気がつくとアールデコ調の椅子に座ったまま俯いていた。毎度この世界に来る時は、ふわりとして心地よい不思議な感覚に囚われる。現実世界のふつふつした気持ちが晴れ、まるで別の人格になったかのように心が温かくなる。
 正面を向くと、アニムトゥムがカップに注がれた紅茶を飲んでいた。私の目の前にも同じものが置かれていた。
「久しぶりね由衣、元気だった?」
 いつものように可愛らしい、お人形さんのような笑顔。
「ううん、今は心身ボロボロだよ。病気は治ったから後は頑張って体力を戻すだけだね」
「そう、それは何よりだわ。それはそうと……」アニムトゥムはカップを置いて、私の胸あたりをじっと見ている。
「そのワンピースかわいいわね。水色でシンプルな感じ、私は好きよ」
 着ている服が自分の普段着である事に今更気づいた。
「ふふ、いいでしょ。セシルマクビーの限定ものなのよ。誕生日にお父さんにおねだりして買ってもらったの」
「セシルマクビー?そんなお高めなブランド品を高校生が着てるの?ませてるわね……由衣って箱入り娘なのね」
「さすが神様、ブランド品にも詳しいんだね」
「なんでも知ってるわ。でも知ってるだけよ。私の住む世界にはこれしか無いからね」そう言いながらアニムトゥムは自分のワンピースの袖を摘んだ。
「前から気になってたんだけど、アニムトゥムってずっとその服だよね。それ一着しかないの?」
「ちょっと聞き捨てならないわね。もしかして馬鹿にしてる?ちゃんと数着あるし、洗濯だってしてるわよ」
 彼女が白いワンピースをせっせと洗濯し、干している姿を想像するとおかしくなってきた。
「かわいい、アニムトゥム」
「何よ!神様だって洗濯くらいするわ。失礼しちゃうわほんと」
「ごめんごめん」
 
 彼女と私のカップが空になった頃、今回の涼くんの死亡の経緯を説明した。
「なるほどね、今度はアナフィラキーショックか」腕組みをしながら彼女は唸る。
「焼きそばだから、多分小麦粉か、ソースに含まれていた何かだと思う。でも以前の一年間の旅の時は美味しいって言いながら完食してたわ。これってもしかして……」
「そうね、あなたは賢い子だから察しがついてるとは思うけど、小さな運命の捻れ。時間遡行を繰り返した事によるもの。何度も繰り返すうちに、涼の体に変化があったとしても不思議じゃないわ」
「やっぱりそうなのね……」両手を頭の上に置いた。
「きっと私のせいね」
「いえ、数ある分岐点の一つを選んだだけよ、気にしないで。行き着く先は一緒だわ」
「あぁ、もう涼くんを救う手立てはないのかな」
 アニムトゥムは無言のまま立ち上がって体を背にした。
「あなたに、言っておくことがあるわ」表情は見えないが、神妙な声色だった。
「聞くまでもないけど、あなたはまた涼を救う旅に出るのよね?」
「もちろんよ。言うまでもないけど」
「そっか。そうだよね。でも……」俯きながらアニムトゥムは続けた。
「本当に申し訳ないけど、もう時間遡行の旅は……次で最後なの」
「どういうこと?」
「力を使いすぎたのよ……もう私のこの力の灯火は消えかかろうとしてるわ」
「そんな……」
 沈黙が二人の間にゆっくりと降り積もり、全ての音を呑み込んでいくかのように深まっていった。
「次の旅でもし、涼を救えなかったら。もう次はないわ。あなたに、それを受け入れる覚悟はあるかしら?」彼女は振り返り、私を見つめる。
「涼くんの、死を受け入れろってことだよね。どうかな。自信はないよ。それでも」
 突きつけられる現実。しかし選択肢はなく、迷うまでもない。残っている一つをすくい上げるだけだ。
「……それでも、もう一度、最後に涼くんを救いに行きたい」
「可能性はゼロにほぼ等しいのよ。そしてもし失敗した時、あなたが絶望する姿を見たくないわ」
「でも、このまま可能性だけを残して諦めたら、私はこの先後悔する事になるわ」
「止めても無駄よね。分かってはいたけど……」
 ただ無言で、彼女の青い瞳の奥をじっと見つめたまま動かなかった。アニムトゥムは微かに瞼を伏せ、ため息をつくように、ふっと息を吐き出した。その吐息が、何かを諦めるかのように空気の中で静かに消えていった。
 「わかったよ、由衣。じゃあ……もう一度だけ、あなたにその時間をあげよう。これが本当に最後。次はどの時間に飛ばせばいい?」
「そうね、どこがいいかしら」
入学式?校外学習?水族館?いや、どれも違う。
「じゃあ一年間の旅の時の世界線。日付は退院の日の前日がいいかな。時間をかけても運命の収束を避けられないなら、死の直前で全力を出してみるわ!」
「……わかった、気をつけてね。きっと一生の中で一番長い一日になると思うわ」そう言って彼女は背を向け、風の中に消えていった。
 
 目を覚ますと、私は涼くんの死の前日、退院前の病室にいた。目の前には再び彼が生きている時間が広がっていた。