霧雨の里を後にし、私たちは次の目的地である「白霧山」へ向かっていた。このあたりに町はないので今日は野宿になるだろう。夜道を歩きながら、蒼玄の背中に問う。
「どんな素材なのですか?」
「『霧氷の実』という素材でな。山腹に生える針葉樹につく実らしい」
「簡単に採取できそうだな」
「それが『白霧山』っていうのが厄介でな。一年中、雪の霧が発生する山らしい」
「雪の霧?」
「あぁただの霧じゃない。雪のように冷たい霧だそうだ。間違って入り込めば、霧のせいで方向感覚を失い、やがて雪の霧に体温を奪われ死に至る……と言われている」
「そんな物騒な場所へ行くのか……」
げっそりとした声で岳は言う。蒼玄は首だけで振り返り、楽しそうに言った。
「ほら、よく言うだろう? 三人いればなんとやらと。何かしらの対策をたてて登れば大丈夫さ」
「まぁ烏助もいるしな……」
半ば諦めたように岳がため息をつく。任せろと言わんばかりに、カアァと烏助が鳴いた。
その時だった。
突然、蒼玄の足が止まった。どうしたのだろう?と首を傾げた瞬間、木々の間から黒装束を纏った男たちが飛び出してきた。刀を抜く音が鋭く夜風を切り裂き、全身に鳥肌が立つ。避けなくてはと分かっているのに、足から根が張ったように動かない。
「氷織様!」
岳が刀を構えて立ちはだかる。金属音がぶつかり合う音が響いた。
別の男がこちらに向かって走り、刀を振りかざす。「岳!」と叫んだその時、強い突風が吹いた。目を開けば、刺客たちは木の幹に叩きつけられ、気絶していた。
何が起きたか分からず前方を見れば、そこには羽団扇を持った蒼玄がいた。
「俺たちの旅路を邪魔しないで欲しいなァ」
朱色の瞳が鋭く刺客たちを睨む。
その強い光に一瞬だけたじろんだものの、すぐに怒声と共に斬りかかった。彼らの動きを予測したかのように軽々とかわし、相手の懐に入り込む。羽団扇から放たれた風の刃が、みぞおちあたりに入り込み、膝から崩れ落ちた。
別の刺客が背後から襲おうとしたが、優雅に舞うようにして身をひるがえした。風の波動が放たれ、突風とともに男の体が吹き飛ばされる。
月の光を浴びた鳥の子色の長髪が、動きとともに光の筋を描いている。風と一体化したかと錯覚するほど、軽やかで、無駄のない動き。時に旋回し、時に跳躍し、まるで月に捧げる舞を踊っているかのようだ。
命をかけた戦闘を見ているはずなのに、逃げなくてはと分かっているはずなのに、蒼玄の美しい動きに私は目が離せなくなっていた。
刺客が残り一人になったとき、蒼玄は月に向かって飛び上がった。月光を背に、彼の姿が影となって浮かび上がる。そして羽団扇を振れば、風の渦が男を取り込み、上空へと高く舞い上がった。為す術もなくそのまま地面に叩きつけられてしまう。
「こんなもんか」
蒼玄は手についた砂を払うかのように両手を叩いた。別の刺客に対応していた岳が、慌てて私のもとへとやってくる。「ご無事でしたか?!」と心配そうにあげた声に頷けば、彼はほっと安心したように微笑んだ。
私は蒼玄の方に目線を移し、先ほどの舞うような動きを思い出す。「強いですね……」と思わず呟いてしまう。
「二百年も生きてるからなァ。自分の身は自分で守ることくらいはできるさ」
「行くぞ」と蒼玄は目的地の方向へと向かうが、私の足は動かない。蒼玄が首を傾げながら尋ねてきた。
「どうした?」
「彼らは、なぜ襲ってきたのでしょう……」
木の幹や地面に叩きつけられ、伸びている刺客たちを見渡す。脳裏に浮かんでいたのは、歪んだ笑みを浮かべる華怜の姿だった。最悪の可能性を考えてしまい、顔から血の気がひいていく。
「もしかして私の場所が……」
声が震え、地面を見つめていると、ぽんと頭に手を乗せられた。顔をあげれば蒼玄が優しく微笑んでいる。
「お前さんを狙ったかもしれんし、旅人を狙った山賊かもしれない。推測はできるが、確証はない。あまり思い詰めない方がいい」
「だけどまた襲われたら……」
ありえてしまう可能性を口に出し、言葉が続かなくなる。すると蒼玄はふわりと軽やかに笑った。
「そのときは、また守ってやるさ」
彼の言葉が、一粒、心の中に落ちた。それはまるで穏やかな雨のように心の中に染みこんでいく。
朱色の瞳は優しく私を見つめていた。凍えた手足に温かい血が戻るように、緊張が緩んでいく。私が一度だけ頷くと、蒼玄は安堵したように微笑み「さぁ行くぞ」と踵を返した。
*
白霧山の麓に到着した。そこには息を呑むような光景が広がっていた。
山はまるで天に届くかのように高くそびえ立っていた。山頂は雲に隠れ、全容を見ることができない。
山の下部は鬱蒼とした森に覆われており、濃い緑が幾重にも重なっている。その緑は徐々に薄れ、中腹あたりから霧に包まれはじめていた。霧は山肌に沿って流れるように動き、まるで山が呼吸しているかのようだった。
「行くか」
蒼玄の言葉に無言で頷く。
私たちの手首には皮の腕輪がつけられており、歩くたびに鈴の音が鳴った。霧が濃くなったときに迷わないための対策だった。また上空には烏助が飛び、私たちが向かうべき方向を教えてくれている。
不安をかき消すように息を吐いた私は、一歩山に向かって足を踏み出した。
白霧山を登って半刻ほどが経った。巨大な杉やブナの木々が空に向かってまっすぐに伸び、その間を埋めるように若木が生い茂っている。木々の葉は朝日を受けて輝き、みずみずしい緑色が目に染みる。こんな景色を見られると思わなかった私は、思わず感嘆の声をあげる。
「このあたりは霧がないのですね」
「どうやら中腹あたりから濃くなるそうだ。霧が出る前に『霧氷の実』が採取できればいいんだが」
水筒に口づけながら蒼玄はぼやく。
そのとき「わっ!」と後ろで岳が声をあげた。驚いて振り向けば、何かにつまずいて転んだのか地面に突っ伏してる。
「岳?!」
「す、すみません、木の根に気づかず……」
慌てて起き上がり、額を押さえる。手首を擦りむいたのか、傷ができて血が滲んでいた。
「岳、傷が……」
「あぁ、これくらいなら何ともないですよ」
目を細めて、安心させるように言う。
私は鞄から紐で束ねた薬草と器を取り出し、即席の塗り薬をつくる。薬草をすり潰すと、独特な匂いが鼻をついた。岳は私の手元を見て、ふわりと笑った。
「懐かしいですね」
「えぇ。離れではよく傷を作っていたからね」
私が苦笑すれば、彼は唇を固くつぐむ。
瑞穂城の離れでは掃除、洗濯、草むしりなどあらゆる労働をさせられた。指にはあかぎれができ、腕や足には切り傷がついた。離れには医者どころか、薬もなかった。そのため別室で盗み見た本を読んだり、岳に教えてもらいながら薬の作り方を覚えたのだ。
城の庭で自生した草を使い、薬をつくって傷を治していた日々が蘇る。思えばずいぶんと遠くまで来たのだと改めて思う。
すりつぶした薬草を彼の手首に塗り終えると、「ありがとうございます」と頭を下げられる。「気にしないで」と微笑んだとき、ふと真上から視線が感じた。
見上げれば蒼玄が無言で私たちのやり取りを見ていた。なんだか機嫌があまり良くなさそうに見えて首をひねる。そのとき彼の頬に傷がついていることに気がついた。
「蒼玄、頬に……」
「? あぁ、どこかで切ったかな」
彼は指で自分の頬を触ってぼやく。その反応を見るに気づいていなかったようだ。
私が「しゃがんでください」とお願いすれば、彼は素直に膝を曲げた。器に残った薬を指ですくい、丁寧に塗っていく。
蒼玄の目がわずかに大きくなった。
「あ、りがとう」
塗り終えると、蒼玄は視線を外しながら礼を言った。先ほどまで漂わせていた雰囲気から一変して、戸惑うような表情を浮かべている。
私が器や残った薬草を片付けていると、岳と蒼玄がひそひそと言い合う声が聞こえてきた。
「よかったな?」
「……うるさい」
何を話しているか分からなくて顔をあげれば、蒼玄が岳のお尻に軽い蹴りをいれていた。
私たちが登りはじめてしばらくすると、平和で穏やかな景色から少しずつ変化しはじめた。
はじめは遠くの山々がかすんで見えるようになった。くっきりと見えていた山肌が、薄い白い靄に覆われたかのように霞んでいく。山の輪郭がぼやけ、遠くの峰々は空と溶け合うようにして曖昧になっていった。
やがて、近くの景色にも変化が現れ始めた。透明だった空気が、徐々に白く濁っていく。
木々の間から薄い霧が這うように湧き上がってきた。最初は地面すれすれだった霧が、少しずつ高さを増していく。足下にあった草たちは霧に飲み込まれ、やがて胸の高さまで霧が立ちこめてきた。
「蒼玄」
思わず名を呼べば、「あぁ」と緊張を滲ませた言葉が返ってくる。
目の前の景色が、ぼけて不鮮明になっていく。数尺先にあったはずの大きな岩が、霧の中に溶け込むように消えていった。
上を見上げれば、青空はすっかり姿を消し、代わりに灰色がかった白い天蓋が広がっていた。太陽の位置も定かではなく、まるで時間の感覚まで霧に飲み込まれたかのようだ。
りーん、りーん……鈴の音を頼りにしながら足を踏み出していく。
しかし段々と鈴の音が遠くなっていく。焦りを感じて、目を凝らして前を見つめた。霧の中に蒼玄の影がかすかに見える。だが、どんどん影は薄くなっていき、気づけば手を伸ばしていた。
「蒼玄!」
しかし私の指先は空をつかむだけだった。
もう一度、蒼玄と岳の名前を呼ぶが、返事はない。先ほどまで鳴き続けていた烏助の声も、鈴の音も完全に聞こえなくなってしまった。私の心臓が早鐘を打ち始める。息が荒くなり、汗が噴き出てきた。周りを見渡すが、白い霧の壁しか見えない。
「落ち着いて……」
自分に言い聞かせる。しかし言葉と裏腹に体は正直だ。足下がおぼつかなくなり、膝が震えている。立っているのもやっとの状態だ。
霧の中で方向感覚を完全に失い、どちらに進めばいいのか分からない。一歩間違えれば崖から転落してしまうかもしれない。その恐怖が私の足を縛り付ける。
途方に暮れていると、自分一人では何もできないのだと痛感してしまう。
蒼玄がいなければ、岳がいなければ、ただの無力な人間だ。何も成し遂げることができない。体が震え、握った拳にじわりと汗が滲んだ。
そのとき、蒼玄の言葉が耳の奥に蘇った。
「お前さん、随分と体力がついたな」
狭間の洞窟へ向かう途中で言われた言葉だった。淀んだ思考を振り払うように首を横に振る。そして水筒に入った水を口に含んだ。冷たい感触が喉元を通り、荒立った心が少しだけ静まっていく。
おそらく城の離れを出たばかりの私であれば、この山を登ることすらできなかった。少しずつだが体力もついている。もうあの凍えるような部屋で、ただ殴られるだけの自分はいない。
この山を下りる手立てが何かあるはず──思考を巡らせはじめた私の耳に、りんと軽やかな鈴の音が届いた。
「……あ」
山に登る前、蒼玄に手渡された物を思い出し、鞄を漁った。
手のひらほどの大きさの、小さな円盤状の道具である。材質は軽い木材で作られており、表面には特殊な模様が刻まれている。
円盤の端には小さな水晶が一粒埋め込まれており、中心では金属で作られた細い針が回転していた。
「『羅針盤』と言ってな。海を越えた先にある国で使われている道具だそうだ。金属の尖った先を、水晶に合わせると『北』の方角が分かる」
「こんなものが……」
「一つしかないからな。大事にしてくれよ?」
悪戯っぽく笑う蒼玄に、顔をあげる。そんな物を自分に渡していいのかと思ったが、彼は私の頭を何度か軽く叩くだけだった。
「太陽が昇る方向に向かって登ったから、西へ向かえば戻れるはず……」
この山を登る前のことを思い出しながら、羅針盤の針を動かす。西の方向へ体を向ければ、ゆるやかな登り坂になっていた。
(せめて霧が晴れてくれれば……)
祈るような気持ちで目の前に広がる霧を見つめる。覚悟を決めるしかないと一歩踏み込んだ瞬間、不思議なことが起こった。
「……え」
先ほどまで白く濁っていた空気が、一瞬にして晴れたのだ。
木々が現れ、遠くまで見渡せるようになる。さらに肌を刺すような冷たさもなくなっていた。何が起きたのだろうと思いながら、羅針盤を頼りに歩を進めていく。景色が見えるだけでも心理的に楽になっていくのを感じた。
しばらく歩くと、ひときわ目を引く巨木がそびえ立っていた。幹は見たことがないくらい太く、空に向かってまっすぐに伸びている。
樹皮は深い皺が刻まれ、幾重にも重なった年輪のように、長い年月を物語っている。見上げたが、葉の先はあまりの高さに霞んでいた。
一番驚いたのが、木の下部に巨大な穴が空いていたことだ。地上から私の頭上ほどの高さがあり、その口は優に大人二人が並んで入れるほどの大きさである。形は不規則で、まるで巨人が一噛みしたかのような印象だ。
中を覗けば、空洞になっている。
一歩足を踏み入れば、独特の湿った匂いが鼻を突いた。葉が積もり、足を踏み入れると少し沈んだ。所々に小さな棚のような出っ張りがあり、そこには落ち葉や小さな植物が絡みついている。
私は悩む。もうすでに日は傾き始め、気温も下がってきている。このまま歩いていても視界が悪く、迷ってしまう可能性も高いだろう。
幸い水筒の水はまだあるし、非常食用の干し飯もある。ここで一泊しようと、鞄を置いた。
落ち葉の上で膝を抱えて座る。山道を彷徨っていたときの緊張が抜けたのか、一気に疲れが押し寄せてきた。うつらうつらとしていると、穴の外では再び雪の霧が満ちていった。ひやりと冷気が肌を刺す。真っ白な霧を見ていると、蒼玄や岳の顔が脳裏に浮かんできた。
(大丈夫、あの二人なら)
私でさえ生きているのだ。二人なら必ず大丈夫。
そう言い聞かせながら、穴の外に満ちる霧をじっと眺める。冷えてきたので鞄から寝具用の大きめの着物を取り出して体に羽織り、水で戻した干し飯をかじる。
湿った空気。薄暗い光。閉じこめられたような空間。
城の離れでの長く寒い夜が蘇ってくる。心の奥底に押し込んでいた記憶が、堰を切ったようにあふれ出てしまう。薄い布団に身を包み、震えながら朝を待った日々。温かな食事もなく、わずかな糧で飢えをしのいだ。
暗い過去を振り切るようにして、今いる場所を見渡す。すると奥の方に何かの動物の巣があった。もう使われていなさそうな古い巣を見て、城の離れで見つけた巣を思い出してしまう。小枝や枯れ葉を使って作られた小さな巣では、親鼠が子鼠に餌をあげていた。
私は自身を抱きしめるように、膝を強く引き寄せる。
──鼠たちがうらやましかった。
鼠の巣は気づいたときには跡形もなくなってしまっていた。おそらく下女の一人が片付けてしまったのだろう。汚らわしいと人々からは忌み嫌われていたかもしれない。しかしあの小さな生き物たちには、共に寄り添う家族がいた。
私は心の痛みを誤魔化すように、膝の間に顔をうずめる。
そのとき、何かの音が耳に届いた。