華やかな着物を身にまとった華怜は、静かに瑞穂城の廊下を歩いていた。城で働く者たちは彼女の姿を見た途端、光に集まる蛾のように彼女に吸い寄せられた。


「華怜様、本日もお美しい」
「国の宝と言われるだけありますな」


 ある者は両手を広げ、ある者は感嘆の声をあげながら、彼女の寵愛を浴びるために褒め言葉を口にしていく。華怜は自身を讃える言葉たちに、優雅に微笑み、時折頭を下げて応えていった。その仕草一つ一つが、周囲の人々を魅了していく。


「この間の宴での御歌も素晴らしく」
「まるで天女の声のようでした」


 華怜は謙遜しつつ、扇子で口元を隠しながらまぶたを伏せた。そのいじらしい姿にさえ、周囲の人々は心を奪われていく。
 最後に礼を言い、彼らの視線を感じながらも後にする。
 人気がいないとろこまで歩き、華怜は満足げな笑みを浮かべた。そして扇で口元をおさえながら、くつくつと笑う。


「お姉さまもいなくなったし、最高の気分だわ!」


 雪代華怜は、産まれた瞬間から祝福に包まれていた。
 産婆は産まれたばかりの華怜を見て、歓喜の声をあげた。瑞穂国を統治する国司と正室の子ども。皆が華怜の誕生を喜ばしいことだと手を叩いた。
 彼女が持っているのは美しい見目だけではなかった。幼少期から漢詩を暗唱し、見事な書を修め、琴を弾けば名手と讃えられた。


「華怜様は、この国の宝だ!」


 周囲の大人たちは、華怜の才能に目を細め、惜しみない賞賛を送った。和歌、舞、茶道、どの分野でも卓越した才能を見せ、周囲を驚かせ続ける。
 賞賛を受けた華怜は、美しい微笑みを浮かべ、喜ぶような素振りを見せていた。しかし心の一部では、冷め切っている自分がいることにも気づいていた。

──退屈。

 新しいことをはじめても、簡単に会得できてしまう。挑戦する前から自分が成功することが分かっている。周りからの賞賛は、もはや当たり前のことになっていた。

 いつしか華怜は産まれてから一度も会ったことがない義姉に、思いを馳せるようになっていた。周囲が彼女を褒め称えるのと対照的に、義姉である氷織には「災いの子」「卑しい側室の子」と軽蔑の言葉を吐いていたからだ。

 好奇心が湧いた彼女はある日、下女の目を盗んで城の離れへ行った。
 離れは酷い有様だった。建物の外観が年月の重みに耐えかね、あちこちに傷みが見られた。屋根の瓦はところどころ欠け、苔むしている部分もある。壁には細かな亀裂が走り、雨風にさらされて変色していた。

 建物の中へ踏み入れると、湿った匂いが鼻についた。天井には雨漏りの跡が残り、廊下を歩くたびに軋み、今にも穴があきそうだ。押し寄せる不快感に眉根を寄せながら歩いて行く。
 義姉の姿が中々見えず、踵を返そうとしたとき、奥の方に人影が見えた。華怜が近づけば、部屋の前で立つ少年は彼女の姿を捉えて、ぎょっとした。慌てて跪き、頭を垂れる。

 義姉には武家の少年が見張り役でつけられていると聞いていた。きっと彼が見張り役なのだろうと気づいた華怜は、冷たい口調で尋ねた。


「ここがお姉さまのお部屋?」
「はい……」


 随分とか細い声で言う。
 華怜は髪に刺さった簪を外し、彼の前に放り投げた。


「あげるわ。だから半刻ほどどこかへ行ってくれる?」


 少年からは何も反応がなかった。いずれどこかへ行くだろうと判断した華怜は、襖を開いた。そこには、華怜とよく似た顔立ちの少女が座っていた。

 漆黒の髪は櫛で梳かれた形跡がなく、もつれて乱れていた。着ている着物は古びて色褪せ、至るところに繕いの跡が見える。顔は蒼白で、頬はこけていた。手は荒れ、爪は短く割れているものもあった。

 一番目を引いたのは、瞳の色だ。露草色の瞳をしている。
 今までで一度も見たことがない色だった。

 大きな瞳は怯えたように華怜を見上げる。その瞬間、華怜の心の中で何かが弾けるような音がした。大股で彼女に近づき、乱れた髪の毛を思いきり引っ張った。


「いっ……」
「ねぇ、名前は?」
「ひ、氷織、です」
「貴方がお姉さまなのね!」


 華怜の胸の中に、歓喜の感情が渦巻く。
 退屈で仕方がなかった世界が、一気に色づいていくような感覚。華怜は突き動かす衝動のまま、氷織を痛めつけた。そのたびに氷織は涙を流し、やめてと懇願した。その姿を見てさらに華怜は高揚する。自分の言動が相手に影響を与え、思い通りの反応を引き出せることに歓喜した。

 思う存分痛めつけた華怜は、床に横たわる氷織を満足げに笑いながら見下した。


「また来るわ、お姉さま」


 恍惚とした表情で言い、華怜はその部屋を後にした。
 部屋を出た瞬間、見張りの少年が先ほどと変わらぬ体勢で、頭を垂れているのが見えた。放り投げた簪もそのままだ。見れば、体を小さく震わせている。
 愉快な気持ちに水を差されたような心地になり、華怜は簪を乱暴に拾った。

 それから十年ほど、氷織を虐げる日々が続いた。

 氷織の泣き叫ぶ顔を見るたびに、心の穴が埋まるような心地がした。快感が足先から登っていき、全身を歓喜で震わせた。
 しかし時が経つにつれ、氷織の反応がだんだんと鈍くなっていった。華怜に懇願することなく、人形のように無抵抗になることが増えた。終いには声が出なくなり、叫び声をあげることすらなくなってしまった。

 さらに瑞穂国にも不穏な影が忍び寄っていた。どうやら重税や不作による、民たちの不満が積もっているらしい。このままでは反乱が起きてしまうと役人たちが頭を抱えていた。

 そこで華怜は一つの案を思いつく。

──氷織にすべての罪をなすりつけて、捨ててしまえばいい。


 反応が鈍くなったおもちゃを捨てることもでき、さらに民の不満も逸らすことができる。国司である父も賛同してくれると思い、夕餉の際に提案した。しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。


「ふざけるな! お前が離れへ行っていたことは許容していたが、アイツを亡き者にするだと?!」
「だ、だけどお父様……」
「勝手なことをぬかすな! もう二度と氷織に近づくな!!」


 激昂した父の手によって、茶碗が割れる音が響いた。
 生まれて初めて父に怒られ、華怜は何を言われたのか全く理解ができなかった。

 氷織を城の離れに閉じこめ、質素な暮らしを強いていたのは父だ。彼も氷織を目障りな存在だと思っていたのだと認識していた。ならば民たちの不満を受けさせ殺してしまえば、氷織の存在も役に立つ。そう思っていたのに、

 華怜の腹の底に、静かな怒りがわき上がるのが分かった。
「申し訳ございません、お父様」と深々と謝罪を口にしたが、その目には歪んだ感情が浮かんでいた。

 後日、父が不在のときを狙って、華怜は作戦を決行した。

「雪代氷織は贅沢したいが故に、役人に色目を使って惑わし、重税を命じた人物である」と民たちに偽りの噂を流した。日頃の怒りをぶつける対象を捜していた民たちは、面白いほどにこの噂を信じ、氷織に暴言や石を投げ続けた。

 傷だらけになり歩く氷織の姿を、火の見櫓から眺めて華怜は笑う。


「さようなら、お姉さま」


 あの城下町を痛々しい格好で歩いている義姉の姿を思い出しながら、華怜は上機嫌で歩く。
 廊下の隅では、役人の男性と若い下女と密会している姿が見えたが、視線を外した。城では日常茶飯事の光景だった。

 しばらく歩くと突然、聞き馴染みがある話し声が聞こえた。華怜の父である定勝と、家老の忠明の声だった。思わず足を止め、襖の陰に身を隠す。


「定勝様、北の国境線での小競り合いが激化しております。このままでは戦に発展しかねません」
「そうか」


 不穏な影を滲ませながら忠明は報告するが、定勝の声には、まったく緊張感が感じられない。彼は面倒な様子を隠さずに答える。


「それがどうした?」
「定勝様、民は既に不満を募らせております。昨今の寒気のせいで農作物が実らず……」
「民だと?」


 定勝は冷笑した。蔑むような声色で話し始める。


「奴らなど、ただ税を納める道具にすぎん。不満などというのなら、さらに搾り取ればよい」
「しかし、これ以上民を苦しめれば、反乱が起きる可能性も」
「ならば、他国への侵略も視野に入れろ。民の不満を外に向けさせれば良い」
「衛士たちの士気も下がっており、侵略しても勝てる見込みが……」
「……はぁ」


 定勝はため息をつき、重い沈黙が漂った。そして突然、拳で机を叩く。
 怒りに任せた音に、華怜はびくりと体を振るわせた。


「くそう! こんな時に氷織の力があれば……!」


 急に出てきた「氷織」という名前に、華怜は息を呑んだ。定勝は低い声色で問う。


「……まだ見つからぬか」
「はい……。金も人脈もない娘が逃げ切れるとは思えません。雪山で事切れている可能性も……」
「くそ! 死んでしまえば力が使えぬではないか!」


 苛々と頭をかきむしる。「もう少し、もう少しだったのに……」と血走った目で、定勝は独り言のように呟く。


「氷織は私の最高の兵器となるはずだった。感情も意志も持たない、従順な道具としてな。他の者に怪しまれぬよう、賤しい身分の餓鬼まで見張りにつけたのに、華怜の勝手な行動のせいで……」


 驚きの事実に華怜は声をあげそうになり、慌てて手で口を塞いだ。
 定勝は何度目かのため息をついたあと、底冷えするような目で睨みながら命じた。


「必ず氷織を見つけ出せ。今度は二度と逃げられないよう、徹底的に管理してやる」
「しかし、それは人の道として……」
「人の道だと?」


 定勝は鼻で笑った。そして尊大な声色で言い放つ。


「私は神だ。神に人の道など通用せん」


 華怜はそれ以上聞くことができず、そっと立ち上がり、自室へと駆けだした。
 部屋に戻った華怜は、鏡の前に立った。そこに映る彼女の姿は、普段の優雅さを失っている。

「お姉さまに特別な力ですって……?!」


 彼女は再び歯を食いしばった。部屋の隅で震えていたみすぼらしい義姉の姿が蘇る。自分には持ち得ない能力を義姉が持っていること。屈辱で腸が煮えくり返るようだった。
 近くにあった簪を握りしめ、壁に思いきり叩きつけた。親指の爪をかじりながら、「信じない、信じないわ!」と叫びながら、部屋をぐるぐると歩き回る。


「見つかる前に排除しなければ……」


 華怜の目に、冷たい光が宿る。しかし、すぐにその表情は打算的な笑みへと変わった。


「大丈夫よ、私には奥の手があるもの」


 にやりと口角をあげて笑う。その笑みの奥には、底知れぬ闇が潜んでいた。
 窓の外では、雪が激しく降り始めている。遠くで烏の鳴き声が聞こえた。





 螢泉郷を後にして、一月が過ぎた。此岸花を求めて、ひたすら北へと歩き続けた旅。特段大きな問題もなく、私たちは目的の洞窟がある山へと辿り着いた。朝靄の立ち込める山道を登っていく。
 蒼玄はくるりと振り向いて言った。


「お前さん、随分と体力がついたな」
「そう、でしょうか」
「最初は少し歩いただけでへばっていただろう」


 螢泉郷へ向かっていたとき、すぐ息が切れてしまっていたことを思い出し、私は頷く。
 今は数刻なら休憩なしでも歩き続けることができる。何かと手を貸してくれた岳と、疲れを癒やす温泉を調合してくれた蒼玄のお陰だった。礼を伝えたかったが何と言えばいいか分からなくて、無言で足を前に出し続けた。

 先頭を行く蒼玄の背中には大きな翼が広がり、その後ろを私と岳が続いている。


「あと半刻ほどで着くはずだ。少し休憩して行こう」


 蒼玄が振り返って言った。私たちは頷いて、休憩の準備をする。岳は水筒を持ち、水源を探しに行ってくれた。私は切り株に座り、そっと蒼玄の横顔を盗み見た。

 数刻ほど歩いたはずだが、疲れた様子はなさそうだ。遠くの方をじっと見つめている。
 そのとき彼の頬に赤い筋ができていることに気づいた。木の枝で引っかけて傷ついたのだろうか。痛みはないのか彼は気にしていないようだ。
 すると視線に気づいたように、蒼玄がちらりと顔を私の方に向けた。慌てて目線を鬱蒼とした森の中に移す。

 周囲を取り囲む木々は天を覆うほどに高く、枝葉が絡み合って緑の天蓋を作り出している。静かな場所だと思ったが、耳を澄ませると様々な音が聞こえてくる。小鳥がさえずる声、木の葉を渡る風のそよぐ音、小川のせせらぎ……自然が織りなす音たちに耳を傾けながら、私は口を開いた。


「……私の心は治るでしょうか」


 蒼玄はゆったりと私を見つめた。そして空に視線を移して言う。まるで夕餉の話をするようなのんびりとした口調だった。


「分からん」
「そう、ですよね」
「でも、お前さんの心を溶かすためなら、どんな手段も試す価値がある」


 その言葉に、胸の内がくすぐったいような心地になる。私は口を開き、一度唇を結んだ。そして拳を握りしめ、蒼玄に尋ねた。


「なぜ、そこまでしてくれるのですか」


 洞窟を出発してから、何度も湧き上がっていた疑問だった。蒼玄は静かに問い返す。


「なぜ、とは?」
「私は命を狙われている身で、危険な目に遭うかもしれない。温泉の知識だって皆無で、温泉の調合でも役にたたない。蒼玄にとって利がないでしょう」


 さらに強く拳を握りしめた。
 私に権力があれば、金銭があれば、何か彼に返せたかもしれない。しかし私は国で迫害され、無力な存在だ。なぜそんな私のために、何月も共に素材を探してくれるのか理解ができなかった。

 少しの沈黙のあと、彼は「昔な」と口を開いた。まるで幼子に昔話を聞かせるような声だった。


「心が凍った人間と出会ったんだ」
「私と、同じ……」
「あぁ。齢はお前さんより十以上も上だがな。そいつは俺と同じ、人間とあやかしの子どもだった」
「……」
「いくら効果の高い素材を使っても、そいつの心が溶けることはなかった。村での差別を受け続け、しまいには体が動かなくなってしまった。そして最後に頼まれたんだ。『あの山の奥深くまで運んでくれ』と」


 蒼玄は言葉を止めて、じっと宙を見つめた。そして何の感情も滲ませずに語る。


「そいつを抱えて、森の奥深くに運び、土の上に寝かせた。今でも覚えている、雲一つない快晴だった。『良い日だなあ』とそいつは満足そうに呟いて、そのまま事切れてしまった」


 蒼玄は自嘲の笑みを浮かべた。その横顔はどこか後悔のようなものが滲んでいるように見える。
 彼は空から私に視線を移し、同情を帯びた哀しい視線を送った。朱色の瞳が私をじっと見つめている。


「お前さんの心は、そいつの心よりも凍りついている」


 彼は手を伸ばし、そっと私の頬を撫でた。かさついた感触が、いたわるように何度も撫でる。


「俺はお前さんの心を見たとき、ぞっとしたよ。
 お前さんの周りの人間は、世界は、どれほどの苦しみを与えてきたのかと。想像するだけで泣きそうになった」


 頬から手が離れる。彼はまぶたを伏せ、囁くように言った。


「お前さんを救うのは、罪滅ぼしみたいなものさ。だから気にしなくていい」


 そう言って立ち上がり、膝辺りについた土汚れを払う。彼の視線の先には、岳が立っていた。「そろそろ行こう」という声に、私は無言で頷いた。

 昼過ぎ、私たちは狭間の洞窟の入り口に辿り着いた。苔むした岩肌に囲まれた洞窟の口は、まるで大きな獣の口のように不気味に開いている。


「ここが目的地みたいだな」


 岳は地図を見ながら呟いた。木の枝を加工した松明の先端に火をつけると、洞窟内がぼんやりと明るくなった。


「中は暗いからな。気をつけて進もう」


 おそるおそる洞窟の中へと足を踏み入れる。松明の灯りが揺らめき、岩壁に奇妙な影を作り出す。足元はぬかるんでおり、歩くたびに水音が響いた。
 半刻ほど歩いただろうか、蒼玄が何かに気づいたように立ち止まり、洞窟の壁に松明を掲げた。


「これは……」


 火で照らされた先には、古い時代の絵が描かれていた。
 中心には三人の人間が描かれており、空に手を伸ばしていた。空からは光が漏れはじめ、地面には花々が咲いている。不思議なことに三人の頭上では晴れているのに、離れた場所では雪が降っており、地面にも積もっていた。まるで三人の周りだけ春が来たようだ。
 彼らの周りには人々たちが敬うように額を地面につけ、供物を捧げている。

 何かの信仰を表しているのだろうか。


「何を意味しているのでしょうか」
「分からん。ただ、この洞窟が単なる自然の造形物ではないことは確かだ」


 私たちが進むにつれ、洞窟は徐々に広くなっていく。やがて大きな空間に出た私たちは、驚きの光景を目にした。

 洞窟の天井に小さな穴が開いており、そこから太陽の光が差し込んでいた。その光に照らされ、地面には一面の花畑が広がっている。よく見ると花々はまだ開花しておらず、蕾の状態だ。


「きれい……」
「こんな洞窟の奥で花が……」


 私と岳は思わず声を漏らした。蒼玄は満足げに「此岸花だ」と言った。
 私たちは花畑の中へと足を踏み入れた。此岸花はゆらゆらと揺れている。赤い蕾はやわらかく閉じられ、咲き誇る瞬間を今か今かと待っているようだ。

 蒼玄はしゃがみ、一輪の此岸花に触れようとした。その瞬間、花から眩い光が放たれ、視界が真っ白に包まれた。


「……っ!」


 私が目を開けると、そこは見知らぬ村だった。周りを見渡すが、蒼玄も岳もいない。いるのは古びた着物を着る村人だけだ。突然現れた私の姿に驚くことなく、村人たちは牛を引き連れたり稲を運んだりと、日常を過ごしている。どうやら私の姿は見えていないらしい。
 突然の光景に困惑していると、一人の子供が現れた。鳥の子色の髪に朱色の瞳、そして背中には小さな翼が生えていた。私は息を呑む。


(蒼玄……?)


 幼い蒼玄は人間の母親と天狗の父親に囲まれ、幸せそうに笑っていた。両親は優しく彼を抱きしめ、愛情たっぷりに接している。


「蒼玄、お前は特別な子だ」
「愛しい子。大きくなってね」
「うん!」


 しかし、その幸せな光景はすぐに暗転した。
 私の目の前に広がったのは、地獄のような光景だった。乾いた土と枯れた草木、痩せ細った家畜たちの死体が放置され、「おっかぁ!」と倒れた母親の傍で子どもが泣いている。
 そして幼い蒼玄は、冷たい視線に囲まれていた。


「化け物!」
「お前らが災いを呼び寄せたんだ!」


 村人たちの罵声が幼い蒼玄に浴びせられる。彼は怯えた表情で身を縮めていた。両親は必死に蒼玄を守ろうとするが、村全体が彼らを受け入れようとしない。

 やがて、彼らは村八分にされてしまう。食べ物も満足に手に入らず、誰も話しかけてくれない。そんな中でも、両親は蒼玄を守り続けた。しかし、過酷な生活は蒼玄の母の体を蝕んでいった。ある日、母は重い病に倒れ、そして息を引き取ってしまう。


「母さま! 母さま!!」


 幼い蒼玄の叫び声が家の中にこだまする。
 蒼玄の後ろでは父が拳を固く握りしめていた。

 時は過ぎ、青年になった蒼玄は山の中で獣を狩っていた。弓矢で命中させ、兎の耳を持ちながら「今晩はご馳走だ!」と嬉しそうに声をあげる。
 家で待つ父親のもとまで走り、「父さま!」と呼びかけた瞬間だった。彼の手から兎の死体が落ちる。

 父親は腹に深々と刃物を刺し、自死していた。

 蒼玄は叫んだ。言葉にならない咆哮をあげ続ける。目から大粒の涙を流しながら、父の亡骸に縋り付いた。「なぜ、なぜ、俺を置いて……!」と叫ぶ彼の姿がどんどん遠くなっていく。


「氷織!」


 鋭く呼ぶ声に私は現実に引き戻された。
 目の前には、憔悴しきった蒼玄がいた。


「蒼玄……」
「大丈夫か?」


 私は言葉を返せなかった。先ほど見た光景が頭の中に流れ込み、心臓が嫌な音を立てる。岳も同じものを見たのだろう、言葉を発することなく立ち尽くしている。
 私は荒く息をつき、呼吸を落ち着かせたあと、ようやく一言だけ発した。


「あなたの、記憶を……」
「……」


 蒼玄は眉根に深い皺を刻み、そして少しだけ笑った。見ているだけで泣きたくなるような笑みだった。


「『己の影』とはよく言ったもんだな」


 蒼玄は太陽の光に照らされてできた自身の影を見つめる。


「深い傷を残した記憶は、逃れたくても逃れられない。まるで影のようにぴったりと張り付いている」
「……」
「ご覧」


 蒼玄は視線を花々たちに向けた。飛び込んできた景色に私は息を呑む。



(花が、咲いている)

 蕾だったはずの此岸花が幽玄な光に照らされ、大地を覆い尽くすように咲き誇っていた。花びらは細く、しなやかに伸び、生き物のように揺らめいている。その赤はあまりにも鮮烈で、まるで雪に滴る鮮血のようだ。

「己の影と向き合うとき、花は咲くだろう」と語った蒼玄の言葉が蘇る。私は静かに尋ねた。


「……蒼玄は、過去と向き合ったの?」
「……向き合うしかなかった」


 ぽつりと呟き、花々に目を落とす。洞窟の天井からは細い光筋が差し込み、此岸花を神秘的に照らしている。美しい花だが、同時に底知れぬ恐怖を感じさせる。まるで生と死の境界線に立っているような感覚。先ほど見た光景を思い出してしまい腕をさすった。
 蒼玄は話を切り替えるように明るく言う。


「さあ、此岸花を採取しよう。特別な温泉が作れるはずだ」


 私たちは協力して、慎重に此岸花を採取した。開花した花におそるおそる触れたが、特に何も起こらない。「根には毒があるから気をつけてくれ」という蒼玄の言葉に従い、慎重に茎を折り取っていく。
 作業中、私は時折蒼玄の横顔を盗み見た。彼はただ無表情で花を摘んでいる。その固い横顔に胸が痛み、私はそっと逸らした。

 此岸花を採取し、洞窟を後にする頃には、夜も更けていた。蒼玄はくるりと私たちの方を振り向き、明るい声で言う。


「温泉をつくるか!」
「……」
「……あぁ」


 引きつった顔で頷く私たちに蒼玄は苦笑し、しゃがんで印を結んだ。温泉が現れると同時に、湯気が夜空にのぼっていく。鞄を広げ、素材をどれにしようかと見比べている。私たちはしばらく立ち尽くしていたが、不意に岳が動き出した。蒼玄に近づいて話しかける。


「……今回はどんな素材を使うんだ?」
「珍しいな、アンタが興味を持つなんて」
「いいだろう、別に」
「俺に元気がないと思ったか?」
「なっ!」


 岳は顔を真っ赤にさせて声をあげる。「別にお前の心配なんかしていない!」とむきになり、そっぽを向いた。「冗談だ」と蒼玄は目を細め、素材の説明をしはじめる。
 彼の前には、私の手のひらよりも大きい薄桃色の花びら、木の器に詰められた深緑の粉、一寸ほどの橙色の果実が並んでいた。


「この大きな花びらは『天心蓮』、心を癒す効果がある。この粉は『静寂石』を削ったものだ。これも同じような効果だな。香り付けには『橘の実』を使おうと思っている」


 それらの素材をまとめて温泉に放り込み、最後に先ほど採取した此岸花を静かに入れた。棒でかき混ぜると、湯は薄紅色になり、ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。


「よし、できたぞ」


 蒼玄に「ほら」と促される。少しだけ和らいだ空気に安心したように、岳は目を細めた。


「私たちは夕餉の準備をしていますので」


 岳の言葉に頷く。彼らの優しさや気遣いが、心の中で蛍のように灯っていた。
 私は温泉の裏手に回り、階段を登っていく。
 そして深呼吸をし、ゆっくりと温泉に足を入れた。驚くほど心地よい温度が、私の体を包み込む。徐々に体を沈め、やがて肩まで湯に浸かった。

 温泉に全身を浸すと、不思議な感覚が全身を駆け巡った。まるで体の芯から温まっていくような、そして同時に何かが溶けていくような感覚。私は思わず目を閉じ、その感覚に身を委ねた。

 湯面から立ち昇る湯気は、橘の実を中心とした複雑な香りを放っていた。爽やかな柑橘系の香り、深みのある木の香り、そして微かに感じる花の香りが混ざっていた。香りの調和が、私の心を落ち着かせ、同時に何か懐かしいような感情を呼び起こしていた。

 私はゆっくりと手を動かし、湯をすくい上げた。

 指の間から零れ落ちる薄紅色の湯を見て、蒼玄の父の腹から流れる鮮血を思い出す。その記憶を皮切りに、狭間の洞窟で見た蒼玄の過去が次々と浮かび上がってしまう。
 幼い蒼玄の笑顔、愛情に満ちた両親のまなざし。暗転したあとに見た、村人たちからの迫害や母の死、そして唯一の家族である父親の自死。

『なぜ、なぜ、俺を置いて……!』

 蒼玄の咆哮を思い出し、私はぐっと目頭に力を込めた。悲しかっただろう、苦しかっただろう。彼の気持ちをなぞって心に湧き上がったのは、黒い嵐のような禍々しい激しい感情だった。

 村人からの迫害や妻の死、荒れ狂う海のような激しさに耐えきれず、彼の父は自身に刃物を突き刺した。
 死は救いだ。残される者の方がずっと辛い。母が死んだあと、自死も許されずただ生かされ続けた自分の人生と重ね合わせる。

 黒い禍々しい嵐は過ぎ去り、心に残ったのは、一縷の悲しみだった。

 洞窟で彼の過去を見たときも、胸が締め付けられる苦しさがあった。そのときは津波のように押し寄せる感情に困惑するしかできなかった。しかし今、私の胸の内にある感情は、瞳からあふれる涙となって流れ続けていた。


「蒼玄……」


 私は小さく名をなぞる。その声に気づいた蒼玄が、湯船の縁に座った。


「どうした? 具合でも悪くなったか?」
「……あなたの過去を、思い出して……」


 私は涙を拭おうとしたが、次々と溢れ出てくる。蒼玄は一瞬だけ見開いたあと、優しく見守ってくれていた。その笑みの中には、陰りのある感情など何も滲んでいない。思わず尋ねてしまう。


「なぜ……なぜ笑っていられるの? あんな思いをしたのに……」


 華怜から受けた暴力や惨い言葉たち、下女たちの冷たい囁き声や視線、民たちから投げられた石や暴言。体にできた傷は何一つ残っていない。しかし心の中にできた傷は、過ごす日々の中で何度も痛みを訴えた。その痛みが疼くたび、恨みや憎しみなど澱のような感情が一緒くたになり、私から生きる気力を奪っていった。

 私たちの間に沈黙が流れる。蒼玄はぽつりと聞こえるか聞こえないかくらいの声量で言った。


「長い時間、恨んださ……もう俺は、恨み疲れた」


 彼の言葉には様々な感情が含まれていた。
 私はなんと答えればいいか分からず、うつむことしかできない。堰を切ったように涙は止まらず、次々とあふれ出てくる。温泉の水面に落ちては、波紋が広がっていく。蒼玄は穏やかに言った。


「優しいな、お前さんは」


 蒼玄は私の頭を優しく撫でた。その感触に、涙が止まってしまう。小さな鳥が羽ばたくように、心臓の鼓動が大きく打ち始める。今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。

 私が見上げると、彼もまたやわらかな表情で見つめ返していた。「やっと泣き止んだな」と白い歯を見せ、手が離れる。胸が締め付けられ、もっと撫でて欲しいと言ってしまいそうになる。しかし私の唇は動くことなく、ただ薄紅色の水面を見つめることしかできなかった。


 *



 狭間の洞窟を後にしてから三日目の夕暮れ時、私たちは霧雨の里と呼ばれる人里にたどり着いた。
 空からは細かな雨が降り続き、人里全体が薄い霧に包まれているように見えた。その光景は美しくもあり、少し物悲しくもあった。


「ここで一泊するか」


 蒼玄の提案に、私と岳は頷いた。長時間歩き続けた足は疲れ切っており、温かい食事と柔らかな寝床が恋しかった。

 里の中心に向かって歩きながら、私は周囲の様子を観察していた。霧雨の里は、その名の通り霧に包まれた静かな街だった。石畳の道には雨水が溜まり、行き交う人々は皆、笠を深くかぶっていた。

 しばらく歩くと、「霧の休み処」という小さな宿屋が目に入った。木造の趣のある建物で、軒先からは提灯の温かな光が漏れていた。住民によると里にある唯一の宿屋らしい。
 宿に入ると、温かな空気と木の香りが私たちを包み込む。優しげな表情の老婆が微笑んでいた。


「いらっしゃい。旅のお客さんかい?」


 女将と思しき彼女の声は、どこか懐かしさを感じさせるものだった。


「あぁ、一泊したいんだが空いているかい?」
「もちろんさ。こんな辺境の里にくる物好きは中々いないからねぇ。まずは温かいお茶でも飲んで、ゆっくりしておくれ」


 彼女の親切な言葉に、私たちは微笑みを浮かべながら小さく会釈を返した。

 半刻ほど経つと、女将は部屋に夕餉を運んでくれた。山菜がたっぷりと使われた夕餉に舌鼓を打つ。蒼玄が褒め言葉を口にすれば、女将は嬉しそうに顔をほころばせた。
 私たち以外に客はおらず、女将と旅の話で盛り上がる。話の途中で、狭間の洞窟の話になり、洞窟に描かれていた壁画の特徴を話すと、興味深そうに頷いた。


「そりゃ、春蕾(しゅんらい)の一族じゃないかねぇ」
「春蕾の一族?」
「あぁ。この地方に伝わる不思議な力を持つ一族のことさ。彼らは春の呼び寄せたと言われている」


 女将は言い伝えの内容を語りはじめた。


 春蕾の一族は、冬になると恵みが詰まった雪を降らせ、春には雪を溶かした。彼らのおかげで、この地方は豊かな水に恵まれ、作物が実り、人々は幸せに暮らしていた。

 しかし約三百年前。突然、長く厳しい冬が続いた。作物は育たず、多くの人が飢えに苦しんだ。国の長たちは、民の怒りを鎮めるために、その一族を「災いをもたらす者」として追い詰めていった。かつては信仰の対象として崇められていた彼らは、一転して忌み嫌われる存在になってしまう。

 生き残った者たちは、身を守るために力を隠して生きることを選んだ。彼らは互いに離れ離れになり、人々の中に紛れて暮らすようになった。


「……春蕾の力を持つ者はまだいるのでしょうか?」
「どうだろうねぇ。御伽噺のような話だからねぇ」


 女将は首を傾げながら、のんびりと言った。


「人間は、勝手だな」


 蒼玄が湯飲みを傾けながら、聞こえるか聞こえないくらいの声で呟く。その固く張り詰めた横顔を、私はそっと盗み見ていた。




 霧雨の里を後にし、私たちは次の目的地である「白霧山」へ向かっていた。このあたりに町はないので今日は野宿になるだろう。夜道を歩きながら、蒼玄の背中に問う。


「どんな素材なのですか?」
「『霧氷の実』という素材でな。山腹に生える針葉樹につく実らしい」
「簡単に採取できそうだな」
「それが『白霧山』っていうのが厄介でな。一年中、雪の霧が発生する山らしい」
「雪の霧?」
「あぁただの霧じゃない。雪のように冷たい霧だそうだ。間違って入り込めば、霧のせいで方向感覚を失い、やがて雪の霧に体温を奪われ死に至る……と言われている」
「そんな物騒な場所へ行くのか……」


 げっそりとした声で岳は言う。蒼玄は首だけで振り返り、楽しそうに言った。


「ほら、よく言うだろう? 三人いればなんとやらと。何かしらの対策をたてて登れば大丈夫さ」
「まぁ烏助もいるしな……」


 半ば諦めたように岳がため息をつく。任せろと言わんばかりに、カアァと烏助が鳴いた。

 その時だった。

 突然、蒼玄の足が止まった。どうしたのだろう?と首を傾げた瞬間、木々の間から黒装束を纏った男たちが飛び出してきた。刀を抜く音が鋭く夜風を切り裂き、全身に鳥肌が立つ。避けなくてはと分かっているのに、足から根が張ったように動かない。


「氷織様!」


 岳が刀を構えて立ちはだかる。金属音がぶつかり合う音が響いた。
 別の男がこちらに向かって走り、刀を振りかざす。「岳!」と叫んだその時、強い突風が吹いた。目を開けば、刺客たちは木の幹に叩きつけられ、気絶していた。

 何が起きたか分からず前方を見れば、そこには羽団扇を持った蒼玄がいた。


「俺たちの旅路を邪魔しないで欲しいなァ」


 朱色の瞳が鋭く刺客たちを睨む。
 その強い光に一瞬だけたじろんだものの、すぐに怒声と共に斬りかかった。彼らの動きを予測したかのように軽々とかわし、相手の懐に入り込む。羽団扇から放たれた風の刃が、みぞおちあたりに入り込み、膝から崩れ落ちた。
 別の刺客が背後から襲おうとしたが、優雅に舞うようにして身をひるがえした。風の波動が放たれ、突風とともに男の体が吹き飛ばされる。

 月の光を浴びた鳥の子色の長髪が、動きとともに光の筋を描いている。風と一体化したかと錯覚するほど、軽やかで、無駄のない動き。時に旋回し、時に跳躍し、まるで月に捧げる舞を踊っているかのようだ。

 命をかけた戦闘を見ているはずなのに、逃げなくてはと分かっているはずなのに、蒼玄の美しい動きに私は目が離せなくなっていた。

 刺客が残り一人になったとき、蒼玄は月に向かって飛び上がった。月光を背に、彼の姿が影となって浮かび上がる。そして羽団扇を振れば、風の渦が男を取り込み、上空へと高く舞い上がった。為す術もなくそのまま地面に叩きつけられてしまう。


「こんなもんか」


 蒼玄は手についた砂を払うかのように両手を叩いた。別の刺客に対応していた岳が、慌てて私のもとへとやってくる。「ご無事でしたか?!」と心配そうにあげた声に頷けば、彼はほっと安心したように微笑んだ。
 私は蒼玄の方に目線を移し、先ほどの舞うような動きを思い出す。「強いですね……」と思わず呟いてしまう。


「二百年も生きてるからなァ。自分の身は自分で守ることくらいはできるさ」


「行くぞ」と蒼玄は目的地の方向へと向かうが、私の足は動かない。蒼玄が首を傾げながら尋ねてきた。


「どうした?」
「彼らは、なぜ襲ってきたのでしょう……」


 木の幹や地面に叩きつけられ、伸びている刺客たちを見渡す。脳裏に浮かんでいたのは、歪んだ笑みを浮かべる華怜の姿だった。最悪の可能性を考えてしまい、顔から血の気がひいていく。


「もしかして私の場所が……」


 声が震え、地面を見つめていると、ぽんと頭に手を乗せられた。顔をあげれば蒼玄が優しく微笑んでいる。


「お前さんを狙ったかもしれんし、旅人を狙った山賊かもしれない。推測はできるが、確証はない。あまり思い詰めない方がいい」
「だけどまた襲われたら……」


 ありえてしまう可能性を口に出し、言葉が続かなくなる。すると蒼玄はふわりと軽やかに笑った。


「そのときは、また守ってやるさ」


 彼の言葉が、一粒、心の中に落ちた。それはまるで穏やかな雨のように心の中に染みこんでいく。
 朱色の瞳は優しく私を見つめていた。凍えた手足に温かい血が戻るように、緊張が緩んでいく。私が一度だけ頷くと、蒼玄は安堵したように微笑み「さぁ行くぞ」と踵を返した。



 *


 白霧山の麓に到着した。そこには息を呑むような光景が広がっていた。

 山はまるで天に届くかのように高くそびえ立っていた。山頂は雲に隠れ、全容を見ることができない。
 山の下部は鬱蒼とした森に覆われており、濃い緑が幾重にも重なっている。その緑は徐々に薄れ、中腹あたりから霧に包まれはじめていた。霧は山肌に沿って流れるように動き、まるで山が呼吸しているかのようだった。


「行くか」


 蒼玄の言葉に無言で頷く。
 私たちの手首には皮の腕輪がつけられており、歩くたびに鈴の音が鳴った。霧が濃くなったときに迷わないための対策だった。また上空には烏助が飛び、私たちが向かうべき方向を教えてくれている。

 不安をかき消すように息を吐いた私は、一歩山に向かって足を踏み出した。

 白霧山を登って半刻ほどが経った。巨大な杉やブナの木々が空に向かってまっすぐに伸び、その間を埋めるように若木が生い茂っている。木々の葉は朝日を受けて輝き、みずみずしい緑色が目に染みる。こんな景色を見られると思わなかった私は、思わず感嘆の声をあげる。


「このあたりは霧がないのですね」
「どうやら中腹あたりから濃くなるそうだ。霧が出る前に『霧氷の実』が採取できればいいんだが」


 水筒に口づけながら蒼玄はぼやく。
 そのとき「わっ!」と後ろで岳が声をあげた。驚いて振り向けば、何かにつまずいて転んだのか地面に突っ伏してる。


「岳?!」
「す、すみません、木の根に気づかず……」


 慌てて起き上がり、額を押さえる。手首を擦りむいたのか、傷ができて血が滲んでいた。


「岳、傷が……」
「あぁ、これくらいなら何ともないですよ」


 目を細めて、安心させるように言う。
 私は鞄から紐で束ねた薬草と器を取り出し、即席の塗り薬をつくる。薬草をすり潰すと、独特な匂いが鼻をついた。岳は私の手元を見て、ふわりと笑った。


「懐かしいですね」
「えぇ。離れではよく傷を作っていたからね」


 私が苦笑すれば、彼は唇を固くつぐむ。
 瑞穂城の離れでは掃除、洗濯、草むしりなどあらゆる労働をさせられた。指にはあかぎれができ、腕や足には切り傷がついた。離れには医者どころか、薬もなかった。そのため別室で盗み見た本を読んだり、岳に教えてもらいながら薬の作り方を覚えたのだ。
 城の庭で自生した草を使い、薬をつくって傷を治していた日々が蘇る。思えばずいぶんと遠くまで来たのだと改めて思う。

 すりつぶした薬草を彼の手首に塗り終えると、「ありがとうございます」と頭を下げられる。「気にしないで」と微笑んだとき、ふと真上から視線が感じた。
 見上げれば蒼玄が無言で私たちのやり取りを見ていた。なんだか機嫌があまり良くなさそうに見えて首をひねる。そのとき彼の頬に傷がついていることに気がついた。


「蒼玄、頬に……」
「? あぁ、どこかで切ったかな」


 彼は指で自分の頬を触ってぼやく。その反応を見るに気づいていなかったようだ。
 私が「しゃがんでください」とお願いすれば、彼は素直に膝を曲げた。器に残った薬を指ですくい、丁寧に塗っていく。
 蒼玄の目がわずかに大きくなった。


「あ、りがとう」


 塗り終えると、蒼玄は視線を外しながら礼を言った。先ほどまで漂わせていた雰囲気から一変して、戸惑うような表情を浮かべている。
 私が器や残った薬草を片付けていると、岳と蒼玄がひそひそと言い合う声が聞こえてきた。


「よかったな?」
「……うるさい」


 何を話しているか分からなくて顔をあげれば、蒼玄が岳のお尻に軽い蹴りをいれていた。

 私たちが登りはじめてしばらくすると、平和で穏やかな景色から少しずつ変化しはじめた。

 はじめは遠くの山々がかすんで見えるようになった。くっきりと見えていた山肌が、薄い白い靄に覆われたかのように霞んでいく。山の輪郭がぼやけ、遠くの峰々は空と溶け合うようにして曖昧になっていった。

 やがて、近くの景色にも変化が現れ始めた。透明だった空気が、徐々に白く濁っていく。
 木々の間から薄い霧が這うように湧き上がってきた。最初は地面すれすれだった霧が、少しずつ高さを増していく。足下にあった草たちは霧に飲み込まれ、やがて胸の高さまで霧が立ちこめてきた。


「蒼玄」


 思わず名を呼べば、「あぁ」と緊張を滲ませた言葉が返ってくる。
 目の前の景色が、ぼけて不鮮明になっていく。数尺先にあったはずの大きな岩が、霧の中に溶け込むように消えていった。
 上を見上げれば、青空はすっかり姿を消し、代わりに灰色がかった白い天蓋が広がっていた。太陽の位置も定かではなく、まるで時間の感覚まで霧に飲み込まれたかのようだ。

 りーん、りーん……鈴の音を頼りにしながら足を踏み出していく。

 しかし段々と鈴の音が遠くなっていく。焦りを感じて、目を凝らして前を見つめた。霧の中に蒼玄の影がかすかに見える。だが、どんどん影は薄くなっていき、気づけば手を伸ばしていた。


「蒼玄!」


 しかし私の指先は空をつかむだけだった。
 もう一度、蒼玄と岳の名前を呼ぶが、返事はない。先ほどまで鳴き続けていた烏助の声も、鈴の音も完全に聞こえなくなってしまった。私の心臓が早鐘を打ち始める。息が荒くなり、汗が噴き出てきた。周りを見渡すが、白い霧の壁しか見えない。


「落ち着いて……」


 自分に言い聞かせる。しかし言葉と裏腹に体は正直だ。足下がおぼつかなくなり、膝が震えている。立っているのもやっとの状態だ。
 霧の中で方向感覚を完全に失い、どちらに進めばいいのか分からない。一歩間違えれば崖から転落してしまうかもしれない。その恐怖が私の足を縛り付ける。

 途方に暮れていると、自分一人では何もできないのだと痛感してしまう。
 蒼玄がいなければ、岳がいなければ、ただの無力な人間だ。何も成し遂げることができない。体が震え、握った拳にじわりと汗が滲んだ。
 そのとき、蒼玄の言葉が耳の奥に蘇った。

「お前さん、随分と体力がついたな」

 狭間の洞窟へ向かう途中で言われた言葉だった。淀んだ思考を振り払うように首を横に振る。そして水筒に入った水を口に含んだ。冷たい感触が喉元を通り、荒立った心が少しだけ静まっていく。
 おそらく城の離れを出たばかりの私であれば、この山を登ることすらできなかった。少しずつだが体力もついている。もうあの凍えるような部屋で、ただ殴られるだけの自分はいない。
 この山を下りる手立てが何かあるはず──思考を巡らせはじめた私の耳に、りんと軽やかな鈴の音が届いた。


「……あ」


 山に登る前、蒼玄に手渡された物を思い出し、鞄を漁った。
 手のひらほどの大きさの、小さな円盤状の道具である。材質は軽い木材で作られており、表面には特殊な模様が刻まれている。
 円盤の端には小さな水晶が一粒埋め込まれており、中心では金属で作られた細い針が回転していた。


「『羅針盤』と言ってな。海を越えた先にある国で使われている道具だそうだ。金属の尖った先を、水晶に合わせると『北』の方角が分かる」
「こんなものが……」
「一つしかないからな。大事にしてくれよ?」


 悪戯っぽく笑う蒼玄に、顔をあげる。そんな物を自分に渡していいのかと思ったが、彼は私の頭を何度か軽く叩くだけだった。


「太陽が昇る方向に向かって登ったから、西へ向かえば戻れるはず……」


 この山を登る前のことを思い出しながら、羅針盤の針を動かす。西の方向へ体を向ければ、ゆるやかな登り坂になっていた。

 (せめて霧が晴れてくれれば……)

 祈るような気持ちで目の前に広がる霧を見つめる。覚悟を決めるしかないと一歩踏み込んだ瞬間、不思議なことが起こった。


「……え」


 先ほどまで白く濁っていた空気が、一瞬にして晴れたのだ。
 木々が現れ、遠くまで見渡せるようになる。さらに肌を刺すような冷たさもなくなっていた。何が起きたのだろうと思いながら、羅針盤を頼りに歩を進めていく。景色が見えるだけでも心理的に楽になっていくのを感じた。

 しばらく歩くと、ひときわ目を引く巨木がそびえ立っていた。幹は見たことがないくらい太く、空に向かってまっすぐに伸びている。
 樹皮は深い皺が刻まれ、幾重にも重なった年輪のように、長い年月を物語っている。見上げたが、葉の先はあまりの高さに霞んでいた。

 一番驚いたのが、木の下部に巨大な穴が空いていたことだ。地上から私の頭上ほどの高さがあり、その口は優に大人二人が並んで入れるほどの大きさである。形は不規則で、まるで巨人が一噛みしたかのような印象だ。

 中を覗けば、空洞になっている。

 一歩足を踏み入れば、独特の湿った匂いが鼻を突いた。葉が積もり、足を踏み入れると少し沈んだ。所々に小さな棚のような出っ張りがあり、そこには落ち葉や小さな植物が絡みついている。

 私は悩む。もうすでに日は傾き始め、気温も下がってきている。このまま歩いていても視界が悪く、迷ってしまう可能性も高いだろう。
 幸い水筒の水はまだあるし、非常食用の干し飯もある。ここで一泊しようと、鞄を置いた。

 落ち葉の上で膝を抱えて座る。山道を彷徨っていたときの緊張が抜けたのか、一気に疲れが押し寄せてきた。うつらうつらとしていると、穴の外では再び雪の霧が満ちていった。ひやりと冷気が肌を刺す。真っ白な霧を見ていると、蒼玄や岳の顔が脳裏に浮かんできた。

(大丈夫、あの二人なら)

 私でさえ生きているのだ。二人なら必ず大丈夫。
 そう言い聞かせながら、穴の外に満ちる霧をじっと眺める。冷えてきたので鞄から寝具用の大きめの着物を取り出して体に羽織り、水で戻した干し飯をかじる。

 湿った空気。薄暗い光。閉じこめられたような空間。

 城の離れでの長く寒い夜が蘇ってくる。心の奥底に押し込んでいた記憶が、堰を切ったようにあふれ出てしまう。薄い布団に身を包み、震えながら朝を待った日々。温かな食事もなく、わずかな糧で飢えをしのいだ。

 暗い過去を振り切るようにして、今いる場所を見渡す。すると奥の方に何かの動物の巣があった。もう使われていなさそうな古い巣を見て、城の離れで見つけた巣を思い出してしまう。小枝や枯れ葉を使って作られた小さな巣では、親鼠が子鼠に餌をあげていた。
 私は自身を抱きしめるように、膝を強く引き寄せる。

──鼠たちがうらやましかった。

 鼠の巣は気づいたときには跡形もなくなってしまっていた。おそらく下女の一人が片付けてしまったのだろう。汚らわしいと人々からは忌み嫌われていたかもしれない。しかしあの小さな生き物たちには、共に寄り添う家族がいた。
 私は心の痛みを誤魔化すように、膝の間に顔をうずめる。

 そのとき、何かの音が耳に届いた。



 落ち葉を踏むような音がだんだんと大きくなり、その足音と重なり合うように鈴の音が聞こえた瞬間、私の目にじわりと涙が浮かぶのが分かった。
 気づけば立ち上がり、穴の外に飛び出していた。私も呼びかけるように手首の鈴を鳴らし「蒼玄! 岳!」と必死に呼びかける。そして少しの間のあと、霧からぬっと出てきたのは焦ったような表情を浮かべる蒼玄だった。

 私の顔を見て、ほっと顔をほころばせる。思わず彼の体に飛び込んでしまう。


「よかった、生きてて……!」
「それはこっちのセリフだ。よく頑張ったなぁ」


 頭をゆったりと撫でられる。彼の胸板から聞こえる心音が速い。
 勢いで抱きついてしまったのが急に恥ずかしくなってしまい、慌てて体を離した。誤魔化すように蒼玄を見ながら問う。


「どうして、ここが?」
「烏助が教えてくれたんだ」


 カアァと鳴きながら、蒼玄の肩に飛び乗った。


「霧が濃くなり姿を見失ってしまったそうだ。しかし一部だけ霧が晴れたらしく、氷織と俺を見つけて居場所を教えてくれた」
「そうだったの……」


「ありがとう」と烏助の頭を軽く撫でる。嬉しそうにまた一度鳴いた。


「良い宿を見つけたみたいだな?」


 私の後ろを見ながら、蒼玄はにやりと笑う。先ほどまで抱えていた暗い感情が消えていくのを感じながら、私も笑った。


「ひとまず飯にしよう」


 彼の提案に私はこくりと頷き、木の空洞の中へと踏み入れていく。烏助は私が食べていた干し飯の残りを食べ、すぐに飛び去ってしまった。岳を探しに行ったのだろう。
 蒼玄は落ち葉を集め、祝詞を紡いで火をつけようとしたが上手くいかなかった。


「この霧のせいか……」


 ため息と共に、茶碗に干し飯と水をいれて、戻るのを待つ。
 そして袋の中から、細かく刻んだするめを取り出し、「ほい」と渡される。固いがずっと噛んでいると旨味が出てきて、ひもじい感覚が薄れていった。
 遠慮したが、蒼玄は干し飯の半分ほどを私の器に入れた。彼はそのまた半分ほどを食し、穴の入り口あたりに置いた。おそらく烏助の分だろう。


「せめて温泉に入れればよかったんだけどなぁ」
「印を結んでも出てこないのですか?」
「あぁ。あの印は、自分の座標を教えるためのものだ。この山では磁場が狂っているのか、うまく術が発動しない」


 蒼玄は後頭部を乱暴に掻き、私の方を見て言った。


「明日のためにも今日はもう寝よう」
「はい」


 中心に集まった腐葉土を布団代わりにし、蒼玄と私の寝具用の着物を掛けて寝ることにした。
 並んで横たわると、蒼玄は真剣な表情で言った。


「おいで、氷織」
「……え」
「白霧山の気温は低い。このままだと眠っている内に体温を奪われてお陀仏になっちまう」


 彼の朱色の瞳はまっすぐに私を見据えている。そこには恥じらいなど何もない。ただ命を守るために最善の行動をとろうとしていた。
 私は唇を結び、おずおずと彼の体に寄せた。蒼玄の体にゆったりと抱きしめられる。何かの素材の香りだろうか、香辛料のような香りが鼻腔がくすぐった。
 彼の体は想像以上に逞しく、筋肉質だった。幾度となく山を登り、様々な場所へと旅をしてきた証だろう。私を包み込む腕の力強さや、温かい体温に心臓が高鳴っていく。


「……すまん」
「え?」
「助けにきたはいいが、何も役にたたなかった」
「そんなこと、ないです」


 私は首を振る。
 彼が来るまで、私は絶望の淵にいた。襲いかかる孤独に押しつぶされそうになり、膝を抱えることしかできなかった。
 しかし彼の姿を見た瞬間、冷たく敵意に満ちているように感じられた世界が安全な場所になった。彼の腕に包まれていると、まるで冷たい世界から完全に遮断されたような感覚になる。どんな危険も、どんな脅威も、私のもとまで届かないという安心感。

(ねえ、蒼玄)

 私は心の中で呼びかける。
 この状況が私にとってどれほど特別なものか、彼に伝えたかった。しかし言い表すには、あまりにも言葉が少なかった。それでも彼への気持ちを伝えたくて口を開く。


「蒼玄がいてくれて、よかった」


 呟くように言えば、少しだけ息を呑むような気配がした。
 そしてすぐに「そうかい」と頭を優しく撫でられる。


「明日は霧が晴れるといいな」
「えぇ……」


 蒼玄の吐息が耳にかかるたび、私の鼓動は速くなっていく。同時に不思議と落ち着きも感じた。

(雪の霧が晴れますように)

(岳と無事に出会えますように)

 心の中で祈りながら、私の意識は徐々に遠のいていった。


 *


 次の日、私を目覚めさせたのは烏助の声だった。朦朧とした意識の中、何か温かいものに包まれている心地がする。
 そして目を開き、息を呑む。蒼玄の寝顔が目の前にあったのだ。


「……っ」


 思わず小さな声が漏れる。幸い、彼はまだ夢の中だ。普段の凜々しい表情と比べ、寝顔はまるで少年のようだった。

(きれいな人……)

 前から思っていたが、蒼玄の顔をまじまじと見つめていると改めて感じてしまう。
 高い鼻筋や、朱色の瞳を隠すやわらかなまぶた、そして僅かに開いた唇。全てが完璧な調和を保っている。長いまつげが今にも私に触れそうだ。
 額に垂れかかった鳥の子色の髪が、彼の顔をより柔らかく見せている。思わず触れたくなる衝動を、私は必死に抑えた。

(ど、どうしよう)

 動きたくても動けない。彼を起こしてしまうのも申し訳ないし、この瞬間が終わって欲しくないと願ってしまう自分もいた。
 少しばかりの罪悪感を抱えながら、私は彼の寝顔を眺めた。もう少し、もう少しだけと言い訳を心の中で呟く。


「氷織様!」


 外から私を呼ぶ声が聞こえ、慌てて体を起こした。反動で蒼玄の体がごろんと転がってしまう。


「うあ!」
「ご、ごめんなさい、蒼玄」


 蒼玄は上半身だけ起き上がり、ふわりと欠伸をした。半目できょろきょろと周りを見渡している。まだ寝ぼけているらしい。

「氷織様!」と再び呼ぶ声が聞こえ、岳が現れた。木の穴をのぞき込み、私たちを捉える。そして安心したように泣き笑いの顔をした。
 岳は泥だらけで顔には細かい傷はつけていたが、目立った傷はなかった。行きには持っていなかった麻の袋を左手に持っている。
 私は立ち上がって駆け寄った。


「岳、よかった……!」
「氷織様も……! はぐれたときはどうなるかと……!」


 うっと腕で瞳を押さえる。彼の優しさに心温まるのを感じながら、岳の肩に止まる烏助に目線を合わせた。


「また烏助が頑張ってくれたの?」
「それもありますが、ほら」


 岳は後ろの方に目線を向けた。白く立ちこめていた霧が消え、朝日が山の斜面を照らしている。


「霧が、晴れてる……」
「珍しいなァ」


 蒼玄がぼやきながら外の景色を眺めた。「昨日もだが、白霧山の霧が晴れるなんて聞いたことがない」と思案顔で呟く。
 岳は「そうだ」と思い出したように袋を広げた。


「捜していた『霧氷の実』とはこれか?」


 袋の中には氷の丸い粒が入っていた。よく見ると氷の中心に若草色の実が埋め込まれている。


「氷でできた実があったから採取してみたんだが……」
「おぉ、これだこれだ!」


 一粒つまんで、蒼玄は朝日の方にかざすと、氷が反射してきらりと光る。心に浮かんだ疑問を口にした。


「なぜ氷に包まれているのですか?」
「氷に含まれた栄養を摂取して大きくなると言われている。あとは鳥に食べられないようにしているそうだ」


 蒼玄が説明をし「よくやったぞ、岳」と目を細めた。岳はふんと鼻を鳴らす。


「烏助もな」


 烏助のくちばしあたりをつついて褒めれば「カアァ」と鳴いた。そして肩を回しながら、私たちが寝ていた場所へと踵を返す。


「霧が晴れている内に下山するか」


 寝ている間に濡れてしまった着物を、羽団扇で乾かしてもらい、私たちは帰路についた。

 昨日の霧が嘘かと思うくらい完全に晴れている。朝日が山の稜線を照らし、白い光が森を染めていく。木々の葉は露に濡れ、光を受けて無数の宝石のように輝いていた。
 樹木は夜の間に積もった露を滴らせ、その一滴一滴が光を受けて虹色に輝いている。木々の間を抜ける風が、さわやかな風を運んでくれていた。

 私は思わず深呼吸をした。澄んだ空気が肺いっぱいに広がり、新たな一日への活力が湧いてくるのを感じる。

 そして前を歩く蒼玄の後頭部を眺めた。同時に、朝に見た幼さが残る寝顔を思い出す。顔が熱くなるのを感じながら、私は一歩ずつ足を前に踏み出し続けた。

 半日ほどかけてようやく下山することができた。白霧山の方向を見れば、中腹あたりで霧が覆っているのが見える。


「運がよかったですね」
「えぇ」


 岳の言葉に頷く。蒼玄は無言で霧を見つめていたが、気を取り直すように嬉々として言った。


「さぁ、温泉の準備をするか!」



 *


 私と岳が昼餉の準備をしていると、何かを打ち付ける音が響いた。
 何事かと蒼玄の方を見れば、霧氷の実を石で叩きつけていた。氷は割れ、実だけを取り出している。
 興味がわいた私は近づき「どんな実なんですか?」と尋ねれば、割った実の中を見せてくれた。

 若草色の実の中は、桜色だった。中心には濃い色の芯があり、そこから繊細な筋が放射状に広がっている。まるで桜の花びらをそのまま閉じこめたようだ。


「香りも悪くない」


 蒼玄の言葉に従い、実を鼻先に近づけた。
 途端、甘い香りが鼻腔いっぱいに広がった。果実のようなみずみずしいが、どこか心が落ち着くような心地もする。不思議な香りだ。


「香りづけはこれでよさそうだ」


 鞄の中から炎帝晶と風霊草を取り出す。そして小瓶に入った桃色の液体を手に持った。


「それは?」
「『桜霞の雫』という桜の色素を抽出したものだ。ジジイの温泉がある郷の名産品だな」


 それを三滴ほど温泉に垂らすと、湯の色が淡い桃色に変化した。
 いつもより多めに炎帝晶を入れ、凍ったままの「霧氷の実」も五粒ほど湯の中に沈める。そして棒でかき混ぜ「入っていいぞ」と促した。

 階段を登り、湯に足を入れる。霧氷の実のせいか、いつもより少しぬるい。ゆっくりと身を沈めていくと、不思議な感覚が全身を包み込んだ。湯は絹のようになめらかで、まるで優しく抱きしめられているような心地がする。

 湯に浸かっているうちに登山で溜まっていた疲れが溶けていくのが分かった。木々に引っかかったり、石で転んだりしてできた細かい傷が治っていく。傷だけではない。心の中にあった不安や迷いなども、少しずつ和らいでいくような気がした。

 目を閉じると、先ほど嗅いだ霧氷の実の香りが鮮明に感じられた。
 その香りを吸い込むたびに、白霧山での記憶が蘇ってくる。羅針盤片手に山の中を彷徨ったこと、無事に岳と再会できて安心したこと。そして最後に思い出したのは、蒼玄と寄り添って眠ったときのことだった。


「……っ!」


 思わず両手で頬を包む。
 蒼玄の逞しい腕に抱かれた感触。彼の吐息が耳元にかかったときの、くすぐったさ。彼の胸に頭をもたせかけ、力強い心音を聞いていたときの安心感。
 あのときは必死だったため気づかなかったが、今思えば、かなり密着していた。ふと彼の着物から覗く肌を思い出してしまい、慌てて首を横に振った。


「氷織?」
「ひゃ!」


 突然名を呼ばれ、間抜けな声を出してしまう。私の反応に驚いたようで、彼は目を丸くしていた。


「考えごとか?」
「な、何でもないです……」


 蒼玄の顔を直視できず、目線を逸らしてしまう。しかし彼の視線は突き刺さったままだ。
 何か話題を……と考えを巡らし、先ほど名を呼ばれたことを思い出す。朱色の瞳を見ながら口を開いた。


「そう、いえば」
「?」
「私の名前を呼んでくれましたね」


 はじめは「お前さん」とか「姫さま」と呼ばれていた。
 私の指摘に、蒼玄はきょとんとし、何度か瞬きをした。そして、ふいっと顔を逸らしてしまう。


「……嫌だったらいいが」
「い、嫌なんかじゃないです」


 慌てて言うが、彼がこちらを見ることがなかった。何か怒らせてしまったかしらと、湯船の底に沈んだ霧氷の実を見つめる。
 そのため私は、彼の耳の端が真っ赤に染まっていたことに全く気づいていなかった。


 *


 私は朝靄の立ち込める道を、蒼玄と岳と共に歩いていた。次の目的地は「千鳥ヶ滝」という名の滝である。そこには「滝壺の宝珠」という名の月光にあたると光る不思議な石があるらしい。


「転ぶなよ」
「はい」


 近頃、蒼玄の何気ない言葉が私の胸を熱くさせる。苦しい、けれど嫌じゃない。この感情は何なんだろうとずっと考えているが、答えは見つからなかった。
 昼過ぎ、私たちが小さな林を抜けようとしたとき目の端にあるものが留まった。


「あれは……」


 木の下で一羽の鳥が網に絡まっていた。脱出しようともがいているが、動けば動くほど羽が絡まってしまう。私は気づけば鳥に駆け寄っていた。

 私は素早く網を解き、岳が慎重に鳥を抱き上げる。おそるおそる手を伸ばし鳥の羽を優しく撫でた。羽は少し抜けてしまっているが目立った外傷はない。遠目からは白い鳥に見えたが、角度によっては虹色に光って見える美しい鳥だ。


「大丈夫よ、もう安全だからね」


 私の声に応えるように鳥は小さく鳴いた。そして驚いたことに、私の肩に飛び移ってきた。その温かさと羽の柔らかさに思わず微笑む。


「見たことがない鳥だ」


 蒼玄が不思議そうに鳥を観察しながら言った。
 私は鳥を優しく撫でながら、その美しい羽を横目で見つめた。
 蒼玄は変わらず思案顔で鳥を見つめている。そのとき、鳥が口づけをするように私の頬にくちばしで軽くつついた。彼は面白くなさそうに眉をひそめる。


「喧嘩を売っているのか?」


 鳥は「チチッ」と鳴く。その声さえも愛らしくて頬を寄せれば、また口づけをくれる。蒼玄はますます面白くなさそうな顔をした。
 岳が近づいてきて、鳥と目線を合わせながら提案する。


「名をつけてはいかがですか?」
「名前……」


 鳥は同意するように私の前を楽しそうに飛んだ。
 新雪を思わせるような白い羽と、黒曜石のような色をしたつぶらな瞳。頭の中に浮かんだ名前を口に出す。


「……白雪」


 そう呼んだ瞬間、再び肩の上に乗って「チチッ」と軽く鳴いた。「いいですね」と岳が頷いてくれる。蒼玄は相変わらず何故か不機嫌そうだ。


「鳥に嫉妬するな」
「……うるさい」


 男性二人で囁き合っているが、何のことか分からず首を傾げる。
 そして新しい仲間となった白雪と共に旅を続けた。
 道中、私たちは様々な会話を交わしながら歩を進めた。時には笑い声を上げ、時には真剣な表情で語り合う。こんな風に自由に笑い、語り合える喜び。空を見上げながら、太陽の光に目を細めた。

 その日の夕方、私たちは小さな渓谷にたどり着いた。清らかな小川のせせらぎと周囲の豊かな緑に囲まれ、心が落ち着いていく。

 私と岳が野宿の準備をする傍で、蒼玄は新しい温泉を作り始めた。渓谷で採取した薬草を試したいそうだ。彼はいくつかの素材を調合し、棒でかき混ぜる。湯船から放たれる不思議な光を見て、私は感嘆の声をあげた。


「さて、できたぞ」


 蒼玄が満足げに額の汗をぬぐった。興味なさげな岳の顔を見て、私は提案する。


「岳、一度くらい入ってみたら?」
「!? いえ、私は……」
「そうだそうだ、入ってみろ」


 蒼玄が面白おかしく囃したてたので、岳はきっと睨んだ。その目線を受け流した蒼玄は羽団扇を取り出した。
 何をするのだろう?と思っていると、岳に向かって羽団扇を軽く振った。すると岳の体がふわりと持ち上がる。


「うわぁ!」


 岳らしくない情けない声をあげながら、温泉まで運ばれる。そのまま湯船の中に落とされてしまった。水面に叩きつけられ、けたたましい水音が響く。


「が、岳……!」


 さすがに乱暴すぎないかと思いながら温泉に寄れば、岳が勢いよく温泉から出てきた。そして飛んでいる蒼玄を睨みつけながら怒りの声をあげた。


「蒼玄! お前いつか覚えてろ……よ……なんだ、これは……」


 怒りの声が途中で萎み、困惑したように温泉の湯をすくった。熱っぽい視線で見つめ、湯を肩にかけていく。今まで「あんな怪しい奴の温泉には入らない」と断固として断っていた人とは全く思えない。
 岳の様子を見て、私も蒼玄も大笑いした。


「いい反応するなぁ」


 夜になり、私たちはたき火を囲んで座っていた。膝の上で眠る白雪を撫でながら、私は炎を見つめる。暖かな光が私たちの顔を照らし、穏やかな空気が流れていた。
 やがて蒼玄が「少し周辺を探ってくる」と言って立ち去り、岳と二人きりになる。

 岳はなんだかぼんやりとしていた。物思いに耽っているようにも見える。「岳?」と名前を呼べば、我に返ったように私の方を見て、やわらかく微笑んだ。


「氷織様、よく笑うようになりましたね」
「え?」
「あ、いえ……」
「……そうね」


 失言だったと思ったのか慌てて口をつぐむ岳に、私は微笑んで肯定する。

 岳が私の見張り役に任命されたのは十歳の頃だった。それから十年以上、彼は人の目を盗んでは食べ物をくれたり、新しい着物をこっそり渡してくれたりした。

「心の部分が完全に凍り付けば、何をしても楽しめず、悲しめず、ただ肉体の死を待ち続ける物質へと成り果てる」

 蒼玄は私の体についてそう説明した。
 おそらく岳がいなければ、私は既に死を待ち続ける物質に成り果てていただろう。胸の内に湧き上がる熱いものを感じながら名を呼ぶ。


「ねえ、岳」
「はい」
「城の離れにいた頃のこと、覚えてる?」
「……もちろんです」
「毎日が辛かったわ」


 私の言葉に、岳は静かに相づちを打った。
 たき火を見つめながら、懐かしさと切なさが入り混じった感情を抱く。


「でも、岳がいてくれたおかげで、なんとか耐えられたの」
「私なんて、大したことは……」
「違うわ。岳がいてくれたから、私は希望を持ち続けられた。覚えてる? 私の誕生日に、花を持ってきてくれたでしょう」


 岳の頬が少し赤くなったのを見て、私は胸が温かくなるのを感じた。


「ええ……城の庭から密かに摘んできたんです」
「あのとき、本当に嬉しかった」


 私は目に涙が浮かぶのを感じた。


「誰も覚えていないと思っていた私の誕生日を、岳だけが……」


 私は膝を抱える。辛かった日々の中にも、小さな喜びや温かな瞬間が確かにあったのだ。
 たき火のゆらめきを見ながら、瑞穂城近くの洞窟で交わした会話を思い出す。

「雪が止んだら、城へ戻って」
「姫様を置いて帰るなど……!」

 岳は優しく、不器用な人だ。そして正義感が強い。
 瑞穂城で私がいないと気づいたあと、そのまま城に留まることも選べたはずだ。しかし彼は烏助の力を使って、洞窟まで駆けつけてくれた。

 彼の人生を巻き込んでしまった罪悪感は、いまだに私の心をちくりと刺す。

 もう一度謝ろうと私は口を開く。そして岳の真っ直ぐな瞳を見て、唇を閉じた。きっと彼が求めているのは謝罪じゃない。
 一呼吸置き、私は静かに言う。


「ありがとう、一緒に来てくれて」


 その言葉に、岳は一瞬言葉を失ったように見えた。そして少し気まずそうに目線を逸らしながら答える。


「……いえ」


 私は首をひねる。その横顔がひどく悲しそうに見えたのだ。
 表情の意味を問おうとしたが、烏助の鳴き声が聞こえて尋ねることはできなかった。


十年前──


「氷雪姫?」
「このところさ、雪がやたら多くてよ。作物がろくに実らねえんだ。城にいらっしゃる姫様が生まれなすったせいだって、みんな噂してやがるぜ」


 目の前を歩く馬と、馬に乗る上質な服を着た依頼主の背中を見つめながら男は説明する。俺は「ふうん」と興味なく頷いた。


 五人家族で、贅沢ができるほどではないが、不足ない生活を送っていた自分。しかし七歳の頃に流行った疫病により、両親と妹が亡くなった。
 生き残ったのは姉と俺だけ。武家の子息として父から剣術の教えをうけていたので、旅の護衛などで日銭を稼いでいた。子どもだと見下され買い叩かれていたが、他に稼げる手段がなかった。

 十歳の頃、俺の噂を聞きつけた城の役人がやってきた。


「見張り、ですか?」
「あぁ、国司の娘である氷織様の見張りをしてもらいたい」


 旅の護衛よりも危険が少なく、金払いもいい。しかし俺はすぐに首を縦に振らなかった。甘い話には裏があることを、嫌というほどを知っていたからだ。


「なぜ自分が、そんな高貴な方の見張りに?」
「お前は知らなくていい」


 疑問を口にしたが一蹴されてしまう。俺が口をつぐめば、役人は袋の中身を床にぶちまけた。金色に輝く小判が十枚。俺の目の色が変わったことに気づいたのだろう。役人はにやりと笑って言った。


「この仕事を請ければ、前金でこれをやろう」


 一年、汗水垂らしてやっと手に入るほどの金だった。

 日中は城下町の料理屋で客に酒肴を運び、家に帰ればわらじを編んで内職をする姉の姿が脳裏に浮かぶ。この金さえあれば美味しいものを食べさせることも、きれいな着物を買うこともできる。俺はごくりと唾を飲み込み、頭を下げた。


 明日、役人に案内され氷織様がいるという城の離れへ案内された。

 こんなところに本当に国司の娘が?と思うほど古びた外観。
 建物の中に入れば、かび臭さと古木の匂いが鼻を突いた。廊下を歩けば軋む音が鳴り響き、足を踏み外せば朽ちた板が抜け落ちそうだ。人の気配はないが、時折、壁の中を小動物が走り抜ける音が聞こえてくる。

 氷織様の部屋は、離れの一番奥にあった。

 役人が黄ばんだ襖を開ければ、そこには小柄な女の子がいた。天井から糸で吊されているのかと思うくらいに、ぴんと背筋を伸ばしている。


「氷織様」
「はい」
「新しい見張り役です」
「はい」


 役人はそれだけ言って去ってしまった。俺にくだされた命令は一つだけ。

「氷織様を必ずお守りしろ」

 国司の娘だというのに、こんなみすぼらしい離れの部屋に押し込められている。
 下女以上にこき使い、酷い扱いをしているくせに、彼女を守れという。混乱で目眩がしそうだった。

 氷織様は立ち尽くしている自分を見つめた。髪は乱れ、着物も古くさいが、きれいな顔立ちをしている。そして一番目を引いたのが、露草色の瞳だった。今までそんな色をした人を見たことがなかった。


「あなた、お名前は?」
「岳と申します」
「そう、よろしくね」


 そう言って、彼女は目を細めた。澄んだ声と屈託のない笑顔に思わず見惚れてしまう。

 それから氷織様をお守りする日々がはじまった。
 毎朝、日の出とともに氷織様の離れへと足を運ぶ。

 彼女の一日は、粗末な食事からはじまる。小さな木の椀に盛られた、粗く挽かれた雑穀米。時折、黒い粒が混じっているのが見える。虫か、それとも石ころか。どちらにせよ城の姫君が口にするべきものではない。
 彼女は粗食を前に丁寧に手を合わせ、黙々と口に運ぶ。

 食事を終えると、過酷な労働がはじまる。離れの掃除、洗濯、時には庭の手入れまでも。本来なら下女がするべき仕事を、姫君である氷織様が文句も言わずにこなしている。
 数人の下女も派遣されているが、氷織様と話すことは滅多にない。彼女たちは氷織様を見るたびに、軽蔑の目線を向け、時には悪意ある噂をぶつけた。


「彼女が生まれてから雪が長く降り続いて……」
「災いの子ってもっぱらの噂よ」


 氷織様はそんな言葉を聞いても表情を変えず、淡々と仕事をこなしている。自分はそんな彼女の背中を、やりきれない気持ちで見つめていた。役人にも状況を伝えたが「危害を加えられていないのなら放っておけ」と言われてしまう。

「弱きを助け、強きをくじくは武士の誉れなり」

 それが父から受けた武士道の教えだった。
 しかし俺は、離れで弱者として扱われている氷織様を見て、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

 ある寒い冬の朝のことだった。
 離れを巡回していると、氷織様が窓辺で何かをしていることに気づいた。近づいてみると、彼女は窓の外にいる小鳥たちに米を与えていた。


「姫様……」


 名を呼べば、彼女はゆっくりと振り返った。そして少し照れくさそうに笑ったあと、小鳥たちの方にまた向き合った。


「この間、怪我をしているのを見てね。早く元気になってほしいから……」


 鳥たちを慈愛に満ちた顔で見つめる氷織様に、俺は言葉を失った。
 自身も十分な食事を与えられていないというのに小さな生き物のことまで気遣う。そんな人に、今まで出会ったことがなかった。

 はじめは氷織様を「可哀想な人」だと見なしていた。だから味方でいようと思っていた。それが亡くなった父の教えだったからだ。
 しかし氷織様が、ただの可哀想な人ではないと思い始めたのはいつからだっただろう。

 足を怪我していた下女のために塗り薬を作り、「これを岳から渡して欲しい」と頼まれたときだろうか。
 日々の疲れでうたた寝してしまった自分の体に、いつの間にか羽織がかけられたときだろうか。

 旅の護衛をしていたとき、醜い大人たちの粗暴を見てきた。子どもだからと買い叩かれ、反論すれば殴られることもあった。「なぜ自分がこんな目に」と恨みを吐き、涙を流す日もあった。

 しかし氷織様は違う。家族からも周囲からも迫害され、離れから逃げ出すことも許されない。自分よりはるかに過酷な状況にいるにも関わらず、他者を思いやる心を失うことがない。その限りない思いやりと強さに、必ず彼女を守り抜きたいという願いが大きくなっていった。


 自分が氷織様の見張り役に任命されて、早くも十年以上が経過した。彼女は十七歳になった。
 今、目の前にいる彼女はまるで人形のようだった。変化を目の当たりにしてきた俺は、やるせない気持ちで唇を噛むことしかできない。
 氷織様と初めてお会いした頃は、まだ笑顔を見せることがあった。下女たちの冷たい囁き声は聞こえたが、今と比べれば穏やかな日々だったと思う。

 そんな日々は華怜様が現れたことにより、完全に壊されてしまった。

 今から十年ほど前だろうか、正室の娘である華怜様が突然やってきた。氷織様の部屋に押し入り、中から大きな物音と氷織様の悲鳴が聞こえてくる。胸が張り裂けそうになりながらも、身分ゆえに止めることもできず、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

 その日以来、氷織様の瞳から光が失われていった。露草色に輝いていた瞳が徐々に曇っていく。まるで魂が少しずつ抜け落ちていくかのようだった。


「姫様……」


 名を呼んでも、彼女はただ頷くだけ。その反応にさえ、以前のような温かみはなくなっていた。
 月日が流れるにつれ、氷織様の反応はますます希薄になっていった。華怜様が来ても反応を見せず、ただ虚ろな目で宙を見つめるだけ。その姿に心を痛めながら、どうすることもできなかった。

 痛ましい悲劇が起きたのは、ちょうど一年前のことだった。
 ある朝、いつものように挨拶しても彼女からの返事はなかった。最初は体調を崩されたのかと思ったが、氷織様の様子を見て血の気が引いた。


「声が……」


 俺は必死に語りかけたが、氷織様は唇をわずかに動かすだけだった。その瞳には、もはや何の感情も宿っていなかった。

 まるで冬の訪れのようだった。
 華やかだった花が萎れ、木々が葉を落とし、そして最後には湖面が凍りつくように。少しずつ、しかし確実に、氷織様の心は凍っていった。

(どうして、こんな優しい方が)

 俺は絶望の淵で、ただ泣き続けることしかできなかった。


「岳?」


 突然、名を呼ばれ我に返る。パチパチと火が爆ぜる音がする。どうやらたき火を見ながら物思いに耽ってしまったようだ。
 氷織様は心配そうに自分を見つめていた。その目は、お会いしたとき以上の輝きを放っている。

 人形のようだった彼女は変わった。その事実が嬉しくもあり、心にちくりと棘が刺さるような心地もする。
 彼女を変えたのは蒼玄の存在だ。長年、氷織様の傍にいながら自分は何もできなかった。氷織様の心が凍っていくのを、ただ見つめることしかできなかった。
 無力さを痛感し、やるせない気持ちになる。

 彼女は楽しそうに自分との思い出や、旅であったことを話していた。その姿に胸が熱くなる。
 そして氷織様は言葉を切ったあと不意に微笑んだ。長い冬の後に見た最初の花のように、儚くも美しい微笑みだった。


「ありがとう、一緒に来てくれて」


 氷織様に感謝を伝えられ、涙がじわりと浮かぶ。胸が張り裂けそうなほど痛かった。
 自分は湧き上がる思いを秘めたまま「いえ……」と静かに頭を下げた。




 次の日、渓谷を超えた先には果てしなく広がる雪原が広がっていた。
 ここからは瑞穂国に足を踏み入れることになる。次の目的地へ行くためには致し方ないと分かっていても、城の離れでの暮らしを嫌でも思い出してしまう。張り裂けそうな胸を押さえた。

 遠くには白銀の山々がそびえ立ち、頂は灰色の空と溶け合っている。静寂を破るのは時折吹き抜ける冷たい風だけだ。
 周囲には木々もなく、ただ銀世界が広がっている。雪の反射する光が眩しく、私は顔を隠すように菅笠を深くかぶりなおした。

 そのとき、蒼玄の足がぴたりと止まった。どうしたのだろうと見上げると風で雪が舞い上がった。冷たい雪の粒が顔にあたり思わず目を細める。そして雪の幕が薄れ、現れた人の影を捉えた瞬間、顔から血の気がひいていくのが分かった。


「華怜……」


 一町ほど先の場所に、紅色の着物の上に白い毛皮を羽織った華怜が立っていた。美しい顔に冷酷な微笑みを浮かべ、瞳が氷のように冷たく光っている。
 彼女の後ろには、黒装束の刺客たちが無言で並んでいた。二十人はいるだろう。全員が顔を黒い布で覆い、手には鋭い刀を握っている。


「お久しぶりですわ、お姉さま」
「な、なぜここが……」


 やっとの思いで絞り出した言葉に、華怜は小さく笑った。


「そんなの簡単よ。あなたの忠実な従者が教えてくれたのよ」


 華怜は微笑むと、烏助が彼女の肩に止まった。全身の血の気がひいていく。振り向いたが、今まで後ろからついてきた岳の姿はなかった。再度前方を見れば、彼女に跪いている岳の姿があった。そこで全てを理解してしまい、足下が崩れていくような感覚が襲ってくる。


「岳……!」


 裏切られた痛みが胸の内を切り裂いていく。脳裏に浮かんでいたのは、昨晩、悲しそうに微笑む岳の横顔だった。
 私の呼びかけにも岳は顔を上げず、ただ地面を見つめたままだった。華怜は楽しそうに手を伸ばしてくる。


「さあ、お姉さま。おとなしく死んでくれるかしら?」


 その言葉を皮切りに、岳はばっと顔をあげた。そして鞘から刀を素早く抜き、華怜に斬りかかる。
 しかし彼女は、岳の攻撃を予測していたように軽々とかわした。体勢を崩した岳はそのまま刺客に押さえつけられる。


「アンタは絶対に裏切ると思ったわ」
「……くっ」


 顔を歪ませる岳と、高笑いと共に言い放つ華怜。
 背中に腕を回され、刺客の一人に縄で拘束されてしまう。華怜は靴で岳の頭を踏み、ぐりぐりと雪の中へ押し込んだ。


「大切な姫様が殺されるところを見てればいいわ」


 彼女の歪んだ笑みに、私は思わず後ずさりする。その瞬間、刺客たちが扇状に広がりはじめた。彼らの発する殺気が遠くにいても伝わってくる。群れをなす狼のように淡々と効率的にこちらを向かってきた。


「はあっ!」


 蒼玄の羽団扇が空を切る。その一振りで、まるで見えない大鎌が走ったかのように数人の敵が吹き飛ばされた。粉雪が舞い上がり、白い霧のように彼らを包み込む。
 彼の動きは風のようだった。軽々と敵の攻撃をかわし、翼を広げて空中に舞い上がる。漆黒の翼が陽光を受けて輝き、上空から強烈な風の刃を放った。

 しかし敵の数は多く、彼らは執拗に攻撃を仕掛けてくる。雪原では身を隠すこともできず、蒼玄は向かってくる刺客の攻撃を受け続けた。

 一方で私は茫然自失のまま立ち尽くしていた。岳の裏切り。華怜の出現。そして今、目の前で繰り広げられる壮絶な戦い。あまりの展開の速さに、私の思考が追いつかない。


「氷織っ!」


 蒼玄の警告に、我に返る。気がつくと、一人の刺客が私に向かって走ってきていた。恐怖で体が硬直する私の前で強い風が吹き、その刺客を吹き飛ばした。


「大丈夫か?!」


 蒼玄が私の傍に駆け寄ってきた。荒く息をついている。私は小さく頷いたが、言葉が出てこなかった。


「くそっ、あの半天狗を何とかしろ!」


 刺客の怒鳴り声が聞こえた。その声に、更に多くの刺客たちが襲いかかってくる。
 蒼玄は目を瞑り、言葉を紡ぎはじめた。周囲の空気が変容し、鳥の子色の長い髪がゆったりと宙を舞う。


「天地の息吹を司り給う 清浄なる風の神よ

科戸の風(しなとのかぜ)の天の八重雲を 吹き放つことの如く

御威光を此処に顕し 大いなる風を起こし給へ」


その瞬間、凄まじい突風が吹き荒れる。雪が勢いよく舞い上がり、刺客たちは次々と吹き飛ばされていく。

 しかしその攻撃の後、蒼玄の動きが明らかに鈍くなったのが分かった。彼の呼吸が荒くなり汗が額を伝っている。その隙を突くように新たな刺客たちが襲いかかってきた。蒼玄は必死に応戦するが、徐々に追い詰められていく。

 私は何もできずただ見ているしかなかった。無力感が胸に広がり、目に涙が溢れる。


「やめて……お願い、やめて……」


 私の声にならない叫びは戦いの音にかき消されてしまう。

──そのときだった。


「動くな!」


 突如、私の首筋に冷たい刃物が押し当てられた。蒼玄は私の方を振り向き、その瞬間、彼の顔が驚愕と恐怖で歪んだ。


「氷織!」


 華怜は満足げに笑って近づいてきた。


「さて、半天狗さん。これでおとなしくしてくれるかしら? でないと、お姉さまの首が飛ぶわよ」
「卑怯な……!」


 蒼玄が歯を食いしばって、空中から華怜を見下した。私は震える声で懇願する。


「蒼玄、逃げて……!」


 蒼玄は私を見つめ、一度ふっと笑った。まるで諦めたような微笑みに胸が騒ぐ。
 彼はゆっくりと、華怜の前に降り立った。私はその様子を絶望しながら見ることしかできない。


「そう、その調子よ。武器を捨てて、大人しくしてなさい」


 蒼玄が手に持っていた羽団扇を雪の上に放り投げるのを見て、華怜は楽しそうに笑った。


「やめて! お願い、蒼玄を……!」


 刺客から逃げだそうと、抵抗する。しかし首に当てられた刃物が更に強く押し付けられ、身動きが取れない。
 涙をこぼす私の姿を見ながら、華怜は恍惚とした表情を浮かべ、刺客の一人から刀を受け取った。


「さぁ、逃げないようにしないとね」


 私は恐怖に震えながら、華怜を見つめた。彼女の目には底知れぬ狂気が宿っていた。
「何を……」と私の言葉が途切れたその瞬間、華怜は手に持っていた刀を振り上げた。鋭い刃が、空気を切り裂く。


「ぐあっ!」


 蒼玄の悲鳴が、山々にこだました。
 彼の背中から、美しい黒い翼が切り離され、地面に落ちていく。雪面にゆっくりと赤い染みが広がっていき、私は慟哭した。


「蒼玄っ!」


 私は叫びながら、彼の元に駆け寄ろうとした。しかし「動くな!」と華怜の部下たちに拘束され、動くことができない。華怜の高笑いが響く。


「あぁその顔よお姉さま! あなたの絶望に満ちた顔がだいすきなの!」


 狂ってる。
 私は呆然と華怜を見つめていた。目の前の景色が一瞬にして歪んでいく。現実の色彩が薄れ、過去に受けた言葉や暴力が鮮明に蘇ってきた。心臓が早鐘を打つ。

(なぜ……なぜ、そこまで私を嫌うの)

 どろりと澱のような思考が巡り、一つの答に辿り着く。奥歯を強く噛みしめた。

(私を、人だと思っていない)

 幼子がおもちゃを床に叩きつけるように、無垢な瞳で蟻をつぶすように。
 そこには相手の感情や尊厳などはない。ただ楽しいから、ただ興味があるから、壊し続ける。

 そのとき今まで隠れていた白雪が、怒ったように華怜に突進した。不意打ちで避けることができなかったのか、彼女の頬に傷ができる。たらりと頬から血が流れ、華怜は怒鳴り散らした。


「なによこの汚い鳥!」


 再び突進しようとする白雪を握り、地面へと叩きつけた。「チチッ」と痛々しく悲鳴をあげる鳴き声が耳に届く。


「白雪!」


 私が叫べば、華怜は再び恍惚とした表情を浮かべた。
 ぞわりと体が震えるのを感じながら、地面に叩きつけられた白雪や、翼を切り落とされた蒼玄を見つめる。背中から鮮血を流し続け、がくりと項垂れた蒼玄の姿が目に焼き付く。

 突然、私の中で様々な記憶が駆け巡り始めた。蒼玄と初めて出会った日、彼が私を救ってくれたこと。一緒に旅をしながら、彼が調合した温泉に浸かったこと。飄々とした笑顔の裏には、惨い過去があったこと。お互いに寄り添いながら、暖を分け合ったこと。旅の間、笑い合い語り合ったこと……

 記憶が、まるで走馬灯のように私の中を駆け抜けていく。そして記憶と共に、腹から新たな感情が湧き上がってきた。

その瞬間、私の中で何かが壊れた。



 今まで感じたことのないような激しい感情が、私の体を巡り始めた。体中の血液が炎に変わったかのようだ。
 心臓の鼓動が激しくなり呼吸が荒くなる。指先が痺れ、全身が熱を帯びてくる。そして熱は私の中心へと集まっていった。体はひどく熱いが、頭の中は驚くほど冷静だった。
 感覚が研ぎ澄まされていく。


「おい、動くな!」


 私の首元に刃物をあてた刺客が叫んだ。一度、静かに目を閉じて深く息を吸い込む。その瞬間、周囲の空気が一瞬凍り付いた。刺客は「あっ……がっ……」と倒れた。見下ろせば彼の指先が凍っている。

 そのまま手を前に差し出せば、手のひらから細かな雪の粒子が湧き出した。はじめは霙のようだったが、やがて渦を巻きながら私の周りを舞い始める。雪の渦は次第に大きくなり、小さな吹雪のようになった。


「な……何!?」


 華怜の愕然とした声をあげた。しかし、私には気にする余裕はなかった。
 私は手を伸ばし吹雪を操った。近くにいた刺客たちがまず風の餌食になった。彼らの体は紙人形のように軽々と持ち上がり、遠くへと吹き飛ばされた。
 私に襲いかかろうとした刺客たちが見えたので、人差し指で素早く空をなぞる。すると氷の刃が、彼らを鋭く襲った。呻き声と共に倒れ込む。彼らの悲鳴が風にかき消されていく。


「なによこれ、なによこれ……!」


 華怜の絶望的な叫びが聞こえた。
 彼女は頭をかきむしり、憎悪に満ちた顔でこちらを睨んでいる。二十人ほどいた刺客たちは既に雪の中に埋まっており、ぴくりとも動かない。
 華怜が慌てて逃げようとしたので、足下に大量の雪を発生させて拘束した。引きつった顔でずりずりと後ずさりをする彼女を見下ろし、冷たく言い放った。


「華怜」
「ひっ」
「あなたを生き埋めにするわ。犯した罪を、苦しみながら悔やみなさい」


 指を軽く動かせば、華怜の顔が大きく歪んだ。その顔を見て、私は口だけの笑みを浮かべる。「許、して、お姉さま」と聞こえたが、無言で睨みつけた。

「許して」

 その言葉は私が何度も呟いた言葉だった。体を殴られたとき、母親を侮辱されたとき、民たちから石を投げられたとき、私はその言葉を祈るように呟き続けた。しかし華怜は救いの手など差し伸べることなく、ただ楽しそうにこちらを見下すだけだった。

 華怜の悲鳴が私を昂ぶらせていく。自分の中に湧き上がる力の大きさに酔いしれていた。どのように動かせば力を操れるのか、教えられてもいないのに、私ははっきりと認識していた。強大な力が体に馴染んでいるのが分かる。
 この力があれば、誰も私を傷つけることはできない。誰も私から奪うことはできない。この力さえあれば……

 恍惚の笑みを浮かべながら手を動かす。白い嵐が華怜に襲いかかろうとしたときだった。


「氷織!」


 突然、後ろから誰かに抱きしめられた。逞しい腕が私の体を拘束する。


「もういい……もういいんだ……」
「離して!」


 私は叫んで逃れようとしたが、蒼玄の腕の力がそれを許さなかった。目の前には怯えきった目でこちらを見てくる華怜がいた。今までされてきた数々の行為を思い出し、私は衝動のままに、腕を振ろうとする。蒼玄の懇願するような声が耳元で響いた。


「頼む、氷織」
「どう、して」
「お前は!」


 蒼玄は叫んだあと、絞り出すように言った。


「恨むだけの人生を歩まないでくれ」


 その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。振りかざした腕をぶらんと下ろす。体内に巡っていた様々な感情が、涙となって次々と流れていく。どうして、どうして。抱えていた様々な感情が一気に噴出し、終いには子どものように大声で泣き続けた。

 蒼玄は私の体をずっと抱きしめていた。彼の温もりに促されるように、私はしゃくり上げながら涙を流し続ける。言葉にならない思いが、嗚咽とともに口から漏れる。蒼玄はただ私の体を強く抱きしめ続けてくれていた。

 体内の怒りが少しずつ静まっていくのと同時に、吹雪が徐々に収まっていく。


「……私、は……」


 冷静になった頭で見渡すと、そこには雪の上に倒れる刺客たちや呆然とこちらを見る岳がいた。そこで初めて、自分が何をしようとしていたのかを理解し始める。私は強大な力を衝動のまま操り、多くの人々を殺めようとした。
 複雑な思いが渦巻き、呼吸が荒くなる。ひゅーひゅーと喉から空気だけが漏れていく。
 彼は私を落ち着かせるように、強く引き寄せた。


「大丈夫だ。もう、終わった」


 その言葉と共に、私の中の力が完全に静まる。雪原に再び穏やかな白銀の世界が戻ってくる。先ほどまでの激しい戦いが嘘のようだった。
 華怜は白目を剥いたまま気絶していた。雪に倒れ込む刺客たちも呻いたり動いたりはしているが、戦うほどの体力もないようだった。

 私の背中から温もりが消え、蒼玄は華怜の近くに立った。ぽたりぽたりと背中から流れる鮮血が雪の上に落ちる。
 そして私の瞳をまっすぐに見据え、静かに尋ねた。


「どうする?」


 私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。息は白い霧となって、冷たい空気の中へ溶けていく。


「城へ連れて帰りましょう。裁きを受けてもらいます」


 蒼玄は安心したように「あぁ」とだけ答えた。鞄の中から縄を取り出し、華怜をきつく縛り上げたあと遠くを見つめる。
 視線の先には、項垂れて座り込む岳がいた。私は鋭い痛みを感じながら、彼の場所まで歩いていく。雪を踏む音だけが、静寂の雪原に響いた。


「岳……」


 私は静かに呼びかけた。
 岳はゆっくりと顔を上げる。その目には薄い透明な膜が張られ、後悔が滲んでいた。


「私は……とんでもないことを」


 そこで言葉が途切れ、顔が歪んだ。

 華怜の傍で跪いた岳を見たとき、まるで誰かに刃物で突き刺されたような激しい痛みが私を貫いた。長年信頼し、頼りにしてきた人。私の唯一の味方だと信じていた人。その岳が、私を裏切った。その現実を受け入れられず、声を出すことさえもできなかった。


「申し訳ございません、氷織様。どんな罰でも受ける覚悟です」


 切れ長の瞳に浮かぶ後悔と悲しみに、私の心が揺れる。裏切られた怒りと、長年の信頼がぶつかり合う。
 その瞬間、記憶の奥底から懐かしい記憶が次々と蘇った。

 あの城で誰もが私を見捨てたときも、岳だけは味方でいてくれた。尽くしてくれていた。
 こっそり渡してくれた食事や着物、誕生日に摘んでくれた花、他愛のない話の中で浮かべてくれた微笑み。冷たい水の中で溺れそうになるような日々の中で、何度も何度も手を伸ばし、私を救ってくれた。

 長い沈黙の後、私は口を開く。


「……では、これからも私を守って」
「え……?」


 首を差し出すように頭を垂れていた岳は、驚いたように顔を上げた。私は優しく微笑む。


「あなたを許すわ。私の傍で罪を償って」


 彼の漆黒の瞳からぽろりと涙がこぼれた。「なぜ……こんな私を……」と困惑したように唇を震わす。
 その時、蒼玄がやってきて岳を縛っていた縄を小刀で切った。縄が雪の上に落ち、岳は自由になった両手を見つめている。


「さぁ立って、岳」


 手を差し出せば、岳は一瞬だけ唇を結び、震えながら手のひらを重ねた。


 そのあと私の命令に頷き、岳は雪原に倒れる刺客たちを縄で縛りはじめた。
 私と蒼玄は雪の上に座り、手当の道具を広げた。華怜が切り落とした片翼の跡から、鮮血が滲み出ている。見ているだけで心臓が握りしめられるように痛んだ。


「蒼玄、ごめんなさい。私のせいで……」
「気にするな。氷織は何も悪くない」


 どこまでも優しい彼の言葉に、涙が浮かんだ。
 泣いていることがばれないよう静かに鼻をすすり、器と薬草を手に取った。器で薬草をすり潰し、薬を作っていく。指先にとった薬を傷口に塗りながら語りかけた。


「ありがとう」
「ん?」
「私を止めてくれて。蒼玄が止めてくれなかったら、私は華怜と同じになってしまったわ」
「俺は手助けしただけだ。止められたのは……」


 蒼玄はそう言って、首だけ振り向いた。


「氷織の強さだ」


 彼の言葉に見開き、そして微笑みを返す。心地よい沈黙が私たちの周りを包んでいた。

 薬を塗り終わり、彼の背中に包帯を巻いていると、不意に蒼玄は「あ」と声をあげた。
 彼の視線を追うように見れば、雪の中から一つの若葉の芽が出ている。蒼玄は温泉の素材を選んでいるときのように楽しげに言った。


「もうすぐ、春だな」