私は震える足を雪の上に置いた。その瞬間、千の針が一斉に足の裏を刺し貫くような激痛が走る。冷たさのあまり皮膚が焼けるような錯覚さえ覚えた。


「消えやがれ!」
「てめぇのせいで雪がやまねえ!」


 民衆の怒号が私の周りに渦巻いていた。彼らの目には憎しみと恐れしか見えない。目を伏せて前へと歩き続けていると突然、頬に鋭い痛みが走った。誰かが投げた小石が顔に当たったのだと分かり、目から涙がこぼれ落ちる。傷の痛みのせいではなかった。この国の人々に、こんなにも憎まれているという現実が私の心を引き裂いていた。

 視線を上げると、華やかな着物を纏った人影──華怜(かれん)がいた。彼女は城下町の入り口にある火の見櫓(ひのみやぐら)から、冷酷な笑みを浮かべて見下ろしている。瑞穂国の国司である父親と正室の娘である華怜、一方、父親は同じでも身分の低い側室の母を持つ私。酷い差別の中、後ろ盾もなかった母は衰弱死した。


「アンタの母親も哀れよねェ! 男の気まぐれで身ごもって、お姉さまを産んで、みーんなから嫌われて死んじゃったんだから!」


 耳の奥にこびりついた華怜の暴言が蘇る。その言葉は毒蛇のように私の心に絡みつき、締め付けていった。



「私の子は食うもんもなくて死んだ! それなのにお前は贅沢なもんを食いやがって……!」


 母親らしき女性が顔を歪ませ、悲痛な声で訴えている。
 今朝私が食べた食事は、小さな木の椀に盛られた少量の粗末な米だった。粗く挽かれた雑穀米には、黒い粒が混じっている。その上には菜っ葉が二、三枚のせられているだけの食事だった。

 否定する気力もなく、ただ母親の叫びを受け続ける。
 私を貶めるため、民に偽りの噂を流したのは間違いなく華怜だ。しかしそれを証明する術も抗う力も、今の私にはなかった。


「さっさと行け!」


 衛士から背中を押され、突き動かされる。彼らの冷たい視線に、私はただ従うしかなかった。こめかみに石がぶつけられ、血が頬を伝ったが、ひたすら足を前に出し続けた。

 やがて私たちは城下町の外れにたどり着いた。そこで衛士たちは私の体を乱暴に突き飛ばす。雪の中に倒れ込み、冷たさと痛みが全身を包み込んだ。


「二度と戻ってくるな」


 その言葉と共に彼らは去っていった。足音が雪を踏む音と共に遠ざかっていく。私は冷たい雪の上に横たわったまま、空をぼんやりと見上げた。

 空には灰色の雲が垂れ込めていた。まるでこの国全体が私を拒絶しているかのようだ。雪片が顔に落ちては溶け、頬を伝っていく。
 寒さと疲労と痛みが、徐々に私の意識を奪っていく。

(惨めな、人生だった)

 産まれたときから愛されず、ひたすら人の憎悪や差別を受け続ける日々。「なぜ」と問うこともあったが、今ではもう考えることもやめてしまっていた。

 ぼんやりと視界が暗くなっていく。

 そして命の灯火が消える直前、ある音を捉えた。
 りーん、りーん……と寂しげに鳴る音。鈴の音はだんだんと大きくなり、やがて止まった。


「おや」


 私の傍に立ちながら、男は興味深そうに声をあげた。顔をわずかに動かせば、鳥の子色の髪と、朱色の瞳を持つ男がいた。そして彼の背中には、見事な漆黒の翼が生えていた。


「お前さん、もうすぐ死ぬな」


 男はしゃがみ、愉快そうに言った。焦点が合わなくなっている。男は「もう事切れたか」と呟き、立ち上がろうとした。
 私は思わず心に浮かんだ単語を口にする。


「か、み、さま」


 その言葉に男は見開き、楽しそうに笑った。満足そうに頷きながら「気が変わった。助けてやろう」と私の体を軽々と担ぎ上げた。

 暫し歩くと、容赦なく降り続いていた雪の冷たさがぴたりと止まった。私は地面に寝かせられ、うっすらと瞼を開けば岩肌が見えた。どこかの洞窟に運ばれたようだ。
 男は私の腹に手を置き「これは……」と少しの焦りを滲ませながら男は呟いた。すうっと息を吸い込み、真剣な表情で言葉を放つ。意識が朦朧としているため上手く認識できなかったが、最後の言葉ははっきりと聞こえてきた。


「払え給ひ 清め給へ」


すると男の手から温かな光が漏れはじめ、腹あたりに熱が帯びる。熱が体の中に巡っていく。徐々に冷え切った体に熱が戻っていくのを感じながら、「だ、れ」と私は声を発さずに唇でなぞった。


「見た目によらずしぶといな君」


 男は額に汗を滲ませながら少しだけ笑った。先ほどよりはっきりした意識の中で、男の顔を観察する。
 年は二十代後半だろうか。幼さが残る端正な顔立ち。目元には紅が引かれ、きれいに並んだ歯を覗かせて笑っている。幻覚だと思っていたが、男の背中には黒い翼が広がっていた。
 男は腹から手を離し、近くに置いた鞄を漁りはじめた。「あったあった」と取り出した竹皮を開く。横目で見れば、にぎり飯が三個並んでいた。


「とりあえず、食え」


 私は長い時間をかけて、ゆっくりと体を起こして正座になる。竹皮に包まれたにぎり飯を見つめていると、くうぅと小さく腹が鳴った。私はにぎり飯を一つ持ち、一瞬だけ躊躇ったが、口に運んだ。咀嚼を繰り返し、喉を通過したと同時に、二つ目のにぎり飯に掴みかかるように手に取った。躊躇いはどこかへ吹き飛び、たまらずに目の前の食料に食らいついていた。


「いい食べっぷりだな」


 三個あったにぎり飯は、あっという間に私の腹におさまってしまった。私の様子をじっと見ていた男は愉快そうに言う。
 そして私と少し距離をとり、片膝立ちになったあと、祝詞のような言葉を呟きはじめた。彼の髪がふわりと浮かび上がる。


狭久那多利(さくなだり)に湧き出で給ふ湯を

甘き癒しの御力と 此の地に受けて

六根を清め 癒し給へ」


 男は両手で印を結ぶと、地面に幾何学的な文様が浮かび上がり、湯気が昇っていく。はじめは僅かだった湯気が、彼の姿を包み隠すほどに濃くなった。湯気が晴れると、木製の巨大な容器が置かれていた。火は焚いていないのに、なぜか容器からは湯気が出ている。その湯気は洞窟内に漂い、今まで嗅いだことのない香りを放っていた。


「温泉さ!」


 男は胸を張って言う。しかし私が何の反応もせず、言葉も発しなかったので洞窟内に沈黙が訪れた。ぽこぽこと湯が湧く音だけが響く。男は気を取り直すようにこほんと咳払いをし、私に命じた。


「服は着たままでいい。入れ」
「……」
「入らなければ、お前さん、死ぬぞ」


 私の腹を人差し指で示しながら説明する。


「精神……人は『心』とも呼ぶな。お前さんは、その大半が凍りついている」
「……」
「その部分が完全に凍り付けば、何をしても楽しめず、悲しめず、ただ肉体の死を待ち続ける物質へと成り果てる」


 言葉の意味を捉えると、男はおそらく警告しているのだと悟った。しかし私の心には何も浮かばなかった。一歩も動かない私に痺れを切らしたのだろう。「裏に階段がある。そこから入れ」と髪を掻きながら命じられた。こくりと頷き、温泉の裏手に回ると古びた簡易的な階段が設置してあった。

 階段を一歩ずつ登って温泉の中を覗き込めば、湯気が私の顔を包んだ。「溺れることはない」と男は温泉に何かの石や草を入れ、湯を混ぜながら言う。

 まず湯船の縁に座り、足だけ湯に入れた。そこからゆっくりと身を沈めていく。底に足はつかず、着物も水分を吸っているが、男の言うとおり体が沈むことはなかった。まるで空気の入った手鞠のように、自分の体が浮き続けている。不思議な浮遊感に身を委ねた。


「湯加減はどうだ?」
「……あったかい」
「熱い温泉の方が好みなんだがなァ。今のお前さんは時間をかけて解すのが大事だからな」


 私は両手で湯をすくった。淡い青緑色をしている。小さな気泡が弾けるようなさわやかな刺激があり、木々の香りがする不思議な温泉だ。
 蒼玄は温泉の湯を軽くかき混ぜながら説明する。


「この温泉の主要素材は月光草を使っている。副素材は白樺の樹皮、炎帝晶、風霊草だ。心を落ち着かせる温泉にした」


 聞いたこともない素材の数々に、私はまばたきを繰り返す。彼は垂れ目の瞳をふっと細めて、名乗った。


「俺は蒼玄(そうげん)。この温泉の湯守り人さ」


 聞き慣れない単語に首を傾げれば、蒼玄はぴょんと温泉から降り立った。


「自己紹介は後にしよう。ゆっくり浸かってくれ」


 私は頷く。
 雪の上を裸足で歩かされたときにできた霜焼けが、はじめはピリピリと痛みを訴えていたものの、すぐに和らいでいく。石を投げつけられてできた傷も、痛みが薄れていった。こめかみに手を当てたが驚くことにもう傷は塞がっていた。

 木の香りが鼻腔をくすぐり、ゆったりと目をつぶる。
 まるで重力から解放されたように、体が湯の中でふわりと浮いているような感覚。ポコポコと源泉が湧き出る音がする。森の中にいるような清々しい香りが、呼吸をするたびに肺の奥まで染み渡っていった。
 心の中に重くのし掛かっていた感情が少しずつ軽くなっていき、私は思わず吐息を漏らした。


 *


 階段を使いながらゆっくりと地面に降り立つ。
 着物から水が滴り、地面にはあっという間に水たまりができてしまった。蒼玄が羽根飾りがついた巨大な団扇を、私に向かって一度大きく振る。
 すると体中の水分が飛び去り、着物が一瞬で乾いた。蒼玄は唇に弧を描きながら「便利だろう?」と子どものような無邪気さを覗かせた。

 洞窟の中では火が焚かれており、蒼玄は火の近くに座った。たき火の揺らめきが洞窟の壁に動く影をつくり出している。私も倣うようにして彼の隣に座る。
 外を見れば、既に日は暮れており闇が広がっていた。吹雪の勢いはおさまり、月明かりが雪面を照らしている。


「とりあえず自己紹介だな」


 そう言って蒼玄は湯飲みを私に差し出した。湯飲みを受け取り一気に水を飲み干す。水分を欲していた体に染み渡っていく。喉の渇きが癒やされていく感覚に、私は思わず目を閉じた。
 私が飲み干したのを見て、「もう一杯いるかい?」と問われたが首を横に振る。蒼玄は「そうか」と相づちを打ち、口を開いた。


「先ほども名乗ったが、俺は蒼玄。天狗と人間の血が半分ずつ流れている」
「天狗……」
「初めて見るかい?」


 こくりと頷く。
 五百年ほど前、この世界では「あやかし」と呼ばれる生き物と共生していたらしい。しかし技術の進歩と繁栄を求める人間と、伝統の保守を求める妖怪で対立した。おびただしい数の戦を繰り返し、人間との共存を選んだ数少ない種族を残し、ほとんどのあやかしが滅ぼされたと聞いている。


「天狗は長命種が故、子孫を残そうとする意識が低い。俺もここ二百年ほど見たことがない」
「あなたは、一体……」
「次はお前さんの番だぜ。名前は?」
「……氷織(ひおり)
「氷織か」


 蒼玄は頷き「他に聞きたいことは?」と尋ねた。私は先ほどまで入っていた温泉に視線を移し、疑問を口にする。


「湯守り人って……?」
「その名の通り、湯を守る人のことだ。俺は前任者から温泉を引き継ぎ、二十年ほど守っている」
「湯を、守る」
「そして守るだけではなく、俺は温泉を進化させている」
「進化……?」
「そう。『極上の温泉を作ること』、それが俺の旅の目的さ」


 言っている意味が分からず覗うような視線を送れば、蒼玄は鞄から石やら草やらを取り出した。薄暗い洞窟の中でも不思議な輝きを放っている。


「たとえば先ほど主素材で使った月影草。これには人の気持ちを安定させる効果がある」


 わずかに発光した草を見ながら説明する。次に隣に置いてあった溶岩のような石を指し示した。石からはわずかに熱が放たれている。


「次にこの石は、炎帝晶。火が焚かれていないのに湯が熱くて驚かなかったか? この石の量で湯加減を調整していたんだ」


「最後に……」と言葉を続けて、木の皮とギザギザとした縁が特徴の細長い草を手に取った。

「白樺の樹皮。これはまァ、香り付けだな。こっちは風霊草。お前さんが溺れなかったのはこの草のおかげだ。こういった素材を集め、極上の温泉をつくりたいんだ」


 一息に説明して、蒼玄は「さて」と言葉を置き、私の瞳を射貫いた。その朱色の瞳には、様々な感情が滲んでいる。


「なぜお前さんはあそこで倒れてたんだ?」


 ふるりと背中が震えた。
 城下町を裸足で歩かされ、民たちから暴言を吐かれた記憶が襲ってきて震えが止まらなくなる。人々の憎悪の声が頭の中に響き、津波のように飲み込んでいくようだ。歯の根が合わずカタカタと震わせていると、蒼玄は不可解な目線を向けてきた。

 沈黙を破ったのは、一匹の烏の鳴き声だった。「カァー」という鳴き声が、洞窟内にこだまする。


「なんだ?」


 蒼玄が警戒したように烏を見つめる。見覚えのある烏の姿を見て、私は洞窟の入り口に視線を移した。真っ暗な闇の中から、背の高い黒髪の男がぬっと現れる。