冬の寒さにやられ、教室で過ごす生徒が増えた昼休み。
野井と犀川の会話――内容のほとんどは犀川が付き合い始めた他校の女子についてだった。かわいいらしい。よかったな――をぼんやりと聞いていると、のろけに飽きたのか「そういえばさ」と野井が俺に水を向けた。
「ん? なに?」
「最近、教室来ないじゃん、王子。彼女でもできたわけ?」
「あー……、どうだろうな」
瀬尾が教室に来ないことは事実だが、彼女の有無は承知しないので、そうとしか答えようがない。まぁ、いてもおかしくはないと思うけど。
なにせ、日向と羽純ちゃんという学校に認められたバカップルを見て羨んでいたくらいだ。瀬尾がその気になったら、すぐにできることだろう。
「どうだろうなって、バイト辞めたわけじゃないんだろ? しないの、そういう話」
「いや……、うん。一緒だけど。最近シフト被ってないし。うちにも来ないから」
あの日以来、シフトが被っていないことも、学校で顔を見ていないことも、家に遊びに来ないことも、すべて事実である。
へらりと笑った俺を一瞥し、ふぅん、と野井は呟いた。
……なんか、野井、瀬尾のこと嫌いだよなぁ。
よく知りもしないくせに、そんな、と。もやりとする気持ちもあるものの、まぁ、こいつ、辻くんのことも嫌いだからなと思うことで、俺は自分を納得させた。クールなイケメンが嫌いなんだろう、たぶん、きっと。
「ま、べつに、なんでもいいけど。わざわざ教室で顔見んのも目ざわりだったし。来ないなら来ないでちょうどいいわ」
「目ざわりって」
「わざわざ一年が来なくていいって話だろ。なに、むきになってんの」
「いや、だって、瀬尾、べつに、なにもしてないじゃん」
はっきりと口を挟んだ俺に、野井は驚くでもなく怪訝な顔をした。でも、当然の反応かもしれない。
野井とは小学校低学年のころからの付き合いだけど、「そこまで言わなくてもなぁ」と感じることがあっても、俺はぜんぶ笑って流していた。
悪いやつではないし、口に出すことで気分を切り替える節があることも知っていたからだ。でも。
「あと、王子って言うの、本当にやめてやって。見た目が派手で目立つだけで、ふつうに真面目ないいやつだから」
「ふぅん」
苛立ったような瞳にドキリとしたものの、茶化して誤魔化すことは選ばなかった。
揉めることが苦手で、誰にでも良い顔をしたがって、「べつに、どうでもいいけど」で流すことがお決まりで。俺がそんなふうだから、そんなふうに俺が扱われることはしかたがないと思う。
でも、俺がそんなふうなせいで、瀬尾が軽く扱われることは嫌だった。……いまさらだけど。
「ま、真面目でつまんない一颯に懐くくらいだし、真面目でつまんないやつなんだろうな」
「そうかもね」
笑うことなく淡々と返して、立ち上がる。
野井も、見物を決め込んでいた犀川も、虚を突かれて戸惑っている顔をしていた。なにを言っても大丈夫だと思っていたんだろうなぁと痛感する。
……いや、いいんだけど。実際、そのとおりだったんだし。
ただ、どうにも引っ込みがつかなくて、俺は逃げるように廊下に出た。チャイムが鳴る時間が近づいていることはわかっていたので、完全に勢いでしかない。
後悔をしているつもりはないものの、慣れないことをした胸はめちゃくちゃドキドキとしていた。かっこ悪いと思うけれど、これが俺の精いっぱい。
悶々と廊下を歩いていると、今度は正面から来た人とぶつかりそうになってしまった。いや、本当にかっこ悪いな、俺。
「あ、ごめ……って、なんだ。辻くんか」
見上げた顔にほっとして呟けば、辻くんは不思議そうに首を傾げた。
「サボんの?」
「あ、いや、えっと」
「べつにどっちでもいいけど。保健室とか言っといたほうがいいのかなと思って」
「えっと、……いやぁ」
春のころを思うと、びっくりするくらい親切になったな、辻くん。
気遣いはありがたいのだが、さてどうしたものか。なにせ、飛び出してきただけである。返答に悩んでいると、辻くんの首がさらに傾ぐ。
「なに、野井たちに頼んでた?」
「いやぁ」
そういうわけでもないんだけど。曖昧に眉を下げた俺をまじまじと見つめ、辻くんはひとつ瞬いた。
「喧嘩でもしたの? 珍し」
「いやぁ、…………喧嘩ではないと思うんだけど」
「ああ、まぁ、遠坂、いつも譲るもんな」
だから、喧嘩ではないのではないか、とも、だから、たまにはいいのではないか、とも。どちらとも受け取ることのできる調子だった。
「そうかな」
はは、と笑った俺に、辻くんは大真面目な顔で頷いた。
「うん、遠坂、いつも周りのこと見てるから。俺には無理。マイペースだから」
「そんなことはないと思うけど。でも、ありがと」
予想外に褒められてしまい、もう一度曖昧に笑う。でも、たぶんだけど、辻くんのほうがずっとしっかり周囲を見ているんじゃないかな、と思う。
俺は揉めないように小動物よろしく気を配っているだけだけど、辻くんは気になったらきちんと声をかけてくれる。たぶん、辻くんの物差しで放っておけないと判断をしたときに。
俺もそんなふうだったら違ったのかな。想像を試みたものの、よくわからなかった。じゃ、とあっさりと会話を切り上げた辻くんと別れ、俺も歩き始める。
小心者な俺は授業をサボったことはない。そんな俺が教室に戻らないと決めたとき、頭に浮かんだ場所はひとつだけだった。
少し前まで、瀬尾とよく一緒に昼を過ごした空き教室。
ひとりで来るのははじめてだなぁと思いながら、窓際の後ろから二番目、いつも瀬尾が座っていた椅子を引く。
静かな空間で窓の外を見つめ、俺はいまさらな溜息をひとつ吐いた。言った内容は後悔していなくても、ほかに言い方はあったと思うし、そもそもとして、あれでは完全に言い逃げだ。あの夜と一緒。
――瀬尾がなにか言おうとしてたのも、聞きたくなくて、逃げたしな、俺。
ぐしゃりと前髪を掻きやって、俺はずるずると机に突っ伏した。
でも、だって、怖かったんだよ。あれ以上、聞くことも。あれ以上、近くにいて好きになることも。そう思ったところで、俺ははたと気がついた。
……自分のことばっかじゃん、俺。
本当に、嫌になるくらい。机に顔をつけたままうめいて、本でも持ってきたらよかったな、と明後日の方向に思考を切り替えようと試みる。
延々とループしがちなマイナス思考を止める、俺の秘密兵器。でも、最近はあまり効力を発揮してくれないんだけど。つまり、ずっと瀬尾のことを考えているということ。導き出された答えに、俺は再びうめいた。本当にどうしたらいいのだろう。
俺はこれまで、自分が気にしなければどうにでもなると信じて生きてきた。
おっさんに絡まれても大きな実害はないのだから、深く気にしなければいい。笑い話にすればいい。
誰かに嫌なことを言われても、愛想笑いで流せばいい。流し切れなかったものが胸に残っても、大好きな本の世界に浸ったら忘れることはできる。俺が見つけた、最適解。
そんな俺を「十七年しか生きてないくせに、斜に構えたこと言っちゃって」と母さんは苦笑まじりに評するわけだけど、少しだけわかった気がした。
本心でそう思っているつもりでいただけで、他人や自分と向き合うことから逃げていただけ。
だから、俺と似ているようでまったく似ていない、自分にも他人にもまっすぐな瀬尾が眩しかった。
「あーあ」
わざと声に出して、俺は呟いた。
「半年楽しかったなぁ」
――クリスマスさ、デートしない?
あの約束も、本当はうれしかったんだけどな。
野井と犀川の会話――内容のほとんどは犀川が付き合い始めた他校の女子についてだった。かわいいらしい。よかったな――をぼんやりと聞いていると、のろけに飽きたのか「そういえばさ」と野井が俺に水を向けた。
「ん? なに?」
「最近、教室来ないじゃん、王子。彼女でもできたわけ?」
「あー……、どうだろうな」
瀬尾が教室に来ないことは事実だが、彼女の有無は承知しないので、そうとしか答えようがない。まぁ、いてもおかしくはないと思うけど。
なにせ、日向と羽純ちゃんという学校に認められたバカップルを見て羨んでいたくらいだ。瀬尾がその気になったら、すぐにできることだろう。
「どうだろうなって、バイト辞めたわけじゃないんだろ? しないの、そういう話」
「いや……、うん。一緒だけど。最近シフト被ってないし。うちにも来ないから」
あの日以来、シフトが被っていないことも、学校で顔を見ていないことも、家に遊びに来ないことも、すべて事実である。
へらりと笑った俺を一瞥し、ふぅん、と野井は呟いた。
……なんか、野井、瀬尾のこと嫌いだよなぁ。
よく知りもしないくせに、そんな、と。もやりとする気持ちもあるものの、まぁ、こいつ、辻くんのことも嫌いだからなと思うことで、俺は自分を納得させた。クールなイケメンが嫌いなんだろう、たぶん、きっと。
「ま、べつに、なんでもいいけど。わざわざ教室で顔見んのも目ざわりだったし。来ないなら来ないでちょうどいいわ」
「目ざわりって」
「わざわざ一年が来なくていいって話だろ。なに、むきになってんの」
「いや、だって、瀬尾、べつに、なにもしてないじゃん」
はっきりと口を挟んだ俺に、野井は驚くでもなく怪訝な顔をした。でも、当然の反応かもしれない。
野井とは小学校低学年のころからの付き合いだけど、「そこまで言わなくてもなぁ」と感じることがあっても、俺はぜんぶ笑って流していた。
悪いやつではないし、口に出すことで気分を切り替える節があることも知っていたからだ。でも。
「あと、王子って言うの、本当にやめてやって。見た目が派手で目立つだけで、ふつうに真面目ないいやつだから」
「ふぅん」
苛立ったような瞳にドキリとしたものの、茶化して誤魔化すことは選ばなかった。
揉めることが苦手で、誰にでも良い顔をしたがって、「べつに、どうでもいいけど」で流すことがお決まりで。俺がそんなふうだから、そんなふうに俺が扱われることはしかたがないと思う。
でも、俺がそんなふうなせいで、瀬尾が軽く扱われることは嫌だった。……いまさらだけど。
「ま、真面目でつまんない一颯に懐くくらいだし、真面目でつまんないやつなんだろうな」
「そうかもね」
笑うことなく淡々と返して、立ち上がる。
野井も、見物を決め込んでいた犀川も、虚を突かれて戸惑っている顔をしていた。なにを言っても大丈夫だと思っていたんだろうなぁと痛感する。
……いや、いいんだけど。実際、そのとおりだったんだし。
ただ、どうにも引っ込みがつかなくて、俺は逃げるように廊下に出た。チャイムが鳴る時間が近づいていることはわかっていたので、完全に勢いでしかない。
後悔をしているつもりはないものの、慣れないことをした胸はめちゃくちゃドキドキとしていた。かっこ悪いと思うけれど、これが俺の精いっぱい。
悶々と廊下を歩いていると、今度は正面から来た人とぶつかりそうになってしまった。いや、本当にかっこ悪いな、俺。
「あ、ごめ……って、なんだ。辻くんか」
見上げた顔にほっとして呟けば、辻くんは不思議そうに首を傾げた。
「サボんの?」
「あ、いや、えっと」
「べつにどっちでもいいけど。保健室とか言っといたほうがいいのかなと思って」
「えっと、……いやぁ」
春のころを思うと、びっくりするくらい親切になったな、辻くん。
気遣いはありがたいのだが、さてどうしたものか。なにせ、飛び出してきただけである。返答に悩んでいると、辻くんの首がさらに傾ぐ。
「なに、野井たちに頼んでた?」
「いやぁ」
そういうわけでもないんだけど。曖昧に眉を下げた俺をまじまじと見つめ、辻くんはひとつ瞬いた。
「喧嘩でもしたの? 珍し」
「いやぁ、…………喧嘩ではないと思うんだけど」
「ああ、まぁ、遠坂、いつも譲るもんな」
だから、喧嘩ではないのではないか、とも、だから、たまにはいいのではないか、とも。どちらとも受け取ることのできる調子だった。
「そうかな」
はは、と笑った俺に、辻くんは大真面目な顔で頷いた。
「うん、遠坂、いつも周りのこと見てるから。俺には無理。マイペースだから」
「そんなことはないと思うけど。でも、ありがと」
予想外に褒められてしまい、もう一度曖昧に笑う。でも、たぶんだけど、辻くんのほうがずっとしっかり周囲を見ているんじゃないかな、と思う。
俺は揉めないように小動物よろしく気を配っているだけだけど、辻くんは気になったらきちんと声をかけてくれる。たぶん、辻くんの物差しで放っておけないと判断をしたときに。
俺もそんなふうだったら違ったのかな。想像を試みたものの、よくわからなかった。じゃ、とあっさりと会話を切り上げた辻くんと別れ、俺も歩き始める。
小心者な俺は授業をサボったことはない。そんな俺が教室に戻らないと決めたとき、頭に浮かんだ場所はひとつだけだった。
少し前まで、瀬尾とよく一緒に昼を過ごした空き教室。
ひとりで来るのははじめてだなぁと思いながら、窓際の後ろから二番目、いつも瀬尾が座っていた椅子を引く。
静かな空間で窓の外を見つめ、俺はいまさらな溜息をひとつ吐いた。言った内容は後悔していなくても、ほかに言い方はあったと思うし、そもそもとして、あれでは完全に言い逃げだ。あの夜と一緒。
――瀬尾がなにか言おうとしてたのも、聞きたくなくて、逃げたしな、俺。
ぐしゃりと前髪を掻きやって、俺はずるずると机に突っ伏した。
でも、だって、怖かったんだよ。あれ以上、聞くことも。あれ以上、近くにいて好きになることも。そう思ったところで、俺ははたと気がついた。
……自分のことばっかじゃん、俺。
本当に、嫌になるくらい。机に顔をつけたままうめいて、本でも持ってきたらよかったな、と明後日の方向に思考を切り替えようと試みる。
延々とループしがちなマイナス思考を止める、俺の秘密兵器。でも、最近はあまり効力を発揮してくれないんだけど。つまり、ずっと瀬尾のことを考えているということ。導き出された答えに、俺は再びうめいた。本当にどうしたらいいのだろう。
俺はこれまで、自分が気にしなければどうにでもなると信じて生きてきた。
おっさんに絡まれても大きな実害はないのだから、深く気にしなければいい。笑い話にすればいい。
誰かに嫌なことを言われても、愛想笑いで流せばいい。流し切れなかったものが胸に残っても、大好きな本の世界に浸ったら忘れることはできる。俺が見つけた、最適解。
そんな俺を「十七年しか生きてないくせに、斜に構えたこと言っちゃって」と母さんは苦笑まじりに評するわけだけど、少しだけわかった気がした。
本心でそう思っているつもりでいただけで、他人や自分と向き合うことから逃げていただけ。
だから、俺と似ているようでまったく似ていない、自分にも他人にもまっすぐな瀬尾が眩しかった。
「あーあ」
わざと声に出して、俺は呟いた。
「半年楽しかったなぁ」
――クリスマスさ、デートしない?
あの約束も、本当はうれしかったんだけどな。