私は震える足を雪の上に置いた。その瞬間、千の針が一斉に足の裏を刺し貫くような激痛が走る。冷たさのあまり皮膚が焼けるような錯覚さえ覚えた。


「消えやがれ!」
「てめぇのせいで雪がやまねえ!」


 民衆の怒号が私の周りに渦巻いていた。彼らの目には憎しみと恐れしか見えない。目を伏せて前へと歩き続けていると突然、頬に鋭い痛みが走った。誰かが投げた小石が顔に当たったのだと分かり、目から涙がこぼれ落ちる。傷の痛みのせいではなかった。この国の人々に、こんなにも憎まれているという現実が私の心を引き裂いていた。

 視線を上げると、華やかな着物を纏った人影──華怜(かれん)がいた。彼女は城下町の入り口にある火の見櫓(ひのみやぐら)から、冷酷な笑みを浮かべて見下ろしている。瑞穂国の国司である父親と正室の娘である華怜、一方、父親は同じでも身分の低い側室の母を持つ私。酷い差別の中、後ろ盾もなかった母は衰弱死した。


「アンタの母親も哀れよねェ! 男の気まぐれで身ごもって、お姉さまを産んで、みーんなから嫌われて死んじゃったんだから!」


 耳の奥にこびりついた華怜の暴言が蘇る。その言葉は毒蛇のように私の心に絡みつき、締め付けていった。



「私の子は食うもんもなくて死んだ! それなのにお前は贅沢なもんを食いやがって……!」


 母親らしき女性が顔を歪ませ、悲痛な声で訴えている。
 今朝私が食べた食事は、小さな木の椀に盛られた少量の粗末な米だった。粗く挽かれた雑穀米には、黒い粒が混じっている。その上には菜っ葉が二、三枚のせられているだけの食事だった。

 否定する気力もなく、ただ母親の叫びを受け続ける。
 私を貶めるため、民に偽りの噂を流したのは間違いなく華怜だ。しかしそれを証明する術も抗う力も、今の私にはなかった。


「さっさと行け!」


 衛士から背中を押され、突き動かされる。彼らの冷たい視線に、私はただ従うしかなかった。こめかみに石がぶつけられ、血が頬を伝ったが、ひたすら足を前に出し続けた。

 やがて私たちは城下町の外れにたどり着いた。そこで衛士たちは私の体を乱暴に突き飛ばす。雪の中に倒れ込み、冷たさと痛みが全身を包み込んだ。


「二度と戻ってくるな」


 その言葉と共に彼らは去っていった。足音が雪を踏む音と共に遠ざかっていく。私は冷たい雪の上に横たわったまま、空をぼんやりと見上げた。

 空には灰色の雲が垂れ込めていた。まるでこの国全体が私を拒絶しているかのようだ。雪片が顔に落ちては溶け、頬を伝っていく。
 寒さと疲労と痛みが、徐々に私の意識を奪っていく。

(惨めな、人生だった)

 産まれたときから愛されず、ひたすら人の憎悪や差別を受け続ける日々。「なぜ」と問うこともあったが、今ではもう考えることもやめてしまっていた。

 ぼんやりと視界が暗くなっていく。

 そして命の灯火が消える直前、ある音を捉えた。
 りーん、りーん……と寂しげに鳴る音。鈴の音はだんだんと大きくなり、やがて止まった。


「おや」


 私の傍に立ちながら、男は興味深そうに声をあげた。顔をわずかに動かせば、鳥の子色の髪と、朱色の瞳を持つ男がいた。そして彼の背中には、見事な漆黒の翼が生えていた。


「お前さん、もうすぐ死ぬな」


 男はしゃがみ、愉快そうに言った。焦点が合わなくなっている。男は「もう事切れたか」と呟き、立ち上がろうとした。
 私は思わず心に浮かんだ単語を口にする。


「か、み、さま」


 その言葉に男は見開き、楽しそうに笑った。満足そうに頷きながら「気が変わった。助けてやろう」と私の体を軽々と担ぎ上げた。

 暫し歩くと、容赦なく降り続いていた雪の冷たさがぴたりと止まった。私は地面に寝かせられ、うっすらと瞼を開けば岩肌が見えた。どこかの洞窟に運ばれたようだ。
 男は私の腹に手を置き「これは……」と少しの焦りを滲ませながら男は呟いた。すうっと息を吸い込み、真剣な表情で言葉を放つ。意識が朦朧としているため上手く認識できなかったが、最後の言葉ははっきりと聞こえてきた。


「払え給ひ 清め給へ」


すると男の手から温かな光が漏れはじめ、腹あたりに熱が帯びる。熱が体の中に巡っていく。徐々に冷え切った体に熱が戻っていくのを感じながら、「だ、れ」と私は声を発さずに唇でなぞった。


「見た目によらずしぶといな君」


 男は額に汗を滲ませながら少しだけ笑った。先ほどよりはっきりした意識の中で、男の顔を観察する。
 年は二十代後半だろうか。幼さが残る端正な顔立ち。目元には紅が引かれ、きれいに並んだ歯を覗かせて笑っている。幻覚だと思っていたが、男の背中には黒い翼が広がっていた。
 男は腹から手を離し、近くに置いた鞄を漁りはじめた。「あったあった」と取り出した竹皮を開く。横目で見れば、にぎり飯が三個並んでいた。


「とりあえず、食え」


 私は長い時間をかけて、ゆっくりと体を起こして正座になる。竹皮に包まれたにぎり飯を見つめていると、くうぅと小さく腹が鳴った。私はにぎり飯を一つ持ち、一瞬だけ躊躇ったが、口に運んだ。咀嚼を繰り返し、喉を通過したと同時に、二つ目のにぎり飯に掴みかかるように手に取った。躊躇いはどこかへ吹き飛び、たまらずに目の前の食料に食らいついていた。


「いい食べっぷりだな」


 三個あったにぎり飯は、あっという間に私の腹におさまってしまった。私の様子をじっと見ていた男は愉快そうに言う。
 そして私と少し距離をとり、片膝立ちになったあと、祝詞のような言葉を呟きはじめた。彼の髪がふわりと浮かび上がる。


狭久那多利(さくなだり)に湧き出で給ふ湯を

甘き癒しの御力と 此の地に受けて

六根を清め 癒し給へ」


 男は両手で印を結ぶと、地面に幾何学的な文様が浮かび上がり、湯気が昇っていく。はじめは僅かだった湯気が、彼の姿を包み隠すほどに濃くなった。湯気が晴れると、木製の巨大な容器が置かれていた。火は焚いていないのに、なぜか容器からは湯気が出ている。その湯気は洞窟内に漂い、今まで嗅いだことのない香りを放っていた。


「温泉さ!」


 男は胸を張って言う。しかし私が何の反応もせず、言葉も発しなかったので洞窟内に沈黙が訪れた。ぽこぽこと湯が湧く音だけが響く。男は気を取り直すようにこほんと咳払いをし、私に命じた。


「服は着たままでいい。入れ」
「……」
「入らなければ、お前さん、死ぬぞ」


 私の腹を人差し指で示しながら説明する。


「精神……人は『心』とも呼ぶな。お前さんは、その大半が凍りついている」
「……」
「その部分が完全に凍り付けば、何をしても楽しめず、悲しめず、ただ肉体の死を待ち続ける物質へと成り果てる」


 言葉の意味を捉えると、男はおそらく警告しているのだと悟った。しかし私の心には何も浮かばなかった。一歩も動かない私に痺れを切らしたのだろう。「裏に階段がある。そこから入れ」と髪を掻きながら命じられた。こくりと頷き、温泉の裏手に回ると古びた簡易的な階段が設置してあった。

 階段を一歩ずつ登って温泉の中を覗き込めば、湯気が私の顔を包んだ。「溺れることはない」と男は温泉に何かの石や草を入れ、湯を混ぜながら言う。

 まず湯船の縁に座り、足だけ湯に入れた。そこからゆっくりと身を沈めていく。底に足はつかず、着物も水分を吸っているが、男の言うとおり体が沈むことはなかった。まるで空気の入った手鞠のように、自分の体が浮き続けている。不思議な浮遊感に身を委ねた。


「湯加減はどうだ?」
「……あったかい」
「熱い温泉の方が好みなんだがなァ。今のお前さんは時間をかけて解すのが大事だからな」


 私は両手で湯をすくった。淡い青緑色をしている。小さな気泡が弾けるようなさわやかな刺激があり、木々の香りがする不思議な温泉だ。
 蒼玄は温泉の湯を軽くかき混ぜながら説明する。


「この温泉の主要素材は月光草を使っている。副素材は白樺の樹皮、炎帝晶、風霊草だ。心を落ち着かせる温泉にした」


 聞いたこともない素材の数々に、私はまばたきを繰り返す。彼は垂れ目の瞳をふっと細めて、名乗った。


「俺は蒼玄(そうげん)。この温泉の湯守り人さ」


 聞き慣れない単語に首を傾げれば、蒼玄はぴょんと温泉から降り立った。


「自己紹介は後にしよう。ゆっくり浸かってくれ」


 私は頷く。
 雪の上を裸足で歩かされたときにできた霜焼けが、はじめはピリピリと痛みを訴えていたものの、すぐに和らいでいく。石を投げつけられてできた傷も、痛みが薄れていった。こめかみに手を当てたが驚くことにもう傷は塞がっていた。

 木の香りが鼻腔をくすぐり、ゆったりと目をつぶる。
 まるで重力から解放されたように、体が湯の中でふわりと浮いているような感覚。ポコポコと源泉が湧き出る音がする。森の中にいるような清々しい香りが、呼吸をするたびに肺の奥まで染み渡っていった。
 心の中に重くのし掛かっていた感情が少しずつ軽くなっていき、私は思わず吐息を漏らした。


 *


 階段を使いながらゆっくりと地面に降り立つ。
 着物から水が滴り、地面にはあっという間に水たまりができてしまった。蒼玄が羽根飾りがついた巨大な団扇を、私に向かって一度大きく振る。
 すると体中の水分が飛び去り、着物が一瞬で乾いた。蒼玄は唇に弧を描きながら「便利だろう?」と子どものような無邪気さを覗かせた。

 洞窟の中では火が焚かれており、蒼玄は火の近くに座った。たき火の揺らめきが洞窟の壁に動く影をつくり出している。私も倣うようにして彼の隣に座る。
 外を見れば、既に日は暮れており闇が広がっていた。吹雪の勢いはおさまり、月明かりが雪面を照らしている。


「とりあえず自己紹介だな」


 そう言って蒼玄は湯飲みを私に差し出した。湯飲みを受け取り一気に水を飲み干す。水分を欲していた体に染み渡っていく。喉の渇きが癒やされていく感覚に、私は思わず目を閉じた。
 私が飲み干したのを見て、「もう一杯いるかい?」と問われたが首を横に振る。蒼玄は「そうか」と相づちを打ち、口を開いた。


「先ほども名乗ったが、俺は蒼玄。天狗と人間の血が半分ずつ流れている」
「天狗……」
「初めて見るかい?」


 こくりと頷く。
 五百年ほど前、この世界では「あやかし」と呼ばれる生き物と共生していたらしい。しかし技術の進歩と繁栄を求める人間と、伝統の保守を求める妖怪で対立した。おびただしい数の戦を繰り返し、人間との共存を選んだ数少ない種族を残し、ほとんどのあやかしが滅ぼされたと聞いている。


「天狗は長命種が故、子孫を残そうとする意識が低い。俺もここ二百年ほど見たことがない」
「あなたは、一体……」
「次はお前さんの番だぜ。名前は?」
「……氷織(ひおり)
「氷織か」


 蒼玄は頷き「他に聞きたいことは?」と尋ねた。私は先ほどまで入っていた温泉に視線を移し、疑問を口にする。


「湯守り人って……?」
「その名の通り、湯を守る人のことだ。俺は前任者から温泉を引き継ぎ、二十年ほど守っている」
「湯を、守る」
「そして守るだけではなく、俺は温泉を進化させている」
「進化……?」
「そう。『極上の温泉を作ること』、それが俺の旅の目的さ」


 言っている意味が分からず覗うような視線を送れば、蒼玄は鞄から石やら草やらを取り出した。薄暗い洞窟の中でも不思議な輝きを放っている。


「たとえば先ほど主素材で使った月影草。これには人の気持ちを安定させる効果がある」


 わずかに発光した草を見ながら説明する。次に隣に置いてあった溶岩のような石を指し示した。石からはわずかに熱が放たれている。


「次にこの石は、炎帝晶。火が焚かれていないのに湯が熱くて驚かなかったか? この石の量で湯加減を調整していたんだ」


「最後に……」と言葉を続けて、木の皮とギザギザとした縁が特徴の細長い草を手に取った。

「白樺の樹皮。これはまァ、香り付けだな。こっちは風霊草。お前さんが溺れなかったのはこの草のおかげだ。こういった素材を集め、極上の温泉をつくりたいんだ」


 一息に説明して、蒼玄は「さて」と言葉を置き、私の瞳を射貫いた。その朱色の瞳には、様々な感情が滲んでいる。


「なぜお前さんはあそこで倒れてたんだ?」


 ふるりと背中が震えた。
 城下町を裸足で歩かされ、民たちから暴言を吐かれた記憶が襲ってきて震えが止まらなくなる。人々の憎悪の声が頭の中に響き、津波のように飲み込んでいくようだ。歯の根が合わずカタカタと震わせていると、蒼玄は不可解な目線を向けてきた。

 沈黙を破ったのは、一匹の烏の鳴き声だった。「カァー」という鳴き声が、洞窟内にこだまする。


「なんだ?」


 蒼玄が警戒したように烏を見つめる。見覚えのある烏の姿を見て、私は洞窟の入り口に視線を移した。真っ暗な闇の中から、背の高い黒髪の男がぬっと現れる。




「姫様!」


 叫ぶように呼び、彼は私の傍まで駆け寄ってくる。
「岳」と彼の名前を呼べば、彼は安堵に満ちた声で言った。


「よかった……! ご無事で……!」
「姫さま、ねぇ」


 蒼玄の色々と含みがある呟きに、隠しきれないと察する。蒼玄の瞳の中で踊るたき火の揺らめきを見ながら、私は胸に手を当て名乗った。


「私は雪代氷織。ここ瑞穂国を治める国司の、娘です」


 私が名乗ると、岳が目を大きく見開いた。震える声で言う。


「ひ、姫様、言葉が……」


 岳の言葉が理解できないのだろう、蒼玄がきょとんとした表情を浮かべた。

 一年ほど前だった。
 ある日の朝、私は言葉をほとんど発せなくなってしまったのだ。いくら話そうとしても言葉が喉元で凍ってしまう。
 症状を訴えたところであの父が医者を手配してくれるとは思えなかったし、岳以外と話す相手もいなかったので、言葉を発することなく過ごしていたのだ。

 しかし今、話せなかったことが嘘かと思うくらい、するすると零れ出てきていた。「もしかして……」と思いながら温泉を一瞥する。


「よかった……!」


岳はほっと顔をほころばせたが、すぐに険しいものに変わった。蒼玄の方を見ながら警戒心に満ちた声で尋ねてくる。


「姫様、この男は一体?」
「彼は、蒼玄。私を助けてくれたの」


 私がそう説明すると、岳は立ったまま蒼玄を見下した。まだ完全に信用していない様子が窺えた。


「姫様を救ってくださり、ありがとうございます」


 感謝の念を伝えてはいるが、目線は鋭いままだ。
 しかしその視線を全く気にする様子もなく、蒼玄はひらひらと片手を振った。


「礼には及ばんさ。ここまで運んで、飯をあげて、湯浴みしただけだからねぇ」
「なっ……湯浴み?!」
「何を想像したんだ。服は着たままだぞ。そこの姫さまにも聞けばいい」


 岳はまるで威嚇するような犬のような視線で睨み続けた。蒼玄はけらけらと笑っている。

 言い争うのも無駄だと判断したのだろう。岳は大きくため息をつき、私の前に跪いた。


「姫様、帰りましょう」


 彼の提案に体が強ばるのを感じる。ふるふると首を振れば、困惑した目線を向けられる。
 沈黙をやぶったのは蒼玄の声だった。


「やめた方がいい」
「部外者は黙っていてくれ」
「君の大切な姫さまが、このまま死ぬと言ってもか?」


 蒼玄の言葉に、大きく見開く岳。「心が凍りついていること」「完全に凍り付けば、肉体の死をただ待ち続ける物質へと成り果てること」私にした同じ説明を繰り返す。岳の眉根に深い皺が刻まれた。


「にわかには信じられませんが……」
「しかも彼女には帰れない理由があるんじゃないのかい?」


 蒼玄は私に目線を移した。その目には、何か察したような光が宿っていた。
 私は深く息を吐き、事の顛末を話し始めた。

 ここは「神代ノ国(かみしろのくに)
 海に囲まれた列島で、六十六の小国から構成されている。

 私が住む瑞穂国は、列島の中央部に位置している。肥沃な平野と清らかな川、豊かな山々に恵まれており、稲が豊かに実る美しい国である。

 しかし数年前から少しずつ冬が長くなり、稲の不作が続いた。他の国と比べれば豊かな方ではあるが、じわじわと民の不満が募っていると下女たちの噂話で聞いていた。

 私が生まれた年は、「雪が止まない」と民たちが初めて嘆いた年であった。そのため私は「氷雪姫」と陰で囁かれ、側室の子ということもあり、幼い頃から蔑まれていた。味方は、私の見張り役として任命された武家出身の岳だけだった。

 食事も十分に与えられず、離れで下女のように働き、差別に満ちた視線を浴びせ続けられる毎日。死んだように生き続け、十七年の時が経った。

──ひどく寒い日だった。

 火をおこすことさえ許されていない私は、部屋の隅で両手を擦り続け、ひたすらに暖をとろうとしていた。
 真っ白に染まった指先に息を吹きかけた瞬間、襖が勢いよく開かれた。そこには漆黒の髪の毛と、薄茶色の瞳を持つ女性──華怜がいた。血の気がひいていく。


「お姉さま、遊びに来ましたわ」


 にっこりと美しく微笑む華怜。私は絶望の中、ただ彼女を見つめることしか出来ない。


「あぁその顔、最高に素敵ですわ!」


 うっとりと華怜は言い、思いきり私の髪の毛を引っ張った。頭皮に鋭い痛みが走る。床に転がされた私は、絶え間なく襲いかかる痛みに目を瞑ってひたすらに耐えた。

 瑞穂国の正室の娘として生まれた華怜は、周囲の寵愛を一身に受けた。美しく聡明な子どもとして注目を集め、「国の宝」のように育てられた。
 忘れもしない、華怜が五歳の時だった。下女たちの目が届かない部屋で二人きりになり、私をひたすら痛めつけた。その快感に満ちた顔や、「壊れないおもちゃが欲しかったの!」とまるで流行りの簪を語るような口調。その全てが私を恐怖の渦へと叩き落とした。

 城では理想的な姫として振る舞う一方で、痛みに耐える私の姿を楽しむ歪んだ姫。

 朝から岳が不在で、嫌な予感はしていた。おそらく華怜が理由をつけ、一時的に遠くへ派遣したのだと容易に想像がついた。

 何度も殴られ、意識が朦朧としはじめた頃、華怜のとても楽しそうな声が聞こえてきた。


「今日はとっておきの催しがあるの!」


 華怜が手を叩くと、衛士が入室してきて、私の手首に縄を巻いた。足は震え、心臓は激しく鼓動を打っている。何が起こるのか分からない恐怖が、全身を包み込んでいた。

「来い!」と乱暴に縄を引かれ、家畜のように連れて行かれたのは、城下町の通りだった。低く垂れ込める灰色の空の下には、大勢の民たちが集まっている。刃物のように冷たい視線が一斉に私に向けられた。


「歩け!」


 衛士の怒鳴り声が響き、訳もわからず足を前に出す。足裏から伝わる雪の冷たさが、鋭く痛い。生理的な涙があふれてくる。
 私が歩き出すと、民衆から怒りや憎しみの怒号が飛び交い、石を投げられた。「違う、違う……」と否定したいのに、言葉が喉辺りで凍り付いてしまう。

 そして私はまるで家畜の死体を捨てるかのように、城下町の外れに捨てられた。命の灯火が消えそうになったとき、耳に届いたのは──さびしげな鈴の音だった。


「……これが、逃げてきた理由です」


 話し終えると、洞窟内に重い沈黙が降りた。パチパチと火が弾ける音だけが響く。沈黙をやぶったのは、蒼玄の呟きだった。


「惨いな、人間は」


 私は口だけの笑みを浮かべる。岳が膝の上で拳を握り、悔しそうに叫んだ。


「おかしいと思ったんだ! 突然、遠方の村で調査を行えだなんて……!」


 やはりそうだったのかと、私は納得した。岳は私の前に跪き、頭を深く垂れる。


「私が傍にいれば……そんな酷い目に遭わずに済んだのに……!」


 命令は絶対だ。岳は悪くないと首を横に振ったが、彼の悲壮にあふれる雰囲気は変わらない。
 城で差別の目を受けていても、民たちから侮蔑の言葉を浴びせられても、私への忠誠を誓ってくれる彼の存在が救いだった。
 私は覚悟を決めて名を呼ぶ。


「岳」


 彼は頭をあげた。私は深く息を吐き、岳の瞳をまっすぐに見据える。


「雪が止んだら、城へ戻って」
「姫様を置いて帰るなど……!」
「お願い、岳。私の命はもう、長くない」
「こんな怪しい奴の戯れ言を信じるのですか?!」
「失礼だな、きみ」


 蒼玄はぼそりと言う。

 岳の目を見て、城の離れで暮らしていたときの変化を思い出す。
 目覚めたときに感じていた清々しさも、私に懐いていた鳥が死んでしまったときの悲しみも、岳との挨拶で生まれていたはずの微かな希望も、いつしか何も感じなくなってしまった。
 華怜に殴られても前ほどの怒りが湧かない。食事を食べても味が分からない。鏡に映る自分の目が、日に日に虚ろになっていく。

 そして一年前、声が出なくなったときに気づいた。

──自分は死に近づいている。

 人間としての死ではない。そのへんに転がっている石のように、平坦で無機質な死。私はその死を、ただ待ち続けることしかできないのだと。

 私は頷き、胸を押さえながらうつむいた。


「分かるの。何となくだけれど。もう長くないことが」
「……おい、蒼玄と言ったな。姫様が助かる道はないのか?!」
「あるさ」


 蒼玄の言葉に、「へ」と岳は間抜けな声を出す。蒼玄は口角をあげ、温泉を指さした。何を言いたいんだと困惑する岳に平然と言った。


「温泉さ」
「……ふざけているのか?」
「ふざけてなんかいないさ」


 月光草をいじりながら蒼玄は説明する。


「俺が調合する温泉には病や怪我を治す力がある」
「そんな温泉如きで……」
「馬鹿にするなよ」


 朱色の瞳の鋭さが増し、張り詰めた空気が洞窟内に満ちた。岳は口をつぐむ。


「二十年以上、温泉を守り続ける中で様々な病や怪我を治してきた。そこにいる姫さまのように心が凍った人を治したこともある。数は少ないけどな」
「……」
「それでもお前は馬鹿にするのか?」


 低い声で問われ、岳は唇を噛みしめた。そして頭を垂れ「申し訳、ございません」と謝罪の言葉を口にする。「うん」と蒼玄は満足そうに頷いた。


「素直な奴は、嫌いじゃないさ」


 素材をいじりながら、言葉を続ける。


「二百年以上生きてきても見たことがない素材はごまんとある。俺が探している極上の温泉が調合できれば、姫さまの心も治るかもしれない」
「……心が凍った人間を治したことがあるのだろう? 今すぐその温泉をつくれば……」
「それは無理だ」


 蒼玄は首を振る。そして私の顔を哀れむようにして見た。


「姫さまの心は、大半が凍り付こうとしている。今まで診てきたような一部だけが凍っている人間なら何とかなったかもしれない。だが、彼女を治すには素材が足りない」
「どうすれば……」
「探すんだよ」


「当たり前だろう?」と言わんばかりに、蒼玄は楽しそうに笑った。


「ちょうど次に見つけようと思っていた素材が、『人の心』に効く素材だ。完治は無理でも、進行を遅らせたり、一部分を治すことはできるかもしれない」
「その素材を見つければ……」
「岳」


 私は鋭く名を呼んで、首を振った。彼を危険に巻き込むわけにはいかない。


「あなたはまだ、戻れる」
「そんなことは出来ません」


 岳は正義感に満ちた目で私を射貫いた。


「貴方が死ぬときは、私も死ぬときです」


 蒼玄が口笛とともに「お熱いねぇ」とからかったので、岳がきっと睨む。
 そして再び私の方を見て、やわらかく笑った。


「次は何としてでも、貴方を必ずお守りします。情報収集だって……」


 そこで言葉を切って、入り口辺りにいた烏に目線を送った。カアァと鳴きながら、岳の肩に飛び乗る。


烏助(うすけ)が役に立つでしょう」


 烏助とは岳が飼っている烏だ。
 罠に捕まっていた烏助を助けたことをきっかけに、岳に懐き、いつも行動を共にしていた。とても賢い鳥で、人間の言葉を理解し、簡単な文字もくちばしで書くことができる。
 おそらく私の場所も烏助の力を借りて分かったのだろう。

 岳のまっすぐな視線に、私はうつむいた。


「……分かったわ」
「姫様……!」
「でも城の者が現れたら、すぐに逃げて」
「……」
「約束して、岳」
「……はい」
「話は終わったかい?」


 ふわぁと欠伸をする蒼玄。のんきな姿に岳はじとりと見たあと、蒼玄の背から広がる黒い翼に目線を移した。


「蒼玄と言ったな。その翼、もしや天狗の類いか?」
「そうだ。人間と天狗の血が半分ずつ流れている」
「なぜ天狗のお前が、温泉を……?」
「今日はもう遅い。明日、道中で説明してやろう」
「……」


 岳はしぶしぶ頷いた。そして鞄の中から男性用の着物を取り出し、「寝具はこちらをお使いください」と手渡してくれる。礼を言い、着物にくるまるようにして床に寝そべる。洞窟内に冷気も漂っていたが、たき火のおかげで暖かい。
 火の揺らめきを見ているうちに、あっという間に夢の世界へ旅立ってしまった。




 次の日は珍しく快晴だった。
 蒼玄を先頭にして、私が真ん中に、後ろから岳が歩いている。私は前を歩く蒼玄の背中を見つめた。昨日まで背中に広がっていた翼は跡形もなかった。傍目から見ればただの人間にしか見えないだろう。彼曰く「晴れた日は目立つからしまっている」らしい。
 私は蒼玄から借りた菅笠を深く被り直した。

 歩いて半刻ほど経った頃、岳は後ろから声をかけた。


「蒼玄、昨日の話だが」
「ん? あぁ、そうだった。俺が湯守り人になった理由だったな」


 首だけで後ろを振り向きながら、蒼玄は笑う。「どこから話すかなぁ……」と遠くに連なる山々を眺め、彼は語り出した。


「三十年ほど前のことだ。放浪の旅の途中、古い温泉地の廃れた旅館に立ち寄ると源泉が湧いていた。その源泉に近づいたときに現れたのが、老湯守のジジイだった」
「老湯守?」
「あぁ、瑞穂国の端にある温泉の湯守り人で、国中の源泉や素材を探し回っては、より良い温泉をつくろうと旅していた。頑固で口うるさいジジイだった」
「それから一緒に旅を?」 
「暇だったしな。難儀なジジイだったが、他の人間と違って俺を差別することもなかった。口争いは何度もしたけどな」


 重い沈黙が一瞬だけ包んだ。あやかしに対する偏見や差別は、根強いものになっている。
 蒼玄は空気を変えるかのように、おどけた口調で言葉を続ける。


「口を開けばまず温泉。次に先立たれた婆さんの惚気話。散々聞かされたなァ。
 死ぬ間際まで強情で、俺への感謝なんか全く語らず、『温泉を守ってくれ』なんて言い出すんだ。困ったもんさ」


「最後にとんでもない置き土産をしたよ、あのクソジジイは」と肩をすくめて言うが、口調には老湯守に対する愛情が滲んでいた。岳は尋ねる。


「お前が求めている『極上の温泉』とは、どんなものなんだ?」
「知らん」
「へ」
「ジジイ曰く『触れれば分かる』らしい。その温泉はどんな病も怪我も治してしまうとは聞いているが、それ以上の情報はない」
「酔っ払いの戯れ言にしか聞こえんな……」


 岳は呆れかえったように言う。
 そして諦めたように一度ため息をつき、岳はさらに疑問を口にした。


「もしその、『極上の温泉』とやらが出来たら、お前はどうするんだ?」


 その質問に、蒼玄は立ち止まり振り向いた。
 彼の目が、少しだけ細められる。その表情を見て、背中に震えが走った。まるで能面のような笑みの奥底には、決して踏み込ませない孤独を宿していたからだ。


「さぁ、どうしようかねぇ」


 それ以上私たちは聞くことができず、押し黙った。蒼玄は再び歩き出す。

 私たちは無言で次の目的地まで歩き続けた。空は限りなく青く、どこまでも広がっている。わずかに浮かぶ白い雲は穏やかに流れていった。足下にはみずみずしい緑の草が広がり、朝露が光を受けて輝いていた。

 食事を満足にとれていなかった私は体力も筋力もなく、すぐに息があがった。岳は水筒を差し出したり、足場が悪いところでは手を差し伸べたりと、細かな気遣いを見せてくれた。こまめな休憩で体力を回復させながら、なんとか一歩ずつ目的地へと足を運んでいく。

 昼過ぎに到着する予定だったが、目的地に着く頃には既に日が傾こうとしていた。


「見えたぞ」


 夕暮れ時、丘の上から見下ろすと、そこには別世界が広がっているようだった。谷間に佇む小さな町は、薄い霧に包まれ、幻想的な雰囲気を醸し出している。家々の屋根は青みがかった瓦で覆われ、夕日に照らされてほのかに輝いていた。


「螢泉郷だ」
「町へ行くのか?」


 岳は私の姿をちらりと見ながら、不安げに呟く。
 蒼玄は「当然だろう?」と笑みを浮かべながら答えた。


「人を隠すなら人の中さ」


 丘を下り、町へ辿り着く頃には、あたりはすっかり暗くなってしまった。
 蒼玄曰く、このあたりでは有名な温泉街らしい。旅館や家屋が立ち並び、軒先に吊された提灯が温かな光を放っている。
 最も目を引くのは、町のあちこちから立ち上る湯気だった。白い蒸気の柱が空へと昇り、淡い靄のように町全体を包み込んでいる。

 夜だと言うのに町の中は明るく、そして賑やかだ。通り過ぎる人々もどこか浮き足立っているように見える。


「祭りがあるんだ」
「祭り?」
「あぁ、この町の近くには特殊な蛍が二種類いてな。それぞれ異なる周期で羽化するんだ。そして今週末、その蛍の周期が重なり合う」
「祭りを開くほど珍しいことなのか?」
「確か二百年ぶりだと聞いたな」
「二百年……」


 私が呟けば、蒼玄は頷く。


「そして周期が重なった時にしか咲かない花『蛍火の花』。それが目的の素材だ」


 そう説明し、蒼玄は町の奥を指さした。
 示した先には周りの建物よりも一際大きく、威厳ある建物があった。深緑の瓦屋根は月光を浴びてほのかに輝いている。薄い霧がかっている中で佇み、幻想的な雰囲気が包んでいた。


「とりあえず長に挨拶へ行こう」


 半天狗の蒼玄、訳ありそうな私と岳。行っても怪しまれるだけではないかと思ったが、予想を裏切られた。螢泉郷の長は蒼玄の顔を見た瞬間、顔をほころばせた。「よく来てくれた!」と豪快に膝を叩く。


「祭りを見に来たのか?」
「それもあるのですが、『蛍火の花』を少しいただきたく参りました」
「あぁもちろんだ! 泉への許可も出しておく」
「ありがとうございます」


 蒼玄はにっこりと微笑んだ。
 長は泉の許可証だけではなく、宿まで手配してくれた。至れり尽くせりだ。
 用意してもらった宿の部屋の中で、岳はおそるおそる尋ねる。


「長は何であんなに友好的なんだ?」
「あぁ。彼は長年、腰痛に苦しんでいたんだが、俺の温泉で治してやったんだ」


 納得したように岳は頷く。「『体が羽のようじゃー!』と飛び跳ねてまた腰を痛めたけどな」と蒼玄が付け加え、部屋をぐるりと見渡した。


「祭りの時期だし、野宿を覚悟していたんだが、宿に泊まれてよかった」


 蒼玄は布団の上でごろんと転がる。そして頬杖をつきながら、私に提案した。


「せっかくの祭りだ。見てみるかい?」
「ひめ……氷織様が見つかる可能性がある」


 岳は咳払いをし、名前を言い直した。この町へ入る直前、「姫様」と呼ばないようお願いをしていたのだ。「お名前を呼ぶなんて……!」と最初は頭を抱えていたものの、身分を知られると命の危険があると説得すれば、最後には納得してくれた。

 蒼玄はひらひらと手を振る。


「みんな祭りで浮かれているし、民は姫さまの顔など見たことがないのだろう?」
「だが……」
「そんなんじゃ息が詰まってしまうぞ」


 蒼玄は起き上がり、宿に備えられた棚を漁った。そして「あったあった」と取り出したのは、淡い水色の浴衣と紺色の浴衣だった。「ほら、これを着てさ」と目を細める。
 私と岳は見つめ合い、彼は諦めたようにため息をついた。



 *


 からんころん、蒼玄の下駄が石畳を踏み、軽やかに鳴る。
 町には色とりどりの浴衣を着た人たちが歩いており、思い思いに喋っては賑わっていた。道端に立ち並んだ店の外には商品が並んでいる。店主たちが「見ていってよ!」と声を張り上げていた。


「お嬢ちゃん! ここでしか食べれない『蛍まんじゅう』だ! どうだい?」


 人の良さそうな女性の店主に声をかけられ、私は足を止めた。
 彼女がせいろの蓋をあけると、立ち上る湯気とともに、甘い香りが漂う。

 中には、まんじゅうが整然と並んでいた。丸みを帯びた形で、表面は湯気で潤んでいる。薄い緑色をした生地に、小豆が一粒埋め込まれている。どうやら草に留まるホタルを表現しているらしい。


「それ、三つ」


 私が何か言う前に、蒼玄は銅貨を渡して蛍まんじゅうを受け取った。「まいど!」と白い歯をのぞかせて笑った店主が、まんじゅうを手渡してくれる。
 蒸し上がったばかりのまんじゅうは、ふんわりと膨らみ、ほのかに温かい。おずおずと口に運べば、抹茶の風味とあんこの甘みが口いっぱいに広がった。


「うまいか?」
「……はい」
「そりゃよかった」


 蒼玄はにっこりと笑う。
 岳は「俺はいらん」と断ったが、蒼玄に押しつけられ渋々受け取った。そしてまんじゅうを一口含み、「うまいな」とぼそりと呟く。
 三人でまんじゅうを頬張りながら、町を歩いて行く。

 まんじゅうを食べ終えた頃、蒼玄がふと立ち止まった。「糸屋の松」という看板を掲げた小さな店だった。軒先には色とりどりの布が吊るされ、風に揺れている。

 彼が店内に足を踏み入れたので、後ろをついていく。店内に入ると、布の香りと木の温もりが私を包み込んだ。狭い店内には、所狭しと布や古着の着物が並べられている。


「お前さんの持っている着物だと動きづらいだろう」


 螢泉郷へ来るまで着ていた着物の状態を思い出す。

 城の離れで暮らしていた頃は、数着の粗末な着物しか渡されていなかった。繕いながら着用していた着物は、ところどころ擦り切れており、小さな破れが目立ちはじめていた。
 さらに足場が悪かったり、少し高い場所へ移動するときも着物がはだけてしまうため、岳に抱えてもらう必要があった。
 城の離れで仕事をするだけならまだしも、旅をするには実用的ではなかったため、同意するように頷く。


「袴を買うか」
「袴、ですか?」
「あぁ。男が履いている印象が強いだろうが、武道をたしなむ女性も履くこともある。これから行く場所は険しい道も多いし、買い直した方がいい」
「袴を探しているのかい?」


 優しげな声に振り返ると、年配の女性が微笑んでこちらを見ていた。「あぁ」と蒼玄が頷けば、奥から何枚かの袴を持ってきてくれた。


「これらは丈夫で歩きやすいよ。旅には最適さ」


 私は袴に手を伸ばした。触れてみると、想像以上に柔らかく、しっかりとした生地だった。
 その後、店主の勧めにより試着をし、小さな鏡の前に立つ。着慣れないため少し落ち着かないが、動きやすそうである。


「蒼玄、お前金はあるのか?」
「ん? さっきまんじゅうを奢ってやっただろう? 礼を返すときだぞ」
「まんじゅうと袴では釣り合わないだろう!」


 店の入り口あたりで二人が言い争っている声が聞こえてくる。店主は「あははは」と声をあげて笑っている一方で、お金も何も持っていない自分が情けなくて私はうつむくことしかできなかった。
 口論の末、岳が買ってくれることになったらしい。
 店主は袴と着物を風呂敷に丁寧に包んでくれた。私は荷物を抱きしめながら店を出る。


「岳、ごめんなさい。お金……」
「いいんですよ」
「……俺とは大分態度が違うな」


 蒼玄の皮肉めいた口調に、岳はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 店を出ようとしたとき、視界の端にきらりと光るものが見えて立ち止まる。そこには色彩豊かな織物が並んでいた。角度を変えると、布が光っているように見える。


「螢泉郷の伝統工芸である蛍織さ」


 私の視線に気づいた店主が説明してくれる。


「淡い光沢を持つ特殊な糸で織るんだ。蛍みたいだろう?」
「えぇ」


 私が答えれば、彼女は顔をほころばせた。
 祭りの様子を一通り見て回り、私たちは宿に向かって歩いて行く。蒼玄に「どうだった?」と問われ、少しだけ思い悩む。


「この郷の人たちは、蛍をとても愛しているのですね」
「そりゃそうさ、彼らの暮らしと蛍は密接に結びついている」


 蒼玄はそう言って町並みを眺めた。
 甚平を着た子どもたちが追いかけっこをし、老夫婦が話しながら蛍まんじゅうを頬張っている。祭りの熱はまだまだ冷めなさそうだ。
 彼らの様子を満足そうに眺めたあと、私を見おろし言った。


「宿に帰るか」
「はい」


 宿の温泉に入り、旅の疲れもあって、その日はすぐに眠ってしまった。

 次の日の夜、「長の使い」を名乗る人の良さそうな青年が宿へやってきた。「蛍火の花」が咲く泉まで案内してくれるらしい。


 泉は長がいる屋敷を超えた先、鬱蒼とした森の中に隠されていた。その存在を知る者は限られ、足を踏み入れることを許される者はさらに少ないそうだ。
 古びた鳥居をくぐり、苔むした小道を抜けると、視界が一気に開けた。巨石に囲まれた聖域は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれている。風すらも遠慮がちに吹き、木々のざわめきさえも聞こえない。

 中央に佇む泉は、まるで巨大な鏡のようだった。水面は綺麗に磨きあげられた銀盤のようで、周囲の景色を鮮やかに映し出されている。水面近くから岸辺一体にかけて、小さな花々が群生していた。

 蒼玄はしゃがみこみ、花にそっと触れた。翡翠色の花弁が重なり合い、空に向かって徐々に開いている。


「これが蛍火の花だ」


 そう言って、泉へ視線を向ける。私と岳も倣うようにして、じっと息を潜めた。泉に映る夜空の星々や木々を眺めながら、そのときを待ち続ける。
 半刻ほど経った頃、蒼玄はぼそりと呟いた。


「そろそろか」


 泉の中心から一つの光が浮かんだ。

 その光を皮切りにして、次々と光が舞い上がっていく。一つ、二つと増えていき、気づけば無数の蛍が聖域に舞い降りた。蛍たちは花の間を縫うように舞い、花々は呼応するかのようにぼんやりと黄金色に輝いた。花の光は蛍の動きにあわせて、まるで波のように広がっていく。

 幻想的な光景に呆然としていると、蒼玄は「どうだ?」と尋ねてきた。

 胸の内をつきあげるような衝動があった。しかし同時に、心の奥底で押し込まれているような、息苦しさを感じてしまう。私はやっとの思いで、「光っています」とただ事実を答えた。
 彼は一瞬だけ眉根を寄せたあと、「そうか」とだけ頷く。それ以上は何も言わずにしゃがみこみ、蛍のようにやわらかく光る花を採取した。


 *



 長の使いである青年に改めて礼を言い、私たちは町の入り口へと歩いていた。
 郷の中にも多くの蛍たちが踊っており、人々の目を楽しませている。石畳の上を滑るように進む蛍の列は、まるで光の川のようだった。
 蛍を追いかけて怒られている子ども、近くを通り過ぎる蛍に感嘆の声をあげる民の声、そんな彼らの姿を横目で見ながら通り過ぎる。

 すると蒼玄は独り言のように言った。


「自分と違い、人間の生は儚く短い。だからこそ、この一瞬に感動できるのだろう」


 間をあけ、ぼそりと言う。


「俺はそれが、少しうらやましい」


 いつも飄々としている彼にしては珍しく寂しげな声だった。
 ちらりと見上げるが、横顔からは何を考えているか分からない。朱色の瞳に蛍の光が、時折またたいていた。

 郷の外へ出てから暫し歩き、人目のつかない場所へと来た。先ほど見せた寂しげな表情は幻だったのかと思うくらい、蒼玄は嬉々として言った。


「さぁさっそく温泉の準備だ!」


 蒼玄がしゃがんで祝詞を呟きながら印を結ぶと、空気が微かに震えはじめた。
 地面に文様が浮かび上がり、湯気が昇っていく。湯気が晴れると、そこには洞窟で見たときと同じ温泉が佇んでいた。檜の香りが漂い、角形の湯船の表面には細かい傷が無数についている。
 岳は唖然とした顔で温泉を見上げながら言った。


「疑問なんだが、この湯はどこの湯なんだ……?」
「老湯守が守っていた温泉と繋がっている。今も湧いているから、一回一回新しい湯に入ることができるんだ」
「その湯が汚されたりはしないのか?」
「老湯守の弟子が常に守ってくれているから、そこは心配ないさ」


「よし」と腕まくりをした蒼玄は鞄を広げ、素材を吟味していく。

 お湯の温度を調整する炎帝晶と、温泉に沈まないようにする風霊草を取り出す。そして悩むような素振りを見せたあと、苔がびっしりと生えた石と、手のひらほどの大きさのつるりとした鱗を手に取った。
 私の目線に気づいたのか、それぞれ説明してくれる。


「この苔は朝露の苔だ。入浴後にしっとりとした肌触りが期待できる。朝日をたっぷりと浴びた苔を使うのがコツだな。
 次に黄龍香。その名の通り龍の鱗だ。これは香り付けで使う」
「龍?」
「龍とはいっても実態はただの大蛇だ。昔の人間には伝説の龍のように見えたんだろうよ。
 これはこのままでも使えるが、今回は……」


 蒼玄の唇が僅かに開き、言葉を静かに紡ぐ。


「大神の焔 息吹に宿りし 顕れ出でよ」 


 鱗に向かって息を吹きかけると、黄龍香から炎が立ち上がった。優雅に舞う蝶のように、ゆらゆらと揺れながら大きくなっていく。雷雨の直後の大地から立ち上るような鮮烈な香りが満ち、そのまま温泉の中へと放り込んだ。


「燃やすと一度しか使えないが、せっかく蛍火の花を調合するんだ。贅沢にいこう」


 地面に広げた他の素材たちも次々と投げ入れていく。全て入れ終わったあと、軽く跳ねて温泉の縁に飛び乗る。湯船に立てかけてあった棒を持ち、温泉をかき混ぜた。すると水面から微かな光が放たれ、翡翠の色を帯びた。

 蒼玄は額の汗をぬぐい、温泉から飛び降りる。


「できたぞ」


 満足そうな笑みで私と向き合った。「さぁ入れ」と目が語っている。


「……最初に入っていいのですか?」
「あぁ、お前さんの状態的にも早く入った方がいい」


 腹あたりに目線を送りながら言う。私は頷き、湯船に設置された階段を登った。そして片足ずつゆっくりと身を沈めていく。すぐさま蒼玄が近くへやってきて、感想を尋ねてくる。


「どうだ湯加減は?」
「前より、熱いです」
「せっかくの露天風呂だからな」


「さて俺たちは夕餉の準備でもするか」「ゆっくり浸かってくれ」と蒼玄の声に、こくりと頷く。私は湯船の縁に後頭部を預けた。木々が揺れる音が聞こえ、目の前には満天の星空が広がっていた。

 そのまま星たちを眺めていると、ふわりと一粒の光が舞った。湯船の底を見れば、蛍火の花が強く発光していた。水面から先ほど見た景色と同じ、蛍のような光が漂っていく。

 私はそっと光に触れた。ほのかに温かい。

 泉で無数の蛍をみたとき、胸の内には押し込められた感情があった。再び同じ感情が押し寄せ、深く激しい衝動となって体を巡っていく。血液と共に駆け巡った感情は喉元を通り、私は気づけば呟いていた。


「……きれい」
「そうだろう?」


 驚いて見れば、いつの間にか蒼玄が縁に座っていた。
「おい! 準備の途中だぞ!」と岳が怒っている声が聞こえる。彼は人差し指にとまった光を見つめながら、「気づいたかい?」と尋ねてくる。


「さっき君はこの光を見て、『光っている』って言ってたんだぜ」
「……あ」
「少しずつ回復に向かっているな」


 蒼玄は満足そうに微笑み、軽い身のこなしで温泉から降り立った。
 彼の言葉が頭の中で反復され、私は再び満天の星空を眺める。これまでは「空に星が浮かんでいる」と事実を認識するだけだった。しかし今は──

 そよ風に揺れる葉擦れの音が聞こえた。大地を思わせるような力強い香りの中には、ほのかに草花の甘い香りが漂う。温泉の湯気が立ち上がり、星空との境界をぼやかしていく。白い視界の中で、蛍のような光が次々と飛び立っていった。


(世界はこんなにも、美しい)


 自分の体が驚くほど軽い。まるで天と地の狭間に浮かんでいるようだった。心地よい浮遊感に身を任せながら、私は目をゆったりと閉じた。

 はっと目を開いたのは、「そろそろのぼせるぞ」という蒼玄の声が聞こえたときだった。気づけばずいぶん長く浸かっていたらしい。両手をつき、体を持ち上げて縁に座った。体勢を整え、階段に足を踏み出す。少し眠ってしまったのか、頭の中がぼんやりとしていた。

 私のふわふわとした様子を見かねたのだろう。翼を広げ空を飛んだ蒼玄が、「ほら」と手を差し出した。その手をじっと見つめたあと、私はそっと手を重ねる。豆がところどころ潰れているからか、硬く大きな手のひらだった。彼に支えてもらいながら、注意しながら階段で降りていく。

 地面に降り立ったと同時に、羽団扇で服を乾かしてもらった。

 そのあと岳が用意してくれた焼き魚や味噌汁など夕餉を食べている間に、蒼玄は温泉に入った。「あ~~~! いい気持ちだなァ!」と声を張り上げる蒼玄。焼き魚をかじりながら岳に問う。


「岳もこのあと入るの?」
「……あんな怪しい奴が用意した湯など入りません」


 不機嫌そうに口を結びながら言う。強要するつもりはなかったので、「そう」とだけ相づちをうった。
 夕餉を食べ終える頃、「あぁさっぱりした」と晴れやかな笑顔で蒼玄はあがった。体から湯気があがっている。


「黄龍香と合わせてよかったなァ。先ほど泉で見た景色をうまく再現できた」
「温泉についての感想もいいが、そろそろ宿に戻るぞ」


 そっけない岳の言葉に、「つれないねェ」と肩をすくめる。蒼玄が再び印を結ぶと、白い靄と共に温泉は跡形もなくなった。荷物をまとめ、帰路につく。

 蛍の大部分は旅立ってしまったらしい。今はわずかに残った蛍だけが、ふわりと浮かんでいるだけだった。時折吹き抜ける夜風の涼しさが、湯の温もりが残った肌に心地よい。雲の隙間から満月が覗いており、私は月を追いかけるようにして宿まで歩いて行った。

 宿に戻ると、蒼玄は布団の上であぐらをかき、地図を眺めた。どうやら次の目的地を考えているらしい。岳が地図を眺めながら尋ねる。


「次の素材は何だ?」
「『此岸花』を取りに行こうと思っている」
「此岸花? 彼岸花ではなく?」


 岳の疑問の声に、彼は「そうだ」と同意するように頷く。


「見た目は彼岸花そっくりらしい。だが此岸花は特定の場所にしか生えず、採取も難しいらしい」
「毒でもあるのか?」


 岳の問いに、蒼玄は腕を組んで唸った。「噂によると……」と前置きして言葉を続ける。


「『己の影と向き合うとき、花は咲くだろう』と」
「己の影?」


 私が首をひねると、蒼玄も詳しいことが分からないのか肩をすくめた。岳は苦々しげに言う。


「取り方もよく分かっていないものを取りに行くのか……」
「しかもここから一月はかかる」
「なっ!」


 岳は目をくわっと開き、怒りを露わにした。そして蒼玄を指さして、私の方を見ながら声を張り上げる。


「氷織様! こんな奴についていくつもりですか!」
「そうは言っても、私には行く場所もないし……」
「一月も歩かせるなんて! そんな過酷な旅……」
「過酷なんかじゃないわ」


 岳の言葉を遮るようにして、私は首を横に振る。
 脳裏に浮かんでいたのは、華怜の歪んだ笑みや、下女たちの囁き声、そして民たちの憎悪に満ちた視線だった。
 自嘲の笑みを浮かべながら言う。


「あの離れにいる頃に比べれば」


 私の言葉に、岳は目を見開いた。ぐっと唇を結び、絞り出すように言う。


「……申し訳ございません。出過ぎた真似を……」


 私の身を案じてくれたのは分かっていたので、不快な気持ちにはならなかった。気にしないでと、ふるふると首を横に振る。
 すると「謝る相手が違うんじゃないかい?」と蒼玄は目を細め、圧を込めて言った。私は岳と目線を合わせて、謝罪を促す。岳は苦虫をつぶしたような顔をしたが、拳を握りしめ、小さな声で言った。


「す、すまなかった……」
「ん、聞こえなかったなァ?」
「貴様!」


 耳に手をあておどけたように言う蒼玄と、立ち上がって怒りを表す岳。蒼玄はけらけらと笑っていた。



 華やかな着物を身にまとった華怜は、静かに瑞穂城の廊下を歩いていた。城で働く者たちは彼女の姿を見た途端、光に集まる蛾のように彼女に吸い寄せられた。


「華怜様、本日もお美しい」
「国の宝と言われるだけありますな」


 ある者は両手を広げ、ある者は感嘆の声をあげながら、彼女の寵愛を浴びるために褒め言葉を口にしていく。華怜は自身を讃える言葉たちに、優雅に微笑み、時折頭を下げて応えていった。その仕草一つ一つが、周囲の人々を魅了していく。


「この間の宴での御歌も素晴らしく」
「まるで天女の声のようでした」


 華怜は謙遜しつつ、扇子で口元を隠しながらまぶたを伏せた。そのいじらしい姿にさえ、周囲の人々は心を奪われていく。
 最後に礼を言い、彼らの視線を感じながらも後にする。
 人気がいないとろこまで歩き、華怜は満足げな笑みを浮かべた。そして扇で口元をおさえながら、くつくつと笑う。


「お姉さまもいなくなったし、最高の気分だわ!」


 雪代華怜は、産まれた瞬間から祝福に包まれていた。
 産婆は産まれたばかりの華怜を見て、歓喜の声をあげた。瑞穂国を統治する国司と正室の子ども。皆が華怜の誕生を喜ばしいことだと手を叩いた。
 彼女が持っているのは美しい見目だけではなかった。幼少期から漢詩を暗唱し、見事な書を修め、琴を弾けば名手と讃えられた。


「華怜様は、この国の宝だ!」


 周囲の大人たちは、華怜の才能に目を細め、惜しみない賞賛を送った。和歌、舞、茶道、どの分野でも卓越した才能を見せ、周囲を驚かせ続ける。
 賞賛を受けた華怜は、美しい微笑みを浮かべ、喜ぶような素振りを見せていた。しかし心の一部では、冷め切っている自分がいることにも気づいていた。

──退屈。

 新しいことをはじめても、簡単に会得できてしまう。挑戦する前から自分が成功することが分かっている。周りからの賞賛は、もはや当たり前のことになっていた。

 いつしか華怜は産まれてから一度も会ったことがない義姉に、思いを馳せるようになっていた。周囲が彼女を褒め称えるのと対照的に、義姉である氷織には「災いの子」「卑しい側室の子」と軽蔑の言葉を吐いていたからだ。

 好奇心が湧いた彼女はある日、下女の目を盗んで城の離れへ行った。
 離れは酷い有様だった。建物の外観が年月の重みに耐えかね、あちこちに傷みが見られた。屋根の瓦はところどころ欠け、苔むしている部分もある。壁には細かな亀裂が走り、雨風にさらされて変色していた。

 建物の中へ踏み入れると、湿った匂いが鼻についた。天井には雨漏りの跡が残り、廊下を歩くたびに軋み、今にも穴があきそうだ。押し寄せる不快感に眉根を寄せながら歩いて行く。
 義姉の姿が中々見えず、踵を返そうとしたとき、奥の方に人影が見えた。華怜が近づけば、部屋の前で立つ少年は彼女の姿を捉えて、ぎょっとした。慌てて跪き、頭を垂れる。

 義姉には武家の少年が見張り役でつけられていると聞いていた。きっと彼が見張り役なのだろうと気づいた華怜は、冷たい口調で尋ねた。


「ここがお姉さまのお部屋?」
「はい……」


 随分とか細い声で言う。
 華怜は髪に刺さった簪を外し、彼の前に放り投げた。


「あげるわ。だから半刻ほどどこかへ行ってくれる?」


 少年からは何も反応がなかった。いずれどこかへ行くだろうと判断した華怜は、襖を開いた。そこには、華怜とよく似た顔立ちの少女が座っていた。

 漆黒の髪は櫛で梳かれた形跡がなく、もつれて乱れていた。着ている着物は古びて色褪せ、至るところに繕いの跡が見える。顔は蒼白で、頬はこけていた。手は荒れ、爪は短く割れているものもあった。

 一番目を引いたのは、瞳の色だ。露草色の瞳をしている。
 今までで一度も見たことがない色だった。

 大きな瞳は怯えたように華怜を見上げる。その瞬間、華怜の心の中で何かが弾けるような音がした。大股で彼女に近づき、乱れた髪の毛を思いきり引っ張った。


「いっ……」
「ねぇ、名前は?」
「ひ、氷織、です」
「貴方がお姉さまなのね!」


 華怜の胸の中に、歓喜の感情が渦巻く。
 退屈で仕方がなかった世界が、一気に色づいていくような感覚。華怜は突き動かす衝動のまま、氷織を痛めつけた。そのたびに氷織は涙を流し、やめてと懇願した。その姿を見てさらに華怜は高揚する。自分の言動が相手に影響を与え、思い通りの反応を引き出せることに歓喜した。

 思う存分痛めつけた華怜は、床に横たわる氷織を満足げに笑いながら見下した。


「また来るわ、お姉さま」


 恍惚とした表情で言い、華怜はその部屋を後にした。
 部屋を出た瞬間、見張りの少年が先ほどと変わらぬ体勢で、頭を垂れているのが見えた。放り投げた簪もそのままだ。見れば、体を小さく震わせている。
 愉快な気持ちに水を差されたような心地になり、華怜は簪を乱暴に拾った。

 それから十年ほど、氷織を虐げる日々が続いた。

 氷織の泣き叫ぶ顔を見るたびに、心の穴が埋まるような心地がした。快感が足先から登っていき、全身を歓喜で震わせた。
 しかし時が経つにつれ、氷織の反応がだんだんと鈍くなっていった。華怜に懇願することなく、人形のように無抵抗になることが増えた。終いには声が出なくなり、叫び声をあげることすらなくなってしまった。

 さらに瑞穂国にも不穏な影が忍び寄っていた。どうやら重税や不作による、民たちの不満が積もっているらしい。このままでは反乱が起きてしまうと役人たちが頭を抱えていた。

 そこで華怜は一つの案を思いつく。

──氷織にすべての罪をなすりつけて、捨ててしまえばいい。


 反応が鈍くなったおもちゃを捨てることもでき、さらに民の不満も逸らすことができる。国司である父も賛同してくれると思い、夕餉の際に提案した。しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。


「ふざけるな! お前が離れへ行っていたことは許容していたが、アイツを亡き者にするだと?!」
「だ、だけどお父様……」
「勝手なことをぬかすな! もう二度と氷織に近づくな!!」


 激昂した父の手によって、茶碗が割れる音が響いた。
 生まれて初めて父に怒られ、華怜は何を言われたのか全く理解ができなかった。

 氷織を城の離れに閉じこめ、質素な暮らしを強いていたのは父だ。彼も氷織を目障りな存在だと思っていたのだと認識していた。ならば民たちの不満を受けさせ殺してしまえば、氷織の存在も役に立つ。そう思っていたのに、

 華怜の腹の底に、静かな怒りがわき上がるのが分かった。
「申し訳ございません、お父様」と深々と謝罪を口にしたが、その目には歪んだ感情が浮かんでいた。

 後日、父が不在のときを狙って、華怜は作戦を決行した。

「雪代氷織は贅沢したいが故に、役人に色目を使って惑わし、重税を命じた人物である」と民たちに偽りの噂を流した。日頃の怒りをぶつける対象を捜していた民たちは、面白いほどにこの噂を信じ、氷織に暴言や石を投げ続けた。

 傷だらけになり歩く氷織の姿を、火の見櫓から眺めて華怜は笑う。


「さようなら、お姉さま」


 あの城下町を痛々しい格好で歩いている義姉の姿を思い出しながら、華怜は上機嫌で歩く。
 廊下の隅では、役人の男性と若い下女と密会している姿が見えたが、視線を外した。城では日常茶飯事の光景だった。

 しばらく歩くと突然、聞き馴染みがある話し声が聞こえた。華怜の父である定勝と、家老の忠明の声だった。思わず足を止め、襖の陰に身を隠す。


「定勝様、北の国境線での小競り合いが激化しております。このままでは戦に発展しかねません」
「そうか」


 不穏な影を滲ませながら忠明は報告するが、定勝の声には、まったく緊張感が感じられない。彼は面倒な様子を隠さずに答える。


「それがどうした?」
「定勝様、民は既に不満を募らせております。昨今の寒気のせいで農作物が実らず……」
「民だと?」


 定勝は冷笑した。蔑むような声色で話し始める。


「奴らなど、ただ税を納める道具にすぎん。不満などというのなら、さらに搾り取ればよい」
「しかし、これ以上民を苦しめれば、反乱が起きる可能性も」
「ならば、他国への侵略も視野に入れろ。民の不満を外に向けさせれば良い」
「衛士たちの士気も下がっており、侵略しても勝てる見込みが……」
「……はぁ」


 定勝はため息をつき、重い沈黙が漂った。そして突然、拳で机を叩く。
 怒りに任せた音に、華怜はびくりと体を振るわせた。


「くそう! こんな時に氷織の力があれば……!」


 急に出てきた「氷織」という名前に、華怜は息を呑んだ。定勝は低い声色で問う。


「……まだ見つからぬか」
「はい……。金も人脈もない娘が逃げ切れるとは思えません。雪山で事切れている可能性も……」
「くそ! 死んでしまえば力が使えぬではないか!」


 苛々と頭をかきむしる。「もう少し、もう少しだったのに……」と血走った目で、定勝は独り言のように呟く。


「氷織は私の最高の兵器となるはずだった。感情も意志も持たない、従順な道具としてな。他の者に怪しまれぬよう、賤しい身分の餓鬼まで見張りにつけたのに、華怜の勝手な行動のせいで……」


 驚きの事実に華怜は声をあげそうになり、慌てて手で口を塞いだ。
 定勝は何度目かのため息をついたあと、底冷えするような目で睨みながら命じた。


「必ず氷織を見つけ出せ。今度は二度と逃げられないよう、徹底的に管理してやる」
「しかし、それは人の道として……」
「人の道だと?」


 定勝は鼻で笑った。そして尊大な声色で言い放つ。


「私は神だ。神に人の道など通用せん」


 華怜はそれ以上聞くことができず、そっと立ち上がり、自室へと駆けだした。
 部屋に戻った華怜は、鏡の前に立った。そこに映る彼女の姿は、普段の優雅さを失っている。

「お姉さまに特別な力ですって……?!」


 彼女は再び歯を食いしばった。部屋の隅で震えていたみすぼらしい義姉の姿が蘇る。自分には持ち得ない能力を義姉が持っていること。屈辱で腸が煮えくり返るようだった。
 近くにあった簪を握りしめ、壁に思いきり叩きつけた。親指の爪をかじりながら、「信じない、信じないわ!」と叫びながら、部屋をぐるぐると歩き回る。


「見つかる前に排除しなければ……」


 華怜の目に、冷たい光が宿る。しかし、すぐにその表情は打算的な笑みへと変わった。


「大丈夫よ、私には奥の手があるもの」


 にやりと口角をあげて笑う。その笑みの奥には、底知れぬ闇が潜んでいた。
 窓の外では、雪が激しく降り始めている。遠くで烏の鳴き声が聞こえた。





 螢泉郷を後にして、一月が過ぎた。此岸花を求めて、ひたすら北へと歩き続けた旅。特段大きな問題もなく、私たちは目的の洞窟がある山へと辿り着いた。朝靄の立ち込める山道を登っていく。
 蒼玄はくるりと振り向いて言った。


「お前さん、随分と体力がついたな」
「そう、でしょうか」
「最初は少し歩いただけでへばっていただろう」


 螢泉郷へ向かっていたとき、すぐ息が切れてしまっていたことを思い出し、私は頷く。
 今は数刻なら休憩なしでも歩き続けることができる。何かと手を貸してくれた岳と、疲れを癒やす温泉を調合してくれた蒼玄のお陰だった。礼を伝えたかったが何と言えばいいか分からなくて、無言で足を前に出し続けた。

 先頭を行く蒼玄の背中には大きな翼が広がり、その後ろを私と岳が続いている。


「あと半刻ほどで着くはずだ。少し休憩して行こう」


 蒼玄が振り返って言った。私たちは頷いて、休憩の準備をする。岳は水筒を持ち、水源を探しに行ってくれた。私は切り株に座り、そっと蒼玄の横顔を盗み見た。

 数刻ほど歩いたはずだが、疲れた様子はなさそうだ。遠くの方をじっと見つめている。
 そのとき彼の頬に赤い筋ができていることに気づいた。木の枝で引っかけて傷ついたのだろうか。痛みはないのか彼は気にしていないようだ。
 すると視線に気づいたように、蒼玄がちらりと顔を私の方に向けた。慌てて目線を鬱蒼とした森の中に移す。

 周囲を取り囲む木々は天を覆うほどに高く、枝葉が絡み合って緑の天蓋を作り出している。静かな場所だと思ったが、耳を澄ませると様々な音が聞こえてくる。小鳥がさえずる声、木の葉を渡る風のそよぐ音、小川のせせらぎ……自然が織りなす音たちに耳を傾けながら、私は口を開いた。


「……私の心は治るでしょうか」


 蒼玄はゆったりと私を見つめた。そして空に視線を移して言う。まるで夕餉の話をするようなのんびりとした口調だった。


「分からん」
「そう、ですよね」
「でも、お前さんの心を溶かすためなら、どんな手段も試す価値がある」


 その言葉に、胸の内がくすぐったいような心地になる。私は口を開き、一度唇を結んだ。そして拳を握りしめ、蒼玄に尋ねた。


「なぜ、そこまでしてくれるのですか」


 洞窟を出発してから、何度も湧き上がっていた疑問だった。蒼玄は静かに問い返す。


「なぜ、とは?」
「私は命を狙われている身で、危険な目に遭うかもしれない。温泉の知識だって皆無で、温泉の調合でも役にたたない。蒼玄にとって利がないでしょう」


 さらに強く拳を握りしめた。
 私に権力があれば、金銭があれば、何か彼に返せたかもしれない。しかし私は国で迫害され、無力な存在だ。なぜそんな私のために、何月も共に素材を探してくれるのか理解ができなかった。

 少しの沈黙のあと、彼は「昔な」と口を開いた。まるで幼子に昔話を聞かせるような声だった。


「心が凍った人間と出会ったんだ」
「私と、同じ……」
「あぁ。齢はお前さんより十以上も上だがな。そいつは俺と同じ、人間とあやかしの子どもだった」
「……」
「いくら効果の高い素材を使っても、そいつの心が溶けることはなかった。村での差別を受け続け、しまいには体が動かなくなってしまった。そして最後に頼まれたんだ。『あの山の奥深くまで運んでくれ』と」


 蒼玄は言葉を止めて、じっと宙を見つめた。そして何の感情も滲ませずに語る。


「そいつを抱えて、森の奥深くに運び、土の上に寝かせた。今でも覚えている、雲一つない快晴だった。『良い日だなあ』とそいつは満足そうに呟いて、そのまま事切れてしまった」


 蒼玄は自嘲の笑みを浮かべた。その横顔はどこか後悔のようなものが滲んでいるように見える。
 彼は空から私に視線を移し、同情を帯びた哀しい視線を送った。朱色の瞳が私をじっと見つめている。


「お前さんの心は、そいつの心よりも凍りついている」


 彼は手を伸ばし、そっと私の頬を撫でた。かさついた感触が、いたわるように何度も撫でる。


「俺はお前さんの心を見たとき、ぞっとしたよ。
 お前さんの周りの人間は、世界は、どれほどの苦しみを与えてきたのかと。想像するだけで泣きそうになった」


 頬から手が離れる。彼はまぶたを伏せ、囁くように言った。


「お前さんを救うのは、罪滅ぼしみたいなものさ。だから気にしなくていい」


 そう言って立ち上がり、膝辺りについた土汚れを払う。彼の視線の先には、岳が立っていた。「そろそろ行こう」という声に、私は無言で頷いた。

 昼過ぎ、私たちは狭間の洞窟の入り口に辿り着いた。苔むした岩肌に囲まれた洞窟の口は、まるで大きな獣の口のように不気味に開いている。


「ここが目的地みたいだな」


 岳は地図を見ながら呟いた。木の枝を加工した松明の先端に火をつけると、洞窟内がぼんやりと明るくなった。


「中は暗いからな。気をつけて進もう」


 おそるおそる洞窟の中へと足を踏み入れる。松明の灯りが揺らめき、岩壁に奇妙な影を作り出す。足元はぬかるんでおり、歩くたびに水音が響いた。
 半刻ほど歩いただろうか、蒼玄が何かに気づいたように立ち止まり、洞窟の壁に松明を掲げた。


「これは……」


 火で照らされた先には、古い時代の絵が描かれていた。
 中心には三人の人間が描かれており、空に手を伸ばしていた。空からは光が漏れはじめ、地面には花々が咲いている。不思議なことに三人の頭上では晴れているのに、離れた場所では雪が降っており、地面にも積もっていた。まるで三人の周りだけ春が来たようだ。
 彼らの周りには人々たちが敬うように額を地面につけ、供物を捧げている。

 何かの信仰を表しているのだろうか。


「何を意味しているのでしょうか」
「分からん。ただ、この洞窟が単なる自然の造形物ではないことは確かだ」


 私たちが進むにつれ、洞窟は徐々に広くなっていく。やがて大きな空間に出た私たちは、驚きの光景を目にした。

 洞窟の天井に小さな穴が開いており、そこから太陽の光が差し込んでいた。その光に照らされ、地面には一面の花畑が広がっている。よく見ると花々はまだ開花しておらず、蕾の状態だ。


「きれい……」
「こんな洞窟の奥で花が……」


 私と岳は思わず声を漏らした。蒼玄は満足げに「此岸花だ」と言った。
 私たちは花畑の中へと足を踏み入れた。此岸花はゆらゆらと揺れている。赤い蕾はやわらかく閉じられ、咲き誇る瞬間を今か今かと待っているようだ。

 蒼玄はしゃがみ、一輪の此岸花に触れようとした。その瞬間、花から眩い光が放たれ、視界が真っ白に包まれた。


「……っ!」


 私が目を開けると、そこは見知らぬ村だった。周りを見渡すが、蒼玄も岳もいない。いるのは古びた着物を着る村人だけだ。突然現れた私の姿に驚くことなく、村人たちは牛を引き連れたり稲を運んだりと、日常を過ごしている。どうやら私の姿は見えていないらしい。
 突然の光景に困惑していると、一人の子供が現れた。鳥の子色の髪に朱色の瞳、そして背中には小さな翼が生えていた。私は息を呑む。


(蒼玄……?)


 幼い蒼玄は人間の母親と天狗の父親に囲まれ、幸せそうに笑っていた。両親は優しく彼を抱きしめ、愛情たっぷりに接している。


「蒼玄、お前は特別な子だ」
「愛しい子。大きくなってね」
「うん!」


 しかし、その幸せな光景はすぐに暗転した。
 私の目の前に広がったのは、地獄のような光景だった。乾いた土と枯れた草木、痩せ細った家畜たちの死体が放置され、「おっかぁ!」と倒れた母親の傍で子どもが泣いている。
 そして幼い蒼玄は、冷たい視線に囲まれていた。


「化け物!」
「お前らが災いを呼び寄せたんだ!」


 村人たちの罵声が幼い蒼玄に浴びせられる。彼は怯えた表情で身を縮めていた。両親は必死に蒼玄を守ろうとするが、村全体が彼らを受け入れようとしない。

 やがて、彼らは村八分にされてしまう。食べ物も満足に手に入らず、誰も話しかけてくれない。そんな中でも、両親は蒼玄を守り続けた。しかし、過酷な生活は蒼玄の母の体を蝕んでいった。ある日、母は重い病に倒れ、そして息を引き取ってしまう。


「母さま! 母さま!!」


 幼い蒼玄の叫び声が家の中にこだまする。
 蒼玄の後ろでは父が拳を固く握りしめていた。

 時は過ぎ、青年になった蒼玄は山の中で獣を狩っていた。弓矢で命中させ、兎の耳を持ちながら「今晩はご馳走だ!」と嬉しそうに声をあげる。
 家で待つ父親のもとまで走り、「父さま!」と呼びかけた瞬間だった。彼の手から兎の死体が落ちる。

 父親は腹に深々と刃物を刺し、自死していた。

 蒼玄は叫んだ。言葉にならない咆哮をあげ続ける。目から大粒の涙を流しながら、父の亡骸に縋り付いた。「なぜ、なぜ、俺を置いて……!」と叫ぶ彼の姿がどんどん遠くなっていく。


「氷織!」


 鋭く呼ぶ声に私は現実に引き戻された。
 目の前には、憔悴しきった蒼玄がいた。


「蒼玄……」
「大丈夫か?」


 私は言葉を返せなかった。先ほど見た光景が頭の中に流れ込み、心臓が嫌な音を立てる。岳も同じものを見たのだろう、言葉を発することなく立ち尽くしている。
 私は荒く息をつき、呼吸を落ち着かせたあと、ようやく一言だけ発した。


「あなたの、記憶を……」
「……」


 蒼玄は眉根に深い皺を刻み、そして少しだけ笑った。見ているだけで泣きたくなるような笑みだった。


「『己の影』とはよく言ったもんだな」


 蒼玄は太陽の光に照らされてできた自身の影を見つめる。


「深い傷を残した記憶は、逃れたくても逃れられない。まるで影のようにぴったりと張り付いている」
「……」
「ご覧」


 蒼玄は視線を花々たちに向けた。飛び込んできた景色に私は息を呑む。



(花が、咲いている)

 蕾だったはずの此岸花が幽玄な光に照らされ、大地を覆い尽くすように咲き誇っていた。花びらは細く、しなやかに伸び、生き物のように揺らめいている。その赤はあまりにも鮮烈で、まるで雪に滴る鮮血のようだ。

「己の影と向き合うとき、花は咲くだろう」と語った蒼玄の言葉が蘇る。私は静かに尋ねた。


「……蒼玄は、過去と向き合ったの?」
「……向き合うしかなかった」


 ぽつりと呟き、花々に目を落とす。洞窟の天井からは細い光筋が差し込み、此岸花を神秘的に照らしている。美しい花だが、同時に底知れぬ恐怖を感じさせる。まるで生と死の境界線に立っているような感覚。先ほど見た光景を思い出してしまい腕をさすった。
 蒼玄は話を切り替えるように明るく言う。


「さあ、此岸花を採取しよう。特別な温泉が作れるはずだ」


 私たちは協力して、慎重に此岸花を採取した。開花した花におそるおそる触れたが、特に何も起こらない。「根には毒があるから気をつけてくれ」という蒼玄の言葉に従い、慎重に茎を折り取っていく。
 作業中、私は時折蒼玄の横顔を盗み見た。彼はただ無表情で花を摘んでいる。その固い横顔に胸が痛み、私はそっと逸らした。

 此岸花を採取し、洞窟を後にする頃には、夜も更けていた。蒼玄はくるりと私たちの方を振り向き、明るい声で言う。


「温泉をつくるか!」
「……」
「……あぁ」


 引きつった顔で頷く私たちに蒼玄は苦笑し、しゃがんで印を結んだ。温泉が現れると同時に、湯気が夜空にのぼっていく。鞄を広げ、素材をどれにしようかと見比べている。私たちはしばらく立ち尽くしていたが、不意に岳が動き出した。蒼玄に近づいて話しかける。


「……今回はどんな素材を使うんだ?」
「珍しいな、アンタが興味を持つなんて」
「いいだろう、別に」
「俺に元気がないと思ったか?」
「なっ!」


 岳は顔を真っ赤にさせて声をあげる。「別にお前の心配なんかしていない!」とむきになり、そっぽを向いた。「冗談だ」と蒼玄は目を細め、素材の説明をしはじめる。
 彼の前には、私の手のひらよりも大きい薄桃色の花びら、木の器に詰められた深緑の粉、一寸ほどの橙色の果実が並んでいた。


「この大きな花びらは『天心蓮』、心を癒す効果がある。この粉は『静寂石』を削ったものだ。これも同じような効果だな。香り付けには『橘の実』を使おうと思っている」


 それらの素材をまとめて温泉に放り込み、最後に先ほど採取した此岸花を静かに入れた。棒でかき混ぜると、湯は薄紅色になり、ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。


「よし、できたぞ」


 蒼玄に「ほら」と促される。少しだけ和らいだ空気に安心したように、岳は目を細めた。


「私たちは夕餉の準備をしていますので」


 岳の言葉に頷く。彼らの優しさや気遣いが、心の中で蛍のように灯っていた。
 私は温泉の裏手に回り、階段を登っていく。
 そして深呼吸をし、ゆっくりと温泉に足を入れた。驚くほど心地よい温度が、私の体を包み込む。徐々に体を沈め、やがて肩まで湯に浸かった。

 温泉に全身を浸すと、不思議な感覚が全身を駆け巡った。まるで体の芯から温まっていくような、そして同時に何かが溶けていくような感覚。私は思わず目を閉じ、その感覚に身を委ねた。

 湯面から立ち昇る湯気は、橘の実を中心とした複雑な香りを放っていた。爽やかな柑橘系の香り、深みのある木の香り、そして微かに感じる花の香りが混ざっていた。香りの調和が、私の心を落ち着かせ、同時に何か懐かしいような感情を呼び起こしていた。

 私はゆっくりと手を動かし、湯をすくい上げた。

 指の間から零れ落ちる薄紅色の湯を見て、蒼玄の父の腹から流れる鮮血を思い出す。その記憶を皮切りに、狭間の洞窟で見た蒼玄の過去が次々と浮かび上がってしまう。
 幼い蒼玄の笑顔、愛情に満ちた両親のまなざし。暗転したあとに見た、村人たちからの迫害や母の死、そして唯一の家族である父親の自死。

『なぜ、なぜ、俺を置いて……!』

 蒼玄の咆哮を思い出し、私はぐっと目頭に力を込めた。悲しかっただろう、苦しかっただろう。彼の気持ちをなぞって心に湧き上がったのは、黒い嵐のような禍々しい激しい感情だった。

 村人からの迫害や妻の死、荒れ狂う海のような激しさに耐えきれず、彼の父は自身に刃物を突き刺した。
 死は救いだ。残される者の方がずっと辛い。母が死んだあと、自死も許されずただ生かされ続けた自分の人生と重ね合わせる。

 黒い禍々しい嵐は過ぎ去り、心に残ったのは、一縷の悲しみだった。

 洞窟で彼の過去を見たときも、胸が締め付けられる苦しさがあった。そのときは津波のように押し寄せる感情に困惑するしかできなかった。しかし今、私の胸の内にある感情は、瞳からあふれる涙となって流れ続けていた。


「蒼玄……」


 私は小さく名をなぞる。その声に気づいた蒼玄が、湯船の縁に座った。


「どうした? 具合でも悪くなったか?」
「……あなたの過去を、思い出して……」


 私は涙を拭おうとしたが、次々と溢れ出てくる。蒼玄は一瞬だけ見開いたあと、優しく見守ってくれていた。その笑みの中には、陰りのある感情など何も滲んでいない。思わず尋ねてしまう。


「なぜ……なぜ笑っていられるの? あんな思いをしたのに……」


 華怜から受けた暴力や惨い言葉たち、下女たちの冷たい囁き声や視線、民たちから投げられた石や暴言。体にできた傷は何一つ残っていない。しかし心の中にできた傷は、過ごす日々の中で何度も痛みを訴えた。その痛みが疼くたび、恨みや憎しみなど澱のような感情が一緒くたになり、私から生きる気力を奪っていった。

 私たちの間に沈黙が流れる。蒼玄はぽつりと聞こえるか聞こえないかくらいの声量で言った。


「長い時間、恨んださ……もう俺は、恨み疲れた」


 彼の言葉には様々な感情が含まれていた。
 私はなんと答えればいいか分からず、うつむことしかできない。堰を切ったように涙は止まらず、次々とあふれ出てくる。温泉の水面に落ちては、波紋が広がっていく。蒼玄は穏やかに言った。


「優しいな、お前さんは」


 蒼玄は私の頭を優しく撫でた。その感触に、涙が止まってしまう。小さな鳥が羽ばたくように、心臓の鼓動が大きく打ち始める。今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。

 私が見上げると、彼もまたやわらかな表情で見つめ返していた。「やっと泣き止んだな」と白い歯を見せ、手が離れる。胸が締め付けられ、もっと撫でて欲しいと言ってしまいそうになる。しかし私の唇は動くことなく、ただ薄紅色の水面を見つめることしかできなかった。


 *



 狭間の洞窟を後にしてから三日目の夕暮れ時、私たちは霧雨の里と呼ばれる人里にたどり着いた。
 空からは細かな雨が降り続き、人里全体が薄い霧に包まれているように見えた。その光景は美しくもあり、少し物悲しくもあった。


「ここで一泊するか」


 蒼玄の提案に、私と岳は頷いた。長時間歩き続けた足は疲れ切っており、温かい食事と柔らかな寝床が恋しかった。

 里の中心に向かって歩きながら、私は周囲の様子を観察していた。霧雨の里は、その名の通り霧に包まれた静かな街だった。石畳の道には雨水が溜まり、行き交う人々は皆、笠を深くかぶっていた。

 しばらく歩くと、「霧の休み処」という小さな宿屋が目に入った。木造の趣のある建物で、軒先からは提灯の温かな光が漏れていた。住民によると里にある唯一の宿屋らしい。
 宿に入ると、温かな空気と木の香りが私たちを包み込む。優しげな表情の老婆が微笑んでいた。


「いらっしゃい。旅のお客さんかい?」


 女将と思しき彼女の声は、どこか懐かしさを感じさせるものだった。


「あぁ、一泊したいんだが空いているかい?」
「もちろんさ。こんな辺境の里にくる物好きは中々いないからねぇ。まずは温かいお茶でも飲んで、ゆっくりしておくれ」


 彼女の親切な言葉に、私たちは微笑みを浮かべながら小さく会釈を返した。

 半刻ほど経つと、女将は部屋に夕餉を運んでくれた。山菜がたっぷりと使われた夕餉に舌鼓を打つ。蒼玄が褒め言葉を口にすれば、女将は嬉しそうに顔をほころばせた。
 私たち以外に客はおらず、女将と旅の話で盛り上がる。話の途中で、狭間の洞窟の話になり、洞窟に描かれていた壁画の特徴を話すと、興味深そうに頷いた。


「そりゃ、春蕾(しゅんらい)の一族じゃないかねぇ」
「春蕾の一族?」
「あぁ。この地方に伝わる不思議な力を持つ一族のことさ。彼らは春の呼び寄せたと言われている」


 女将は言い伝えの内容を語りはじめた。


 春蕾の一族は、冬になると恵みが詰まった雪を降らせ、春には雪を溶かした。彼らのおかげで、この地方は豊かな水に恵まれ、作物が実り、人々は幸せに暮らしていた。

 しかし約三百年前。突然、長く厳しい冬が続いた。作物は育たず、多くの人が飢えに苦しんだ。国の長たちは、民の怒りを鎮めるために、その一族を「災いをもたらす者」として追い詰めていった。かつては信仰の対象として崇められていた彼らは、一転して忌み嫌われる存在になってしまう。

 生き残った者たちは、身を守るために力を隠して生きることを選んだ。彼らは互いに離れ離れになり、人々の中に紛れて暮らすようになった。


「……春蕾の力を持つ者はまだいるのでしょうか?」
「どうだろうねぇ。御伽噺のような話だからねぇ」


 女将は首を傾げながら、のんびりと言った。


「人間は、勝手だな」


 蒼玄が湯飲みを傾けながら、聞こえるか聞こえないくらいの声で呟く。その固く張り詰めた横顔を、私はそっと盗み見ていた。