朝は静かで、空気が凍りつくように張り詰めていた。静まり返る廊下に二つの足音が鳴る。運動部の掛け声だけが遠くからかすかに響いてくる。普段は賑やかなこの場所も、今はひっそりと静まり返っていた。
 部室の扉を開けると、そこには絵を描くための道具が無造作に置かれ、空っぽのキャンバスが寂しげに佇んでいた。
「この一年、色々ありすぎて、すごく長く感じたな」と、机に散乱したアクリルガッシュの絵の具を一つ拾い上げ、蓮太郎くんが呟く。その声にはどこか哀愁が漂っていた。言葉の奥に秘められた感情が、まるで遠い記憶を引きずるかのように響く。
「そうだね……長い一年だった気がする」窓の外を眺めながら、手持ちぶさたの手を後ろに組む。
 私達は一緒に過ごした日々を振り返りながら、黙って思い出の中に沈んでいった。この一年が遠い過去のように感じられる。
「放課後、ミスドに行ってよく話したよね」蓮太郎が急に笑みを浮かべた。
「スパイシーチリマヨ・チョコクランチって、あの変なドーナツ、覚えとる?」
「もちろん。涼くんが最初に見つけて教えてくれたんだよね」
 何もかもがただ平穏で、穏やかで、そして楽しかった。当時の何気ない日々の一瞬が、いつの間にか心の中で宝物のように輝きだしていることに気づく。
「校外学習で写真をたくさん撮ったよな」
「うん、水族館にも行ったよね。大水槽が凄い綺麗だったわ」
「どれもさ、あいつがおったな」蓮太郎くんの声が少し沈む。
 二人の思い出には、常に彼の姿があった。何をしていても、どこにいても、そこにあった彼の存在。絵を描く時間も、放課後の会話も、全てが彼との共有された時間。そして、その時間は今、永遠に過去のものになってしまった。
 
 二、三言葉を交わした後、部室にイーゼルを立てた。蓮太郎くんの絵を左に、私の絵を右に。そして、涼くんが描いた「清水円山展望台の風景画」を真ん中に立てかける。
 その瞬間、絵の裏から茶封筒がひらりと落ちた。
「何だろう、これ……」封筒を拾い上げる。
「さあ……?」蓮太郎くんもそれを見て驚いた顔をした。
 封筒を開けると、中からは折り畳まれた一枚のルーズリーフの紙が出てきた。それは涼くんが私達二人に宛てた手紙だった。
「桜井さんと蓮太郎へ」
 手紙というよりは、台本に近い。彼は口下手だから、きっと私達の前でこれを読もうとしたのだろう。
 その冒頭部分をじっと見つめ、言葉が詰まった。目を当てることができず、そのまま蓮太郎くんへ封筒ごと渡す。
 彼は一読した後「……そっか、そうやったんやな」と呟いた。
「俺が読もうか?」
 私は小さく頷いた。それは、ほんのわずかな身振りだが、精一杯の返事を込めたつもりだった。
 蓮太郎くんは、一呼吸おいて、そのルーズリーフに書いてあった涼くんの台詞を読み上げ始める。
 
 桜井さんと蓮太郎へ。
 二人に伝えておきたいことがあります。まず、僕がこうして絵を描く事を続けられたのは、二人のおかげです。美術部に入った後、自分が井の中の蛙だった事に気づき、すごく落ち込みました。でも君達の絵に触れ、君達と一緒に過ごすうち、絵を描く楽しさが僕の中に広がったんだ。二人は僕にとって、特別な存在です。
 蓮太郎、最初、僕は君の事が苦手だった。どこか威圧的で、僕の性格とは合わないと思ってた。でも、それは僕の勘違いだった。本当にごめん。君はどんな人にも分け隔てなく接して、楽しく、明るく過ごそうとしてるだけなんだと気付いた時、僕は急に恥ずかしくなった。何より君に嫌な思いをさせていたのではと考えた時、すごく後悔したんだ。最初から変な色眼鏡かけていなければ、君と早くから仲良く話せていただろうし、君ももっと楽しい時間が過ごせたんじゃないかと思う。ごめんなさい。君は、バカをやっても一緒に笑ってくれる本当にいいやつだ。時には助けてくれて、時には叱ってくれて、本当に感謝しています。これからも僕の友達として、いや、こういうとちょっと恥ずかしいけど親友として付き合ってくれたら嬉しいな。

「そんな、当たり前やろ……バカたれが……」瞬きをしない彼のまっすぐな目には涙が溜まり、やがて頬に涙の線が幾重にも重なっていった。少しの沈黙の後、彼は続きを読み始めた。
 
 桜井さん、君はいつも明るくて、僕がどんなに塞ぎこんでいる時でも、その笑顔で元気づけてくれた。僕と蓮太郎と口喧嘩した時も、すっと間に入ってくれたよね。イタズラ好きだけど、僕達を包み込んでくれる君の存在は、さんさんと照らしてくれる太陽みたいだ。そんな君が僕は好きです。でも君が病気と知った時、すごく不安になったんだ。ほの暗い世界を毎日歩いていた。君が死ぬんじゃないかと考える度に、いっそ代わりに僕が死にたいくらいだった。君を勇気づけなくてはと思うようにはしてたんだけど、逆に君からずっと励まされてばっかりだったね。ごめんよ、君が一番辛いはずなのにね。僕に出来る事はこの絵を描き上げる事だと思った。描き上げれば君はきっと喜んでくれるって。アニムトゥムの話を聞いた時、僕は信じたよ。だからきっと良いメッセージを運んでくれるに違いないって思いながらこの絵を描いた。君の苦しみや辛さを僕に背負わせてくれとお願いしたんだけど、その必要はなかったみたいだね。退院の知らせを聞いた時、僕はアニムトゥムに感謝したよ。願いが届いたんだって。退院おめでとう、桜井さん。
 この三人で描いた風景画、並べて観たら絶対素晴らしいものになると思う。それをこれから観れると思うとすごく楽しみです。ありがとう、蓮太郎、桜井さん。こんな僕の友達でいてくれて。これからもよろしくお願いします。

 蓮太郎くんが読み終わると、部室の中には静寂が戻った。
 涼くんの言葉を胸に刻み込んでいく。静かに手紙を閉じ、蓮太郎くんはしばらく無言でその場に立ち尽くしていた。
 涼くんの残した拙い言葉は、私達にとってあまりにも大きく、そして温かい贈り物だった。彼がここにいない今でも、その存在は確かにここにある。
 喉の奥が詰まり、体中の筋肉に力が入らない。呼吸さえもままならないほどに。
「蓮太郎くん……」
 ひとつ、ふたつ、ほろほろと涙が頬を伝い、小さく震えながら、消え入りそうな声で呟く。
 交通事故で命を落とした事を知った時も、心臓を掴み苦しみながら亡くなった時も、一粒たりとも流すまいと必死にこらえていたはずなのに。
「私ね、もう……だめかもしれない……」
 蓮太郎くんは頷く。そしてそれ以上、何も言わなかった。
 
 意思に反して体が動き出す。両手で目を覆い、ぐっと力を込めて押しつけた。
 「ううう……」声にならない呻きが鼻から漏れ出し、次の瞬間、全身の力が一気に抜け、膝が床へと崩れ落ちる。そして、慟哭が喉を突いて溢れ出した。
「ああああああああ!ああああああああああああ!ああああああああああああ!」
 ダンゴムシのように小さく丸まった体が、額を床に押し付け、駄々をこねる子どものように感情を全身でぶつけていた。理性は「泣くな」と叫んでいたが、体にその声は届かず、今まで閉じ込めていたすべてが、せきを切ったかのように、一斉に噴き出していく。
 彼を失ったことがどうしようもなく悲しく、彼を救えなかった自分に腹正しく、彼を慕っていたのに伝えられなかった事が自分が口惜しく、彼のいない人生を歩まなければいけない現実が耐えがたい。
 感情という波が押し寄せるダムは、今、この瞬間に決壊した。

 膝を地に突き、部室の床に手をついたはずなのに、何故か白い砂を掴んでいた。その白い砂を強く握りしめる。彼を救えなかったことへの無力感が、今でも心に重くのしかかる。指の隙間からこぼれ落ちる砂の感触とともに、風の音が虚しく響き、髪とワンピースの裾が小刻みに揺れた。
 時間はとうに意味を失い、ただ空虚な沈黙だけが支配している。その中で、肺に詰まっていた息を細く漏らすように吐き出し、少しずつ心の重みを手放した。
 ゆっくりと体を起こし、辺りを見渡す。白い砂丘と青い空、どこまでも続く不思議な風景。現実とは思えない場所。再び「アニムトゥムの世界」に戻ってきた。

 緑陰に包まれた木の下、アニムトゥムが陽射しの中で眩しそうに目を細めながら、こちらへ向けて手を振っている。その仕草に応えるように、足元の砂を感じ取りつつ、ゆっくりと彼女の方へと歩を進めた。
「由衣……」
 彼女の瞳は、いつもと変わらず澄んでいて、でもその奥には悲しみが宿っている。
「また会えたね……といっても今度は数日ぶりか」
 彼女に微笑みかけた。彼女も静かに微笑んでいる。
 テーブルの上にはクッキーの皿が置かれていた。ばらついていた配置が少しなおしながら、それをこちらに向けて差し出す。
「今回はクッキーを焼いてみたの。味見したんだけど、これまたバッチリに仕上がってるわ!」
「……ありがとう」と言い、クッキーに手を伸ばす。
 そのクッキーをじっと見つめた。半分がチョコレートがコーティングされており、ビターな香りがした。
「その顔を見る限り、ダメだったみたいね」と、アニムトゥムが静かに口を開く。
 彼女をじっと見つめた。その言葉が現実を突きつける。同じ失敗を繰り返したのだ。
「アニムトゥム、確認だけど、本当に……これで本当に最後なの?」
 声が自然に漏れる。思い出すと心が締めつけられる。もう次はないとわかっていることなのに、藁にすがる思いで訊ねた訊ねる。
「ええ、これが最後。もう、力は残っていないの。ごめんなさい……もう由衣の力になれそうに無い」
 アニムトゥムは淡々と話しながらも、どこか申し訳なさそうだ。しかしその姿に、胸の中で少しだけ怒りが湧いた。
「それなら……私はこれからどうすればいいの?どうやって生きていけばいいの!ねえ?」
 怒りを向ける方向が間違ってる。それは分かっているはずなのに。でも何もかも無駄だったとしたら、私はこれから何を信じればいいの?
「……涼の死を受け入れて、前に進んでいくしかないわ」
「そんなの……できるわけない!無理よ!無理に決まってる!」顔を大きく左右に振る。
 私の声は震えていた。目の前のアニムトゥムに問いかけるように言葉を続ける。
「由衣、大丈夫よ。それはきっと時間が解決してくれるの。今はつらいけれど、いつか……」「時間が解決しても!」アニムトゥムの言葉を遮った。
 「時間が解決しても今の私は……もう、ボロボロで、何も考えられないんだよ。涼くんは死んでしまったし、私はすぐにでも壊れそうなの」
 その言葉に、アニムトゥムは少し目を細めてから応えた。
「そうね、今のあなたには、とっても難しいことかもしれない。でも、それでも、少しずつでもいいから進んでいくしかないの」
 その言葉が現実を締めつける。進むしかない?そんな簡単にできるわけがないじゃない。目の前で彼が命を落として、何もできなかった私がどうやって前に進めと?
 
 長い沈黙が私達の間に流れる。
「ごめんなさいアニムトゥム。本当にごめんなさい。わたし、言い過ぎてしまったわ」
「ううん……いいのよ。気にしないで」彼女は私の前に来て、頭をさすってくれた。
「私は全然気にしてないわ。大丈夫よ」
 風が吹き抜け、砂が少しだけ舞い上がる。ただその静寂と彼女の優しさを受け止めていた。
 アニムトゥムがゆっくりと顔を上げ、こちらを見つめる。
「由衣。この旅を最後に、あなたはここに来ることはもうないと思うわ」彼女は椅子に座り直した。
「……もう二度と?どういうこと?もうアニムトゥムには会えないってこと?」
「そうなるわね、だから今、あなたに伝えなければならないことがあるの。あなたがここに戻ってくる度に言わなければいけないとは思ってた」
 アニムトゥムの声は静かだったが、いつもとは違う重みを感じる。
 疑問を抱きながらも、アニムトゥムの次の言葉を待った。
「最初にこの砂丘の世界に来たのは、実はあなたではないの」
「……え?」その言葉が耳に入った瞬間、戸惑った。最初にここへ来たのは私ではない?じゃあ、誰が……?
「あなたがよく知っていて、そして最近亡くなった人」
 最近、亡くなった……まさか!
「そう、涼なの」
 混乱の中に落ちた。涼くんがこの世界に来た事がある。しかも私より前に。なぜ?
「涼は、あなたを救うためにこの世界に来て、そして時間を遡行していたの」
「私を……救うために?」
 アニムトゥムはゆっくりと頷いた。彼女の言葉はあまりに現実味がなく、その意味を受け入れることができなかった。
「元々は涼ではなく、運命の収束に巻き込まれていたのはあなたなの、由衣。あなたは死ぬ運命だったの」一呼吸おいてアニムトゥムは続けた。
「涼は、あなたの死を回避するために、何度も時間遡行を繰り返していたのよ。その回数はあなたの旅の比じゃないわ。何百、何千回とね。一度でも旅をすれば、精神はそれに耐えられないだろうに。彼の行動は常軌を逸していると言ってもよかった」
「そんな……涼くんが……」
「その中には、勿論あなたが『レアリエス肺症候群』で死ぬという未来もあった」
 涼くんが何度も時間を遡っていた。私のために。その事実に、言葉を失った。
「それじゃ、あなたが力が使えなくなったのって……」
「そう、涼が繰り返し時間遡行を行った結果、私の力の使用回数もほぼ限界に達したの。あなたと初めて会った頃にはせいぜい残り10回が限度だった」
 静寂が包む。両手を組み、俯きながら訪ねた。
「彼はどうしてそんなに……アニムトゥムもそんなになるまでどうして彼に付き合ったの?」
「あなたと一緒よ。彼は、どうしてもあなたを救いたかったのね。それが彼の唯一の願いだった。私は……そうね、なんでかしら。きっと彼の想いに呼応しちゃったのかも。彼が諦めるその時まで、私も付き合おうと思ったの。でも涼は最後まで諦めなかったわ」
 アニムトゥムは、少しだけ微笑んで話を続けた。
「予想以上に、運命の収束の力は強力だったわ。どれだけ時間を遡っても、結局運命は変わらなかった。でも、あの子は最後の旅でトリガーを見つけたの」
 アニムトゥムの言葉に釘付けになった。
「あの子は収束を逃れる方法を見つけたの。そして、あなたを救った。由衣、あなたは涼のおかげで死を免れたのよ」その言葉が、現実感を伴わず胸に響いた。
「でも……涼くんが……」
「そう。それが問題だった。あなたを救った瞬間に世界の線が捻れてしまったの。代償と言ってもいいわ。今度は涼に死ぬ運命が訪れたの。その事は彼も知らないままだったでしょうね」
「涼くんは、どうやって私を救ったの?何を変えたの?それさえ知っていれば、彼を救えたかもしれないのに!」
 彼女はテーブルに肘をつき、額を添えた。
「それは、私にもわからないわ。彼が何を見つけ、どうやって収束の呪縛を解き放ったのかは、私達には知る由もない。でも確かに、彼はあなたを救った。そしてその結果、世界の線が変わり運命の捻れが生じた。願いを叶えたあの子は、全ての旅の記憶を消してほしいとお願いしてきた。そりゃそうよね、辛すぎる記憶だもの。そしてこの世界に訪れることは、二度となかった」
 感情の整理がつかなかった。涼くんが私のために、そんなにも重い犠牲を払っていたなんて。彼が私のために旅を繰り返した結果、私が生き残り、今度は彼が死ぬ運命になった。
「涼くんが……私を助けて、その代わりに彼が……」
「じゃあ……」両手をぎゅっと握りしめた。「どうして、涼くんを救う旅に私を出したの?」
 アニムトゥムを見つめながら問いかけた。「もしこんなことになるなら、私が死ぬ運命なんて放っておけばよかったのに!こんなに辛い思いをするなら、私が最初から死んでればよかった!」
 言葉が口をついて出た瞬間、胸の中に重い痛みが広がった。それでも、心の奥底に潜んでいた感情が、抑えられなくなっていた。
「そんな悲しいこと、言わないで……」アニムトゥムの声は柔らかく、しかし芯のある響きを帯びていた。
「由衣、忘れないで。今のあなたの命には彼の魂と想いがこもっているの。それをないがしろにすることは、彼の存在と行動を否定することになるわ」
 アニムトゥムの言葉に、息を詰まらせた。涼くんが私に命を与えたのだという事実が、再び心の中で重くのしかかる。彼の命が私の中にある……そのとおりだと思った。
「でも……私はどうすればいいの?」絞る声で問いかける。「これからどう生きればいいのか、わからない」
 アニムトゥムは、暫く瞳を閉じた。そして、ゆっくりと開け、私を見つめながら語り始めた。
「私はずっと考えていたの。どうして私にこんな力が宿っていたのか。最初は辛い運命を変えるための力だと思っていた。でも、少し違うことに気づいたの。それはね、由衣。この力は人の運命を変えるためではなく、悲しみを乗り越えるためなんじゃないかと思うの」
 その言葉は私の中にしんとした静寂をもたらした。
 死の悲しみを乗り越えるため……命を救う為ではなく、自分自身の悲しみと向き合うため。
「人には不平等が平等に与えられているけれど、もう一つ平等に与えられているもの、それが死よ。そして、身の回りの人が亡くなった時、誰もがそれを乗り越えなければならないの」
 アニムトゥムの言葉が心に響く。死は避けられない現実だということ。それはみんなに与えられている平等なものだということ。涼くんも、そして私も。解ってはいた、でも心では理解していなかった。
「涼も由衣もそれを乗り越えることができなかった。だからここに来たのよ。納得できる死。理にかなった死。静かに見送ることのできる死。結果は一緒でも原因の違いや視点を変える事で見えてくるものもあると思うの。どういう結末であっても、それを受け入れる為の旅だと私は思うわ」
 アニムトゥムの言葉は、受け入れたくない真実だ。それでも、その意味は理解できるような気がした。涼くんも私も、相手の死を認めたくはなかった。抗いたかった。避けられるものならそうしようとした。それを繰り返し、どこかでつく踏ん切りこそが人の死を乗り越える為の最初の一歩なのだろう。
「でも、涼は死を回避するという運命も想定外のイレギュラーを引き当ててしまった。彼はあなたを救い、その結果、世界が変わってしまった。何度旅をしても由衣の死を乗り越えられなかったあの子が悪いわけじゃない。責める事もできない。どういう結果であれ、由衣を救えた事実は、あの子にとって救いになったんじゃないかしら。そう想わないと涼にとっても由依にとっても辛すぎるわ。そして由衣、時間遡行の力が使えない今、あなたはこれから先の人生を納得いくまで生き続ける。どんなに時間がかかっても必ず乗り越える。その結果こそが唯一あなたの心を救う手立てだと、私は思ってるわ」
 アニムトゥムの言葉を聞きながら、自分の中で少しだけ何かが変わっていくのを感じていた。涼くんが私を救ったという事実は、重く、痛みを伴う。それでも、その事実と同時に、心の中に小さな温かい火が灯るような感覚があった。
 涼くんが、私のために……
 その言葉は、私の中で何度も繰り返される。嬉しいようで悲しいような言葉にできない感情。
「これはあなたに対する恋心でもなく、愛情ともまた違う。そのもっと先にある名づけようのない感情、と言うべきかもしれない」と、アニムトゥムは静かに微笑んだ。
 私は彼女を見つめた。その言葉は心に深く刻まれるものだった。彼の信念と願いと行動が、私の命を救い、彼の想いそのものを救ったのだ。
 
「……ありがとう、アニムトゥム。私に教えてくれて。涼くんを救おうとしてくれたのね」
 「涼は本当に強い魂だったわ。彼の選択を尊重してあげて。未来はこの砂丘のように真っ白だから、あなた自身もきっと乗り越えられるわ」彼女は穏やかな微笑みを浮かべて手を差し出してきた。
 私はその手を取って立ち上がり、最後の質問を口にした。
「でもアニムトゥム。これが最後だなんて言わないで。またここに遊びに来てもいいかしら?」
 アニムトゥムは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しくそして無邪気な笑顔を浮かべた。
「もちろんよ。いつでもいらっしゃい!紅茶とクッキーをたくさん用意して、待っているわ」
 視界を覆い尽くす光の波が通り過ぎると、やがて何も見えない暗闇が静かに訪れた。
 
 どれくらいの時間、こうして泣き続けていたのだろう。時間の感覚も、場所の感覚も失っていた。気づけば美術室の机でうつ伏せになっていた。
 胸の中に溜め込んでいたすべての感情。吹き出していった後の心は、空気が抜けた風船のように何も残っていなかった。
 ふと、突然カーテンがふわりと揺れた。そして部室の窓から心地よい風が吹き込んできて、私の髪を優しく撫でていった。よく見るとその風には何かしらの色が載っているように見えた。注視すると、それは草原を思わせる青々とした緑色だった。風が肌に触れ、心をすり抜けるたびに、感情が吹き出した後の無数の傷に染み渡り、徐々にその痛みが和らいでいくのを感じた。
「涼くん……?」ぼんやりと、誰に言うでもなく呟いた。
 風に乗ってきた一枚の枯葉が、ふわりと中を舞い、まるで何かに導かれるように涼くんの絵の前に滑るように落ちた。蓮太郎くんと私は、同時にその光景を追いかけた。
 そして、不思議なことが起こった。涼くんの鉛筆画に、まるで透明なレイヤーが一枚ずつ重ねられていくかのように、色が徐々に載り始めた。草木の緑は淡くも鮮烈に広がり、空の青は透き通るような澄んだ色彩で描かれていく。その変化を前に、思わず目を見張ってしまった。

「色が、見えるわ……」

 絵の中の色は、次第にパステル調に変わり、絵本のような温かみを帯びていった。その中に、私の水彩画のような柔らかい色が混ざり合い、さらにその上から蓮太郎くんの極彩色が鮮やかに重なっていった。色と色が踊り出すようにして、キャンバスの上を自在に滑っていく。
 涼くんが、この世界に生き続けているような、そんな錯覚さえ感じるほどだった。
 同じものが見えているであろう蓮太郎くんがぽつりと呟いた。
「涼……これなんやな、お前が言っとったのは」 
 
 その色の踊りはしばらく続いた。そして徐々に消えていき、気づいた時には静かで穏やかな鉛筆画へと戻っていた。
 現実へと戻ってきた後も、しばらく呆然としていた。心は空っぽだった。内に渦巻いていた粘り気のある感情のすべてを、あの風がさらっていってしまったかのように思えた。
 空いた穴が彼との思い出で一つ、また一つと埋められる。その度にさらさらと湧き水のような感情が、心の中に静かに生まれ出てくるのを感じた。