もう一度過去へと戻ってきた。これが最後のチャンス。涼くんの死を回避するためには、何としてでも慎重に、しかし大胆に行動しなければならないと決意を固める。病室の窓から外を見つめると、空はどこまでも広がり、青空に浮かぶ彩雲がゆっくりと動いている。ベッドに横たわっている私の心が、まだどこか不安げな表情を浮かべていた。
 スマートフォンを手に取る。待ち受け画面に映る日付が、退院の前日であることを示していた。もう何度も繰り返してきた時間遡行。しかし、この時間の重みは感じられない。ただ、一つだけ違うのは、今回が本当に最後ということだ。私は息を整えた。

「今から、いつものミスドで会おう」
 その短いグループメッセージを涼くんと蓮太郎くんに送信した。いつもなら、すぐに返事が返ってくる涼くんからの返信が、少し遅れて届く。「大丈夫なの?無理しないほうがいいんじゃないかな」彼の心配は当然だ。退院前日にこんな無理をしてもいいのかという疑問は、私自身にもあった。しかし、もうためらうことはできない。
 少しして、蓮太郎くんからもメッセージが届く。「桜井、本当に大丈夫か?明日退院なんだろ?」
 彼らの言葉に、少し口元が緩んだ。いつも心配してくれる二人。彼らに心配をかけるわけにはいかないが、それでも、今回は絶対に失敗できないという強い意志を持って「大丈夫だよ」と返信した。

 ベッドからすくっと起き上がり、クローゼットの扉を開ける。長期間の入院生活のせいで、体が重い。大量の鉛を肩に担いでいるかのようだ。筋肉は衰え、動きが鈍くなっているのがわかる。
 お気に入りの水色ワンピースを取り出し、手に取る。
「今日は大切な日なんだから、気合い入れないとね……」
 そう自分に言い聞かせ、ワンピースに袖を通してジャケットを羽織る。鏡の前に立ち、艶を失った髪を撫でつけて整えた。洗面台に顔を近づけ、冷たい水でぱしゃりと洗う。その瞬間、冷水が瞼を引き締め、感覚が一気に研ぎ澄まされる。現実がまざまざと目の前に迫り、今この瞬間を強く意識させた。鏡越しに自分を見つめると、瞳がいつもより深く赤く輝いている。まるで何かを確かめるように、その目をじっと見つめ続ける。
 どんな犠牲を払ってでも、私が救うんだ……絶対に。
 口に出して言わなくても、心の中でそう強く念じる。その瞳には、今まで何度も失敗し続けてきた時間の痕跡が刻まれていた。
 着替えを済ませ、ナースステーションへ向かった。外出届を提出し、看護師に簡単に説明する。
 「今日は少し外出してきます。あまり遠くには行かないので、大丈夫です」と微笑んで言う。看護師は少し心配そうな顔をしたが、何も言わずに受け取ってくれた。心配させたくないけれど、これも必要な手順だ。
 病院を出た瞬間、凍てつく冬の空気が肺を突き刺すように流れ込んできた。寒さで体が縮こまるのを感じながらも、歩みを止めることなく前へ進み、電車に乗るために最寄りの駅を目指した。
 
 電車内はいつも通りだ。乗客たちが座席に座り、静かに揺れる。流れるように過ぎていくの外の景色を見つめながら、自分の心の中にある不安を押し込めようとする。退院前日にこんな無理をしても大丈夫だろうか。
 短い距離を歩いただけなのに、いつの間にか肩で息をしていた。足元がふらつくほどではないが、身体が重く、疲労感がじわりと全身に広がっていくのを感じた。
 「……やっぱり、入院生活のせいかな」
 そうつぶやきながら、自分の手を見つめた。かすかに震えていた。

 西鉄春日原駅で電車を降り、改札を抜けると、そこにはいつもの街並みが広がっていた。その街並みを一瞥し、心を落ち着けながら、涼くんと蓮太郎くんが待っている場所へと足を進める。この道を何度歩いたことだろう。そして、何度同じ場所に向かったことだろう。これからもそれが同じものであるために、私は守らなければならい。周囲に何か危害なるようなモノ、人がいないかを無意識に経過していた。

 午前十一時を少し回った頃、私達はいつもの大型商業施設のミスタードーナツに集まった。休日の午前中とはいえ、店内は思ったよりも混雑している。壁際の席に座り、店内のざわめきを背景に、いつものように注文を済ませた。私はいつものカフェオレ、涼くんはオールドファッション、蓮太郎くんはポン・デ・リングを頼んだ。普通の、何の変哲もない日常の風景だ。けれど、心の奥底にある拭いきれない不安のせいで、気持ちは重く沈み続けていた。
 体調は、思った以上に悪かった。体力がまだ回復していないことはわかっていたけれど、それ以上に、この緊張感が全身に影響を及ぼしているのかもしれない。汗がじっとりと背中に染みてくるのを感じながら、視線を下に落とした。
「桜井さん、やっぱり顔色が悪いよ。本当に大丈夫?」
 涼くんが、心配そうにこちらを見ている。
「ええ……少し疲れてるのかもしれない。でも大丈夫だから」
 そう言って笑ってみせたが、声に力が入らなかった。
「本当に無理しなくてよかぞ、桜井。もししんどいんやったら、今日はここで終わってもいいしさ、病院まで送るか?」
 蓮太郎くんも、その大きな手で私の肩を優しく叩くが、私は小さく首を振った。二人とも、心配してくれているのがよくわかる。でも、今日はこの時間がどうしても必要なんだ。
「ありがとう。心配してくれて。でも、今日はちゃんと話しておきたいことがあるの。だから、少しだけ付き合ってくれないかな?」
 その言葉に、二人も重い表情を浮かべたが、黙ってうなずいてくれた。
「二人とも、驚かないで聞いて欲しいの……」
 私が今置かれている状況を、告白する事にした。それは死へと着実に向かう彼の運命を理解してもらう為には必要な事だった。これまでずっと避けてきた話題だ。でも、協力してもらうためにも今こそ打ち明けなければならないと思った。
「実は……私、何度も過去に戻っているの」
 彼らは明らかに困惑していた。少しの沈黙の後、涼くんが眉をひそめる。
「過去に戻る?」
「ええ、信じられないと思うけど……私は涼くんが死ぬたびに、過去に戻って、何とかその運命を変えようとしてきたわ。でも、何度やっても同じ結果になってしまうの」
 言葉が詰まりそうになるのをこらえながら続けた。
「ちょっと!ちょっと待てって桜井。そんな話、現実じゃありえんやろ?SFの世界じゃあるまいしさ……」
 蓮太郎くんが笑いながら言ったが、その声には微かに不安が混じっていた。
「仮にそうだとしても、涼が死ぬなんて……信じられん」
「そうだよ、桜井さん。そんなこと……本当なの?」
 涼くんも困惑している。深く息を吸い込んで、静かに彼らの目を交互に見つめる。
「本当のことなの。私は何度も繰り返してきた。そして、涼くんがどうしても死んでしまう運命に収束していくの。だから、今回は特に気をつけて欲しいと思って、今こうやって告白したの」
 これまでの事を全て話した。何度も時間遡行をしたこと。前回はアナフィラキシーショックで亡くなったこと。アニムトゥムの事。そしてこれが最後の時間遡行の旅である事。
「この世界では、君は明日、交通事故で命を落とす事になってる。でも私が今こうやって君たちに会って話した事で、またどこかで運命が捻れてしまうの。だから今この瞬間、君の死因は変わってしまったわ」
 顔の前で組んだ手に力が入る。
「助かる可能性は限りなくゼロに近い。それでも何とかして阻止したい。その為にはあなた達の協力が必要不可欠なの」
 私の言葉は店内のざわめきの中で消えていくように感じた。
 二人とも、しばらく沈黙していた。
「……桜井さんがそう言うなら」涼くんが重い口を開いた。
「僕は、信じるよ」そう言って、こちらを真っ直ぐに見つめた。
「どんなことでも気をつけるよ。絶対に。約束する」
 彼の言葉に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「全て信じてるわけじゃないが……でも、わかった。俺もやれることは全部やるわ」
 さっきまでテーブルの上を何度か指で叩いていていた蓮太郎くんも同じように頷いた。
「ありがとう」
 二人に向かって感謝の気持ちを伝えたが、その背後にはまだ不安が残っていることを自覚していた。涼くんが無事でいる事はこれからの彼らの行動にかかっている。さらに一歩踏み込んだ話をすることにした。
「もう一つお願いがあるの、涼くん。今日と明日だけじゃなくて、ここ数日間は特に気をつけてほしい。できるだけ、一人で行動しないで。特に夜道や交差点、後は食べるものにも注意してほしいの」
「わかったよ。何か危険があるなら、ちゃんと注意するよ」
 涼くんは真剣な表情でそう言った。彼がここまで真剣に受け止めてくれるのは、少し意外だった。けれど、その言葉に救われる気持ちもあった。
「蓮太郎くん。明日まで入院しなくちゃいけないから、それまで私は涼くんに関われない。だから今日は涼くんを家まで送ってくれないかな?そしてその後もできるだけ一緒にいてほしいの。周囲に何か危険なものがないか、変な人がいないか。家に戻るまでは周囲を警戒して欲しいの。そして涼くんに少しでも異変が出たら直ぐに救急車を呼んで。退院次第、私も合流するわ」
 蓮太郎くんは、頭を掻きながら頷いた。
「わかったよ。涼をちゃんと家まで送るし、数日間はなるべく一緒に過ごすようにするわ。涼のこと、ちゃんと守るけん」
 蓮太郎くんはそう言って、私を安心させるように微笑んだ。彼のその言葉に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとう。二人とも、本当にありがとう」
 深く息を吐き、テーブルに手を置いた。疲れもピークだ。その時、涼くんがポケットからスマホを取り出して画面を観た。
「桜井さんの体調もかなり気になるし、僕も身の安全を確保しときたいから、今日はここで解散しようか」
 涼くんのその言葉に、私達は頷き、ミスタードーナツを後にした。今日、そして明日、何も起こらないことを祈りながら。

 大型商業施設の入口で彼らを見送った。自転車を押して歩いていく涼くんと蓮太郎くんが駅の方面へ歩いていく。いつも通りの姿が、なんとなく心を落ち着かせてくれる。だけど、心の奥底には何かが引っかかっていた。何度も繰り返した記憶。
 顔を横にブンブンと振る。いや、今回は……今回こそは絶対にうまくいく。
 「電車はきついから、タクシーに乗ろうかな……」
 体力が限界に近づいていることを感じて、病院までタクシーを使うことにした。無理をすれば、また体調を崩しかねない。これからの事もある。今日は安全策を取るのが賢明だとわかっていた。
 丁度目の前の通りを一台のタクシーが横切ろうとしていたので、手を挙げてタクシーを止めた。運転手が後部座席のドアを開け、私を乗せようとしている。座席に腰を下ろそうとしたその瞬間、遠くから響く声が私を外に引き戻した。
「おい!涼!」
 蓮太郎くんの叫び声だった。背筋が凍りつくような、あまりに突発的で、恐ろしい声。声がした方向を見ると、全身が硬直した。涼くんが自転車を倒して地面にうずくまっていた。蓮太郎くんが涼くんの肩を揺すり、何かを叫んでいるが、言葉は遠く、内容は理解できない。
「また……?そんな……」
 息を飲んだ。急に体が重くなり、足が動かなくなった。けれど、次の瞬間には走り出していた。
 涼くんが苦しんでいる。助けに行かなければ。もう絶対に死なせない!
「涼くん!」
 声を出しながら、彼の元へ走る。だがその距離がやたら遠く感じる。すぐに息が切れ、足がもつれてその場に転んでしまった。這いつくばる先の涼くんの姿が小さくなったり大きくなったりして、現実感が薄れていく。
 最後の力で立ち上がり駆け寄ると、彼は苦しそうに顔を歪め、両手で自分の胸を鷲掴みにしている。顔は真っ青で、呼吸は荒く次の瞬間には息が止まってしまいそうだった。私は何をするべきか、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
「涼くん、大丈夫?しっかりして!ゆっくり息をして!」
 涼くんの肩を掴んだ。彼の体は重く、力が入らない。蓮太郎くんはスマートフォンを握りしめ、救急車を呼んでいた。焦りを隠せない声が、スマートフォンの向こう側へと響き渡っていくのが耳に残った。
 涼くんの目は遠くを見つめ、焦点が合っていないのがわかった。彼の手を掴んだが、その手は冷たく、震えていた。
「……お願い、しっかりして!こんなのって……」
 何度も喚いたが、彼の呼吸は乱れ、声が出せない。
 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。「救急車、もうすぐ来るぞ!」
 蓮太郎くんの言葉は、何の安心感も与えなかった。起こってほしくない現実が一歩ずつ近づいてくる。
 どうしてこんなことが起こるの?どうしていつもこうなるの?今度こそは過去を変えられると思った。涼くんを守るために、何度もやり直した。それでも、運命は変えられないの?涼くんを守るために、何度も何度も過去を遡ったのに。
 涼くんの目が閉じられた瞬間、自分の中にある無力感の塊に押しつぶされた。どうしても救えない命。それが彼の運命だという無情な現実が、私の心を容赦なく粉々に打ち砕き、ひび割れた破片が静かに胸の中へと崩れ落ちていく。
「どうして……ねえ!どうして!お願いだから……もうこれが!最後なの!お願いだから!」
 私は誰に懇願しているのだろう。涼くんの心臓に?蓮太郎くんでもない、周囲の人でもない、アニムトゥムや他の神様でもない。ただその魂の底から上がってくる叫びだけが冷たい風に流されていった。
 体は少しずつ冷たくなり、私の腕の中で小さくなっていくように感じた。力が完全に抜けた涼くんの肩に顔をうずめ、名前を呼び続ける。
 彼はもう呼吸をしていなかった。
 それを見た蓮太郎くんは、涼くんと私を引き離し、心臓マッサージを始めた。その様子を、地べたにへたり込んだまま、ただ茫然と見つめるしかなかった。身体が鉛のように重く、動くこともできず、視線だけがその場に縫いとめられていた。
 胸を何度も押し下げるたび、「ふっ、ふっ」と蓮太郎君の短い息遣いがかすかに聞こえ、その音が私の耳を掠めていく。
「頼む、頼むよ神さん……」涼くんの胸に圧をかける両手に雫がひとつ、またひとつと落ちた。
「涼が、お前になにかしたかよ!頼むって!信じるけん!助けてくれよこいつを!頼むよ!」心臓マッサージをしながら空にむかって叫んだ。
 
 サイレンの音は次第に大きくなり、救急車が現実のものとなって近づいてくる。しかし、その音はまるで私を遠ざけるかのようだった。もう間に合わない。そんな予感が胸に響く。
 救急車が止まり、救急隊員が駆け寄ってきた。涼くんはすぐに担架に乗せられ、酸素マスクをつけられた。蓮太郎くんが救急隊員に状況を説明している。ただ、その光景を呆然と見つめる。
「桜井!お前は病院に戻れ。俺は涼に付き添う」
 蓮太郎くんが叫んだ。その言葉に、反論することもできなかった。彼の真剣な表情を見て、自分の無力さを痛感した。
「……うん、わかった」
 小さく頷き、救急車が去っていくのを見送った。サイレンの音が次第に遠ざかり、あたりは静かになった。
 二台の自転車と私だけが、そこに残されていた。結局、あれだけの事があったのに涙ひとつ溢れる事はなかった。
 私は、失敗したのだ。