雪原での戦いが終わり、私たちは瑞穂城へ向かって歩を進めていた。
 私、蒼玄、岳、華怜の足音だけが響く。刺客たちを連れて行くのは困難だったため雪原に置いてきた。瑞穂城にいる者に刺客の場所を伝え、彼らの判断に任せることにした。

 縄で縛られた刺客たちの大半は諦めたように頭を垂れ、残りの者は私に対して怯えの色を示した。その視線を直視することができず、私はそっと目線を逸らした。

 縄の先端を握る岳の表情は硬く、時折後ろを振り返っては華怜の様子を確認した。彼の目には義務感や罪悪感など、複雑な感情が宿っている。
 華怜は両手首を荒縄で縛られ、口には自死することを防ぐため猿轡を噛ませている。彼女の目は虚ろで、時折狂気の色を帯びては私たちを睨みつけた。

 私は岳の隣に並び、見上げながら名を呼んだ。


「岳」
「はい」
「なぜ……華怜に私たちの居場所を教えたの?」


 静かに問えば、岳は一瞬目を閉じ、再び開いた。苦悩を滲ませた声色で彼は吐露した。


「氷織様の居場所を教えなければ、姉さんを殺すと……」


 瑞穂城へ向かう途中、岳は裏切った理由の一部始終をぽつりぽつりと語ってくれていた。

 私が裸足で城下町を歩かされ、民衆から石を投げつけられたあの日、岳は華怜から偽の任務を任されていた。城へ帰ってきた岳は、私の姿がなくなっていることに気づき、慌てて瑞穂城を発った。

 洞窟で私と再会して安心したのも束の間。華怜が何をしてくるか分からないと警戒を強めた彼は、烏助に情報収集を頼んだ。
 しかし瑞穂城から戻ってきた烏助の足には、紙が結ばれていた。紙を開き、岳は青ざめる。

「氷織の場所を逐一報告しなさい。さもなければ城下町に住む姉の命はない」

 それを読んだときの岳の苦しみはどれほどのものだっただろうか。

 岳が城を飛び出す数日前、彼女は祝言をあげたばかりだったそうだ。幼い頃に両親を亡くし、家族と呼べるのは姉だけだったと彼は語っていた。そんな苦楽を共にしてきた姉と、今まで仕えてきた私を天秤に乗せ、彼は苦しみの末、前者を選んだ。

 私の居場所や次の目的地が書かれた紙を、烏助の足に巻きつける。だが私を裏切っているという罪悪感は、徐々に彼を蝕んでいった。


「やはり自分は、氷織様を裏切れないと思いました」


 彼は苦しそうに呟いた。
 罪悪感の渦に溺れるような日々の中、彼が最後に出した答えは、華怜を亡き者にすることだった。瑞穂国の長である国司の娘を殺す。露呈すれば処刑は免れない。姉にも会えなくなるだろう。

 しかし岳は覚悟を決め、華怜に刀を振った。


「……これが事の顛末です」


 苦しげな岳の口調に胸が痛む。
 ちらりと華怜の方を盗み見れば、彼女は私を鋭く睨みつけていた。そこに反省の色は全くない。彼女は一体どれだけの人を痛みつければ満足するのだろう。
 そのとき今まで無言でいた蒼玄が口を開く。


「……すべてを一人で背負おうとするな」


 彼らしくない、厳しい口調だった。
 岳は眉根に深い皺を刻み、うつむいた。重い沈黙のあと「あぁ」と静かに頷いた。


 雪原から数刻ほど歩き、私たちは瑞穂城へと到着した。
 かつて私を追放した場所に戻ってくるとは思わなかった。胸の中で複雑な感情が渦巻く。城門の前で見張りをする衛士は、私たちの姿を捉えて驚きの声をあげた。


「か、華怜様……」


 私は一歩前に出て、衛士たちに命じた。


「父に伝えてください。雪代氷織が戻ってきたと」


 かつて蔑まれ、忌み嫌われていた側室の娘に命令されたことが気に食わなかったのか、衛士たちの顔に怒りの色が滲んだ。私はその反応を見て、帯の間に差した脇差しから刀を抜く。そして華怜の首筋にあて、冷ややかな目で見つめ返した。


「この場で首を落としてもいいのですよ?」
「……っ、少々お待ちください」


 衛士たちは慌てて城の中へと駆け込んでいく。蒼玄は「やるねぇ」と口笛を鳴らした。

 四半刻ほど経った頃、衛士たちがやってきて城の大広間へ案内された。

 大広間の中心に座らされた私たちは、上段の間に座る男を見つめる。離れにいた頃はほとんど会うことはなかったが、そこにいたのは紛れもない私の父だった。

 父は上段の間で脇息に体を預け、こちらを見下していた。彼の後ろには、金地に勇ましい虎の姿が描かれた豪華絢爛な屏風が立てられている。自身が持つ権威と富を主張しているようだ。広間には声を発することさえも許されない、殺気だった沈黙に包まれていた。

 私たちの周りには武士たちが囲むように座っている。彼らの目に浮かぶ感情は様々だ。

 縄で縛られた華怜の姿を見て憤る者。
 国に反旗を翻すのではないかと警戒心を強める者。
「氷雪姫」と影で呼ばれていた無力な姫が突然現れて困惑する者。

 父の冷たい眼差しが、私の全身を射貫いた。
 しかし私は感情を表に出すことなく、淡々と静かに言い放つ。


「取引をしたいのです」
「取引だと?」
「はい。今から申し上げる三つの条件を呑んでください」


 父は不服そうに鼻を鳴らす。私は彼の目をまっすぐに見据えた。


「一つ目は、華怜を正当に裁くこと。彼女に罰を与えてください」


 その言葉に華怜の体が小さく震えた。父の表情は全く変わらない。


「二つ目は、瑞穂国をより良い国にしていくこと。税を軽減し、民の生活を改善してください」


 そこではじめて父の顔に感情が浮かんだ。額には青筋が張り、殺気を帯びた鋭い目線でこちらを睨む。
 かつての自分なら萎縮していただろうが、今の私は驚くほど落ち着いていた。怯むことなく話を続ける。


「そして三つ目は、私たちに危害を加えないこと」


 言い終えると、大広間に重い沈黙が流れた。私は背筋をまっすぐに伸ばし、ただ父の目を見据え続ける。父はゆらりと体を起こし脇息を強く叩いた。


「そんな条件、呑めるわけないだろう!」


 父の怒声が大広間に響き渡った。城全体が細かく振動し、周りにいた武士たちに怯えの色が走る。顔は怒りで真っ赤に染まり、額には血管が浮き出ていた。
 しかし私は顔色を一切変えることなく、何の感情を浮かべずに父の目を射た。その反応が気に入らなかったのか、彼はさらに声を張り上げる。


「民など所詮は税を納めるための道具に過ぎん! ふざけたことをぬかすな!!」


 激怒する姿を私は悲しい目で見つめた。
 父は一度手で顔を覆い、片目でこちらを睨んでくる。その目に歪んだ感情が滲んでいるのが見えて、膝の上にのせた拳を握りしめた。


「何が望みだ?」
「……?」
「地位か? 金か? お前の望み通りのものをくれてやろう」


 先ほどまで浴びせられていた言葉と全く異なることを言われ、私は混乱の渦に叩きつけられた。「何を、言っているのですか」とようやく言葉を紡ぐ。声を震わせないようにすることで精一杯だった。


「代わりにお前の力を、私のために使え」


 そう命じられ、目を大きく見開いた。顔から血の気がひいていく。


「お、お父様は私の力を、ご存じだったのですか……?」
「当たり前だろう。何のために歴史書を漁り、春蕾の一族の特徴を持つ奴らを血眼になって捜したと思っている」
「なにを、言って……」
「お前の母を孕ませたのはよかったが、力を使わぬなどとぬかしやがって……」


 自分は何を聞かされているのだろう。
 父の言葉を拒否したいのに、頭では理解してしまう自分がいる。
 呼吸が浅くなり、目の前がぐにゃりと歪み、霞んでいく。「氷織!」「氷織様!」と蒼玄と岳が呼ぶ声を頼りに、必死に意識の糸をつなぎ止めた。

 荒く呼吸をつき、私は息を整えようと努力した。目の前の父は、私の焦燥した様子にも眉一つ動かさない。

 頭の中に浮かんでいたのは、ここで産まれて瑞穂城から追い出されるまでの十七年の日々だった。

 うっすらと記憶に残る母の顔は、悲しみに満ちたものばかりだ。
 どれほどの差別と苦しみを受けてきたのだろう。母はいつも頬を涙でぬらし、痩せ細った体でひたすら念仏を唱えていた。

 城の離れでの暮らしを思い出す。暖もなく、食べ物も十分に与えられなかった日々。「なぜ」と幾度となく、窓の外に降り続ける雪に投げかけた。
 周囲の冷淡な視線を浴び続け、義妹である華怜にも迫害された。「お姉さま」と甘ったるい声で呼ぶ華怜と、背筋を震わせる私。優雅な笑みの裏に隠された残酷さに、私は常に怯え続けていた。彼女の手によって受けた痛みや屈辱は、今でも鮮明に覚えている。
 胸の奥で暗い感情が押し寄せ、全てを諦めてしまいたいような心地になる。この体に眠る力を解放し、この場にいる全員を凍らせてしまいたい衝動に駆られた。

 そのとき、私の肩は優しい体温で包まれた。見上げると蒼玄が力強い光をたたえて私を見つめている。

(そうだ、私は)

(もう一人じゃない)

 拳を握りしめ、体の震えを止めた。もう恐れはなかった。父の顔をまっすぐに射貫けば、彼の顔にわずかに動揺の色が見えた。


「地位も金も望んでおりません。私の望みは、三人で平和に暮らすこと。それだけです」
「そんな望みが叶うわけないだろう!」
「では……」


 静かに言葉を続ける。


「災いがこの国に訪れるでしょう」


 冷たく不敵に笑えば、父は一瞬だけ怯んだ。しかしすぐに怒りに満ちた顔になり「捕らえよ!」と周りの武士たちに命じる。
 そのとき、蒼玄が羽団扇を軽く振った。大広間に小さな嵐が吹き荒れ、そこにいた者は腕で顔を覆う。そして風が止んだときには、私たちの姿はいなくなっていた。


 *


 蒼玄が起こした風と共に逃げ出した私たちは、瑞穂国の城下町の入り口に降り立った。中心を走る大通りは雪に覆われていたが、雲の隙間からは晴れ間が見えていた。

 雪道には幾つもの足音が刻まれ、絶え間ない人の流れを示している。通りの両側には軒を連ねる店が建ち並び、屋根には厚い雪が積もっていた。

 商人たちは雪の寒さにも負けず、声高に商品を売り込んでいる。
 通りの脇では、子どもたちが雪だるまを作って遊んでいた。彼らの賑やかな声が、町に明るい音色を添えている。

「二つ目は、瑞穂国をより良い国にしていくこと。税を軽減し、民の生活を改善してください」

 父に提示した取引が脳裏に蘇る。
 三つの取引は瑞穂城へ向かう途中、三人で相談して決めたものだった。「華怜を裁くこと」「私たちに危害を加えないこと」、この二つは必ず求めようと意見が一致したが「民の生活の改善」については求めるつもりはなかった。

 華怜に偽りの噂を流されたとはいえ、私に暴言を吐き、石を投げつけてきた民衆たち。憎んでいないと言えば嘘になる。このまま重税に喘ぎ、私の苦しみをわずかでも分からせてやりたい気持ちもあった。

 しかし螢泉郷で出会った人たちや、霧雨の里で出会った女将、様々な人たちとの出会いを経て感じたのだ。

(人は、一人で生きているわけではない)

 誰かが物を作り、それを買う人がいる。蛍の泉のように、町の大切な場所を守護する人がいる。古い言い伝えを誰かに語り継ぐ人がいる。人々の営みは複雑に絡み合い、糸を織るように歴史は積み重なっていく。
 瑞穂国の人々が重税に喘ぐことになれば、おそらく別の国の人々も打撃を受けるはずだ。それだけは避けたかった。


「あの男は取引を呑むだろうか……」


 蒼玄が不安そうに呟く。私は父の怒りに満ちた顔を思い出し、首を横に振った。
「分かりません……」と答えれば、吐息が白く染まっていく。雲の切れ間から覗く青空を慈しむように見つめ、私は両手を天に向けて広げた。


「これが、私にできる最後の警告です」


 私がそう呟いた瞬間、厚い雲が空を覆い、青空を隠した。そして雪がちらちらと降り始める。「雪だー!」と子どもたちがはしゃぐ声がする。私は祈るような気持ちでしばらく雪を見つめ、「行きましょう」と蒼玄と岳に言った。

 私たちは、雪が降り続ける瑞穂国を後にした。