1948年に成立した教育委員会法によって設立された教育委員会は、当初強い権限を与えられていた。
 予算や条例について議会に案を提出する権限を持っていたのだ。
 しかし、運営していく中で派閥間の対立や利害関係という問題が露呈し、教育委員会法が地方教育行政法に改正されることになった。
 と共に2つの大きな変更が為された。
 地域住民が委員を選ぶ公選制から首長が議会の同意を得て任命する制度に変更されたことが一つ。
 もう一つは予算や条例の案を議会に提出する権限が廃止されたことだった。
 このことは教育委員会の立場に大きな影響を与えることになった。
 教育文化省を頂点とする中央集権的教育行政を末端で支える組織になることを意味していたからだ。
 その結果、新たな問題が浮上することになった。
 
 現在の教育委員会は政治的中立性を保ちながら学校の基本的な運営方針の決定や教職員の人事に強く関与しているが、事務局の提出する案を追認するだけで実質的な意志決定を行っていないし、地域住民の意向を十分反映したものとはなっていない。
 よって、地域の実情に応じた施策が行えているとは言えないという指摘が相次いでいるのだ。
 その上、虐めなどに対して適切な対応がなされていないことや、それを隠そうとする隠蔽(いんぺい)体質に強い批判の声が上がっている。
 
 これは堅岩にとっても大きな頭痛のタネになっていた。
 夢開中学校における虐めが深刻化していたのだ。
 抜本的な対策を打てないどころか逃げ腰になっている校長や教頭を何度も叱り飛ばして指示を出していたが、改善する気配は一向に見えていなかった。
 そんな中、スポーツ専門中学校の新設という情報が耳に飛び込んできたので、「冗談じゃない!」と怒り心頭に発したのだ。
 夢開中学校の虐めという目の前の問題が深刻化する中、新たな中学校を開設するという無神経さが信じられなかった。
 
「奴らは何もわかっていない!」

 周囲にぶちまけた言葉が彼の苛立ちを表していた。
 
「夢開中学校の生徒から自殺者が出たらどうするのだ? 学校新設という能天気な話に付き合っている場合ではないだろう」

 頭に血が上った堅岩を沈める職員は誰もいなかった。
 誰もがうつむいたまま堅岩の怒りが収まるのを待っているだけだった。
 それらのことを女性職員から聞いたわたしは、またも途方に暮れた。