十年前──


「氷雪姫?」
「このところさ、雪がやたら多くてよ。作物がろくに実らねえんだ。城にいらっしゃる姫様が生まれなすったせいだって、みんな噂してやがるぜ」


 目の前を歩く馬と、馬に乗る上質な服を着た依頼主の背中を見つめながら男は説明する。俺は「ふうん」と興味なく頷いた。


 五人家族で、贅沢ができるほどではないが、不足ない生活を送っていた自分。しかし七歳の頃に流行った疫病により、両親と妹が亡くなった。
 生き残ったのは姉と俺だけ。武家の子息として父から剣術の教えをうけていたので、旅の護衛などで日銭を稼いでいた。子どもだと見下され買い叩かれていたが、他に稼げる手段がなかった。

 十歳の頃、俺の噂を聞きつけた城の役人がやってきた。


「見張り、ですか?」
「あぁ、国司の娘である氷織様の見張りをしてもらいたい」


 旅の護衛よりも危険が少なく、金払いもいい。しかし俺はすぐに首を縦に振らなかった。甘い話には裏があることを、嫌というほどを知っていたからだ。


「なぜ自分が、そんな高貴な方の見張りに?」
「お前は知らなくていい」


 疑問を口にしたが一蹴されてしまう。俺が口をつぐめば、役人は袋の中身を床にぶちまけた。金色に輝く小判が十枚。俺の目の色が変わったことに気づいたのだろう。役人はにやりと笑って言った。


「この仕事を請ければ、前金でこれをやろう」


 一年、汗水垂らしてやっと手に入るほどの金だった。

 日中は城下町の料理屋で客に酒肴を運び、家に帰ればわらじを編んで内職をする姉の姿が脳裏に浮かぶ。この金さえあれば美味しいものを食べさせることも、きれいな着物を買うこともできる。俺はごくりと唾を飲み込み、頭を下げた。


 明日、役人に案内され氷織様がいるという城の離れへ案内された。

 こんなところに本当に国司の娘が?と思うほど古びた外観。
 建物の中に入れば、かび臭さと古木の匂いが鼻を突いた。廊下を歩けば軋む音が鳴り響き、足を踏み外せば朽ちた板が抜け落ちそうだ。人の気配はないが、時折、壁の中を小動物が走り抜ける音が聞こえてくる。

 氷織様の部屋は、離れの一番奥にあった。

 役人が黄ばんだ襖を開ければ、そこには小柄な女の子がいた。天井から糸で吊されているのかと思うくらいに、ぴんと背筋を伸ばしている。


「氷織様」
「はい」
「新しい見張り役です」
「はい」


 役人はそれだけ言って去ってしまった。俺にくだされた命令は一つだけ。

「氷織様を必ずお守りしろ」

 国司の娘だというのに、こんなみすぼらしい離れの部屋に押し込められている。
 下女以上にこき使い、酷い扱いをしているくせに、彼女を守れという。混乱で目眩がしそうだった。

 氷織様は立ち尽くしている自分を見つめた。髪は乱れ、着物も古くさいが、きれいな顔立ちをしている。そして一番目を引いたのが、露草色の瞳だった。今までそんな色をした人を見たことがなかった。


「あなた、お名前は?」
「岳と申します」
「そう、よろしくね」


 そう言って、彼女は目を細めた。澄んだ声と屈託のない笑顔に思わず見惚れてしまう。

 それから氷織様をお守りする日々がはじまった。
 毎朝、日の出とともに氷織様の離れへと足を運ぶ。

 彼女の一日は、粗末な食事からはじまる。小さな木の椀に盛られた、粗く挽かれた雑穀米。時折、黒い粒が混じっているのが見える。虫か、それとも石ころか。どちらにせよ城の姫君が口にするべきものではない。
 彼女は粗食を前に丁寧に手を合わせ、黙々と口に運ぶ。

 食事を終えると、過酷な労働がはじまる。離れの掃除、洗濯、時には庭の手入れまでも。本来なら下女がするべき仕事を、姫君である氷織様が文句も言わずにこなしている。
 数人の下女も派遣されているが、氷織様と話すことは滅多にない。彼女たちは氷織様を見るたびに、軽蔑の目線を向け、時には悪意ある噂をぶつけた。


「彼女が生まれてから雪が長く降り続いて……」
「災いの子ってもっぱらの噂よ」


 氷織様はそんな言葉を聞いても表情を変えず、淡々と仕事をこなしている。自分はそんな彼女の背中を、やりきれない気持ちで見つめていた。役人にも状況を伝えたが「危害を加えられていないのなら放っておけ」と言われてしまう。

「弱きを助け、強きをくじくは武士の誉れなり」

 それが父から受けた武士道の教えだった。
 しかし俺は、離れで弱者として扱われている氷織様を見て、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

 ある寒い冬の朝のことだった。
 離れを巡回していると、氷織様が窓辺で何かをしていることに気づいた。近づいてみると、彼女は窓の外にいる小鳥たちに米を与えていた。


「姫様……」


 名を呼べば、彼女はゆっくりと振り返った。そして少し照れくさそうに笑ったあと、小鳥たちの方にまた向き合った。


「この間、怪我をしているのを見てね。早く元気になってほしいから……」


 鳥たちを慈愛に満ちた顔で見つめる氷織様に、俺は言葉を失った。
 自身も十分な食事を与えられていないというのに小さな生き物のことまで気遣う。そんな人に、今まで出会ったことがなかった。

 はじめは氷織様を「可哀想な人」だと見なしていた。だから味方でいようと思っていた。それが亡くなった父の教えだったからだ。
 しかし氷織様が、ただの可哀想な人ではないと思い始めたのはいつからだっただろう。

 足を怪我していた下女のために塗り薬を作り、「これを岳から渡して欲しい」と頼まれたときだろうか。
 日々の疲れでうたた寝してしまった自分の体に、いつの間にか羽織がかけられたときだろうか。

 旅の護衛をしていたとき、醜い大人たちの粗暴を見てきた。子どもだからと買い叩かれ、反論すれば殴られることもあった。「なぜ自分がこんな目に」と恨みを吐き、涙を流す日もあった。

 しかし氷織様は違う。家族からも周囲からも迫害され、離れから逃げ出すことも許されない。自分よりはるかに過酷な状況にいるにも関わらず、他者を思いやる心を失うことがない。その限りない思いやりと強さに、必ず彼女を守り抜きたいという願いが大きくなっていった。


 自分が氷織様の見張り役に任命されて、早くも十年以上が経過した。彼女は十七歳になった。
 今、目の前にいる彼女はまるで人形のようだった。変化を目の当たりにしてきた俺は、やるせない気持ちで唇を噛むことしかできない。
 氷織様と初めてお会いした頃は、まだ笑顔を見せることがあった。下女たちの冷たい囁き声は聞こえたが、今と比べれば穏やかな日々だったと思う。

 そんな日々は華怜様が現れたことにより、完全に壊されてしまった。

 今から十年ほど前だろうか、正室の娘である華怜様が突然やってきた。氷織様の部屋に押し入り、中から大きな物音と氷織様の悲鳴が聞こえてくる。胸が張り裂けそうになりながらも、身分ゆえに止めることもできず、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

 その日以来、氷織様の瞳から光が失われていった。露草色に輝いていた瞳が徐々に曇っていく。まるで魂が少しずつ抜け落ちていくかのようだった。


「姫様……」


 名を呼んでも、彼女はただ頷くだけ。その反応にさえ、以前のような温かみはなくなっていた。
 月日が流れるにつれ、氷織様の反応はますます希薄になっていった。華怜様が来ても反応を見せず、ただ虚ろな目で宙を見つめるだけ。その姿に心を痛めながら、どうすることもできなかった。

 痛ましい悲劇が起きたのは、ちょうど一年前のことだった。
 ある朝、いつものように挨拶しても彼女からの返事はなかった。最初は体調を崩されたのかと思ったが、氷織様の様子を見て血の気が引いた。


「声が……」


 俺は必死に語りかけたが、氷織様は唇をわずかに動かすだけだった。その瞳には、もはや何の感情も宿っていなかった。

 まるで冬の訪れのようだった。
 華やかだった花が萎れ、木々が葉を落とし、そして最後には湖面が凍りつくように。少しずつ、しかし確実に、氷織様の心は凍っていった。

(どうして、こんな優しい方が)

 俺は絶望の淵で、ただ泣き続けることしかできなかった。


「岳?」


 突然、名を呼ばれ我に返る。パチパチと火が爆ぜる音がする。どうやらたき火を見ながら物思いに耽ってしまったようだ。
 氷織様は心配そうに自分を見つめていた。その目は、お会いしたとき以上の輝きを放っている。

 人形のようだった彼女は変わった。その事実が嬉しくもあり、心にちくりと棘が刺さるような心地もする。
 彼女を変えたのは蒼玄の存在だ。長年、氷織様の傍にいながら自分は何もできなかった。氷織様の心が凍っていくのを、ただ見つめることしかできなかった。
 無力さを痛感し、やるせない気持ちになる。

 彼女は楽しそうに自分との思い出や、旅であったことを話していた。その姿に胸が熱くなる。
 そして氷織様は言葉を切ったあと不意に微笑んだ。長い冬の後に見た最初の花のように、儚くも美しい微笑みだった。


「ありがとう、一緒に来てくれて」


 氷織様に感謝を伝えられ、涙がじわりと浮かぶ。胸が張り裂けそうなほど痛かった。
 自分は湧き上がる思いを秘めたまま「いえ……」と静かに頭を下げた。




 次の日、渓谷を超えた先には果てしなく広がる雪原が広がっていた。
 ここからは瑞穂国に足を踏み入れることになる。次の目的地へ行くためには致し方ないと分かっていても、城の離れでの暮らしを嫌でも思い出してしまう。張り裂けそうな胸を押さえた。

 遠くには白銀の山々がそびえ立ち、頂は灰色の空と溶け合っている。静寂を破るのは時折吹き抜ける冷たい風だけだ。
 周囲には木々もなく、ただ銀世界が広がっている。雪の反射する光が眩しく、私は顔を隠すように菅笠を深くかぶりなおした。

 そのとき、蒼玄の足がぴたりと止まった。どうしたのだろうと見上げると風で雪が舞い上がった。冷たい雪の粒が顔にあたり思わず目を細める。そして雪の幕が薄れ、現れた人の影を捉えた瞬間、顔から血の気がひいていくのが分かった。


「華怜……」


 一町ほど先の場所に、紅色の着物の上に白い毛皮を羽織った華怜が立っていた。美しい顔に冷酷な微笑みを浮かべ、瞳が氷のように冷たく光っている。
 彼女の後ろには、黒装束の刺客たちが無言で並んでいた。二十人はいるだろう。全員が顔を黒い布で覆い、手には鋭い刀を握っている。


「お久しぶりですわ、お姉さま」
「な、なぜここが……」


 やっとの思いで絞り出した言葉に、華怜は小さく笑った。


「そんなの簡単よ。あなたの忠実な従者が教えてくれたのよ」


 華怜は微笑むと、烏助が彼女の肩に止まった。全身の血の気がひいていく。振り向いたが、今まで後ろからついてきた岳の姿はなかった。再度前方を見れば、彼女に跪いている岳の姿があった。そこで全てを理解してしまい、足下が崩れていくような感覚が襲ってくる。


「岳……!」


 裏切られた痛みが胸の内を切り裂いていく。脳裏に浮かんでいたのは、昨晩、悲しそうに微笑む岳の横顔だった。
 私の呼びかけにも岳は顔を上げず、ただ地面を見つめたままだった。華怜は楽しそうに手を伸ばしてくる。


「さあ、お姉さま。おとなしく死んでくれるかしら?」


 その言葉を皮切りに、岳はばっと顔をあげた。そして鞘から刀を素早く抜き、華怜に斬りかかる。
 しかし彼女は、岳の攻撃を予測していたように軽々とかわした。体勢を崩した岳はそのまま刺客に押さえつけられる。


「アンタは絶対に裏切ると思ったわ」
「……くっ」


 顔を歪ませる岳と、高笑いと共に言い放つ華怜。
 背中に腕を回され、刺客の一人に縄で拘束されてしまう。華怜は靴で岳の頭を踏み、ぐりぐりと雪の中へ押し込んだ。


「大切な姫様が殺されるところを見てればいいわ」


 彼女の歪んだ笑みに、私は思わず後ずさりする。その瞬間、刺客たちが扇状に広がりはじめた。彼らの発する殺気が遠くにいても伝わってくる。群れをなす狼のように淡々と効率的にこちらを向かってきた。


「はあっ!」


 蒼玄の羽団扇が空を切る。その一振りで、まるで見えない大鎌が走ったかのように数人の敵が吹き飛ばされた。粉雪が舞い上がり、白い霧のように彼らを包み込む。
 彼の動きは風のようだった。軽々と敵の攻撃をかわし、翼を広げて空中に舞い上がる。漆黒の翼が陽光を受けて輝き、上空から強烈な風の刃を放った。

 しかし敵の数は多く、彼らは執拗に攻撃を仕掛けてくる。雪原では身を隠すこともできず、蒼玄は向かってくる刺客の攻撃を受け続けた。

 一方で私は茫然自失のまま立ち尽くしていた。岳の裏切り。華怜の出現。そして今、目の前で繰り広げられる壮絶な戦い。あまりの展開の速さに、私の思考が追いつかない。


「氷織っ!」


 蒼玄の警告に、我に返る。気がつくと、一人の刺客が私に向かって走ってきていた。恐怖で体が硬直する私の前で強い風が吹き、その刺客を吹き飛ばした。


「大丈夫か?!」


 蒼玄が私の傍に駆け寄ってきた。荒く息をついている。私は小さく頷いたが、言葉が出てこなかった。


「くそっ、あの半天狗を何とかしろ!」


 刺客の怒鳴り声が聞こえた。その声に、更に多くの刺客たちが襲いかかってくる。
 蒼玄は目を瞑り、言葉を紡ぎはじめた。周囲の空気が変容し、鳥の子色の長い髪がゆったりと宙を舞う。


「天地の息吹を司り給う 清浄なる風の神よ

科戸の風(しなとのかぜ)の天の八重雲を 吹き放つことの如く

御威光を此処に顕し 大いなる風を起こし給へ」


その瞬間、凄まじい突風が吹き荒れる。雪が勢いよく舞い上がり、刺客たちは次々と吹き飛ばされていく。

 しかしその攻撃の後、蒼玄の動きが明らかに鈍くなったのが分かった。彼の呼吸が荒くなり汗が額を伝っている。その隙を突くように新たな刺客たちが襲いかかってきた。蒼玄は必死に応戦するが、徐々に追い詰められていく。

 私は何もできずただ見ているしかなかった。無力感が胸に広がり、目に涙が溢れる。


「やめて……お願い、やめて……」


 私の声にならない叫びは戦いの音にかき消されてしまう。

──そのときだった。


「動くな!」


 突如、私の首筋に冷たい刃物が押し当てられた。蒼玄は私の方を振り向き、その瞬間、彼の顔が驚愕と恐怖で歪んだ。


「氷織!」


 華怜は満足げに笑って近づいてきた。


「さて、半天狗さん。これでおとなしくしてくれるかしら? でないと、お姉さまの首が飛ぶわよ」
「卑怯な……!」


 蒼玄が歯を食いしばって、空中から華怜を見下した。私は震える声で懇願する。


「蒼玄、逃げて……!」


 蒼玄は私を見つめ、一度ふっと笑った。まるで諦めたような微笑みに胸が騒ぐ。
 彼はゆっくりと、華怜の前に降り立った。私はその様子を絶望しながら見ることしかできない。


「そう、その調子よ。武器を捨てて、大人しくしてなさい」


 蒼玄が手に持っていた羽団扇を雪の上に放り投げるのを見て、華怜は楽しそうに笑った。


「やめて! お願い、蒼玄を……!」


 刺客から逃げだそうと、抵抗する。しかし首に当てられた刃物が更に強く押し付けられ、身動きが取れない。
 涙をこぼす私の姿を見ながら、華怜は恍惚とした表情を浮かべ、刺客の一人から刀を受け取った。


「さぁ、逃げないようにしないとね」


 私は恐怖に震えながら、華怜を見つめた。彼女の目には底知れぬ狂気が宿っていた。
「何を……」と私の言葉が途切れたその瞬間、華怜は手に持っていた刀を振り上げた。鋭い刃が、空気を切り裂く。


「ぐあっ!」


 蒼玄の悲鳴が、山々にこだました。
 彼の背中から、美しい黒い翼が切り離され、地面に落ちていく。雪面にゆっくりと赤い染みが広がっていき、私は慟哭した。


「蒼玄っ!」


 私は叫びながら、彼の元に駆け寄ろうとした。しかし「動くな!」と華怜の部下たちに拘束され、動くことができない。華怜の高笑いが響く。


「あぁその顔よお姉さま! あなたの絶望に満ちた顔がだいすきなの!」


 狂ってる。
 私は呆然と華怜を見つめていた。目の前の景色が一瞬にして歪んでいく。現実の色彩が薄れ、過去に受けた言葉や暴力が鮮明に蘇ってきた。心臓が早鐘を打つ。

(なぜ……なぜ、そこまで私を嫌うの)

 どろりと澱のような思考が巡り、一つの答に辿り着く。奥歯を強く噛みしめた。

(私を、人だと思っていない)

 幼子がおもちゃを床に叩きつけるように、無垢な瞳で蟻をつぶすように。
 そこには相手の感情や尊厳などはない。ただ楽しいから、ただ興味があるから、壊し続ける。

 そのとき今まで隠れていた白雪が、怒ったように華怜に突進した。不意打ちで避けることができなかったのか、彼女の頬に傷ができる。たらりと頬から血が流れ、華怜は怒鳴り散らした。


「なによこの汚い鳥!」


 再び突進しようとする白雪を握り、地面へと叩きつけた。「チチッ」と痛々しく悲鳴をあげる鳴き声が耳に届く。


「白雪!」


 私が叫べば、華怜は再び恍惚とした表情を浮かべた。
 ぞわりと体が震えるのを感じながら、地面に叩きつけられた白雪や、翼を切り落とされた蒼玄を見つめる。背中から鮮血を流し続け、がくりと項垂れた蒼玄の姿が目に焼き付く。

 突然、私の中で様々な記憶が駆け巡り始めた。蒼玄と初めて出会った日、彼が私を救ってくれたこと。一緒に旅をしながら、彼が調合した温泉に浸かったこと。飄々とした笑顔の裏には、惨い過去があったこと。お互いに寄り添いながら、暖を分け合ったこと。旅の間、笑い合い語り合ったこと……

 記憶が、まるで走馬灯のように私の中を駆け抜けていく。そして記憶と共に、腹から新たな感情が湧き上がってきた。

その瞬間、私の中で何かが壊れた。



 今まで感じたことのないような激しい感情が、私の体を巡り始めた。体中の血液が炎に変わったかのようだ。
 心臓の鼓動が激しくなり呼吸が荒くなる。指先が痺れ、全身が熱を帯びてくる。そして熱は私の中心へと集まっていった。体はひどく熱いが、頭の中は驚くほど冷静だった。
 感覚が研ぎ澄まされていく。


「おい、動くな!」


 私の首元に刃物をあてた刺客が叫んだ。一度、静かに目を閉じて深く息を吸い込む。その瞬間、周囲の空気が一瞬凍り付いた。刺客は「あっ……がっ……」と倒れた。見下ろせば彼の指先が凍っている。

 そのまま手を前に差し出せば、手のひらから細かな雪の粒子が湧き出した。はじめは霙のようだったが、やがて渦を巻きながら私の周りを舞い始める。雪の渦は次第に大きくなり、小さな吹雪のようになった。


「な……何!?」


 華怜の愕然とした声をあげた。しかし、私には気にする余裕はなかった。
 私は手を伸ばし吹雪を操った。近くにいた刺客たちがまず風の餌食になった。彼らの体は紙人形のように軽々と持ち上がり、遠くへと吹き飛ばされた。
 私に襲いかかろうとした刺客たちが見えたので、人差し指で素早く空をなぞる。すると氷の刃が、彼らを鋭く襲った。呻き声と共に倒れ込む。彼らの悲鳴が風にかき消されていく。


「なによこれ、なによこれ……!」


 華怜の絶望的な叫びが聞こえた。
 彼女は頭をかきむしり、憎悪に満ちた顔でこちらを睨んでいる。二十人ほどいた刺客たちは既に雪の中に埋まっており、ぴくりとも動かない。
 華怜が慌てて逃げようとしたので、足下に大量の雪を発生させて拘束した。引きつった顔でずりずりと後ずさりをする彼女を見下ろし、冷たく言い放った。


「華怜」
「ひっ」
「あなたを生き埋めにするわ。犯した罪を、苦しみながら悔やみなさい」


 指を軽く動かせば、華怜の顔が大きく歪んだ。その顔を見て、私は口だけの笑みを浮かべる。「許、して、お姉さま」と聞こえたが、無言で睨みつけた。

「許して」

 その言葉は私が何度も呟いた言葉だった。体を殴られたとき、母親を侮辱されたとき、民たちから石を投げられたとき、私はその言葉を祈るように呟き続けた。しかし華怜は救いの手など差し伸べることなく、ただ楽しそうにこちらを見下すだけだった。

 華怜の悲鳴が私を昂ぶらせていく。自分の中に湧き上がる力の大きさに酔いしれていた。どのように動かせば力を操れるのか、教えられてもいないのに、私ははっきりと認識していた。強大な力が体に馴染んでいるのが分かる。
 この力があれば、誰も私を傷つけることはできない。誰も私から奪うことはできない。この力さえあれば……

 恍惚の笑みを浮かべながら手を動かす。白い嵐が華怜に襲いかかろうとしたときだった。


「氷織!」


 突然、後ろから誰かに抱きしめられた。逞しい腕が私の体を拘束する。


「もういい……もういいんだ……」
「離して!」


 私は叫んで逃れようとしたが、蒼玄の腕の力がそれを許さなかった。目の前には怯えきった目でこちらを見てくる華怜がいた。今までされてきた数々の行為を思い出し、私は衝動のままに、腕を振ろうとする。蒼玄の懇願するような声が耳元で響いた。


「頼む、氷織」
「どう、して」
「お前は!」


 蒼玄は叫んだあと、絞り出すように言った。


「恨むだけの人生を歩まないでくれ」


 その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。振りかざした腕をぶらんと下ろす。体内に巡っていた様々な感情が、涙となって次々と流れていく。どうして、どうして。抱えていた様々な感情が一気に噴出し、終いには子どものように大声で泣き続けた。

 蒼玄は私の体をずっと抱きしめていた。彼の温もりに促されるように、私はしゃくり上げながら涙を流し続ける。言葉にならない思いが、嗚咽とともに口から漏れる。蒼玄はただ私の体を強く抱きしめ続けてくれていた。

 体内の怒りが少しずつ静まっていくのと同時に、吹雪が徐々に収まっていく。


「……私、は……」


 冷静になった頭で見渡すと、そこには雪の上に倒れる刺客たちや呆然とこちらを見る岳がいた。そこで初めて、自分が何をしようとしていたのかを理解し始める。私は強大な力を衝動のまま操り、多くの人々を殺めようとした。
 複雑な思いが渦巻き、呼吸が荒くなる。ひゅーひゅーと喉から空気だけが漏れていく。
 彼は私を落ち着かせるように、強く引き寄せた。


「大丈夫だ。もう、終わった」


 その言葉と共に、私の中の力が完全に静まる。雪原に再び穏やかな白銀の世界が戻ってくる。先ほどまでの激しい戦いが嘘のようだった。
 華怜は白目を剥いたまま気絶していた。雪に倒れ込む刺客たちも呻いたり動いたりはしているが、戦うほどの体力もないようだった。

 私の背中から温もりが消え、蒼玄は華怜の近くに立った。ぽたりぽたりと背中から流れる鮮血が雪の上に落ちる。
 そして私の瞳をまっすぐに見据え、静かに尋ねた。


「どうする?」


 私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。息は白い霧となって、冷たい空気の中へ溶けていく。


「城へ連れて帰りましょう。裁きを受けてもらいます」


 蒼玄は安心したように「あぁ」とだけ答えた。鞄の中から縄を取り出し、華怜をきつく縛り上げたあと遠くを見つめる。
 視線の先には、項垂れて座り込む岳がいた。私は鋭い痛みを感じながら、彼の場所まで歩いていく。雪を踏む音だけが、静寂の雪原に響いた。


「岳……」


 私は静かに呼びかけた。
 岳はゆっくりと顔を上げる。その目には薄い透明な膜が張られ、後悔が滲んでいた。


「私は……とんでもないことを」


 そこで言葉が途切れ、顔が歪んだ。

 華怜の傍で跪いた岳を見たとき、まるで誰かに刃物で突き刺されたような激しい痛みが私を貫いた。長年信頼し、頼りにしてきた人。私の唯一の味方だと信じていた人。その岳が、私を裏切った。その現実を受け入れられず、声を出すことさえもできなかった。


「申し訳ございません、氷織様。どんな罰でも受ける覚悟です」


 切れ長の瞳に浮かぶ後悔と悲しみに、私の心が揺れる。裏切られた怒りと、長年の信頼がぶつかり合う。
 その瞬間、記憶の奥底から懐かしい記憶が次々と蘇った。

 あの城で誰もが私を見捨てたときも、岳だけは味方でいてくれた。尽くしてくれていた。
 こっそり渡してくれた食事や着物、誕生日に摘んでくれた花、他愛のない話の中で浮かべてくれた微笑み。冷たい水の中で溺れそうになるような日々の中で、何度も何度も手を伸ばし、私を救ってくれた。

 長い沈黙の後、私は口を開く。


「……では、これからも私を守って」
「え……?」


 首を差し出すように頭を垂れていた岳は、驚いたように顔を上げた。私は優しく微笑む。


「あなたを許すわ。私の傍で罪を償って」


 彼の漆黒の瞳からぽろりと涙がこぼれた。「なぜ……こんな私を……」と困惑したように唇を震わす。
 その時、蒼玄がやってきて岳を縛っていた縄を小刀で切った。縄が雪の上に落ち、岳は自由になった両手を見つめている。


「さぁ立って、岳」


 手を差し出せば、岳は一瞬だけ唇を結び、震えながら手のひらを重ねた。


 そのあと私の命令に頷き、岳は雪原に倒れる刺客たちを縄で縛りはじめた。
 私と蒼玄は雪の上に座り、手当の道具を広げた。華怜が切り落とした片翼の跡から、鮮血が滲み出ている。見ているだけで心臓が握りしめられるように痛んだ。


「蒼玄、ごめんなさい。私のせいで……」
「気にするな。氷織は何も悪くない」


 どこまでも優しい彼の言葉に、涙が浮かんだ。
 泣いていることがばれないよう静かに鼻をすすり、器と薬草を手に取った。器で薬草をすり潰し、薬を作っていく。指先にとった薬を傷口に塗りながら語りかけた。


「ありがとう」
「ん?」
「私を止めてくれて。蒼玄が止めてくれなかったら、私は華怜と同じになってしまったわ」
「俺は手助けしただけだ。止められたのは……」


 蒼玄はそう言って、首だけ振り向いた。


「氷織の強さだ」


 彼の言葉に見開き、そして微笑みを返す。心地よい沈黙が私たちの周りを包んでいた。

 薬を塗り終わり、彼の背中に包帯を巻いていると、不意に蒼玄は「あ」と声をあげた。
 彼の視線を追うように見れば、雪の中から一つの若葉の芽が出ている。蒼玄は温泉の素材を選んでいるときのように楽しげに言った。


「もうすぐ、春だな」



 雪原での戦いが終わり、私たちは瑞穂城へ向かって歩を進めていた。
 私、蒼玄、岳、華怜の足音だけが響く。刺客たちを連れて行くのは困難だったため雪原に置いてきた。瑞穂城にいる者に刺客の場所を伝え、彼らの判断に任せることにした。

 縄で縛られた刺客たちの大半は諦めたように頭を垂れ、残りの者は私に対して怯えの色を示した。その視線を直視することができず、私はそっと目線を逸らした。

 縄の先端を握る岳の表情は硬く、時折後ろを振り返っては華怜の様子を確認した。彼の目には義務感や罪悪感など、複雑な感情が宿っている。
 華怜は両手首を荒縄で縛られ、口には自死することを防ぐため猿轡を噛ませている。彼女の目は虚ろで、時折狂気の色を帯びては私たちを睨みつけた。

 私は岳の隣に並び、見上げながら名を呼んだ。


「岳」
「はい」
「なぜ……華怜に私たちの居場所を教えたの?」


 静かに問えば、岳は一瞬目を閉じ、再び開いた。苦悩を滲ませた声色で彼は吐露した。


「氷織様の居場所を教えなければ、姉さんを殺すと……」


 瑞穂城へ向かう途中、岳は裏切った理由の一部始終をぽつりぽつりと語ってくれていた。

 私が裸足で城下町を歩かされ、民衆から石を投げつけられたあの日、岳は華怜から偽の任務を任されていた。城へ帰ってきた岳は、私の姿がなくなっていることに気づき、慌てて瑞穂城を発った。

 洞窟で私と再会して安心したのも束の間。華怜が何をしてくるか分からないと警戒を強めた彼は、烏助に情報収集を頼んだ。
 しかし瑞穂城から戻ってきた烏助の足には、紙が結ばれていた。紙を開き、岳は青ざめる。

「氷織の場所を逐一報告しなさい。さもなければ城下町に住む姉の命はない」

 それを読んだときの岳の苦しみはどれほどのものだっただろうか。

 岳が城を飛び出す数日前、彼女は祝言をあげたばかりだったそうだ。幼い頃に両親を亡くし、家族と呼べるのは姉だけだったと彼は語っていた。そんな苦楽を共にしてきた姉と、今まで仕えてきた私を天秤に乗せ、彼は苦しみの末、前者を選んだ。

 私の居場所や次の目的地が書かれた紙を、烏助の足に巻きつける。だが私を裏切っているという罪悪感は、徐々に彼を蝕んでいった。


「やはり自分は、氷織様を裏切れないと思いました」


 彼は苦しそうに呟いた。
 罪悪感の渦に溺れるような日々の中、彼が最後に出した答えは、華怜を亡き者にすることだった。瑞穂国の長である国司の娘を殺す。露呈すれば処刑は免れない。姉にも会えなくなるだろう。

 しかし岳は覚悟を決め、華怜に刀を振った。


「……これが事の顛末です」


 苦しげな岳の口調に胸が痛む。
 ちらりと華怜の方を盗み見れば、彼女は私を鋭く睨みつけていた。そこに反省の色は全くない。彼女は一体どれだけの人を痛みつければ満足するのだろう。
 そのとき今まで無言でいた蒼玄が口を開く。


「……すべてを一人で背負おうとするな」


 彼らしくない、厳しい口調だった。
 岳は眉根に深い皺を刻み、うつむいた。重い沈黙のあと「あぁ」と静かに頷いた。


 雪原から数刻ほど歩き、私たちは瑞穂城へと到着した。
 かつて私を追放した場所に戻ってくるとは思わなかった。胸の中で複雑な感情が渦巻く。城門の前で見張りをする衛士は、私たちの姿を捉えて驚きの声をあげた。


「か、華怜様……」


 私は一歩前に出て、衛士たちに命じた。


「父に伝えてください。雪代氷織が戻ってきたと」


 かつて蔑まれ、忌み嫌われていた側室の娘に命令されたことが気に食わなかったのか、衛士たちの顔に怒りの色が滲んだ。私はその反応を見て、帯の間に差した脇差しから刀を抜く。そして華怜の首筋にあて、冷ややかな目で見つめ返した。


「この場で首を落としてもいいのですよ?」
「……っ、少々お待ちください」


 衛士たちは慌てて城の中へと駆け込んでいく。蒼玄は「やるねぇ」と口笛を鳴らした。

 四半刻ほど経った頃、衛士たちがやってきて城の大広間へ案内された。

 大広間の中心に座らされた私たちは、上段の間に座る男を見つめる。離れにいた頃はほとんど会うことはなかったが、そこにいたのは紛れもない私の父だった。

 父は上段の間で脇息に体を預け、こちらを見下していた。彼の後ろには、金地に勇ましい虎の姿が描かれた豪華絢爛な屏風が立てられている。自身が持つ権威と富を主張しているようだ。広間には声を発することさえも許されない、殺気だった沈黙に包まれていた。

 私たちの周りには武士たちが囲むように座っている。彼らの目に浮かぶ感情は様々だ。

 縄で縛られた華怜の姿を見て憤る者。
 国に反旗を翻すのではないかと警戒心を強める者。
「氷雪姫」と影で呼ばれていた無力な姫が突然現れて困惑する者。

 父の冷たい眼差しが、私の全身を射貫いた。
 しかし私は感情を表に出すことなく、淡々と静かに言い放つ。


「取引をしたいのです」
「取引だと?」
「はい。今から申し上げる三つの条件を呑んでください」


 父は不服そうに鼻を鳴らす。私は彼の目をまっすぐに見据えた。


「一つ目は、華怜を正当に裁くこと。彼女に罰を与えてください」


 その言葉に華怜の体が小さく震えた。父の表情は全く変わらない。


「二つ目は、瑞穂国をより良い国にしていくこと。税を軽減し、民の生活を改善してください」


 そこではじめて父の顔に感情が浮かんだ。額には青筋が張り、殺気を帯びた鋭い目線でこちらを睨む。
 かつての自分なら萎縮していただろうが、今の私は驚くほど落ち着いていた。怯むことなく話を続ける。


「そして三つ目は、私たちに危害を加えないこと」


 言い終えると、大広間に重い沈黙が流れた。私は背筋をまっすぐに伸ばし、ただ父の目を見据え続ける。父はゆらりと体を起こし脇息を強く叩いた。


「そんな条件、呑めるわけないだろう!」


 父の怒声が大広間に響き渡った。城全体が細かく振動し、周りにいた武士たちに怯えの色が走る。顔は怒りで真っ赤に染まり、額には血管が浮き出ていた。
 しかし私は顔色を一切変えることなく、何の感情を浮かべずに父の目を射た。その反応が気に入らなかったのか、彼はさらに声を張り上げる。


「民など所詮は税を納めるための道具に過ぎん! ふざけたことをぬかすな!!」


 激怒する姿を私は悲しい目で見つめた。
 父は一度手で顔を覆い、片目でこちらを睨んでくる。その目に歪んだ感情が滲んでいるのが見えて、膝の上にのせた拳を握りしめた。


「何が望みだ?」
「……?」
「地位か? 金か? お前の望み通りのものをくれてやろう」


 先ほどまで浴びせられていた言葉と全く異なることを言われ、私は混乱の渦に叩きつけられた。「何を、言っているのですか」とようやく言葉を紡ぐ。声を震わせないようにすることで精一杯だった。


「代わりにお前の力を、私のために使え」


 そう命じられ、目を大きく見開いた。顔から血の気がひいていく。


「お、お父様は私の力を、ご存じだったのですか……?」
「当たり前だろう。何のために歴史書を漁り、春蕾の一族の特徴を持つ奴らを血眼になって捜したと思っている」
「なにを、言って……」
「お前の母を孕ませたのはよかったが、力を使わぬなどとぬかしやがって……」


 自分は何を聞かされているのだろう。
 父の言葉を拒否したいのに、頭では理解してしまう自分がいる。
 呼吸が浅くなり、目の前がぐにゃりと歪み、霞んでいく。「氷織!」「氷織様!」と蒼玄と岳が呼ぶ声を頼りに、必死に意識の糸をつなぎ止めた。

 荒く呼吸をつき、私は息を整えようと努力した。目の前の父は、私の焦燥した様子にも眉一つ動かさない。

 頭の中に浮かんでいたのは、ここで産まれて瑞穂城から追い出されるまでの十七年の日々だった。

 うっすらと記憶に残る母の顔は、悲しみに満ちたものばかりだ。
 どれほどの差別と苦しみを受けてきたのだろう。母はいつも頬を涙でぬらし、痩せ細った体でひたすら念仏を唱えていた。

 城の離れでの暮らしを思い出す。暖もなく、食べ物も十分に与えられなかった日々。「なぜ」と幾度となく、窓の外に降り続ける雪に投げかけた。
 周囲の冷淡な視線を浴び続け、義妹である華怜にも迫害された。「お姉さま」と甘ったるい声で呼ぶ華怜と、背筋を震わせる私。優雅な笑みの裏に隠された残酷さに、私は常に怯え続けていた。彼女の手によって受けた痛みや屈辱は、今でも鮮明に覚えている。
 胸の奥で暗い感情が押し寄せ、全てを諦めてしまいたいような心地になる。この体に眠る力を解放し、この場にいる全員を凍らせてしまいたい衝動に駆られた。

 そのとき、私の肩は優しい体温で包まれた。見上げると蒼玄が力強い光をたたえて私を見つめている。

(そうだ、私は)

(もう一人じゃない)

 拳を握りしめ、体の震えを止めた。もう恐れはなかった。父の顔をまっすぐに射貫けば、彼の顔にわずかに動揺の色が見えた。


「地位も金も望んでおりません。私の望みは、三人で平和に暮らすこと。それだけです」
「そんな望みが叶うわけないだろう!」
「では……」


 静かに言葉を続ける。


「災いがこの国に訪れるでしょう」


 冷たく不敵に笑えば、父は一瞬だけ怯んだ。しかしすぐに怒りに満ちた顔になり「捕らえよ!」と周りの武士たちに命じる。
 そのとき、蒼玄が羽団扇を軽く振った。大広間に小さな嵐が吹き荒れ、そこにいた者は腕で顔を覆う。そして風が止んだときには、私たちの姿はいなくなっていた。


 *


 蒼玄が起こした風と共に逃げ出した私たちは、瑞穂国の城下町の入り口に降り立った。中心を走る大通りは雪に覆われていたが、雲の隙間からは晴れ間が見えていた。

 雪道には幾つもの足音が刻まれ、絶え間ない人の流れを示している。通りの両側には軒を連ねる店が建ち並び、屋根には厚い雪が積もっていた。

 商人たちは雪の寒さにも負けず、声高に商品を売り込んでいる。
 通りの脇では、子どもたちが雪だるまを作って遊んでいた。彼らの賑やかな声が、町に明るい音色を添えている。

「二つ目は、瑞穂国をより良い国にしていくこと。税を軽減し、民の生活を改善してください」

 父に提示した取引が脳裏に蘇る。
 三つの取引は瑞穂城へ向かう途中、三人で相談して決めたものだった。「華怜を裁くこと」「私たちに危害を加えないこと」、この二つは必ず求めようと意見が一致したが「民の生活の改善」については求めるつもりはなかった。

 華怜に偽りの噂を流されたとはいえ、私に暴言を吐き、石を投げつけてきた民衆たち。憎んでいないと言えば嘘になる。このまま重税に喘ぎ、私の苦しみをわずかでも分からせてやりたい気持ちもあった。

 しかし螢泉郷で出会った人たちや、霧雨の里で出会った女将、様々な人たちとの出会いを経て感じたのだ。

(人は、一人で生きているわけではない)

 誰かが物を作り、それを買う人がいる。蛍の泉のように、町の大切な場所を守護する人がいる。古い言い伝えを誰かに語り継ぐ人がいる。人々の営みは複雑に絡み合い、糸を織るように歴史は積み重なっていく。
 瑞穂国の人々が重税に喘ぐことになれば、おそらく別の国の人々も打撃を受けるはずだ。それだけは避けたかった。


「あの男は取引を呑むだろうか……」


 蒼玄が不安そうに呟く。私は父の怒りに満ちた顔を思い出し、首を横に振った。
「分かりません……」と答えれば、吐息が白く染まっていく。雲の切れ間から覗く青空を慈しむように見つめ、私は両手を天に向けて広げた。


「これが、私にできる最後の警告です」


 私がそう呟いた瞬間、厚い雲が空を覆い、青空を隠した。そして雪がちらちらと降り始める。「雪だー!」と子どもたちがはしゃぐ声がする。私は祈るような気持ちでしばらく雪を見つめ、「行きましょう」と蒼玄と岳に言った。

 私たちは、雪が降り続ける瑞穂国を後にした。



 瑞穂国を去ってから一年が経った。
 私たちは温泉の素材を捜しながら、様々な国を転々としていた。その間、烏助が定期的に瑞穂国の情報をもたらしてくれた。
 切り株に座り、烏助の報告書を見ながら私はため息をつく。

 父は条件を呑まなかった。

 一つ目の条件、華怜を正当に裁くこと。

 命令をきかず、私を城から追放したこと。
 刺客を使い、私を殺そうとしたこと。
 すべての行いが父を激昂させた。

 しかし華怜にはまだ利用価値があると判断したらしい。父が彼女を裁くことはなかった。
 華怜は一月ほどは部屋に引きこもっていたが、ある日突然、皆の前に現れたそうだ。変わり果てた姿に下女たちは「ひっ」と悲鳴を小さく上げた。見下していた私に情けをかけられた事実は、彼女の誇りを粉々に砕いたのだろう。美しかった顔立ちは屈辱で歪み、見る影もなくなっていた。目は血走り、瞳孔が開き、理性の光を失っていたそうだ。

 その後、華怜は自暴自棄になり堕落の道を辿った。妻子がいる役人に言い寄り、国庫金で高価な酒や着物を購入した。正室の娘が粗暴な振る舞いをすることで瑞穂城内部の腐敗は進み、才がある者は逃げ出したという。


 二つ目の条件、瑞穂国をより良い国にしていくこと。

 しかし父は反対に、民たちの税を重くした。寒気が要因の不作や瑞穂城内部の腐敗も重なり、彼らは貧困に喘いだ。老人は口減らしのため自死を選び、娘たちは金を稼ぐために身を売りはじめた。治安も悪化し、瑞穂国の城下町には近寄らない方がいいと旅人の間で噂になっているほどだ。


 三つ目の条件、私たち三人に危害を加えないこと。

 瑞穂国を発ち、様々な国を転々としていた私たち。烏助の情報によると、父は血眼になって私や岳を捜しているらしい。刺客の場所を教えてくれた烏助や、列島の地理に明るい蒼玄のおかげで、今はまだ出くわしたことはなかった。

 蒼玄は呆れたように言う。


「まさか全ての条件を反故するとはな」
「そうですね……」


 私は呟き、膝の上に乗せた拳を握った。ここ数月ほどずっと浮かんでいた考えを口に出す。


「……蒼玄とは分かれて行動した方がいいでしょうか」


 父が狙っているのは私と岳で、蒼玄は巻き込まれているだけだ。罪悪感に襲われ提案したのだが、返ってきたのは不機嫌そうな声だった。


「氷織を男と二人きりにさせるもんか」
「……!」


 朱色の瞳が私をじっと見つめる。顔から火が出そうなほど熱くなっていった。穏やかに降り続ける雪の冷たさが心地よい。
 私の反応に蒼玄はけらけらと楽しそうに笑った。その余裕そうな表情がちょっと悔しくて睨むが、すぐに顔をほころばせ受け流されてしまう。

 そのとき肩に烏助を乗せた岳が現れた。真剣な表情で名を呼ばれる。


「氷織様」
「……来たのね」
「はい」


 彼は頷く。
 私は複雑な感情を抱えながら、空を眺めた。無限に広がるかのような空の下で、ひとつ、またひとつと雪がゆっくりと落ちてくる。まるで息を潜めたかのように静まり返った世界の中で、雪は穏やかに降り続けていた。
 白い息を吐きながら、私は呟く。


「災いが訪れるまで、あと少し」


 明朝、私たちは瑞穂国の城下町へやってきた。
 城下町の入り口あたりにそびえ立つ、木造の火の見櫓を見上げる。今は誰も見張っていないようだった。


「この様子じゃ、見張りなんかしても意味ないからなァ」


 私の視線に気づいた蒼玄が、町並みを眺めながら言う。
 普段であれば活気に満ちあふれている大通りは、異様なほど静かだった。あれほど賑わっていた通りには一人も歩いていない。

 岳には下で見張ってもらうようにお願いし、私と蒼玄は火の見櫓の階段をのぼっていく。そして最上階に辿り着いたとき、瑞穂城から黒煙があがっているのが見えた。うっすらと何かがぶつかる衝突音もする。

 半刻ほど経っただろうか。怒号の声が大きくなった。
 城下町の奥に、人々の群れが見えた。同時に家の中から多くの女性や老人たちも現れる。おそらく機が熟すまで家の中に避難していたのだろう。

 大蛇のようにうごめきながら、人々の群れは城下町の入り口に向かって動いていく。
 地味で質素な服を着た民たちの中心に、一点だけ鮮やかな色が見えた。

 華怜だった。

「国の宝」とまで讃えられていた華怜の姿は、今は惨めなまでに変わり果てていた。
 石畳や瓦礫で傷つけたのだろう。華やかな着物は引き裂かれ、泥と血で汚れていた。長く美しかった髪の毛は乱れ、雪道を裸足で歩かされていた。
 彼女の両腕は縄で後ろ手に縛られ、縄の先は怒り狂った民の手に握られている。華怜は地面を引きずられるようにしながら、前に進まされていく。彼女がよろめくたびに怒声が飛び変わった。

 家の中から飛び出した民たちも、次々と華怜に向かって罵声を浴びせていく。


「罰を与えろ!」
「お前のせいだ!」


 その光景を見て、立っていられないくらいの痛みが走る。

──同じだった。

 華怜の命によって城下町を歩かされたあの日と、何もかも、同じだった。

 彼女が傷だらけになっている様子を見ても、晴れやかな気持ちにはならなかった。悲しみと困惑と、様々な感情が渦巻き言葉にならない。嵐のように吹き荒れる感情によろけそうになったとき、私の手のひらに温かな体温が包んだ。
 見上げたそこには、朱色のまなざしがあった。
 荒立った心が少しずつ落ち着いていく。私は再び目の前の風景を見下ろした。

 そして群衆が火の見櫓の近くへ来たとき、華怜の目が私たちを捉えた。
 彼女の目が一瞬だけ、驚いたように見開く。次の瞬間、憎悪に満ちた鋭い光を放った。


「氷織ぃぃ!! お前がぁぁ!!!!!」


 彼女の叫びは、周囲の喧噪を切り裂くように響き渡った。狂気の炎を燃やしながら絶叫する。


「私を見下すなぁぁぁぁ!!!!!」


 華怜は狂ったように私への怨念の言葉を叫び続けていたが、長くは続かない。群衆に押し流され、再び人々の中に埋もれていった。そのまま城下町への外まで連れて行かれる。
 私はその様子を見えなくなるまで、ずっと眺めていた。

 町に再び静寂が戻ってきたとき、蒼玄は私の肩を抱いた。


「……氷織がしたことは間違っていない」
「……」
「この国はいずれ消えゆく運命だった」


 貧困に喘ぎ、攻めてきた民たちを前に、城を守るはずの衛士たちは逃げ出した。能ある者がいなくなった瑞穂城では、統率をとれる者もいない。あっという間に父は複数人の民に囲まれ、農具を何度も振りかざされ絶命したらしい。縄で引きずられていった華怜も、同じような最期を迎えるのだろう。

 私の選択は、多くの人を苦しませる結果になった。

 この選択が正しかったかは分からない。これからも分かることはないのだろう。
 胸に走る鋭い痛みに目を閉じる。この痛みが、この選択をした自分への罰だと言い聞かせながら、しんしんと降り続ける雪の冷たさを感じていた。


「行きましょうか」


 私の声がけに蒼玄は「あぁ」と相づちを打つ。火の見櫓の階段を降りると、見張りをしていた岳が近づいてきた。そして独り言のように呟く。


「……終わったのですね」


 私が頷けば、彼は生まれ育った城下町の方へ目を向けた。そこには人はおらず、閑散とした通りには静かに雪が降り続けていた。

 そのとき、城下町とは反対の方向から雪を踏む足音が聞こえた。後ろを振り向けば、そこには笠を深くかぶった一人の男性が立っていた。灰色の着物の上に、紺色の羽織を重ねている。腰には太い革の帯が巻かれ、短刀が差し込まれていた。

 警戒心を強める私たちの前で、男は笠をあげた。その顔を見て驚く。


「あなたは……」


 彼の顔を見て、私は開いた口が塞がらなくなった。私と同じ、露草色の瞳をしていたからだ。


「やはり春蕾の生き残りが……」


「春蕾」という言葉に私は目を見開く。その反応に男は確信を得たように頷いた。


「私の家に来ていただけませんか。ここから半刻ほどの場所にあります」


 *

 私たちは男に案内された家にあがり、机を挟んで座っていた。男は湯飲みに茶を淹れ、私たちの前に置く。礼を言いながらも湯飲みには手をつけず、男の顔を盗み見た。頬や額には細かい古傷がついていたが、恐ろしいほど顔の造形が整っていた。

「申し遅れました。私は、レオと申します」

 男は胸に手をあて名乗る。
 聞き馴染みのない名前にまばたきを繰り返せば、彼は苦笑しながら説明した。


「海の向こうにある国の生まれだと偽るため、この名前を使っています」


 彼は湯飲みに口つけ、お茶を一口嚥下した。湯飲みを置き「ふう」と息を吐く。


「少し、私の過去をお話ししてもよろしいでしょうか」


 私が頷けば、レオは自身の過去を語りはじめた。

 幼い頃に寺の前に捨てられ、住職の手によって育てられた。そこでは数人の捨て子が育てられていたが、珍しい瞳の色と国ではあまり見ないはっきりとした目鼻立ちによって虐めにあい、孤独な日々を送っていたそうだ。
 しかしある日、彼の珍しい瞳の色の噂を聞きつけて、ある男が里親として名乗り出た。そこから十年ほど彼に育てられた。


「衣食住も与えてもらい、高い教育も受けさせてもらい、周りから見れば裕福な子どもだったでしょう」


 そう語り、彼は言葉を切った。「しかしあの男は毎晩、私の寝室へやってきて……」と彼は暗い瞳で言葉を紡ぐ。あまりにも痛々しい表情に、私はそれ以上聞くことができなかった。

 彼は十六になったとき、里親の金を鞄に詰め込み、家から逃げ出した。寺にいた頃に独学で鍛えていた剣術と、里親の家で培った知識があったおかげで、食いっぱぐれることはなかった。今までの名前は捨てて「レオ」と名乗り、海の向こうの生まれだと嘘をつき、現在は旅商人として生きるようになった。

 その旅の途中で、春蕾の一族についての言い伝えを聞いたそうだ。


「里親は酒に酔ったとき、私の頬を撫でては『シュンライの生き残りだ』とよく言っていました。あのときは何のことか分かりませんでしたが……。春蕾の一族のことを言っていたのだと気づき、旅をしながら情報を集めていたのです」


 春蕾の一族は、冬になると恵みが詰まった雪を降らせ、春には雪を溶かした。しかし約三百年前、雪が止まないことを理由に、一転して忌み嫌われる存在になってしまう。生き残った者たちは、身を守るために力を隠して生きることを選んだ。

 ここまでは霧雨の里で聞いた話と一緒だった。
 私が頷くと、レオは再び知っている情報を語りはじめる。


「春蕾の一族はみな露草のような青紫の瞳を持つと、そう書かれていました」


 その言葉で思い出したのは、父と対峙したときのことだった。
「春蕾の一族の特徴を持つ奴らを血眼になって捜した」と彼は言った。おそらく露草色の瞳を持つ女性を、あらゆる手を使って捜したのだろう。自身を抱きしめるようにして、腕を掴む。

 レオは再び湯飲みに口をつけ、静かに茶を飲んだ。


「瑞穂国はこの一年、雪が降り続きました。穏やかな雪だったため人々は変わらず町を往来し、経済が止まることはありませんでした。しかし農作物が育つことはなかった……」
「……」
「重税や国の腐敗など、民たちは元々不満を募らせていました。とどめを刺したのが、春も夏も秋も降り続けた雪でした」


 レオはそこで言葉を切り、私の瞳を見据えた。


「雪を降らせ続けたのは ──貴方ですね」


 ひゅっと息が止まる。
 正直に答えるべきなのか目線を泳がせた私に、レオは苦笑して言った。


「責めるつもりはありません……私はこの瞳のせいで酷い目に遭いました。貴方も同じだったでしょうから」
「では、なぜ、私を」
「……なぜ、でしょうか」


 彼は自嘲の笑みを浮かべる。


「親に捨てられ、里親に人権を躙られるような行為を受け続け、私はここまで生きてきました。自分が何者かも分からず暗闇を彷徨うような人生……しかし『春蕾の一族』を話を聞いたとき、救われたような心地になったのです」
「……」
「やっと自分の居場所を見つけられたような」


 最後は言葉にならなかった。薄い膜がかかったように彼の目が潤んでいく。必死に堪えようとしていたが、まばたきをした瞬間、ひとつふたつと水滴が机に落ちた。
 部屋に彼の嗚咽だけが響く。
 彼の苦しみを考えるだけで、心臓が握りつぶされるような痛みを訴えた。私は膝の上で拳を握りしめながら、ただ彼の泣き声に耳を澄ませていた。

 しばらくして彼は「取り乱してすみません」と謝罪の言葉を口にし、胸元から手ぬぐいを取り出して目をぬぐう。真っ赤になった瞳で、私を見つめた。


「瑞穂国が崩壊したとき、春蕾の力を持つ者が現れると確信していました。私はどうしても貴方に会いたかったのです。迷惑だったかもしれませんが……」
「そんなこと、ありません」


 私は首を横に振れば、レオは安心したように微笑んだ。
 湯飲みに口をつけ、お茶を嚥下する。既にぬるくなっていたが、私の緊張を解きほぐしてくれた。唇に笑みを浮かべて答える。


「この力のことを知れてよかったです。……これまで力の正体をよく知らずに操っていましたから」
「今まで力を使ったことは?」


 私は思い出すように右上に視線を移した。
 今まで雪を操ったのは三回。
 襲ってきた華怜に対して雪を操ったとき。瑞穂国に雪を降らせ続けたとき。あとは白霧山の雪の霧が晴れたのも、私の力なのではないかと蒼玄から指摘されていた。

 それらを説明すれば、レオは「なるほど」と相づちを打った。


「おそらく貴方は春蕾の力が色濃く残っている方だと感じます。自分はせいぜい数刻ほどしか雪を操れませんから」
「そうだったんですね……」


 部屋に沈黙が訪れた。私はある疑問を口にしようとし、唇を噛んだ。着物を握りしめた指先が震え、手のひらに汗が滲んでいく。深呼吸をしようとしたが息が詰まりそうでうまくできない。

 答えを聞いてしまえば、私の未来が大きく変わってしまうかもしれない質問だった。それが怖くて私はずっと──答えを出すことを先送りにしていた。

 早打つ心臓を感じながら、私は勇気を振り絞って尋ねる。


「……レオさんは、春蕾の力をどうするのですか?」
「この力は途絶えるべきだと考えています。強すぎる力は差別と偏見しか生みませんから。私は……この力を隠しながら、ひっそりと生きていきます」


 言葉の大半は同意だったが、同時に鋭い痛みが胸に走った。

「そう、ですよね」と答える。声が震えていた。
 分かっていた。私も彼もこの力のせいで、酷い扱いを受けた。もう誰にも同じ目に遭って欲しくはない。ならば子孫を残さず、私の代で途絶えさせるのが最善だと、分かってはいた。

 隣にいる蒼玄の顔を、私は見ることができない。
 この感情を、私は死ぬまで隠すことができるのだろうか。

 私の反応に、レオは「あぁ」と察したように声を放った。優しく見つめながら言う。


「これはあくまで私の考えです。どうか、自身が出した答えを大切にしてください」


 レオの唇に美しい弧が描かれる。瞳の奥には哀愁が宿り、時折、悲しみの影がちらつくのが見えた。
 彼の痛みが私の中に染みこんでいく。私は唇を噛み、涙をこぼさないようにして一度だけ頷いた。


 *


 レオの厚意でその日は泊まらせてもらい、次の日、私たちは出発した。
 瑞穂国であったことやレオとの出会いについて話しながら、私たちは歩を進めていく。目的地は決まっていなかった。地面の雪を見つめながら、小さい声で問う。


「……これからどうすればいいのでしょう」
「どうしたい?」


 蒼玄に聞かれ、私は迷う。
 この一年の旅は心が安まることがなかった。隠れるように歩き、逃げるように旅をしていた。しかし父が殺された今、私たちを害なす者はいなくなった。
 私は苦笑しながら本音を漏らす。


「そうですね……まずは、休みたいですね」


 私の言葉に蒼玄は一瞬だけきょとんとしたあと、ニヤリと笑った。表情の意味が分からず首を傾げれば、楽しそうに唇をあげた。


「それならいい方法があるじゃないか」


 夕刻、私は森の中で蒼玄が温泉を調合する様子を見つめていた。岳は近くの町へ先に行き、宿を捜してくれているため二人きりである。
 彼の温泉に入るのは久しぶりだ。刺客に追われる日々を過ごしていたので、ゆっくり湯に浸かる暇がなかったのだ。

 私は右手で胸をおさえる。

「心が凍っている」と告げられたあの日から、私たちの旅ははじまった。蛍火の花、此岸花、霧氷の実……そのあとも様々な素材を試し、私の心を溶かすために尽力してくれた。蒼玄曰く「大部分は溶けているが、まだ完全には溶けていない」らしい。

 蒼玄をちらりと見れば、真剣な表情で調合していた。彼は温泉の縁に腰かけ、様々な素材を湯の中に入れていく。棒でかきまぜたり、湯を舐めたりしては首を傾げていた。その姿に思わず微笑んでしまう。


「あともう少しなんだけどなァ……」


 蒼玄の呟きが聞こえた。彼の表情には、どこか物足りなさが浮かんでいる。極上の温泉を作ろうと旅をしてきたが、まだ何かが足りないのだろうか。
 私は立ち上がり、見上げながら励ました。


「きっと、すぐに完成しますよ」


 蒼玄は手を止め、私を見おろしながら微笑む。
 のどかな空気が透き通る夕暮れ。夕陽のやわらかな光が彼を包み込んでいた。その優しいまなざしに胸が締め付けられる。


「ありがとう、氷織」
「白雪も『がんばれ』って言ってます」


 温泉の縁に止まる白雪を指さして、私はくすくす笑う。小首を傾げている姿に、蒼玄も声を出して笑った。黒いつぶらな瞳がかわいらしい。
 すると私たちの笑い声に反応するように、白雪が飛び立った。


「あっ……」


 白雪の真っ白な羽が一枚、ふわりと温泉に落ちる。

 その瞬間だった。

 温泉全体が、まるで月光を浴びたかのように、柔らかな光を放ち始めた。


「これは……」


 蒼玄の声が震えている。彼は恐る恐る手を伸ばし、光る湯面に触れた。何度も確認するように触れ、真剣な表情で湯を舐める。そして慌てて縁から飛び降り、私の両肩を掴んだ。


「氷織! 今すぐ温泉に入ってくれ!」


 彼の声には、喜びと興奮が溢れていた。子供のように無邪気な表情に、私は目を丸くする。
「は、はい」と私は急かされるまま、温泉の裏手に回って階段を上る。そして、ゆっくりと温泉に足を入れた。

 入った瞬間、今までの温泉とは全く違うと確信した。

 湯の温もりが、まるで私を抱きしめるように全身を包み込む。そして温もりと共に、不思議な感覚が全身を巡っていく。

 湯面から立ち昇る湯気は、夕陽に照らされて神秘的な光景を作り出していた。
 湯の色は琥珀色だが、光の加減で微かに金色に輝いて見える。湯面には小さな光の粒子が浮かんでいて、星空を湯船の中に閉じ込めたかのような幻想的な光景を生み出していた。

 香りはこれまでにない複雑さと深みを持っていた。森の中にいるような清々しさと、花々の甘さ、そして微かに感じる果実の香りが絶妙な調和を奏でている。その香りを吸い込むたびに、心が軽くなっていくのを感じた。

 私は目を閉じ、その感覚に身を委ねる。
 湯に浸かりながら、私は周囲の自然との一体感を感じていた。歌うように揺れる木々、頬をゆったりと撫でる風、黄昏の空にまたたく星。すべてが調和し、私の心を癒していく。

 すると、私の中で何かが溶け始めるのを感じた。長い間、私の心を覆っていた氷が少しずつ、でも確実に溶けていく。その氷が溶けるにつれ、様々な感情が湧き上がってきた。

 蒼玄との思い出が次々と鮮やかに蘇る。彼への思いが、溢れんばかりに湧き上がってくる。

 気がつくと、私の頬に涙が伝っていた。
 そして気づく──これら全てが「私」なのだと。



「氷織?」


 蒼玄の声には、不安の色が滲んでいた。
 私は安心させるように「大丈夫です」と首を振り、蒼玄を見つめた。


「できましたね」
「え?」
「極上の温泉が」


 私がそう言えば、彼は一瞬だけきょとんとし、大声で笑いはじめた。
 急に笑い出した意味が分からずまばたきを繰り返せば、優しいまなざしで私を見つめ返した。


「実はな、」
「はい」
「極上の温泉が完成したら、死のうと思っていたんだ」


 想像していなかった言葉に息を呑む。
 思い出したのは、旅のはじめに洞窟を出発したあとの会話だった。

「もしその、お前が言う『極上の温泉』とやらが出来たらどうするんだ?」

 岳の質問に、蒼玄は立ち止まり振り向いた。彼は微笑んでいたが、決して踏み込ませない孤独を宿していた。
 あのときの表情の意味を理解してしまう。そして蒼玄が死んでしまうところを想像してしまい、呼吸ができなくなるくらい胸が苦しくなった。


「もうやり残したこともないと思ってな。父のように自死しようと……」


 そこで言葉を切って、まぶたを伏せる。そして再び私の瞳を見据えた。
 彼の目には、もはや死を望むような暗さはなかった。


「でも今は、生きたい」


 目を細めて笑う彼を見て、衝動が胸を突き上げる。
 気づけば私は手を伸ばして、彼の頭を優しく抱きしめていた。


「聞いて欲しいことがあるの」


 心臓がうるさくて仕方がない。だけどこの気持ちをどうしても伝えたかった。
 私たちは顔を合わせ、見つめ合った。岳はいつものように微笑んでいる。私は口を開いた。


「私、あなたのことが ──」



 一年後 ──。



「氷織様!」


 遠くに手を振る女性が見えて、手を振り返す。私たちが歩いて行くと、黒い髪を後頭部の下の方で結んだ女性は深々と頭を下げた。


「遠路はるばる、ありがとうございます」
「いえ、やっと来ることができてよかったです」
「岳も元気そうでよかった」
「姉さんも」


「姉さん」と呼ばれた女性は白い歯を見せて笑う。
 岳の姉である千鶴さんは、私と父が対峙してから数日後に旦那さんと共に国を発った。今は老湯守の弟子が管理している温泉で、仲居として働いているそうだ。


「変わらないな、ここは」
「きれいな場所ですね」


 蒼玄は懐かしそうに目を細める。
 ここ「桜雲の郷」は、山々に囲まれた盆地に位置する温泉街だ。その名の通り、春になると町全体が桜の花で覆われ、桃色の雲が地上に降り立ったかのような幻想的な光景をつくり出している。

 郷の中心には川が流れ、その両岸には見事な桜並木が並んでいる。桜の近くには歴史ある旅館や老舗の商店が軒を連ねていた。

 蒼玄から話を聞いていた老湯守が、生涯大切にしていた温泉がある場所。ずっと来てみたいと思っていた場所にようやく来れたのだと、感慨深い気持ちになる。


「ご案内しますね」


 千鶴さんはそう言って、郷の方向へと歩き出す。高鳴る気持ちを抑えながら、彼女の背中を追いかけた。

 郷は活気に満ちあふれていた。
 大通りでは老舗の店先に、着物姿の湯治客や旅人が群がっている。どうやら商人たちが珍しい品々を広げて売り込んでいるようだ。
「冷やかすか」と悪戯めいた笑みを浮かべる蒼玄と共に商品を覗き込めば、そこには絹織物や漆器、薬草など様々な分野の商品が、無秩序に置かれていた。


「あの薬草をあの値段で売るのは流石にぼったくりだな……」


 蒼玄のぼそりとした呟きに苦笑する。

 通りの一角では、旅の芸人が三味線と太鼓を奏で、即興の歌を披露している。周りには人々が輪をつくって聞き入っており、時折笑い声が沸き起こった。
 旅芸人が奏でる音色を楽しんでいると、店先の女主人に声をかけられる。


「お嬢さん! この郷で人気の『桜まんじゅう』だ! どうだい!?」


 彼女の声かけに、私と蒼玄は顔を見合わせて、同時に吹き出した。


「それ、四つ」
「まいど!」


 桜まんじゅうが蒸し上がるのを待つ間、蒼玄は小声で囁く。


「前もこんなことがあったな」
「そうですね」


 くすくすと笑う。螢泉郷で「蛍まんじゅう」を食べたときのことを思いだし、可笑しくなってしまった。同時に胸が温まるような心地になる。
 こんな風に思い出を共有し、互いに笑い合えること。それはとても幸せなことだと感じたのだ。

 淡い桜色に染まったまんじゅうを食べながら、私たちは郷を散策する。
 千鶴さんの説明に頷きながら、最後に辿り着いたのは、彼女が働く旅館「桜霞亭」だった。
 この旅館の歴史は数百年以上にもさかのぼる。かつて傷ついた武将がこの地で湯治をし、奇跡的に回復したという言い伝えがあるそうだ。
 二階建ての風格ある旅館で、深い軒下には細やかな彫刻の欄間が施されていた。

 格子戸を開け、千鶴さんは旅館の中へと案内してくれる。すれ違う仲居たちはにこやかに頭を下げ、女将は蒼玄の顔を見て「まぁまぁ蒼玄さん!」と嬉しそうに笑った。
 年月を経て磨き上げられた床板が軋む音を聞きながら歩いて行く。廊下からは手入れの行き届いた庭園が見えた。池や石灯籠、そして見事な枝ぶりの桜が咲き誇っていた。


「まさに『桜霞亭』ですね」
「あれはジジイが気に入っていた桜だった」


 蒼玄が懐かしそうに説明してくれる。
 客室に入ると、焚かれた香の匂いが鼻腔をくすぐった。畳は香り高い新しいものが敷かれている。障子や襖には繊細な桜の模様が描かれており、この郷の人がどれほど桜を愛しているかが見て取れた。


「さっそく温泉を見に行くか」


 部屋について一息つく間もなく、蒼玄は鞄を持って立ち上がった。
 岳は呆れ顔を見せ、私はくすくす笑う。千鶴さんは両手を合わせて言った。


「じゃあ私も行こうかしら」
「姉さん、仕事じゃないのか?」
「今日はお休みをもらったのよ」


 そう説明して、私の顔を見た。「一緒にいかがでしょうか?」と問われ、私は微笑んで頷く。

 入浴の準備をして、温泉へと向かう。岳と蒼玄と分かれ、女湯の脱衣所で着物を脱ぐ。小さな手ぬぐいを持って浴場に足を踏み入れ、私は感嘆の声をあげた。
 広々とした浴場には檜の香りが満ちていた。天井は高く、梁には古い木材が使われており、歴史を感じさせた。湯船の中には透明度の高い、乳白色の湯が満ちていた。
 体を清めて、ゆっくりと湯船の中に身を沈めていく。少しぬるめの湯が足先から体全体へと広がっていくのを感じ、私は思わず小さな息を漏らした。


「この温泉は四季によって色合いや効能が変わるんですよ」


 千鶴さんは説明しながら、私の近くに座った。「そうなんですか」と相づちを打てば、彼女はこくりと頷く。


「えぇ、代々この温泉を守ってきた人たちの書記を参考にして、素材を調合しているんです。蒼玄様が考えた温泉になってからは、特に評判がいいんですよ」


 旅の道中、素材と睨めっこしていた蒼玄を思いだす。そして湯をすくって、乳白色の湯を見つめた。この湯には代々守ってきた人がいて、繋いでいった人がいるのだ。


「今はどんな効能なんですか?」
「体の調子を整える湯だと聞いています。普段の湯より少しぬるめにすることで、のぼせにくく、体への負担を少なくしているそうです」
「湯治客に人気が出そうですね」
「あとは女性にも人気が高いですね。子宝に恵まれたという人が後を絶たないんですよ」


「子宝」という単語に、ここずっと悩んでいたことを思い出してしまい、私はうつむいた。雰囲気が変わったのを察したのか、千鶴さんはそっと尋ねてきた。


「……何か蒼玄様とあったのですか?」
「え、っと……」


 思わず口ごもってしまう。
 極上の温泉ができたとき、私は蒼玄に想いを伝えた。彼は一瞬驚き、優しい微笑みを浮かべてくれた。そして私の体を抱きしめ、想いを受け入れてくれた。あの日のことを思い出すと、まるで心の中に満開の花が咲くような心地になる。

 あの日から一年。私たちは抱擁以上の行為をすることはなかった。

 彼の抱擁に幸福を感じつつも、もどかしさも同時に感じてしまう日々。
 私からお願いした方がいいのか。しかし彼に拒否されてしまったら。そう考えると、言葉に出すことができなかった。

 岳以外の異性とは関わりがなかった私に、正解など分からなかった。相談できる人もいなく、ここ最近ずっと悩んでいたのだ。
 私はこちらを不安げに見つめる千鶴さんの顔を見た。先ほど郷を回ったときも、蒼玄と手を繋いだり、恋人のような距離感で話したりしていた。千鶴さんも私たちがそういう関係だと悟ってはいるだろう。

 勇気を振り絞り、私は相談内容を口にした。すべてを話し終えると、彼女は神妙な顔で頷く。


「なるほど……」
「すみません。こんなお話を」
「いえ。相談していただけて嬉しいです」


 千鶴さんの言葉に胸をなで下ろす。彼女は遠くの方を見つめ考えた素振りを見せたあと、真剣な表情で言った。


「ありきたりなことしか言えませんが、やはりお話するのが一番かと」
「ただこんなことをお話していいのか。もし拒否されてしまったら……」


 想像するだけで、じわりと涙が浮かんでくる。すると千鶴さんはきょとんとした顔で言った。


「私は蒼玄様のことをよく存じ上げませんので、はっきりとは言えませんが……」
「……はい」
「氷織様の話を否定される方なのですか?」


 そう言われ、私ははっとする。そのあと全身を襲ったのは、羞恥だった。顔が熱くなり、水面を見つめることしかできない。
 彼に拒否されると決めつけて、話し合おうともしなかった自分。恥ずかしさで居たたまれなくなる。

 蒼玄はいつも私の味方でいてくれた。瑞穂城から追い出され、雪山に捨てられたときも。心が凍りつき、人形のようになっている私を見たときも。無力な人間だと、私の足が動かなくなっているときも。彼は常に傍にいてくれた。「氷織の味方だ」と励ましてくれた。

 首を大きく横に振る。


「ちがい、ます」
「それだったら、お話ししてみましょう。きっと何か事情があるんですよ」


 千鶴さんの言葉に、悩んでいた心が軽くなっていくのを感じる。
 すると彼女は力強い光を目にたたえ、胸を軽く叩いた。


「岳のことはお任せください。明日まで一歩たりとも二人の部屋には入らせませんので」
「そ、そこまでしてただかなくても」
「いいえ! 今日を逃したら、岳も一緒に旅を続けるでしょう? 二人で話し合う機会はしばらく来ないでしょうから」


 それもそうかと頷く。「よ、よろしくお願いします」とおずおずと頭を下げれば、千鶴さんは楽しそうに笑った。
 その後、温泉からあがり部屋へ戻ると、蒼玄と岳は既にもう戻っていた。


「どうだった?」
「す、すごく気持ちよかったです」


 蒼玄と話し合おうと決めたからか、なんだか彼の顔を直視できない。うつむきながら答える。私の様子が変だと気づいたのか蒼玄は口を開こうとしたが、千鶴さんが遮るようにして言った。


「そういえば蒼玄様。今晩、岳を借りていってもいいですか? 宿の修繕をしたいのですが男手が足りなくて」
「疲れているから休みたいんだが……」
「あぁ、いいぞ」
「俺の話を聞け!」


 怒っている岳をよそに話が決まっていく。
 千鶴さんは男性二人から見えないように、「がんばってください」と唇だけで動かした。彼女の気遣いに勇気づけられ、私は頷く。

 そして夜。引きずられるようにして岳は千鶴さんに連れて行かれ、部屋には蒼玄と二人きりになった。「修繕が終わったら、宴に参加させます。今晩は部屋に帰りません」という彼女の言葉を思い出し、顔に熱が集まっていった。蒼玄と二人きりで朝まで一緒にいるのは初めてのことだ。

 部屋には縁側があり、蒼玄はぼんやりと空を眺めながら座っていた。私も隣に座り、空を眺める。今日は満月だった。そっと彼の方へ視線を向ければ、やわらかな月の光が、彼の横顔に陰影をつけていた。

 どのように話を切り出そうかと悩んでいると、蒼玄の背中が目に入った。
 人里ではしまっていたが、部屋の中では翼を広げている。しかし右側の翼は華怜の手によって切断され、大部分が失われていた。あの戦いのあとも、彼の翼が蘇ることはなかった。

 痛みが波のように押し上げてくる。すると蒼玄は私の視線に気づいたのか、「あぁ」と頷いた。


「戻らなかったなァ」
「ごめんなさい……」
「氷織のせいじゃないさ」


「頑張れば少しは飛べるしな」とおどけたように言う。
 彼の優しさに胸が締め付けられる。私は勇気を振り絞り、名を呼んだ。


「蒼玄」
「ん?」


 朱色の瞳が私の姿を捉えて、優しく細められた。


「もっと、触れてほしい」


 耳辺りがかっと熱くなる。女性からこんなことを言うなんて、はしたないと思われただろうか。蒼玄は目を丸くしたあと、苦しそうな顔を浮かべた。そんな顔をさせてしまったことに胸が痛む。
 涙がじわりと浮かび、逃げ出したくなってしまう。否定の言葉を聞くのが怖い。


「ご、ごめんなさい、」
「違う……!」


 手首を掴まれた。目の前の瞳は焦りながらも、真っ直ぐに私を見つめていた。
 私の目から一粒、涙が落ちた。すると彼はさらに苦しそうな顔をする。そして私の手首から手を離し、顔を覆った。


「俺の方こそ、すまない」


 絞り出すような声だった。

「きっと何か事情があるんですよ」

 千鶴さんの助言が脳裏に浮かぶ。私は蒼玄に身を寄せ、頬に手を伸ばした。


「一人で抱え込まないで、蒼玄」


 その言葉で、彼はゆっくりと顔から手を離した。その瞳は夕日に染まる紅葉のように美しく、同時に深い悲しみを滲ませていた。


「……怖いんだ」
「怖い?」
「氷織に近づきすぎるのが。また災いが降りかかるのではないかと、」


 閃光のような鋭い痛みが体を貫いた。
 頭に浮かんだのは、狭間の洞窟で見た蒼玄の過去だった。人間とあやかしの子どもに産まれたが故、村人から村八分に遭い、酷い差別を受けた。人間の惨さを受け、母の病死と父の自死を経験した。
 きっとその過去は、未だ彼を縛り付けているのだろう。

 いつも頼りになる彼が、今は子どものようだった。彼の懺悔のような言葉は続く。


「氷織に想いを告げられたとき、嬉しくて、これ以上の幸福はないと思った。だが同時に怖くなった。怖くなったのに……拒否することもできなかった」


 彼は一呼吸置き、拳を強く握った。


「情けない」


 自分を責めるように言う。
 彼の心の奥底にある深い傷を垣間見た気がした。蒼玄の声は震え、普段の飄々とした様子はどこにもない。彼の言葉の一つ一つが、長年抱え続けてきた苦しみを物語っているようだった。
 それ以上、自分を責めないで欲しいと祈りながら、頬をゆっくりと撫でる。


「そんなことないわ」
「……」
「蒼玄」


 私が呼びかける。彼の瞳を見つめながら言った。


「私は人と人の子どもに産まれたけど、色んな人に差別されてきたわ。
 ……きっと、どんな生まれでも耐えがたい重荷を背負わされる人がいる」


 思い出すだけで、喉が締め付けられるように苦しくなる。孤独で、寒くて、誰からも愛されない日々。私は唇をぐっと噛んだあと、言葉を紡いだ。
 言葉が震えないようしながら、彼の手にそっと手を重ねた。


「私たちは、その重荷を背負う辛さを知っているわ」
「……!」
「私たちなら、災いが起きてもきっと乗り越えられる。大切な人たちを守ることができる──そう、思うの」


 彼の瞳を覗き込めば、朱色の目には薄い膜が張っていた。蒼玄は両腕を伸ばし、私の体を抱き寄せた。肩に顔をうずめ、嗚咽をかみ殺している。
 私は髪の毛を撫でながら、心の中で語りかけた。

(やさしい人、やさしい人、どうか苦しまないで)

 世界には確かに耐えがたい苦しみがある。でも苦しみを乗り越えた先に、人を思いやる優しさが生まれる。人の痛みに寄り添いあうことができる。

(そのことを教えてくれたのは、)

(あなたなのよ、蒼玄)

 どれくらい抱き合っていたのだろう。彼の体が離れ、私の頬に触れた。かさついた手のひらと温もりに、甘い緊張が全身を包んでいくのを感じる。

 そして、唇にそっと口づけを落とされた。


「……んっ」


 やわらかな唇の感触と、彼の体温、そしてお互いの心臓の鼓動が私のすべてを占めていた。永遠のような一瞬のような時間のあと、唇が離れる。蒼玄の瞳と目が合った。


「ありがとう、氷織」
「い、え……」
「氷織と出会えて、よかった」


 その言葉に私は見開く。ぽろりと目から涙が落ちる。
 彼は指で涙を優しく拭ったあと、もう一度、私に口づけをした。




「ここが『春風の里』か」


 桜雲の郷を出発して数月後、私たちは春風の里に到着した。
 ここを目的地にした理由は、「ここから南の方向に、良い温泉街がある」と千鶴さんから聞いていたためだった。


「『春風の里』という温泉街で、老湯守様も絶賛していたとか」
「ジジイが? 聞いたことがない名前だ」


 蒼玄は腕を組みながら首をひねる。
「とりあえず行ってみるか」という彼の提案に、私たちは頷き、向かっていたのだった。

 里は想像よりも閑散としていた。
 霧に包まれた山々の間に、ひっそりと佇んでいる。かつての賑わいは影を潜め、静寂が支配する町並みが広がっていた。

 石畳の通りには雑草が生い茂り、足を踏み入れるたびにかさかさと乾いた音が響く。両側に並ぶ旅館や商店の多くは閉じられ、開いている店も「営業中」という看板が寂しげに揺れているだけだ。軒先の提灯は破れ、いくつかは破れたまま放置されている。


「場所も場所だしなァ。担い手もいなかったのだろう」


 蒼玄は寂しげに町並みを眺めた。
 人影はまばらで、若者はほとんどいなかった。腰が曲がった老人たちが、億劫そうに歩いているだけだ。
 すると一人の老人が私たちに気づき、近づいてきた。蒼玄の背中から生えた翼を凝視しており、私たちの間に緊張が走る。

 桜雲の郷で私と蒼玄が二人きりで話し合った日から、蒼玄は人里でも翼を隠すことをしなくなった。


「自分は今まで、天狗の血が混じっていることを隠して生きてきた。人のように生きた方が楽だったからな。でも……」


 蒼玄は言葉を切って、私の目を見つめた。朱色の瞳の中には一点の曇りもなかった。


「もう、半天狗であることを隠したくないんだ」


 そう語った彼に、私と岳は同意するように頷いた。
 しかし現実は甘くなかった。立ち寄った人里で、あやかしの偏見と差別はまだ根強いのだと私たちは痛感することになる。物珍しく遠目から眺めるだけならまだいい。中には「郷から出ていけ」と叫ばれることもあった。

 あやかしと人間の対立について馴染みのない子どもが多い町ならまだしも、この里に住むほとんどは老人だ。もしかすると蒼玄に心無い言葉を浴びせてくるかもしれない。
 彼を守ろうと、一歩前に出ようとしたときだった。


「もしかして、蒼玄か?」
「……! あ、あぁ」
「こりゃ驚いた! 貞治の弟子か!」


 老人の顔が明るくなる。「貞治?」と不思議そうに名を繰り返す岳に、蒼玄は震える声で言った。


「ジジイの名前だ」


 その後、里唯一の共同浴場へと案内された。古びた建物の前で待っていると、里に住む人々がどんどんと集まってくる。終いには二十人ほどの住民に囲まれていた。彼らは口々に老湯守との思い出を語っていく。


「貞治はな、ここの温泉をいたく気に入ってくれててなぁ!」
「お前のこともよく語ってたよ!」
「耳にたこができるってくらい話してた」


 彼らはわいわいと盛り上がっている。蒼玄は初めて聞いた話にまばたきを繰り返し、唖然とした顔を浮かべていた。私は蒼玄を見上げながら言う。


「老湯守様はここの温泉へよく来ていたんですね」
「そういえばこの辺りを通ったとき、『お前はあっちの里へ行け』と別行動したときがあった。何故だろうとは思っていたが……」
「そりゃあ当たり前だろう」


 一人の老婆が笑いながら言う。


「思う存分、アンタのことを自慢したかったのさ」


「貞治さん、素直じゃないからなぁ」「本人に聞かれるのは嫌だったんだろう」と彼らは楽しそうに語っていく。蒼玄は目を見開き、しばらく固まっていたが、ふと肩の力を抜いて笑い出した。


「難儀な奴だなァ」


 その笑みが本当に嬉しそうに見えて、私もつられて微笑む。住民たちと蒼玄の話は盛り上がり、笑い声が里に響いた。

 その後、蒼玄が調合した温泉に入った住民たちから、次々と感嘆の声があがりはじめた。「百歳は若返ったな」と冗談めかして言う民たちに、私たちは顔を見合わせて笑い合った。

「気が済むまでいてくれ」という彼らの言葉に甘え、春風の里には一月ほど滞在した。同じ場所にこれほど留まるのは初めてのことだった。
 貞治のことを知らない一部の住民からは反発の声もあったそうだが、温泉の評判が高まる内にだんだんと声を潜めていった。

 到着したころより活気づいた町並みを眺めながら、私と蒼玄は歩く。すれ違う住民たちに挨拶をしながら、私たちは話していた。


「いい所ですね」
「そうだなぁ」
「こんな場所がなくなってしまうなんて……」


 民たちの話を思い出す。高齢化が進み、終わりを待つだけの里なんだと彼らは語った。働き手の若者は別の町へと出て行ってしまうため、残った民たちは細々と畑を耕し、生きていく術しか残っていない。いずれは温泉もなくなってしまうだろうと寂しげに語っていた。

 ふと蒼玄の背中が目に入った。彼はこの里へ来てから一度も翼をしまっていない。住民たちも「きれいだなぁ」とよく褒めてくれていて、見ているだけで嬉しくなった。
 彼を囲む住民たちの光景を思い出し、私はある未来が浮かんだ。思わず「あ」と声が漏れる。


「どうした?」
「夢物語かもしれませんが、」
「うん」
「ここを私たちで復興するのはどうでしょうか」


 蒼玄の目が大きく見開いた。私は思いつくままに言葉を並べていく。


「岳は力仕事が得意なので、古い旅館を改修するんです。そこで私が仲居をして、蒼玄が調合した温泉がつくれれば、必ず評判になります。あとは烏助を使ってレオと連絡がとれれば……」


 レオの名前を出して浮かんだのは、彼と話した会話だった。

──春蕾の力をどうするか。

 その問いと向き合って一年以上経つというのに、私は未だ答えを見つけられてなかった。

「この力は途絶えるべきだと考えています」

 寂しげだが固い意志を滲ませたレオの言葉が蘇る。彼の答えは理解していたし、それが最善の選択ではないかと思うこともあった。しかし彼のように、これが自分が出した答えだと胸を張って言うことができなかった。

(私は、どうしたい?)

 蒼玄の朱色の瞳を見つめる。するとあれほど考えても出てこなかった答えが、ふわりと浮かび出てきた。

──この力を隠すのではなく、繋いでいきたい。

 老湯守から蒼玄に渡った温泉のように。後世まで守り、繋いでいく。

 露草色の瞳で差別を受けた私やレオ。あやかしだと指さされ迫害された蒼玄。私たちは運良く、この世界に受け入れてもらえた。しかし今この瞬間も、誰かの差別や偏見に苦しんでいる人がいる。そんな人たちと共存できたら、この力を繋いでいくことができるのではないか。


「人間もあやかしも暮らしていけるような、そんな里にするんです」


 私の提案に、蒼玄はくつくつと笑った。やはり突拍子もなかったかしらと顔が熱くなっていく。すると突然彼に抱きしめられた。「あらあら」と通りすがりの住民の声が聞こえて「そ、蒼玄!」と思わず体を離そうとした。しかし力強く抱きしめられて叶わない。


「最高の未来だな」


 彼の言葉が熱となって、私の全身を駆け巡っていった。喜びが弾けていく。
 里の住民たちの声、風の音、木々のざわめき、すべてが祝福の歌のように聞こえた。

 離れで過ごした寒く孤独な日々。あの日々は私の心をひどく傷つけた。昔は「なぜ私がこんな思いを」と窓の外に降り続ける雪を見つめることしかできなかった。
 でも今は、

(あの過去も、私の一部だから)

 私を包む温もりや私を見つめる優しいまなざしを思い出し、微笑む。

──貴方と一緒なら、どんな困難でも乗り越えることができる。

 蒼玄と過ごす未来を想像し、彼の背中を強く抱きしめた。