「姫様!」
叫ぶように呼び、彼は私の傍まで駆け寄ってくる。
「岳」と彼の名前を呼べば、彼は安堵に満ちた声で言った。
「よかった……! ご無事で……!」
「姫さま、ねぇ」
蒼玄の色々と含みがある呟きに、隠しきれないと察する。蒼玄の瞳の中で踊るたき火の揺らめきを見ながら、私は胸に手を当て名乗った。
「私は雪代氷織。ここ瑞穂国を治める国司の、娘です」
私が名乗ると、岳が目を大きく見開いた。震える声で言う。
「ひ、姫様、言葉が……」
岳の言葉が理解できないのだろう、蒼玄がきょとんとした表情を浮かべた。
一年ほど前だった。
ある日の朝、私は言葉をほとんど発せなくなってしまったのだ。いくら話そうとしても言葉が喉元で凍ってしまう。
症状を訴えたところであの父が医者を手配してくれるとは思えなかったし、岳以外と話す相手もいなかったので、言葉を発することなく過ごしていたのだ。
しかし今、話せなかったことが嘘かと思うくらい、するすると零れ出てきていた。「もしかして……」と思いながら温泉を一瞥する。
「よかった……!」
岳はほっと顔をほころばせたが、すぐに険しいものに変わった。蒼玄の方を見ながら警戒心に満ちた声で尋ねてくる。
「姫様、この男は一体?」
「彼は、蒼玄。私を助けてくれたの」
私がそう説明すると、岳は立ったまま蒼玄を見下した。まだ完全に信用していない様子が窺えた。
「姫様を救ってくださり、ありがとうございます」
感謝の念を伝えてはいるが、目線は鋭いままだ。
しかしその視線を全く気にする様子もなく、蒼玄はひらひらと片手を振った。
「礼には及ばんさ。ここまで運んで、飯をあげて、湯浴みしただけだからねぇ」
「なっ……湯浴み?!」
「何を想像したんだ。服は着たままだぞ。そこの姫さまにも聞けばいい」
岳はまるで威嚇するような犬のような視線で睨み続けた。蒼玄はけらけらと笑っている。
言い争うのも無駄だと判断したのだろう。岳は大きくため息をつき、私の前に跪いた。
「姫様、帰りましょう」
彼の提案に体が強ばるのを感じる。ふるふると首を振れば、困惑した目線を向けられる。
沈黙をやぶったのは蒼玄の声だった。
「やめた方がいい」
「部外者は黙っていてくれ」
「君の大切な姫さまが、このまま死ぬと言ってもか?」
蒼玄の言葉に、大きく見開く岳。「心が凍りついていること」「完全に凍り付けば、肉体の死をただ待ち続ける物質へと成り果てること」私にした同じ説明を繰り返す。岳の眉根に深い皺が刻まれた。
「にわかには信じられませんが……」
「しかも彼女には帰れない理由があるんじゃないのかい?」
蒼玄は私に目線を移した。その目には、何か察したような光が宿っていた。
私は深く息を吐き、事の顛末を話し始めた。
ここは「神代ノ国」
海に囲まれた列島で、六十六の小国から構成されている。
私が住む瑞穂国は、列島の中央部に位置している。肥沃な平野と清らかな川、豊かな山々に恵まれており、稲が豊かに実る美しい国である。
しかし数年前から少しずつ冬が長くなり、稲の不作が続いた。他の国と比べれば豊かな方ではあるが、じわじわと民の不満が募っていると下女たちの噂話で聞いていた。
私が生まれた年は、「雪が止まない」と民たちが初めて嘆いた年であった。そのため私は「氷雪姫」と陰で囁かれ、側室の子ということもあり、幼い頃から蔑まれていた。味方は、私の見張り役として任命された武家出身の岳だけだった。
食事も十分に与えられず、離れで下女のように働き、差別に満ちた視線を浴びせ続けられる毎日。死んだように生き続け、十七年の時が経った。
──ひどく寒い日だった。
火をおこすことさえ許されていない私は、部屋の隅で両手を擦り続け、ひたすらに暖をとろうとしていた。
真っ白に染まった指先に息を吹きかけた瞬間、襖が勢いよく開かれた。そこには漆黒の髪の毛と、薄茶色の瞳を持つ女性──華怜がいた。血の気がひいていく。
「お姉さま、遊びに来ましたわ」
にっこりと美しく微笑む華怜。私は絶望の中、ただ彼女を見つめることしか出来ない。
「あぁその顔、最高に素敵ですわ!」
うっとりと華怜は言い、思いきり私の髪の毛を引っ張った。頭皮に鋭い痛みが走る。床に転がされた私は、絶え間なく襲いかかる痛みに目を瞑ってひたすらに耐えた。
瑞穂国の正室の娘として生まれた華怜は、周囲の寵愛を一身に受けた。美しく聡明な子どもとして注目を集め、「国の宝」のように育てられた。
忘れもしない、華怜が五歳の時だった。下女たちの目が届かない部屋で二人きりになり、私をひたすら痛めつけた。その快感に満ちた顔や、「壊れないおもちゃが欲しかったの!」とまるで流行りの簪を語るような口調。その全てが私を恐怖の渦へと叩き落とした。
城では理想的な姫として振る舞う一方で、痛みに耐える私の姿を楽しむ歪んだ姫。
朝から岳が不在で、嫌な予感はしていた。おそらく華怜が理由をつけ、一時的に遠くへ派遣したのだと容易に想像がついた。
何度も殴られ、意識が朦朧としはじめた頃、華怜のとても楽しそうな声が聞こえてきた。
「今日はとっておきの催しがあるの!」
華怜が手を叩くと、衛士が入室してきて、私の手首に縄を巻いた。足は震え、心臓は激しく鼓動を打っている。何が起こるのか分からない恐怖が、全身を包み込んでいた。
「来い!」と乱暴に縄を引かれ、家畜のように連れて行かれたのは、城下町の通りだった。低く垂れ込める灰色の空の下には、大勢の民たちが集まっている。刃物のように冷たい視線が一斉に私に向けられた。
「歩け!」
衛士の怒鳴り声が響き、訳もわからず足を前に出す。足裏から伝わる雪の冷たさが、鋭く痛い。生理的な涙があふれてくる。
私が歩き出すと、民衆から怒りや憎しみの怒号が飛び交い、石を投げられた。「違う、違う……」と否定したいのに、言葉が喉辺りで凍り付いてしまう。
そして私はまるで家畜の死体を捨てるかのように、城下町の外れに捨てられた。命の灯火が消えそうになったとき、耳に届いたのは──さびしげな鈴の音だった。
「……これが、逃げてきた理由です」
話し終えると、洞窟内に重い沈黙が降りた。パチパチと火が弾ける音だけが響く。沈黙をやぶったのは、蒼玄の呟きだった。
「惨いな、人間は」
私は口だけの笑みを浮かべる。岳が膝の上で拳を握り、悔しそうに叫んだ。
「おかしいと思ったんだ! 突然、遠方の村で調査を行えだなんて……!」
やはりそうだったのかと、私は納得した。岳は私の前に跪き、頭を深く垂れる。
「私が傍にいれば……そんな酷い目に遭わずに済んだのに……!」
命令は絶対だ。岳は悪くないと首を横に振ったが、彼の悲壮にあふれる雰囲気は変わらない。
城で差別の目を受けていても、民たちから侮蔑の言葉を浴びせられても、私への忠誠を誓ってくれる彼の存在が救いだった。
私は覚悟を決めて名を呼ぶ。
「岳」
彼は頭をあげた。私は深く息を吐き、岳の瞳をまっすぐに見据える。
「雪が止んだら、城へ戻って」
「姫様を置いて帰るなど……!」
「お願い、岳。私の命はもう、長くない」
「こんな怪しい奴の戯れ言を信じるのですか?!」
「失礼だな、きみ」
蒼玄はぼそりと言う。
岳の目を見て、城の離れで暮らしていたときの変化を思い出す。
目覚めたときに感じていた清々しさも、私に懐いていた鳥が死んでしまったときの悲しみも、岳との挨拶で生まれていたはずの微かな希望も、いつしか何も感じなくなってしまった。
華怜に殴られても前ほどの怒りが湧かない。食事を食べても味が分からない。鏡に映る自分の目が、日に日に虚ろになっていく。
そして一年前、声が出なくなったときに気づいた。
──自分は死に近づいている。
人間としての死ではない。そのへんに転がっている石のように、平坦で無機質な死。私はその死を、ただ待ち続けることしかできないのだと。
私は頷き、胸を押さえながらうつむいた。
「分かるの。何となくだけれど。もう長くないことが」
「……おい、蒼玄と言ったな。姫様が助かる道はないのか?!」
「あるさ」
蒼玄の言葉に、「へ」と岳は間抜けな声を出す。蒼玄は口角をあげ、温泉を指さした。何を言いたいんだと困惑する岳に平然と言った。
「温泉さ」
「……ふざけているのか?」
「ふざけてなんかいないさ」
月光草をいじりながら蒼玄は説明する。
「俺が調合する温泉には病や怪我を治す力がある」
「そんな温泉如きで……」
「馬鹿にするなよ」
朱色の瞳の鋭さが増し、張り詰めた空気が洞窟内に満ちた。岳は口をつぐむ。
「二十年以上、温泉を守り続ける中で様々な病や怪我を治してきた。そこにいる姫さまのように心が凍った人を治したこともある。数は少ないけどな」
「……」
「それでもお前は馬鹿にするのか?」
低い声で問われ、岳は唇を噛みしめた。そして頭を垂れ「申し訳、ございません」と謝罪の言葉を口にする。「うん」と蒼玄は満足そうに頷いた。
「素直な奴は、嫌いじゃないさ」
素材をいじりながら、言葉を続ける。
「二百年以上生きてきても見たことがない素材はごまんとある。俺が探している極上の温泉が調合できれば、姫さまの心も治るかもしれない」
「……心が凍った人間を治したことがあるのだろう? 今すぐその温泉をつくれば……」
「それは無理だ」
蒼玄は首を振る。そして私の顔を哀れむようにして見た。
「姫さまの心は、大半が凍り付こうとしている。今まで診てきたような一部だけが凍っている人間なら何とかなったかもしれない。だが、彼女を治すには素材が足りない」
「どうすれば……」
「探すんだよ」
「当たり前だろう?」と言わんばかりに、蒼玄は楽しそうに笑った。
「ちょうど次に見つけようと思っていた素材が、『人の心』に効く素材だ。完治は無理でも、進行を遅らせたり、一部分を治すことはできるかもしれない」
「その素材を見つければ……」
「岳」
私は鋭く名を呼んで、首を振った。彼を危険に巻き込むわけにはいかない。
「あなたはまだ、戻れる」
「そんなことは出来ません」
岳は正義感に満ちた目で私を射貫いた。
「貴方が死ぬときは、私も死ぬときです」
蒼玄が口笛とともに「お熱いねぇ」とからかったので、岳がきっと睨む。
そして再び私の方を見て、やわらかく笑った。
「次は何としてでも、貴方を必ずお守りします。情報収集だって……」
そこで言葉を切って、入り口辺りにいた烏に目線を送った。カアァと鳴きながら、岳の肩に飛び乗る。
「烏助が役に立つでしょう」
烏助とは岳が飼っている烏だ。
罠に捕まっていた烏助を助けたことをきっかけに、岳に懐き、いつも行動を共にしていた。とても賢い鳥で、人間の言葉を理解し、簡単な文字もくちばしで書くことができる。
おそらく私の場所も烏助の力を借りて分かったのだろう。
岳のまっすぐな視線に、私はうつむいた。
「……分かったわ」
「姫様……!」
「でも城の者が現れたら、すぐに逃げて」
「……」
「約束して、岳」
「……はい」
「話は終わったかい?」
ふわぁと欠伸をする蒼玄。のんきな姿に岳はじとりと見たあと、蒼玄の背から広がる黒い翼に目線を移した。
「蒼玄と言ったな。その翼、もしや天狗の類いか?」
「そうだ。人間と天狗の血が半分ずつ流れている」
「なぜ天狗のお前が、温泉を……?」
「今日はもう遅い。明日、道中で説明してやろう」
「……」
岳はしぶしぶ頷いた。そして鞄の中から男性用の着物を取り出し、「寝具はこちらをお使いください」と手渡してくれる。礼を言い、着物にくるまるようにして床に寝そべる。洞窟内に冷気も漂っていたが、たき火のおかげで暖かい。
火の揺らめきを見ているうちに、あっという間に夢の世界へ旅立ってしまった。