九月の平日午前十一時、スーリカンパニー・事務所。

青田(あおた)さん、バースデーカードのスペルチェック、つき合ってもらえる?」
「はーい。……うわ、すごい数」
共有スペースのテーブルには新作のバースデーカードのデザインをプリントした用紙がずらりと並んでいる。
それを見て驚いた顔をしたのは青田果穂(かほ)・二十四歳。スーリに入社して二年目のまだまだ新人デザイナー。
「自分もデザインしたんだから、数くらいわかってたじゃない」
素直な反応に苦笑いしてしまうのが、私、冬月透子(ふゆつきとうこ)・三十三歳。チーフデザイナーで、スーリの創業メンバーでもある。

スーリは雑居ビルの四階に事務所、一階に倉庫という具合に二部屋を借りていて、私たちは四階の広さ九十平米ほどの事務所で働いている。この事務所にも、倉庫に置けない商品やサンプルのダンボール箱なんかがあって、社員は少なくてもあまり広さは感じない。
この部屋の共有スペースにある白いテーブルは、企画会議やこうした確認作業なんかに使われている。

「でも私、手が遅いから半分もやってないですもん。冬月さんにいっぱい作ってもらっちゃって……」
「いいのいいの。まだ二年目なんだから。作業の速さより丁寧にやってもらいたいの」

今日は二か月後に発売する予定のバースデーカードのデザインデータを印刷会社に入稿——つまり、印刷してもらうデータを送る日。
年に一度、この時期は各社がたくさんのバースデーカードを発売し、文具店や雑貨店の棚をカラフルに彩る。
小さな会社だから、デザイナーは私と彼女の二名だけ。それでも売場の占有面積は大手メーカーに負けないように確保したいから、商品点数はそれなりに作っている。
バースデーカードとひと口にいっても、シンプルな二つ折りのものから、飛び出す仕掛けのポップアップカード、立てて飾れるもの、音や光の出る派手なものなど様々だ。
外部のデザイナーやイラストレーターの手も借りてはいるけれど、最後の責任はこちらが持たなければいけないわけで、デザインもデータも、それに英語のスペルだって二人でしっかりチェックしなければいけない。
もちろん、バースデーカード以外の商品企画も並行して走らせているので、ここに至るまでの企画から仕様決定その他諸々の事も考えれば、はっきり言って激務である。

「B・I・R・T——」
原稿としてプリントした辞書の「HAPPY BIRTHDAY」のスペルを私が一文字ずつ読み上げる。それを聞きながら青田さんがバースデーカードに書かれた文字を追って確認していく。これを英語が書かれたカードの種類の回数——今回だったら二十一回、繰り返す。もちろんそれ以外にも文字が入っていれば確認するし、イラストなどのおかしいところが無いかどうかも細かく確認していく。
「あ、これ、Hが抜けてます」
スペルミスがあったところには付箋でメモを貼っていく。
会社によってやり方はまちまちだけど、スーリの場合は私が前にいた同業種の会社のやり方を踏襲している。大きな会社だったら専門のスタッフを雇うだとか、文字校正の外注に出すなんてやり方もあるはずだ。
「このデザイン、カラフルでかわいいですよね」
「そうね、そのイラストレーターさんも人気だし、ケーキは圧倒的に人気のあるモチーフだからこの中で一番売れるかも」
ケーキやパーティーをする動物などが描かれたカードたちはカラフルでかわいくて、仕事とはいえ見ていてワクワクしてくる。
「私、バースデーカードを作るのが一年で一番好きなのよね」
「どうしてですか?」
「100パーセントとは言わないまでも、たいていの場合、ポジティブな気持ちで使ってもらえるでしょ?」
誰かをお祝いしたい気持ちを後押しするためのものだから。
「たしかに」
私の言葉に、青田さんは感心するように並んだデザインを見渡して、それから嬉しそうに微笑んだ。

午後二時。
「ふぁ……」
「青田さん? 大丈夫?」
先ほどからなんとなく受け答えが怪しくなっていた青田さんが、とうとう大きなあくびを漏らす。
「わ! だ、大丈夫です!」
私に声をかけられて、ハッとする彼女に思わずクスッと笑ってしまう。
「ずっと目で追ってると疲れちゃうよね。あと少しだけど、読む方やる?」
「ほんとごめんなさい! じゃあ、読みます!」
「じゃあ、ちょっと心配だから今のカードはもう一回読んでもらってもいい?」
今度は青田さんが読んで、私が確認する。
結局全てを確認するのに、お昼休憩を挟んで二時間以上もかかってしまった。
「じゃあ青田さんは先にデータの修正と、入稿用に整える作業お願い」
「冬月さんは何するんですか?」
「指示書もまだ途中だから、そっちから先にやるの」

〝指示書〟というのは——これも呼び方は各社いろいろだと思うけれど——うちではセットアップ指示書だとか作業指示書なんて呼んでいるもの。
バースデーカードのパーツをどこに、いくつ、どんな接着剤でつけるか…などを写真や図をつけて指示したり、お店で売るためのパッケージにする場合に封筒をどんな向きで入れるだとか、商品名をアピールするシールをどこにつけるだとか、そういうことを全て記載する。

「いつ見ても……細かい」
作りかけの指示書を見ながら「ほぉ」と息を漏らして青田さんが言う。
「うちは細かい方かも。でもミスがあると商品回収になって、そこに()く人員が必要……ってことになって大変だからね」
「そういうの作れるの、すごいです」
「青田さんにもそのうち作ってもらうのよ?」
「えー絶対私にそんなのやらせない方が安全ですよー」
彼女は本人もよく言っているけど、少し天然というか……ちょっとだけおっちょこちょいなところがある。
「こんなにポンコツなのに大好きな会社のデザイナーになれたのは奇跡」
青田さんはこの言葉をよく口にする。
全然、奇跡なんかじゃないのに。

夜九時。
営業や事務などの他の社員はとっくに退社していった。
入稿日のお決まりの光景だ。
「よし、送信! は〜! カードの入稿終わりましたー!」
青田さんは机に手のひらを押し付けてグイーッと腕を伸ばすようにしたかと思ったら、今度はバタッと突っ伏した。
「つかれた〜」
「おつかれさま。たくさん入稿メール送ってもらってありがとうね」
「データは冬月さんが作ってるし、指示書もお任せしちゃってるし、私なんか全然ですー」
「そんなことないよ」
「でも、一回目だった去年よりはいろいろできた気がします」
彼女がこちらに無邪気にピースを向けるから、にこっと笑って彼女の成長に頷いた。
「来年は……っていうか、次の商品もその次の商品も、もっといろいろできるようにがんばります!」
疲れているはずなのに張り切る彼女に、少し不安になってしまう。
「そんなにがんばらなくて大丈夫だよ」
彼女の前に働いていたデザイナーは、ちょうどバースデーカードの入稿が終わったところで『疲れました』と言って退職してしまった。
当時のことを……その子の表情を思い出して私は小さくため息をついた。
「もう九時だから、青田さんは先に帰ってもいいのよ」
「え、でもまだ指示書のチェックとか」
「私の方でやっておくから」
「えーでもー」
私がいくら「いいからいいから」と言っても、彼女はなかなか納得してくれない。
「っていうかそれ、明日じゃダメなんですか?」
「え?」
「だって印刷会社もカードのデータチェックとか、明日の朝から時間かけてやると思いません? スケジュールも少しは余裕あるって、冬月さん言ってましたよね」
それは確かにそうだ。けれど私の性格上、今日中にスッキリさせてしまいたい気持ちがある。
「でも今日中に送ってしまいたいから、やっぱり私だけ——」

「それって、いつか私もそういう風に働かなくちゃいけないってことですか?」
青田さんがポツリとつぶやく。

「だってさっき、『青田さんにもそのうち作ってもらう』って」
彼女の言葉に、頭の中で過去の自分の発言を思い返してみる。
「……言ったね」
思わず眉を下げて苦笑いをしてしまった。
それからまた小さくため息をつく。
「そうね。帰らなくちゃダメね」
「です」
青田さんがホッとしたのか嬉しそうに笑みを向けたところで……

——ぐう〜

「「え」」

二人同時に声が出る。
それから顔を見合わせる。

「同時」
同じタイミングでお腹を鳴らしてしまって、二人でプッと吹き出す。
「もう九時だけど、時間大丈夫だったら軽く食べて帰る?」
「時間、全然大丈夫です! やったー!」
それから二人で急いで帰り支度をする。
「電気消えてる、ポットのスイッチ切れてる、窓も全部閉まってる……ヨシ!」
会社を最後に出る人間は、戸締りや火元を確認してチェックシートに丸をつける事になっている。その間も青田さんはなんだか嬉しそうだ。
「早く早く〜」
「もー! 青田さんだって閉め方覚えてもいいのよ?」
入居しているビルの一階で、セキュリティの機械にIDカードをかざしてスーリのオフィスを施錠する。ボタン操作があるからおぼえるのは少しだけ大変だ。
「だってそれ覚えちゃったら、いくらでも残って仕事できるようになっちゃうじゃないですか」
「要領が良いというかなんというか」
施錠の最後の手順を終えて、IDカードを「ピ」っと鳴らす。
「で、食べたい物は決まった?」
私の質問に、青田さんが満面の笑みを浮かべる。

「来てみたかったんですよ、ここ」
カウンター席で隣り合った彼女が言う。
「んー……私だって気にはなってたけど……九時過ぎてるのよね。なんていうか、罪悪感が……」
目を閉じて、首を傾げて顔をしかめる。
「たくさん働いて頭も使ったから大丈夫ですって!」
こういう時はたいてい謎理論が展開される。
「冬月さん、旦那さんは大丈夫なんですか?」
「この時期は忙しいって伝えてあるし、連絡入れたから大丈夫」
私は一応既婚だけれど、子どもがいないこともあって結構気ままにやらせてもらっている。
とはいえ実際のところ、夫はこのワーカホリックな妻をどう思っているのだろうかと時々思ったりする。
「はい、お待ちどー」
ゴトッという鈍い音とともに、私の目の前にどんぶりが置かれる。
「おいしそー!」
私のどんぶりを覗き込んで目を輝かせている青田さんの前にも、どんぶりがやって来る。

目の前には豚骨醤油ラーメン。漂う湯気が醤油とネギの良い匂いを鼻先に運ぶ。
最近会社の近くにできたこの店は、大行列でとてもランチの時間では入れない。しかし夜の九時を過ぎたこの時間ともなれば、満員に近くはあるけれどすんなり席につくことができた。
背脂豚骨が売りのお店のようだけど、私は弱気に背脂抜き。
青田さんは背脂ありのラーメンに味玉とチャーシューもトッピングしていて、年の差を感じずにはいられない。

「「いただきまーす」」
「はぁ〜……おいしぃ……!」
彼女が〝五臓六腑に染み渡る〟という感じの声で言うので、思わず笑う。
こんなに美味しそうに食べてもらえたら、店主どころかラーメンだって幸せなんじゃないかと思ってしまう。
「初めてですね、一緒にラーメン屋さんに来るの」
「そういえばそっか」
ランチに出ても、たまにこうしてご飯に来ても、タイ料理やイタリアンにばかり行ってしまう。
「カウンター席って新鮮ですね」
「べつに普通でしょ」
隣でなぜだか目をキラキラとさせている青田さんに苦笑いをしてしまう。
「そんなことないですよー、冬月さんは私の憧れの人ですから。隣に座れるなんて光栄です」
「大げさ」
彼女にこういう事を言われるのは初めてではない。
「だって私、冬月さんのデザインに憧れてこの業界を目指して、この会社を受けたんですから」
「その話、百万回目」
「本当なんですからー! 今こうしてバースデーカードの仕事ができるなんて夢みたいです」
気恥ずかしくって、彼女の方を見ずにラーメンをすする。
青田さん曰く、彼女の学生時代に私がデザインしたバースデーカードのデザインに感動して購入、それを推しの誕生日に送ったら返事が来た……らしい。
もともと文具や雑貨が好きだった彼女は、それでスーリを目指してくれたようだ。
創立から日の浅い会社で、そんなファンがついてくれたのはとても誇らしい。
「私なんかが冬月さんと働けるのは奇跡」
また言ってる。

「それ、全然違う」

「え?」
キョトンとして箸が止まった彼女の方に顔を向ける。
「奇跡なんかで入れないよ。うちの会社は」
人数が少なくてまだまだ若い会社だけど、かわいらしい物をデザインできる仕事は魅力的らしく、デザイナーを募集すればたくさんの応募がある。
「たしかに、募集しているかどうかは運かもしれないけど……たくさんの人の中から、あなたのデザインに一番ワクワクしたから入社してもらったの。奇跡なんか少しもない。実力よ」
青田さんはどう反応したら良いのかわからないようだけれど、これはふざけていうような事でもない。
「今はまだ教えることがたくさんあるけど、きっとすぐに私よりも売れるものをたくさん作ってくれるって思ってるのよ?」
「え、えっと……が、が、がんばりまふ……!」
焦ったようにラーメンをズズッとすする。
青田さんって、普段はマイペースだけど、こういう真剣な言葉には照れるところがあるのよね。
思わず「ふふっ」と笑ってしまう。
「今日も、ありがとう」
「え? 入稿の件ですか?」
私は首を横に振る。
「それもあるけど、さっき。残業を止めてくれて」
言ってくれなかったら、きっとずっとあのままだった。
「私って、〝もう少しだけ〟〝あと少し、キリのいいところまで〟ってついつい余計に残業しちゃうの。デザイナーが自分一人の頃だったらそれでも良かったんだけど、後輩の前であれは……怖がらせちゃって良くないよね」
申し訳なくて、眉を下げる。
「青田さんの前にいたデザイナーの子は、ちょうどバースデーカードが終わった時期に辞めてしまったの。もしかしたら、こういう私が怖かったのかも」
先輩に進言するってなかなか勇気のいる事だと思う。
彼女の気持ちに寄り添ってあげられなかった自分が情けない。
「じゃ、じゃあ」
話を聞きながら水をひと口飲んだ青田さんがこちらを向く。
「もっとこうやって、冬月さんとご飯に来たいです。仕事の後」
「え?」
「美味しいもの食べにいくって約束してれば少しは早く上がろうって思えるじゃないですか」
私は麺の少なくなったどんぶりを見ながら少し考えた。
「そうね。そうかも」
「じゃあじゃあ!」
青田さんはスマホを取り出した。
「メッセージのID、交換して欲しいです!」
「何が〝じゃあ〟なの?」
「えーだって、美味しそうなお店とか見つけたら共有したいじゃないですか!」
「ID……」
この要望にはどうしても「うーん」と考え込んでしまう。
私は仕事とプライベートを分けたいタイプだから、社内でも付き合いの古い社長くらいにしかメッセージアプリのIDを教えていない。
「休みの日とか、ムダに連絡してこない?」
青田さんは頷く。
「連絡事項はちゃんと会社に電話かメールするのよ?」
さらに首をぶんぶん振り下ろすように深く頷く。
「それなら」と私もスマホを取り出して、IDを交換する。
「やったー!」
青田さんは画面にキスでもしそうなくらい喜んでいる。芸能人にでもなった気分。
「あのあの! もう一個お願いが」
スマホを両手で握りしめた彼女に見つめられる。
「何?」
「〝透子さん〟って呼びたいです!」
一瞬、固まってしまった。
「わ! なんですかその顔! ひどい!」
きっとものすごーく嫌そうな表情をしているだろうと自分でもわかる。
「ダメ」
「えー! なんでですか?」
「友達じゃないんだから」
「他の社員さんたちは名前で呼んでる人もいるじゃないですか」
営業や、比較的古参のパートさんなんかは名前やニックネームで呼ばれていたりする。
だけど私は絶対にしないようにしている。
「距離が近づきすぎると、仕事上で注意したりできなくなっちゃいそうで嫌なのよ」
モノづくりの仕事で、細かいことを馴れ合いや妥協で見過ごすようにはなりたくない。
「そうですか……」
しょんぼりさせてしまって、少しだけ罪悪感が芽生える。
なんて思ってたのに、彼女は俯いた顔をパッと上げる。
「あ! じゃあじゃあ! こういう時だけ」
「え?」
「仕事が終わったご飯の時間だけ、透子さんと果穂でどうですか?」
「だから、友達じゃないってば」
青田さんはなかなか手強い。
「えーでも、見てくださいよ」
彼女はスマホ画面をこちらに向ける。
「ほらここ、〝ともだち〟って書いてあります!」
先ほどのメッセージアプリの登録者一覧だ。
「屁理屈」
「だって、じゃあどうしたら冬月さんと友達になれるんですか?」
「そうね……スーリを辞めたら、かな」
仕事上の利害関係のない状態なら友達になれる、というのが私の考えだ。
彼女の後ろに〝ガーン〟という文字が見えた気がする。
「それじゃあ一生友達になれないじゃないですかー!」
自分も転職して、辞めていったデザイナーも見ている私からすると『一生』なんて軽々しく言える彼女はまだまだ子どもだ。
だけどその素直さが、今はとてもかわいく思える。
「そろそろ行こっか」
「……はい。冬月さん(、、、、)

九月の夜、店を出ればどこからか秋の虫の声が聞こえる。
「お金! あーでも現金ないかも、明日払います」
「ラーメンくらい大丈夫よ」
「でも——」
「明日からも一緒にがんばってくれたらそれで大丈夫」
「はい! じゃあ、ごちそうさまです」
しばらく歩いて、駅に着く。
彼女と私は別々の路線だから、改札でお別れだ。
「あ、会社出る時に言い忘れてた」
「え? なんですか?」
「今日もおつかれさまでした。おやすみ、果穂ちゃん」
「おつかれさまで……え!」
果穂ちゃん(、、、、、)の驚いた顔に満足して、早々に身体の向きを変えて自分の改札に向かう。
「透子さーん! おつかれさまです! おやすみなさーい!」
彼女の大きな声で、すれ違う人の視線がこちらに向いてちょっとだけ恥ずかしい。
だけど悪くはない気分。

おつかれさま。
また明日。


fin.