華やかな着物を身にまとった華怜は、静かに瑞穂城の廊下を歩いていた。城で働く者たちは彼女の姿を見た途端、光に集まる蛾のように彼女に吸い寄せられた。


「華怜様、本日もお美しい」
「国の宝と言われるだけありますな」


 ある者は両手を広げ、ある者は感嘆の声をあげながら、彼女の寵愛を浴びるために褒め言葉を口にしていく。華怜は自身を讃える言葉たちに、優雅に微笑み、時折頭を下げて応えていった。その仕草一つ一つが、周囲の人々を魅了していく。


「この間の宴での御歌も素晴らしく」
「まるで天女の声のようでした」


 華怜は謙遜しつつ、扇子で口元を隠しながらまぶたを伏せた。そのいじらしい姿にさえ、周囲の人々は心を奪われていく。
 最後に礼を言い、彼らの視線を感じながらも後にする。
 人気がいないとろこまで歩き、華怜は満足げな笑みを浮かべた。そして扇で口元をおさえながら、くつくつと笑う。


「お姉さまもいなくなったし、最高の気分だわ!」


 雪代華怜は、産まれた瞬間から祝福に包まれていた。
 産婆は産まれたばかりの華怜を見て、歓喜の声をあげた。瑞穂国を統治する国司と正室の子ども。皆が華怜の誕生を喜ばしいことだと手を叩いた。
 彼女が持っているのは美しい見目だけではなかった。幼少期から漢詩を暗唱し、見事な書を修め、琴を弾けば名手と讃えられた。


「華怜様は、この国の宝だ!」


 周囲の大人たちは、華怜の才能に目を細め、惜しみない賞賛を送った。和歌、舞、茶道、どの分野でも卓越した才能を見せ、周囲を驚かせ続ける。
 賞賛を受けた華怜は、美しい微笑みを浮かべ、喜ぶような素振りを見せていた。しかし心の一部では、冷め切っている自分がいることにも気づいていた。

──退屈。

 新しいことをはじめても、簡単に会得できてしまう。挑戦する前から自分が成功することが分かっている。周りからの賞賛は、もはや当たり前のことになっていた。

 いつしか華怜は産まれてから一度も会ったことがない義姉に、思いを馳せるようになっていた。周囲が彼女を褒め称えるのと対照的に、義姉である氷織には「災いの子」「卑しい側室の子」と軽蔑の言葉を吐いていたからだ。

 好奇心が湧いた彼女はある日、下女の目を盗んで城の離れへ行った。
 離れは酷い有様だった。建物の外観が年月の重みに耐えかね、あちこちに傷みが見られた。屋根の瓦はところどころ欠け、苔むしている部分もある。壁には細かな亀裂が走り、雨風にさらされて変色していた。

 建物の中へ踏み入れると、湿った匂いが鼻についた。天井には雨漏りの跡が残り、廊下を歩くたびに軋み、今にも穴があきそうだ。押し寄せる不快感に眉根を寄せながら歩いて行く。
 義姉の姿が中々見えず、踵を返そうとしたとき、奥の方に人影が見えた。華怜が近づけば、部屋の前で立つ少年は彼女の姿を捉えて、ぎょっとした。慌てて跪き、頭を垂れる。

 義姉には武家の少年が見張り役でつけられていると聞いていた。きっと彼が見張り役なのだろうと気づいた華怜は、冷たい口調で尋ねた。


「ここがお姉さまのお部屋?」
「はい……」


 随分とか細い声で言う。
 華怜は髪に刺さった簪を外し、彼の前に放り投げた。


「あげるわ。だから半刻ほどどこかへ行ってくれる?」


 少年からは何も反応がなかった。いずれどこかへ行くだろうと判断した華怜は、襖を開いた。そこには、華怜とよく似た顔立ちの少女が座っていた。

 漆黒の髪は櫛で梳かれた形跡がなく、もつれて乱れていた。着ている着物は古びて色褪せ、至るところに繕いの跡が見える。顔は蒼白で、頬はこけていた。手は荒れ、爪は短く割れているものもあった。

 一番目を引いたのは、瞳の色だ。露草色の瞳をしている。
 今までで一度も見たことがない色だった。

 大きな瞳は怯えたように華怜を見上げる。その瞬間、華怜の心の中で何かが弾けるような音がした。大股で彼女に近づき、乱れた髪の毛を思いきり引っ張った。


「いっ……」
「ねぇ、名前は?」
「ひ、氷織、です」
「貴方がお姉さまなのね!」


 華怜の胸の中に、歓喜の感情が渦巻く。
 退屈で仕方がなかった世界が、一気に色づいていくような感覚。華怜は突き動かす衝動のまま、氷織を痛めつけた。そのたびに氷織は涙を流し、やめてと懇願した。その姿を見てさらに華怜は高揚する。自分の言動が相手に影響を与え、思い通りの反応を引き出せることに歓喜した。

 思う存分痛めつけた華怜は、床に横たわる氷織を満足げに笑いながら見下した。


「また来るわ、お姉さま」


 恍惚とした表情で言い、華怜はその部屋を後にした。
 部屋を出た瞬間、見張りの少年が先ほどと変わらぬ体勢で、頭を垂れているのが見えた。放り投げた簪もそのままだ。見れば、体を小さく震わせている。
 愉快な気持ちに水を差されたような心地になり、華怜は簪を乱暴に拾った。

 それから十年ほど、氷織を虐げる日々が続いた。

 氷織の泣き叫ぶ顔を見るたびに、心の穴が埋まるような心地がした。快感が足先から登っていき、全身を歓喜で震わせた。
 しかし時が経つにつれ、氷織の反応がだんだんと鈍くなっていった。華怜に懇願することなく、人形のように無抵抗になることが増えた。終いには声が出なくなり、叫び声をあげることすらなくなってしまった。

 さらに瑞穂国にも不穏な影が忍び寄っていた。どうやら重税や不作による、民たちの不満が積もっているらしい。このままでは反乱が起きてしまうと役人たちが頭を抱えていた。

 そこで華怜は一つの案を思いつく。

──氷織にすべての罪をなすりつけて、捨ててしまえばいい。


 反応が鈍くなったおもちゃを捨てることもでき、さらに民の不満も逸らすことができる。国司である父も賛同してくれると思い、夕餉の際に提案した。しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。


「ふざけるな! お前が離れへ行っていたことは許容していたが、アイツを亡き者にするだと?!」
「だ、だけどお父様……」
「勝手なことをぬかすな! もう二度と氷織に近づくな!!」


 激昂した父の手によって、茶碗が割れる音が響いた。
 生まれて初めて父に怒られ、華怜は何を言われたのか全く理解ができなかった。

 氷織を城の離れに閉じこめ、質素な暮らしを強いていたのは父だ。彼も氷織を目障りな存在だと思っていたのだと認識していた。ならば民たちの不満を受けさせ殺してしまえば、氷織の存在も役に立つ。そう思っていたのに、

 華怜の腹の底に、静かな怒りがわき上がるのが分かった。
「申し訳ございません、お父様」と深々と謝罪を口にしたが、その目には歪んだ感情が浮かんでいた。

 後日、父が不在のときを狙って、華怜は作戦を決行した。

「雪代氷織は贅沢したいが故に、役人に色目を使って惑わし、重税を命じた人物である」と民たちに偽りの噂を流した。日頃の怒りをぶつける対象を捜していた民たちは、面白いほどにこの噂を信じ、氷織に暴言や石を投げ続けた。

 傷だらけになり歩く氷織の姿を、火の見櫓から眺めて華怜は笑う。


「さようなら、お姉さま」


 あの城下町を痛々しい格好で歩いている義姉の姿を思い出しながら、華怜は上機嫌で歩く。
 廊下の隅では、役人の男性と若い下女と密会している姿が見えたが、視線を外した。城では日常茶飯事の光景だった。

 しばらく歩くと突然、聞き馴染みがある話し声が聞こえた。華怜の父である定勝と、家老の忠明の声だった。思わず足を止め、襖の陰に身を隠す。


「定勝様、北の国境線での小競り合いが激化しております。このままでは戦に発展しかねません」
「そうか」


 不穏な影を滲ませながら忠明は報告するが、定勝の声には、まったく緊張感が感じられない。彼は面倒な様子を隠さずに答える。


「それがどうした?」
「定勝様、民は既に不満を募らせております。昨今の寒気のせいで農作物が実らず……」
「民だと?」


 定勝は冷笑した。蔑むような声色で話し始める。


「奴らなど、ただ税を納める道具にすぎん。不満などというのなら、さらに搾り取ればよい」
「しかし、これ以上民を苦しめれば、反乱が起きる可能性も」
「ならば、他国への侵略も視野に入れろ。民の不満を外に向けさせれば良い」
「衛士たちの士気も下がっており、侵略しても勝てる見込みが……」
「……はぁ」


 定勝はため息をつき、重い沈黙が漂った。そして突然、拳で机を叩く。
 怒りに任せた音に、華怜はびくりと体を振るわせた。


「くそう! こんな時に氷織の力があれば……!」


 急に出てきた「氷織」という名前に、華怜は息を呑んだ。定勝は低い声色で問う。


「……まだ見つからぬか」
「はい……。金も人脈もない娘が逃げ切れるとは思えません。雪山で事切れている可能性も……」
「くそ! 死んでしまえば力が使えぬではないか!」


 苛々と頭をかきむしる。「もう少し、もう少しだったのに……」と血走った目で、定勝は独り言のように呟く。


「氷織は私の最高の兵器となるはずだった。感情も意志も持たない、従順な道具としてな。他の者に怪しまれぬよう、賤しい身分の餓鬼まで見張りにつけたのに、華怜の勝手な行動のせいで……」


 驚きの事実に華怜は声をあげそうになり、慌てて手で口を塞いだ。
 定勝は何度目かのため息をついたあと、底冷えするような目で睨みながら命じた。


「必ず氷織を見つけ出せ。今度は二度と逃げられないよう、徹底的に管理してやる」
「しかし、それは人の道として……」
「人の道だと?」


 定勝は鼻で笑った。そして尊大な声色で言い放つ。


「私は神だ。神に人の道など通用せん」


 華怜はそれ以上聞くことができず、そっと立ち上がり、自室へと駆けだした。
 部屋に戻った華怜は、鏡の前に立った。そこに映る彼女の姿は、普段の優雅さを失っている。

「お姉さまに特別な力ですって……?!」


 彼女は再び歯を食いしばった。部屋の隅で震えていたみすぼらしい義姉の姿が蘇る。自分には持ち得ない能力を義姉が持っていること。屈辱で腸が煮えくり返るようだった。
 近くにあった簪を握りしめ、壁に思いきり叩きつけた。親指の爪をかじりながら、「信じない、信じないわ!」と叫びながら、部屋をぐるぐると歩き回る。


「見つかる前に排除しなければ……」


 華怜の目に、冷たい光が宿る。しかし、すぐにその表情は打算的な笑みへと変わった。


「大丈夫よ、私には奥の手があるもの」


 にやりと口角をあげて笑う。その笑みの奥には、底知れぬ闇が潜んでいた。
 窓の外では、雪が激しく降り始めている。遠くで烏の鳴き声が聞こえた。