 椹木 〉と彫られた表札を確認した。
〈 青波ハル 〉は波留の芸名だ。
本名は俺と同じ苗字の「椹木」だけれど、
略してアオハルで青春っぽいからという理由で芸名が〈青波ハル〉になったらしい。
同じ日に生まれたのに、あいつが「ハル」で、俺が「アキ」なのは何故なのかと一度母に問うたことがある。
ー そんなのあなたが、生まれた時から器じゃなかったからじゃない ー
その言葉を思い出してしまい、心臓が冷える。
「器」とか「家」とか。
それは陰陽家に生まれたせいか、俺が一番苦手な言葉だった。
しばらく手が止まっていたことに気づいて、少しため息をついて合鍵を挿す。
鍵穴には埃が溜まってた。
ここに来たのは確か、二ヶ月ほど前だっけ。
あいつと話したのは、昨日のようで、でもなんだか遠い昔のようにも思えた。
ガチャリ。
重い金属音と共にドアが開いた。
あいつが気に入ってよくつけていたホワイトムスクの甘い香りが広がった。
銀色のフレームの傘立てに、ビニール傘をさした。
それはおしゃれな傘立てには似合わず、居心地悪そうにしている。
「っ、くしゅん」
傘をさしていたのに、肩や前髪まで濡れていたことに気づく。
あとで洗面所でタオルを借りよう。
靴を揃え、電気をつけようとしたが辞めた。
雨だとは言っても、まだ5時前で少し明るいので、電気をつけないでもよさそうだった。
クローゼットを開けるが何も入っておらず、かごの中も探した。
前に泊まった時は、ここにあったはずなのに。
一ヶ月半、主人がいなくなっただけなのに、色々なところに埃がたまっているのに気づく。
今度来た時に掃除してあげよう。
「脱衣所にあるかなぁ…」
一人呟きつつドアを開ける。
これで探してもなかったら、どこかで下着だけでも買って行ってあげようと思った。
ここの間取りも、大体のものの置き場所も、
波留がいた時に何回も来ている上に狭いので完璧に把握していた。
脱衣所の扉を閉じて、洗濯機の蓋を開けようとした瞬間、閉めたはずの玄関のドアがカチャと静かに開く音がした。
誰かが入ってくる。
リビングまで見に行こうと、念の為指輪を抜き、鬼の能力を使う準備をした。
そこらへんの泥棒くらいには、簡単に勝てる。
そういった能力を、俺は陰陽師として持っていた。
俺がリビングへ続く扉に手をかけようとする。
しかし、その前に扉が開いた。
俺より少し低い背、この香り。
「母さん…?」
母さんは先に病院に行くと言っていたから、その人は母さんじゃないはずなのに。
見間違うわけはなかった。
「なんでいるの」
そう聞いたけれど、なにも言葉は返ってこない。
フードのついたパーカーを着ている、母さんであるはずの誰かの顔は暗くて、見えなくて。
これだったら電気をつけておいたらよかったと悔やむ。
「秋斗が悪いのよ」
久しぶりに名前を呼ばれた。
「かあさ…っ」
ー どんっ
衝撃と、それから鈍い痛み。
突き飛ばされたとわかるのに少し時間がかかった。
「なんで…、ちょっと待って」
能力を使おうかとも思ったけれど、さすがに母相手に使えるはずもなく。
指輪を元にもどし、波留のところへ行ったんじゃなかったの、と問うけれど、やはり答えは返ってこなかった。
そのまま、シャワールームのドアが開かれ、俺の体が湯船にもたれかかるような形になったところで、やっと母の動きが泊まった。
そして、一言。
掠れた声と荒い息使いで。
「あんたさえいなければ」
漫画でよく見るようなセリフだな。
ただ、そう思った。
今から何をされるのかがわからなくて、
心が冷え切ってなんだか透明な氷のようになって、何も受け付けなくなった気がして。
どこか人ごとのように捉えていた。
「俺、なんかしたのか?」
何か言おうと思って、出てきた言葉がそれだった。
頭が回らないでいた。
指先や足は雨に濡れて冷たく、頭も冷え切っていて、ただ胃のあたりだけがあつかった。
ムカムカした。
すべてがそこに向かっていた。
「今日が雨で良かったわ」
母が何かを振り上げた。
凍てつくような眼差しが俺を刺した。
首に何か冷たいものが当たったかと思うと、そこから電流のようなものが体の中を駆け巡った。
電流のようなものじゃなくて、電流、だった。
バリバリという音が耳の外で聞こえる。
ドクンドクンと頭の中で心臓が鳴っている。
「う、おぇぇ」
胃からあたたかい何かが喉をつたい出ていった。
そのままそれはつめたいタイルを這っていく。
目の前に霧がかかる。
「汚いわね」
頭の上から雨が降ってきた。
冷たいシャワーだと気づいた。
もう一度体に重たい衝撃が走る。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い、、、、、。
怨霊退治の時に受けたどんな痛みよりも痛かった。
「う、ああああああああっ」
自分が叫ぶ、声にならない声がどこか遠くの方でずっとこだましていた。
歪んで曇ってぼやけた世界に、無表情でこちらを見下ろす母がいた。
その時、母に対して、何らかの能力を使おうという感情は生まれすらしなかった。
もう、いいか。
そんな諦めだけがあった。
次第に目の前の霞が濃くなり、そのまま俺は暗闇に体を委ねる。
何も、感情は無くなっていた。
雨のせいか、それとも、その事実に慣れてしまったせいか。
雨に濡れたハチ公の像と同じく、そのニュースを気に止めるものはないように見えた。
双子の片割れの彼が世界から忘れられていきそうな現実を受け止めきれず、
俯いてその光を見ないようにしながら、白線が剥がれかけた横断歩道を早足で渡った。
ポケットの中でスマホが振動する。
やっと考査が終わったから、今日こそは新しくできたカフェにでも寄ろうと思っていたのに…
ああ、また依頼か、と思いつつ手を伸ばす。
この世には退魔、占術、厄払いや祈祷などさまざまな術が存在しており、
それは決まって人知を越えた怪異によってもたらせるものに対抗する手段なのだ。
怪異によって引き起こされる問題を解決する。
それが陰陽師の家系に生まれた俺の、10歳の時からの仕事だった。
そう。
弟が回復した、なんてそんな連絡が来ることはとうの昔に諦めていた。
というか、この「弟が俺の世界からいなくなるとき」が来ることをずっと前から知っていたから、どこかでそれを心に留めておいたのかも知れなかった。
灰色の世界が目の前の画面に照らされ鈍く光る。
のろのろとスマホのパスワードを入れる。
雨がスマホにあたり、そのまま滑って落ちていく。
差出人は母だった。
件名に、「はる」とだけ表示されていて、喉に生唾がつかえた気がした。
いつもだったらメールでなんて送ってこないのに。
〈 波留、意識が戻ったって 〉
俺の喉が掠れた音を立てた。
鼻の奥がつんとして、画面に水がこぼれ落ちた。
雨も涙も混ざって、色彩が滲む。
あわててメッセージを打ち込む。
〈 ちょうど駅前にいるから、電車乗ってすぐ行く 〉
花でも買って行こうかと少し迷ったが、いや、それよりも早くあいつに会いたかった。
送信ボタンを押すと、すぐにreadとついた。
〈それなら、波留のアパートに寄って、あの子の着替えを取ってきてくれないかしら〉
〈 私は今から家を出るから 〉
あいつはずっと病院着だっただろうし、普段着も必要になるんだろうな。
わかった、と送信し、波留のアパートの最寄りまで電車に乗った。
電車に乗りながら、ふとさっき母から来たメッセージを思い出した。
母はいつも波留のことを名前で呼ぶけれど、そういえば俺が最後に名前を呼ばれたのはいつだっったけ、と。
流した視線。
俺の目が電車の窓ガラスに映る。
何よりも、疲れたような表情と隈だけが色濃く記憶の中に残った。
波留のアパートにて
薄汚れた白のアパートは、芸能人が住んでいるとは思えないほどのボロさである。
よくこんなところに暮らすよな、と来るたびに思う。
周りには活気がないのに、なぜか似たような新品の黒色の車ばかりが近くの駐車場に停まっているのが見えた。
ヤクザの組合でもあるのだろうか。
外付きの階段から2階にのぼり、〈 椹木 〉と彫られた表札を確認した。
〈 青波ハル 〉は波留の芸名だ。
本名は俺と同じ苗字の「椹木」だけれど、
略してアオハルで青春っぽいからという理由で芸名が〈青波ハル〉になったらしい。
同じ日に生まれたのに、あいつが「ハル」で、俺が「アキ」なのは何故なのかと一度母に問うたことがある。
ー そんなのあなたが、生まれた時から器じゃなかったからじゃない ー
その言葉を思い出してしまい、心臓が冷える。
「器」とか「家」とか。
それは陰陽家に生まれたせいか、俺が一番苦手な言葉だった。
しばらく手が止まっていたことに気づいて、少しため息をついて合鍵を挿す。
鍵穴には埃が溜まってた。
ここに来たのは確か、二ヶ月ほど前だっけ。
あいつと話したのは、昨日のようで、でもなんだか遠い昔のようにも思えた。
ガチャリ。
重い金属音と共にドアが開いた。
あいつが気に入ってよくつけていたホワイトムスクの甘い香りが広がった。
銀色のフレームの傘立てに、ビニール傘をさした。
それはおしゃれな傘立てには似合わず、居心地悪そうにしている。
「っ、くしゅん」
傘をさしていたのに、肩や前髪まで濡れていたことに気づく。
あとで洗面所でタオルを借りよう。
靴を揃え、電気をつけようとしたが辞めた。
雨だとは言っても、まだ5時前で少し明るいので、電気をつけないでもよさそうだった。
クローゼットを開けるが何も入っておらず、かごの中も探した。
前に泊まった時は、ここにあったはずなのに。
一ヶ月半、主人がいなくなっただけなのに、色々なところに埃がたまっているのに気づく。
今度来た時に掃除してあげよう。
「脱衣所にあるかなぁ…」
一人呟きつつドアを開ける。
これで探してもなかったら、どこかで下着だけでも買って行ってあげようと思った。
ここの間取りも、大体のものの置き場所も、
波留がいた時に何回も来ている上に狭いので完璧に把握していた。
脱衣所の扉を閉じて、洗濯機の蓋を開けようとした瞬間、閉めたはずの玄関のドアがカチャと静かに開く音がした。
誰かが入ってくる。
リビングまで見に行こうと、念の為指輪を抜き、鬼の能力を使う準備をした。
そこらへんの泥棒くらいには、簡単に勝てる。
そういった能力を、俺は陰陽師として持っていた。
俺がリビングへ続く扉に手をかけようとする。
しかし、その前に扉が開いた。
俺より少し低い背、この香り。
「母さん…?」
母さんは先に病院に行くと言っていたから、その人は母さんじゃないはずなのに。
見間違うわけはなかった。
「なんでいるの」
そう聞いたけれど、なにも言葉は返ってこない。
フードのついたパーカーを着ている、母さんであるはずの誰かの顔は暗くて、見えなくて。
これだったら電気をつけておいたらよかったと悔やむ。
「秋斗が悪いのよ」
久しぶりに名前を呼ばれた。
「かあさ…っ」
ー どんっ
衝撃と、それから鈍い痛み。
突き飛ばされたとわかるのに少し時間がかかった。
「なんで…、ちょっと待って」
能力を使おうかとも思ったけれど、さすがに母相手に使えるはずもなく。
指輪を元にもどし、波留のところへ行ったんじゃなかったの、と問うけれど、やはり答えは返ってこなかった。
そのまま、シャワールームのドアが開かれ、俺の体が湯船にもたれかかるような形になったところで、やっと母の動きが泊まった。
そして、一言。
掠れた声と荒い息使いで。
「あんたさえいなければ」
漫画でよく見るようなセリフだな。
ただ、そう思った。
今から何をされるのかがわからなくて、
心が冷え切ってなんだか透明な氷のようになって、何も受け付けなくなった気がして。
どこか人ごとのように捉えていた。
「俺、なんかしたのか?」
何か言おうと思って、出てきた言葉がそれだった。
頭が回らないでいた。
指先や足は雨に濡れて冷たく、頭も冷え切っていて、ただ胃のあたりだけがあつかった。
ムカムカした。
すべてがそこに向かっていた。
「今日が雨で良かったわ」
母が何かを振り上げた。
凍てつくような眼差しが俺を刺した。
首に何か冷たいものが当たったかと思うと、そこから電流のようなものが体の中を駆け巡った。
電流のようなものじゃなくて、電流、だった。
バリバリという音が耳の外で聞こえる。
ドクンドクンと頭の中で心臓が鳴っている。
「う、おぇぇ」
胃からあたたかい何かが喉をつたい出ていった。
そのままそれはつめたいタイルを這っていく。
目の前に霧がかかる。
「汚いわね」
頭の上から雨が降ってきた。
冷たいシャワーだと気づいた。
もう一度体に重たい衝撃が走る。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い、、、、、。
怨霊退治の時に受けたどんな痛みよりも痛かった。
「う、ああああああああっ」
自分が叫ぶ、声にならない声がどこか遠くの方でずっとこだましていた。
歪んで曇ってぼやけた世界に、無表情でこちらを見下ろす母がいた。
その時、母に対して、何らかの能力を使おうという感情は生まれすらしなかった。
もう、いいか。
そんな諦めだけがあった。
次第に目の前の霞が濃くなり、そのまま俺は暗闇に体を委ねる。
何も、感情は無くなっていた。