瀬尾がはじめて教室に顔を出した日は大騒ぎだったものの、週に一、二度の頻度で顔を出す日々が続くこと、二ヶ月弱。
 どうにか日常風景と化したはずだった訪問は、朝に顔を出すというイレギュラーひとつであっさりと注目の的に舞い戻った。
「べつによかったのに」
 興味津々の視線を背中に感じつつ、俺は教室のドア付近で傘を受け取った。ひさしぶりに感じる居心地の悪さで、ついつい苦笑いになる。
「朝一で持ってきてくれなくても。っていうか、日向で本当によかったんだけど。それか次のバイトでも」
「まぁ、そうだけど」
「けど? もしかして、瀬尾、借りたもんずっと持ってんの苦手な人?」
 なにを隠そう、俺もそのタイプなので気持ちは大変よくわかる。ちなみにだけど、真逆のタイプの日向は常に借りパク一歩手前のチキンレースだ。「あれ、これ、兄ちゃんのだったっけ?」という台詞を、俺が何度聞いたことか。
 瀬尾相手にはしてないといいんだけど、と。少し不安を覚えていると、ぷはっと瀬尾が笑った。クールが代名詞の王子の笑顔に、わかりやすく背後がざわつく。
 わかる。基本が塩対応のやつがこういう笑い方をすると、くるものがあるよね。俺は最近大型犬と思うことで耐えているので、免疫をつけたい人は真似をしたらいいと思う。
「ううん、たまには朝にも先輩の顔見ようと思って」
「あー……、うん」
 そういう誤解を招く言い方はやめようね、と告げようとした台詞を、俺はもごもごと呑み込んだ。そういう誤解を招きたい関係だったと思い出したのである。取り繕うように、へらりとほほえむ。
「ありがとね」
「なに、その微妙な顔」
「いやぁ」
 わかってるでしょ。愛想笑いを維持する俺を見て、瀬尾はちらりと俺の背後――つまるところ教室内を見渡した。
「あの……、瀬尾?」
「ま、いいや。それ返しに来ただけだから」
「あ、……うん。ありがとね」
 ぎこちなく笑う以外の返し方がわからず、やんわりと手を振る。
 良くも悪くも瀬尾は慣れているのだろうけれど、複数の視線を背中に感じる状況は、どうにも落ち着かない。
 その俺に向かって控えめに目元を笑ませると、じゃあね、と瀬尾は踵を返した。なんだ、あのイケメン。俺がリアルに彼女だったら、心臓をぶち抜かれているに違いない。
 女子に話しかけられないよう、うつむきがちにそそくさと席に戻る。と、前の席の野井が振り返った。興味半分、呆れ半分といった顔で野井が口を開く。
「一颯、マジで懐かれてんのな、王子に。なんか、俺、睨まれた気がすんだけど」
「してない、してない」
 万に一くらいの確率で、コンビニまでからかいに来たことを根に持っている可能性はあるけれど。
 案外と瀬尾は根がおっとりとしているというのが、最近の俺の見立てなのだ。猪みたいな側面もあるものの、のんびりというか、いい子というか。なんか、そんな感じ。
 苦笑いを刻み、返してもらった折り畳み傘をリュックに片付ける。
「本当にいいやつだよ、瀬尾。傘も早く返さないと落ち着かなかったんじゃないかな。たぶんだけど。けっこう真面目なんだよね」
「真面目ねぇ」
 想像できないと首をひねった野井に、まぁ、そうは見えないよなぁと内心で同意を示す。瀬尾、ギャップの宝庫って感じあるし。
 冷たそうに見えるけど、空気が読めて、なんだかんだと言っても優しくて。それで、他人に悟らせないレベルの気遣いがうまい。
 誤解を招きたい関係であることを思い出した、という事実が正にそれで。高校での瀬尾は「自分の親友の兄貴で、自分も懐いている仲の良い先輩」というポジションに俺を置いてくれている。
 九月の最初。はじめて瀬尾とふたりで昼を食べたとき。「最悪、デートって言えば、しつこい女子も寄ってこないでしょ」との発言に、俺が内心で怯んだことに気がついたのだと思う。
 アルバイト中だけであればともかく、目立つことが苦手な俺にとって、校内で「あの王子の彼氏」という視線を浴びる立場はきついものがある。
 それが本音だったので、偽装彼氏の話を瀬尾が持ち出さない現状は正直とてもありがたい。ただ、同時に、瀬尾にとっての偽装彼氏のメリットはますますなくなってるんじゃないのかな、と少し疑っているのだけれど。