嘘つきメメントモリ

「ねえ、柚。心中しようよ」

 夕暮れの図書室に落とされた、空虚なささやき。
 その返事の前には、すこしの沈黙が生まれた。

 だけど。

「嫌だよ。わたしは生きる」

 東坂(とうさか)(ゆず)は、自分の意見を言うのが苦手な女子高生。自分でもそう認めているくせに、きっぱりと返していた。

「そういうこと言わないで、凪都(なぎと)
「……ごめん。冗談」

 ふっと、かすかな笑いをきっかけに、話題は煙に巻かれた。でも、つい思ってしまう。

 ――うそつき。

 心が苦しくなるんだ。
 いつだって「死にたい」と願うわたしの最悪の同級生は、今日も憂鬱そうに窓辺のテーブルに座っていた。学校の図書室、すみの席だ。

 ひとの目を集める整った容姿をしているくせに、ひとりでいるとき、凪都(なぎと)はふらっと消えちゃいそうな雰囲気をまとう。

 ――相変わらずだなあ、もう……。よし。

「おはよう、凪都」

 本棚のすみで深呼吸して笑顔をつくり、一歩踏み出した。でも、彼はふり向かない。

 無視? いや、わたしの声が小さかった?

「凪都? おーい、おはよう」

 手をふって、声を大きくして言ってみる。凪都はゆっくりと夢から覚めたみたいな顔をして、わたしを見た。

「……柚?」
「うん、柚です……けど、え、そんなに驚く? どうしたの、眠い?」

 夏休みだから、だらけちゃうのもわかるけど。

 窓の外に目を向けてみる。坂の上にある校舎、しかもここは三階だから、海がよく見えた。サーファーや水着姿の観光客の姿がある。さすが、神奈川の観光地。賑やかだ。その景色に、夏休みだな、と実感させられる。

「……寝ぼけてるのかな、俺。んー……、そうかも?」

 凪都は寝起きみたいな、かすれた声で笑った。その瞬間、どきりとして、体温が五度くらいは下がった気がした。

 ……ちがった。眠そう、なんかじゃなかった。

 これは、この世界を見てなくて、ひたすら死を見つめてぼんやりしている瞳だ。いままで見た中で一番ひどい、死にたがりの瞳。なんで。

「柚は? なんでここにいるの」
「え、あ……」

 訊かれて、我に返った。わたしは緊張でふるえはじめていた手をぎゅっと握る。

「凪都がここにいるかな、と思って」
「俺に会いに来たってこと?」
「まあ、そんなところ。まだ……、ちゃんと生きているかな、って。夏休み、楽しめてるかな、って――」
「……なにそれ。柚はほんとおせっかい」

 呆れたみたいに、凪都が笑って言う。わたしの心臓の音は、強く打って鳴りやまない。

「見てのとおり、死にきれずにここにいるよ」
「……まだ、死にたいって思ってる?」
「さあ、どうだろ」

 生きてるか死んでるかなんて物騒な話題だけど、わたしたちの間ではよくある話だ。だって、三芝(みしば)凪都は死にたがりで、うそつきだから。きっとわたしだけが、そのことを知っていた。

 ――夏の終わりは、自殺するひとが増えるらしい。

 わたしは夏が怖い。この世界から、だれかがいなくなる。想像するだけで、いつだって腹の底が冷たくなるんだ。いまも、喉をきゅっと絞められているみたいに、息苦しくてたまらない。どうして死のうと思うんだろう。

 この夏の終わり、凪都が死ぬんじゃないか。そんな予感に襲われた。

「ねえ、凪都。夏休み、楽しんでよ。生きたいって思えるくらいに」
「俺のことより、自分のこと考えたら? 柚は夏休みの予定ないの?」
「え?」

 わたしか……。すこし考えて、苦笑する。

「ない、ね」

 残念なことに、帰省の予定も、友だちと遊びに行く予定も、そんなにない。この夏は、寮にずっといることになっていた。

「だめじゃん。ひとの心配してる場合?」

 突っ込まれて、たしかにと苦笑を深める。ひとに言える立場じゃなかったかも。それから凪都はすこし考えて、わたしの予想していなかったことを言った。

「じゃあ、柚が夏休みを楽しめるように、俺が手伝ってあげようか」

 ……手伝う?

「どうせ俺はやることないし。遊びに行くでも、だらだらするでも、彼氏とひと夏過ごしたいでも、なんでも叶えるよ。あ、彼氏ほしいって言った場合は、俺とつきあうことになるけどね、手っ取り早いし」
「え」
「俺は恋愛興味ないけど、高校生の大半は恋人ほしいとか言うでしょ。柚は? そういう希望あるの?」
「な、ないけど……」
「ほんとに?」

 突然、凪都の手がのびてきた。わたしの白いセーラー服から伸びた手首をつかまえる。ひんやりとした凪都の指が手首から指先へ、すーっとなぞっていく感覚に、わたしの鼓動が速くなる。指先までたどり着くと、わたしの指を絡めとる。いわゆる、恋人つなぎ。

 ……な、なんで?

 まずい、絶対、顔真っ赤になってる。

「ちょっと、凪都……!」
「そんな赤くならなくてもいいのに」

 凪都はからかうように笑って、指を離す。もう……、なんなの。

 わたしはうつむいて髪で顔を隠すと、そっぽを向いた。ボブの髪は、赤面を隠すのにはすこし短すぎる。凪都の行動はときどき突拍子がなくて、困る。

「とにかく、俺はこの夏、柚のわがままに全部つきあう、ってゲームをすることに決めた。だから、よろしく、柚」

 ……うん、やっぱり凪都の考えることって、よくわからない。

「そのゲーム、凪都は楽しいわけ?」
「さあ? でも、暇つぶしにはなるんじゃない? で、なにがしたい?」

 凪都と夏を過ごすことは決定事項みたいだった。でもまあ……、いっか。凪都と夏を過ごせる理由ができたなら、喜ぶべきだ。いまの凪都を放っておくのは怖いから。

 勝負は、この夏休みの期間、一か月とちょっと。

 夏の終わりに凪都を失わないよう、わたしは彼の提案を利用することにした。

「わかった。そのゲーム、乗った」

 すこしいびつな夏休みが、はじまった。
 そもそも、わたしと凪都が話すようになったのは去年――、一年生の終わりのころだった。

 冬の陽が落ちる間際のことで、わたしはコンビニから寮へ帰る途中だった。あたりは暗かったけど、橋の欄干に凪都が座っている様子が、はっきりと見えたんだ。川を見つめて、足をぶらぶらさせて。

 わたしの目には、凪都がそのまま冷たい川へ消えていこうとしているように見えた。

 一瞬で、背筋に寒気がはいのぼった。心臓が凍ったみたいに冷たくなって、それなのに鼓動は速く打つ。

 死ぬの? なんで? どうして?

 だめだ、それはだめ。止めなきゃ……!

 固まりそうになっていた足を無理やり動かせば、足がもつれた。それでも必死に走り寄って、腕をつかむ。

「待って!」

 目を見開く凪都と、視線が交わった。

 このとき、わたしたちは別々のクラスだったけど、凪都の容姿は目立つから、彼の顔を覚えていた。だけど、目立たない女子生徒でしかないわたしのことを、凪都は知らなかったらしい。

「だれ?」

 彼は、首をかしげた。口もとには乾いた笑みが浮かんでいて、ぞっとした。

「死んじゃ、だめです」
「……べつに、死のうとしたわけじゃないけど」

 海に沈んでいく夕陽が、最期の光を放って、消えていく。

「俺、べつに自殺したいわけじゃないから」

 それでも、わたしは凪都の手を放すことができなかった。そうしたら、彼は肩をすくめて、諦めたみたいに息をつく。

「消えたいのは本当だけど、自殺は望んでない。できれば、病死とかがいいんだよね。だれのせいでもなくて、死ぬのは運命でした仕方ないね、って、そんなのがいい」

 やっぱり、手を放さなくてよかったと思った。指先に力がこもる。

「病気も、だめです」
「えー……、そっか。まあとにかく、いまは死なないから大丈夫」

 うそつき。そんな暗いひとみをしているくせに。

 三芝凪都は、死にたがりだ。うそつきだ。
 わたしは、出会った日のことを思い出しながらスマホを操作する。となりでは、凪都が本を読みはじめていた。

 結局あの日、凪都は死にたい理由を教えてくれなかった。いまも、聞けていない。理由がなんなのかわからないのに、彼が死にたがりということだけを知ったまま、時間だけが過ぎていた。

『高校生』『夏休み』『遊び』……。思いつく単語を組み合わせてインターネットで検索すると、商業施設や、水族館、公園の情報なんかがずらっと出てきた。

 ――ていうか、もう夏休み一週間過ぎたっけ?

 スマホの示す日付が、思ったよりも進んでいて驚いた。だらだら過ごしすぎたかも。ああ、夏休みが消費されていく……。こっそり、ため息をつく。

 しばらくして、凪都が立ち上がった。

「ジュース買ってくる。柚、なに飲みたい? おごるよ」
「え? いいよ。お構いなく」
「俺の買うついでだから、甘えときな。俺がおごるのはめずらしいよ」

 そこまれ言われると、断るのは逆に失礼な気がしてくる。

「じゃあ……えっと、なんでも大丈夫。ありがとう」

 凪都はうなずいて「ここで待ってて」と図書室を出ていった。

 ひとりになって、もう一度スマホを見る。凪都は、どんなことをすれば楽しいと思ってくれるかな。いつも淡々としているから、凪都の好みがよくわからない。でも楽しいこと、たくさんしてほしい。わたし、凪都の憂鬱そうな顔しか見たことがないし。

 ぎゅっと痛む心臓を、制服の上から押さえた。

 生きてて楽しい、って言わせてみせる。

 凪都はなかなか帰ってこなかった。中庭に自販機があるのに、外のコンビニまで行ったのかな。窓辺に寄って窓を開ければ風が入り込んだ。白いカーテンがはためいて、蝉の大合唱が耳にうるさい。

 あー、夏だ。ぼんやりと、空と海、ふたつの青を見つめた。

 夏だ。わたしの嫌いな夏。

 頭まで痛くなりだしたから、スカートのポケットから痛み止めを取り出して、二錠を口に放り込んだ。がりっと噛んで、そのまま飲み干す。

 それから三十分くらい経ったけど、やっぱり凪都は帰ってこない。さすがに遅すぎる。まさか倒れてる? ふらっと死にに行ったとかは……ないよね。でもどうしよう。連絡したほうがいいかな。なにかあったら困るし。

「ただいま」
「うわあっ! ……あ、凪都。びっくりした」

 スマホを手にしたところで、ちょうど凪都が帰ってきた。

「驚きすぎでしょ。オレンジかグレープ、どっちがいい? グレープは炭酸だけど」
「じゃあ、オレンジ。ありがとう。……遅かったね」

 わたしの声がすこしとがっていることに気づいたのか、凪都は居心地が悪そうに苦笑した。

「さっき、外で七緒(ななお)さんに会ったんだ。それで、すこし話してた」
「へえ……。ふたりが話すの、めずらしい」

 七緒は、寮でわたしと同じ部屋に住むクラスメイトだ。わたしたちは全員同じクラスだけど、凪都と七緒が話している印象はそんなにない。というか凪都は、特定の仲のいい同級生がいないみたいだった。

 ひんやりとしたペットボトルの蓋を開けて、ひと口飲む。図書室では椅子に座っている時の水分補給が許されているから、怒られることはない。大丈夫。ひとに迷惑はかけてない。

 凪都も炭酸を飲んで、また本を開いた。ぺらり、と本を読み進めていく音が心地いい。その本をわたしは知らなかったけど、古そうな表紙だった。

 夕方になると図書室を出て、ふたりで寮まで歩く。グラウンドや校舎は部活動に励む生徒の声がしていたけど、寮のまわりは静かだ。夏休みの間、寮生は原則実家に帰ることになっているから、普段に比べたら無人に近い状態だった。理由のある子だけがいまも寮に残っているけど、女子寮居残り組は、わたしを含めて五人だけ。

「柚……!」

 突然。女子寮の玄関から、そのひとりが飛び出してきた。かと思うと、ばっと抱きつかれて驚く。

「うわっ、七緒? なに、どうしたの」

 ルームメイトの七緒が、わたしの首筋に顔をうずめて、ぐすっと鼻を鳴らした。彼女の短い髪が頬に当たってくすぐったいし、ぎゅうぎゅうと抱きしめられて苦しい。いやでも、そんなことより。

「ど、どうしたの、七緒。なんで泣いてるの」
「……彼氏と喧嘩したんだってさ」

 となりにいた凪都が、肩をすくめた。

 あ、そういえば、飲み物を買いに行ったとき、七緒と会ったって言ってたっけ。帰りが遅かったのは七緒を慰めていたから? このふたり、そんなに仲よかったっけ?

 不思議に思いながら、わたしより身長の高い七緒の背をなでる。

「七緒、大丈夫?」
「ん。ごめん、柚。……あーあ、あいつ、絶対許さない。むかつく」

 やっと身体を離した七緒は、気を取り直すように、ぐいっと目もとをぬぐった。

「もう、わたし、この夏は柚といちゃいちゃする! あいつなんて知らん!」

 負けん気の強い七緒がそう叫んだところで、女子寮から三人の生徒が出てきた。

「あ、もう、七緒ちゃんってば、また泣いてない?」
「もう泣きやみましたー! わたしはこの夏、柚といちゃつきまーす!」

 みんな、七緒の状況を知っているみたいだ。まあまあ、と七緒を落ち着かせようとするのは三年生の宮先輩。その後ろで困り顔をしているふたりは、一年生の由香ちゃんと未央ちゃん。夏休み、寮に居残り組のメンバーだ。普段からよく話すから、寮メンバーは先輩後輩関係なく仲がいい。

「ねー、柚! わたしたち、最高の夏休みにしようね!」
「え? あ、うん、そうだね……?」

 そんなわたしと七緒のやり取りを見て、宮先輩が「相変わらず仲いいね」と笑った。

「まあ、そういうことなら、ふたりの愉快な夏休みに、わたしも貢献しようかな。こんな七緒ちゃん、ほっとけないし。全力でサポートするね!」

 ぐっと親指を立てる宮先輩。いつもは賑やかな由香ちゃんや未央ちゃんも、神妙にこくこくとうなずいてる。

「よし、早速計画立てよ。行くよ、柚ちゃん七緒ちゃん!」

 わたしがぽかんとしているうちに、宮先輩や七緒たちが寮に入っていく。なぜだか、こっちでも夏休み満喫計画がはじまってしまったみたいだ。

「今年の夏、謎に忙しくなりそうなんだけど。なんで?」

 わたしが言うと、黙って見守っていた凪都が笑った。

「そういう年だと思って諦めな。じゃ、俺も帰るから」
「あ、うん。おやすみ、凪都」

 女子寮と男子寮は離れていて、行き来するのに一分くらいかかる。凪都は、途中でふりかえった。

「七緒さんじゃなくて、柚のしたいこと、教えてよ」
「え?」
「いまの流れだと、柚は七緒さんのことを優先しそうだったから。俺はあくまで、柚のしたいことを手伝う。柚が最優先だから」

 じゃ、と今度こそ凪都は去っていった。

 でも……、あの言い方は、ずるくない?

 じわじわと体温が上がっていくのがわかる。多分、凪都にとってはただの暇つぶしなんだと思う。だけど、あそこまで言われると、わたしが特別扱いされているみたいで恥ずかしい。ぱたぱたと頬を手であおぐ。恋愛経験がないわたしには、刺激が強すぎる。

 ――凪都としたいこと、か。なにがあるかな。
 わたしは寮の一階にある食堂で夜ごはんを食べて、そのままみんなで夏休みの作戦会議をした。お祭りに行きたいとか、海で泳ぎたいとか、いろいろと意見が上がっていって、なかなか収拾がつかない。だけど、このころには七緒もいつもの調子にもどっていた。笑いながら宮先輩と冗談を言い合ったり、後輩たちが話の輪に加われるように気づかったりしている七緒に、ほっとした。

 そのあとはお風呂に入って、消灯時間になったらそれぞれの部屋にもどった。わたしもベッドに入って目を閉じる。

 ……だけど、ふっと頭によぎる記憶があった。

 去年の冬、凪都とはじめて会った日の記憶だ。死のうとしていた凪都や、その瞳を、思い出してしまった。わたしの苦手な、あの瞳。

 ――だめだ、眠れない。

 ため息をついて、起き上がった。二段ベッドと、机がふたつ置かれた部屋だ。ベッドの上段では、七緒が寝息を立てている。

 凪都のことが頭から離れない。それどころか頭も痛みはじめた。机に置いてあったポーチから、残り少なくなっている痛み止めを取り出す。静かな廊下を歩いて食堂に向かうと、コップに水を注いで薬を飲みこんだ。それでも、痛みは治まらないし落ち着かない。

 いつも賑やかな食堂が、いまはひっそりとしていて心細かった。だからか、また凪都のことを考えている。どうして凪都は死のうとするんだろう。死ぬのは、怖いのに。

 凪都も、死んじゃうのかな――……。

『あんたなんて、いなきゃよかったのに』

 唐突に、頭の中で声がした。

「……あ」

 直後に、全身から血が抜けていくみたいな感覚がした。まずいかもしれない。足もとがふらふらとして、立っている心地がしなくなっていく。のどから、ひゅっと息がこぼれた。

 まずい、と予想ができても、対処ができるわけじゃない。

 心臓をつかまれたみたいに苦しくなって、ずるずるとしゃがみ込む。頭が痛いし、コップをにぎる手もふるえて、ああもう、と心の中で舌打ちをする。

 じっとしていると、嫌な想い出があふれつづけてくるんだ。濁流みたいなそれに、呑み込まれそうになる。だめだ、しっかりしないと。だれかに見られたら心配をかけるし、こんなところで倒れるわけにはいかない。どうにか立ち上がってコップを机に置くと、寮の玄関に向かった。

 外に出たい。だれもいない場所に。そうじゃないと、迷惑をかけるから。

「東坂さん?」

 後ろから呼び止められて、身体が跳ねた。若い、女のひとの声。

 ゆっくりふり返ると、心配そうな顔をした春野さんが立っていた。いつもは薄く化粧をしているけど、さすがにいまはすっぴんで、ウェーブのかかった髪を揺らして首をかしげた。

「どうしたの、東坂さん。顔色悪いけど大丈夫?」

 春野さんは、この寮でわたしたちの世話をしてくれている、二十代後半くらいのやさしい女性だ。生徒の中には「春野姉さん」と慕う子もいる。

 わたしは扉に手をかけたまま、口ごもる。いまは、夜の十一時を回っている。寮生が外に出ることは禁止されていた。いくら春野さんでも、怒るかな。だけど、まだ苦しさが消えていない。いますぐ、ここから逃げ出したかった。視線が泳ぐ。

 お願いだから、ひとりにさせて。もう、息ができなくなるから。

「……五分だけね」

 春野さんは、ふいに言った。

「え?」
「遠くには行かないこと。校門から外に出るのはだめ。本当は許可しちゃいけないことだから、みんなには内緒にしてね」

 わたしはぽかんとしたあと、こくこくとうなずいて、春野さんに背を向けた。ドアを開けると、夜風が頬をなでる。頭の中では、まだ言葉が鳴りやまない。ふり切るように歩き出した。
 夜の学校を歩くなんて、はじめてだ。ひとのいない暗い駐輪場やグラウンドは、いつも使っているはずなのに、知らない場所みたいだった。その景色に集中するようにしながら、深く息をする。周囲の音を聞き、通路を進み、足もとのタイルを数える。

 なにも考えるな。思い出すな。息をして。

 大丈夫、ほら、ちゃんと落ち着きはじめているから、大丈夫――。

「柚?」
「……え?」

 いつのまにか、中庭まで歩いてきていた。芝生の上のベンチに凪都がいた。驚いた顔が、月明かりに浮かんでいる。どうして、凪都がここにいるの。

「こんな時間に出歩くとか、柚は不良だな。まあ、俺もだけどさ」

 くすりと笑う凪都は、夢でも幻でもないみたいだ。

「体調悪そう。座れば?」
「あ……、うん」

 本当は、じっとしていたくなくて、外に出てきたはずだった。だけど、なんとなく凪都の言葉には素直に従っていた。息苦しさも、驚きで上書きされて、すこし遠のいた。

「女子のパジャマ、はじめて見た」
「……あんまり、見ないで」

 いまのわたしは、Tシャツと短パン姿だ。面白みもなければ、かわいげもない。どちらかというと無防備すぎて恥ずかしい。凪都も似たようなものだったけど、イケメンはなにを着たってさまになるんだ。うらやましい。

 無言が落ちた。そうなると、またわたしは苦しさを思い出してしまう。うつむいて、意識して呼吸を繰り返す。

 ああ、嫌だな。この苦しさを、嫌だと思う自分が嫌だ。これは、わたしへの罰で、受け入れなきゃいけないものだから、嫌だなんて言っちゃいけないのに。

「大丈夫?」

 答える力がない。だけど心配をかけるわけにはいかなくて、うなずきだけを返す。

 背中に、手が触れた。

「ゆっくり息しな」

 凪都の手だ。

 ……してる。しようとしてるよ。でも出来ないの。

 情けなくて、泣きたくなった。だけど泣いちゃだめだ。

「ゆっくり。柚、大丈夫だから」

 まだ、寒気はしている。でも凪都の手はあたたかかった。背中をさすってくれるのが頼もしい。それに、すこしして、凪都の手の動きにあわせて呼吸をすればいいんだって気づいた。

 ――いつも飄々としてるくせに、なんでいま、そんなにやさしいのかなあ。

 不意打ちに涙腺がゆるみそうになるから、やめてほしい。泣きたくないのに。

 息はすこしずつ、整いはじめていた。ゆっくり、ゆっくり……、大丈夫、息、出来てる。

「……ごめん、ありがとう。なんか眠れなくて、寮出てきちゃった」

 心配させないように笑ってみせると、凪都は「へえ」と大して感情のこもっていない相づちを打った。

「俺も同じようなものだよ」
「凪都も?」
「というか、俺はほぼ毎日出歩いてる。不良だろ」
「それは、不良だね」

 凪都が笑ったから、わたしも笑う。

「柚、これつけて」
「え?」

 すぽっと両耳を覆われて、頭が重くなる。なにこれ、……ヘッドフォン?

 小さな旋律が流れ出す。聴いたことのない、ゆったりとした曲。だけど男性ボーカルの声が心地いい。片耳を外して凪都を見上げると、彼は猫みたいに目を細めた。

「眠れないとき、俺は音楽聴いてると気がまぎれるから」

 気をつかってくれたのかな。なんなの、今日、本当にやさしい。

「……これ、いい曲だね」
「俺のお気に入り」

 凪都は顔をかたむけた。こつん、とわたしと凪都の頭がぶつかる。わ、と思った。顔がじわじわと熱くなっていくのがわかる。なにしてるのと言いかけて、凪都がわたしの顔というより、ヘッドフォンに耳を寄せているんだって気づいた。

 凪都が口ずさむ。その声が、きれいだった。

「うまいね、凪都」
「意外?」
「ううん。凪都って、なんでもできそうな感じあるから。凪都みたいに器用なひと、うらやましい」

 勉強も、苦労している様子がなかった。運動だって得意だ。淡々とすべてをこなしていく印象がある。平均を上回るために必死に頑張っているわたしとは、大違いだ。

 ――もう、五分経ってるよね。

 春野さんが心配しているかもしれないな、と頭ではそう思う。それでも、帰りたくなかった。もうすこし、ここにいたい。ここにいる間は、息ができそうだったから。

「……凪都は、さ」
「ん?」
「なんで、眠れなかったの」

 ヘッドフォンの音楽の向こうで、凪都はすこし考え、空を見上げた。月が出ている。だけど、薄い雲がかかっていて星は見えなかった。

「たいした理由はないよ」

 ちょうど、そこで音楽が終わった。凪都がわたしの頭からヘッドフォンを取る。

「俺の悩みなんて、どうでもいいことだったから、気にしなくていい」

 ……だった?

「過去形? どういうこと? 悩みは解決したの?」
「さあ、どうだろう」

 笑って、凪都が立ち上がる。煙に巻かれた。そうなると、わたしももうなにも言えなくなる。やっぱり凪都は、自分のことを教えてくれないんだ。

「せっかくだし散歩しよ、柚」
「え……? でも、そろそろもどらないと」

 春野さんが寮で待っている。それなのに、凪都はわたしの手を引いた。さっきはあたたかいと思った手が、いまはひやりと冷たく感じた。

「すこしは顔色よくなったけど、まだ無理って顔してる。だから、散歩」

 わたしがぽかんとしている間に、凪都はどんどん進んでいく。わけがわからないまま、引きずられるみたいに、わたしもついていく。というか……。

「手をつなぐ必要、ある?」
「あるよ。だってほら、夜って迷子になりそうだしさ」

 この歳で、こんなに近くにいて、迷子にはならないでしょ。凪都の考えることは、やっぱりよくわからない――、と思ったけど、すこし歩いてから、わたしも納得した。夜の闇の中にいると、凪都の姿が溶けてしまいそうに見えた。ろうそくの火を吹き消すみたいに、ふっと闇に消えて、もうもどってこなくなるような。

「凪都は、うそばっかりだよね」

 一年生のころ出会って、凪都と話すようになってから、彼はずっと憂鬱そうだった。彼の悩みがたいしたことないなんて、うそだ。今日だって、図書室で会ったときからずっと暗い瞳をしているのに。どうしたら、悩みを打ち明けてくれる? 死ぬのを、やめてくれる?

 もう、だれかがいなくなるのは、嫌だよ。
 わたしたちは校舎をぐるりと回った。手はにぎったままだったけど、凪都はなにも言わなくて、あまりにも静かで現実味のない散歩だった。いまが起きているのか夢の中なのかもわからなくなるような、不思議な散歩。いまなら、すっと眠れるかもしれない。凪都はそんなわたしに気づいたのか、中庭までもどったところで、そろそろ帰ろうか、と言った。

 中庭からは、男子寮のほうが近かった。しんとしている建物を前に、おやすみと言おうとしたわたしを、「ちょっと待って」と凪都が呼び止める。

「なに?」
「睡眠グッズ、貸すよ。念のため」

 凪都はわたしを置いて、寮に入っていった。

 ――気まずいんだけど。どうしよう。

 男子寮に女子生徒は出入り禁止だ。しかもいまは消灯時間を過ぎている。見つかったらまずい。こんなところに、ひとりにしないでほしかった。

 ……できるだけ建物の陰に隠れよう。

 そう思ってあたりを見まわしたとき、あれ、と思った。

 明かりのついている部屋があった。一階の、ここからはすこし先にある部屋だ。ベッド脇の明かりをつけているのか、ほのかな橙色の明かりが窓からこぼれていた。凪都の部屋は、たしか二階だったと思う。ということは、あそこはべつの寮生の部屋かな。凪都以外にも、夏休みの居残り組がいるんだ。

 見つかったらまずい、と思うのに、すこしの好奇心もあった。ちょっとだけ……と、わたしは足音を忍ばせて、明かりのついた部屋に近づく。窓を開けているのか、声が聞こえてきた。

「凪都のやつ、また夜歩きしてるよ。先生にちくってやろうかな」

 びくりとした。これ、凪都の話題だ。……しかも、あまり好意的ではない話。陰口、というのが当てはまる声色に、近づいたことを後悔した。悪口なんて聞きたくない。聞きたくないのに、耳が拾ってしまう。

「大体、あいつ調子乗ってるし」
「わかるー。むかし、先輩の彼女を取ったんだろ? まじ、えぐいよな。なあ?」
「あー……、うん、そうだな」

 ……聞かなきゃよかった。

 自分の好奇心を恨んで、また息を殺して、凪都と別れた場所にもどる。

「お待たせ、柚」
「あ……、お、おかえり」
「なに? なんかあった?」

 帰ってきた凪都が首をかしげるから、わたしは「なんでもない」と返した。

 鼻筋の通ったきれいな顔を見ていると、すこしだけ気まずくなった。さっき聞いた陰口を思い出してしまう。恋愛に興味がない、と凪都は言っていた。だけどそういうひとでも、恋人……、というか、女子と親しくなる状況は、あるかもしれない。凪都はもてるし。

 だからって、さすがにひとの恋人には手出ししないよね。きっと、あんなのただの噂だ……と思う。本当の話だとは思いたくなかった。でもそう言い切れるほど、わたしと凪都は仲がいいわけじゃない。

 わたしは、ごまかすみたいに話題を変えた。

「それが睡眠グッズ?」

 凪都の手には、三冊の文庫本があった。

「夏目漱石に、宮沢賢治、太宰治……、うわあ、難しいの読んでるんだね。すごい」

 でも凪都は肩をすくめて笑った。

「読みはするけど、面白いと思ってるわけじゃない。文学のよさなんて、さっぱり」
「なにそれ。じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんでだろうな。でもこの時代の本は、面白いとは思わないけど、結構好きなんだよ。暗くて、じめじめしてるし」

 ……それは、ほめてるのかな?

 不思議な凪都の読書趣味が面白くて、ちょっと笑ってしまう。

「とにかく、そういうつまらない本読んでたら眠くなると思うから。試してみな」
「わかった、そうする。ありがとう」

 おやすみ、と手をふって、今度こそわたしは女子寮にもどった。

 春野さんは、やっぱり心配そうに待っていた。申し訳なかったし怒られるかなと思ったけど、「もう大丈夫そう?」と、春野さんは眉を八の字にして言うだけだった。

「大丈夫です。すみません、迷惑かけて」
「いいの。ほら、部屋にもどって。ゆっくり休んでね」

 部屋では、七緒が相変わらず眠っていた。ベッドサイドの小さな電気をつけて、凪都に渡された本を見つめる。教科書でしか見たことがない、小説家の名前たち。ふと思い出した。

 太宰治って、自殺したんじゃなかったっけ。いや、心中……?

 思い出したとたん、その本は読めなくなった。

 夏目漱石の本を見てみたら『こころ』だった。中学のときにすこしだけ授業で読んだことを思い出す。たしか、登場人物が自殺するんじゃなかったっけ。

 じゃあ、宮沢賢治は? 『銀河鉄道の夜』……、読んだことはない。ちょっと嫌な予感があって、スマホで調べてみる。結果を見て、小説を手放した。

 だめだ、これも登場人物が死んでるじゃんか。凪都はこのこと、気づいてるのかな。死にたいと思うから、そんな本を好きだって思うの?

 目が冴えてきた。……全然、睡眠グッズじゃないよ、凪都の馬鹿。

 スマホが小さくふるえた。凪都からのメッセージで、どきりとした。開いてみると、URLだけが送られてきている。タップすれば動画サイトに飛んで、中庭で凪都が聴かせてくれた音楽が流れ出した。こっちのほうが、本よりもよっぽどいい。イヤホンをつけて、目を閉じた。静かな音楽が鼓膜を揺らす。

 自然と、凪都が背をなでてくれたときのあたたかさを思い出した。だけど、さっきみたいに落ち着けない。眠れない頭に、重たい気配がまとわりついている。音量を上げた。いまはとにかく、眠らなきゃ。

 なのに、声が――お姉ちゃんの声が、また、頭にじんと響いた。それはむかしから何度も何度も頭の中で繰り返された声。怒ったような泣いているような、そんな声だ。

『あんたなんて、いなきゃよかったのに』

 身体がふるえて、ぞわりと鳥肌が立つ。

 ……そうだよね、わたしのせいだもんね。わたしがいなきゃよかったんだ。

 ごめんね。ごめんなさい。だからお願い。

 死なないで。
 つぎの日、食堂に行くと一年生の未央ちゃんがため息をついていた。

「二日だけ、家に帰ることになっちゃいました」

 たしか、未央ちゃんの両親は仕事で海外にいて実家が無人、っていうのが夏休みに寮に残っている理由だったはずだ。その両親が急遽休みを取って帰国したらしい。

「あーあ。今年は家族に縛られずにのびのびできるー、って思ったんですけどね」
「そんなこと言いつつ、未央ちゃん、嬉しそうだけど」

 わたしが言うと、未央ちゃんはむっとした顔をつくった。

「そんなことないですよー。せっかく、柚先輩たちの夏休みを盛り上げようって思ってたところなんだから」

 未央ちゃんは「もどってきたら手伝いますからね!」と、わたしの手をにぎって、ぶんぶんふった。たった二日間帰省するだけなのに大げさだ。

 わたしはお礼を言ってから部屋にもどると、制服に着替えた。二段ベッドの上段でスマホをいじっていた七緒が、不思議そうに訊いてくる。

「柚、校舎行くの?」
「うん。図書室に」
「凪都に会いに行く感じ?」
「そんなところかな。校舎行くのに制服着用っていうルール、面倒だよね。部活に行くひとはTシャツでもいいらしいけど」

 するり、と胸もとでリボンを結ぶ。

「あ。七緒といちゃいちゃするのも忘れてないからね、心配しないで」
「それはどうもありがとう。さすが相思相愛のルームメイト」

 いえい、とハイタッチを求める手を差し出されて、わたしも手を伸ばす。気持ちのいい音が鳴った。お互いくすりと笑ってしまう。

「でもま、わたしが言うのもなんだけど、柚は柚のしたいこと優先していいからね。……凪都といい感じっぽいし。恋愛相談なら乗るよー?」
「えっ」

 にやりと笑う七緒に、つい、声が裏返った。

「い、いや、そういう理由で会いに行くわけじゃないんだけど……!」
「そうなの?」
「そうだよ!」

 ふうんと七緒は笑ったあと、ぱちんと手を叩いた。

「まあとにかく、柚のやりたいように過ごしてよ。あ、でもひとつお願いがあるんだけど、いい?」
「なに?」
「髪のアレンジさせて。髪型変えたら、凪都もどきっとするかもだしさ」

 ベッドから降りた七緒に腕を引っ張られて、椅子に座らせられる。

「ちょっと、だから凪都はそういうんじゃなくて……!」
「いいじゃんいいじゃん。わたしの髪は短いし、たまにひとの髪をいじりたくなるんだよね。この夏休み中、柚の髪型はわたしの自由にさせてほしいなあ」

 抗議する間もなく、七緒はわたしのボブヘアを器用に編み込んでいった。

「はい完成。いってらっしゃい」

 どん、と背中を叩かれる。……七緒、絶対面白がってる。

 わたしは七緒から逃げるみたいに部屋を出た。玄関に向かえば、春野さんと未央ちゃんがいた。外出手続きをしているらしい。昨日の今日だし、春野さんと話すのは気まずいけど、無言で出ていくのもよくないよね。

「図書室に行ってきます。未央ちゃん、お家でゆっくりしてきてね」
「わっ! あ、東坂さん……。いたのね、びっくりした」

 春野さんがびくっとふり返った。未央ちゃんも「ひゃっ」と肩を跳ねさせている。驚かせちゃったみたいだ。申し訳ない。

 気を取り直した春野さんが、わたしの顔を見て「あ」と微笑んだ。

「東坂さん、いつもと髪型違うね。かわいい」
「あー、さっき七緒にいじられちゃったので」
「似合ってるよ。……あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 春野さんは自分の部屋に走っていって、もどってきたときには、手に白いキャップを持っていた。

「今日は暑いから、倒れたら大変だしね」

 はい、とキャップを頭に乗せられる。もしかしたら、昨日調子が悪かったことを心配してくれているのかもしれない。あれはべつに、暑さで気分が悪くなったわけじゃないけど。でも気づかってくれるなら、その気持ちを無駄にしたくない。

「ありがとうございます。お借りします」

 わたしはキャップの位置を調整してから、女子寮を出た。図書室まで外の通路を歩きながら、すこし考える。うちの両親はなにも言ってこないな、って。

 家は、高校から五駅離れた場所にある。電車通学だってできる範囲だ。でも寮で生活したいってわたしが言ったとき拒否されることはなかった。夏休みも「帰らない」「わかった」なんて短いやりとりをしただけ。

 数年前――お姉ちゃんが家を飛び出した日から、わたしは両親と関わらないようにしていたし、ふたりもわたしと距離を置いていた。

「なあなあ、この前、うちの生徒が救急車で運ばれたんだって。知ってる?」
「あー、聞いた。大騒ぎだったらしいな」

 運動部っぽいひとたちが前から歩いてくる。そうなんだ。倒れたって、熱中症かな。

「ていうかさ、そのひと、死んだってまじ?」

 ……え?

 ちょうど、すれちがったところだった。わたしの後ろで、会話がつづいている。

「まじ? そうなん?」
「って先輩から聞いたよ。その先輩は、べつの先輩から聞いたって言ってたけど」
「又聞きじゃん! 信用できねー、さすがにうそじゃね?」

 からかうような笑い声。……なんだ、うそか。うそでも、そういうことは言ってほしくない。胸がきゅっと絞られたように痛んで、わたしは歩くペースを速めた。こんな暑い日だと、図書館までの短い距離でもすぐに汗だくになった。

 朝から嫌な話を聞いた。最悪だ。気を取り直して一番奥の席に向かったけど、凪都はいなかった。ここに来たら会えると思ったのに。あ、でもまだ九時か。わたしが早すぎたのかも。仕方なく、いつも凪都の座っている椅子に座った。

 ――暇な夏休みになる、って思ったんだけどなあ。

 わたしは部活にも入っていないから、引きこもり生活まっしぐらだと思っていた。まさか、こんなに遊びの計画を立てることになるなんて、予想外だ。

 十時を回ったころ、凪都がやってきた。

「おはよ、柚。早いな。髪型変えた? キャップも、めずらしい」
「あ」

 とたんに「髪型変えたら凪都もどきっとするかも」って七緒の言葉を思い出す。あわてて首をふった。べつにこれは、凪都のためにしてきたわけじゃない。

「髪は七緒にいじられて。キャップは熱中症対策にって、寮母の春野さんが貸してくれたんだよ」
「へえ。いいんじゃない。似合ってる」

 平坦な調子のほめ言葉はお世辞だと思うけど、小さく胸が跳ねた。頭の中でニヤニヤと笑う七緒が浮かんで、わたしはまた首をふる。凪都はわたしのことなんて気にせず、マイペースに首をかしげた。

「昨日、眠れた?」
「あ、うん……。音楽のおかげで。ありがとう」
「本はだめだったんだ」
「本、は……、ちょっと苦手で」

 視線が泳ぐ。一ページも読めなかったなんて、言えない。

「いらなかったら、いつでも返してくれればいいよ」
「ご、ごめん」
「なんで謝んの。俺が勝手に世話を焼こうとしただけ。役に立たなかったからって、柚が謝ることじゃない」

 凪都は飄々と言って、わたしのとなりに座った。

「それで? 柚のやりたいこと、決まった?」

 黒い瞳が、わたしに向いている。相変わらず、陽射しを浴びてもどこか薄暗い瞳だった。

「いろいろ考えたんだけど……、えっと、海に行く、とかはどうかな」

 図書室の窓から見える海は、水がきらめいているのがわかる。通学組の生徒なら、毎日自転車や電車で海のそばを通るだろうけど、わたしは寮暮らしだから、海には近づかない。海水浴なんてもう数年していなかった。だけど夏の定番だし、凪都も楽しんでくれるかもしれない。

「海ね。了解。行こう」

 凪都は立ち上がり、そのまま外に歩いて行こうとする。って、え……?

「行くんでしょ、海」

 凪都はふり返って、わたしを手招く。

「行くって、いまから? そんな急に……」

 追いかけて外に出ると熱気が襲ってきた。凪都は「あつ」とシャツの胸もとを仰ぎながら言う。

「行けるときに行かないと」