闇から目覚めた瞬間、冷たい現実が肌を覆った。気がつくと、学校の廊下に立っていた。静寂の中で、どこからか微かに聞こえるざわめきと、足音の反響。蛍光灯の白い光が、天井から無機質に降り注いでいる。
反射的にポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された時間に目を凝らす。文化祭当日、昼前。アニムトゥムとの記憶も途絶えてない。
涼くんは今、どこにいるのだろうか?彼が無事であることを、今すぐ確かめなければならないという強迫観念が胸を支配する。焦りを押し殺しながら、短いメッセージを打ち込む。
「今どこにいる?」
指先が画面をタップするたび、心臓の鼓動が一段と速くなる。しばらくすると、涼くんからの返信が表示された。
「教室にいるよ」
その一文に目を通した瞬間、心に張り詰めていた緊張の糸が一気に弛む。よかった、彼は無事だ。少なくとも今のところは。少しでも早く彼の姿を確認したいという思いに駆られて、教室へと足を向けた。廊下を進むたびに、文化祭のざわめきが次第に近づいてくる。
教室に到着すると、彼は受付の椅子に腰掛けていた。表情はぼんやりとしていて、まるで異世界に漂う船のように不安定だ。
「お疲れさま、涼くん」
私の声に、彼はゆっくりと顔を上げた。
「お疲れさま。と言っても座ってるだけだから、疲れはないんだけど」
「おやおや閑古鳥が……」
部屋に視線を投げた時、激しく肩をすくめた。教室は生徒や父兄で溢れ、賑やかな笑い声があちこちから聞こえてくる。そこに違和感を覚えたのは、まさにその瞬間だった。以前の世界では、この教室は閑散としていたはずだ。まるで、運命の捻れがこの場所に影を落としているかのように。
何かがおかしい。もしかしたら、涼くんの死は既にこの瞬間にも迫っているのかもしれない。チャンスだ!彼が命を落とすのはもっと先のことだと考えていたが、もしこの日を無事に乗り越えられれば、彼は生き延びるかもしれない。
彼の顔を伺いながら、周囲を警戒するように目を走らせた。今のところ、人がたくさんいる事以外変わった様子は見受けられない。それでも、涼くんの安全を守るためには、彼のそばにい続けるしかないだろう。
「ここで一緒に受付をしていようか?」ごく自然な口調で提案してみる。
しかし、涼くんは首を横に振った。
「いや、ちょっとお腹空いたんだ。屋台を見に行かない?何か食べようよ」
彼の言葉に、一瞬ためらったが、彼の意志の強さを感じ取ると、やむを得ずその提案に頷いた。彼をひとりにするわけにはいかない。
「仕方ないか。じゃあ、私と一緒に行こうか」
次の受付当番の日菜と交代し、私達は連れ立って運動場の方へ向かった。秋の空気が肌に触れると、屋台から漂う香ばしい匂いが空腹をそそる。
今のところ、周囲に特に大きな変化はなさそうだし、不審な人影もない。涼くんも体調は良さそうだ。
喧騒の中で、チョコバナナを咥えたままの蓮太郎くんの姿を見つけた。彼は大きく手を振りながら、口を開かずに「ヨォ」と声をかける。
「何してるのよ、チョコバナナ咥えたまんまで……行儀がわるいよ」
彼に尋ねたが、ただ肩をすくめただけで、特に答えようとはしなかった。涼くんの様子を伺いながら、一計を案じた。
「ねぇ蓮太郎くん、焼きそばを2つ買ってきてくれる?」
今、涼くんと離れるわけにはいかない。
彼は露骨に眉をひそめ、口からチョコバナナを抜いた「はあ?なんで俺がそんなことをしなきゃならないんだよ」
「いいから、お願い。あと十パックしか残ってないんだから」
「……いや、なんでそんなこと知っとるん?」
彼の疑問が口をついて出た瞬間、焼きそば屋の方から叫び声が響く。
「焼きそば、残り十パックです!」
蓮太郎くんは驚きと疑念の表情を浮かべながら、私を見つめた。そして、面倒臭そうに首を横に振りつつも「マジか、あーもう、仕方ねぇな」と言いながら、焼きそば屋へ向かっていった。
蓮太郎くんには申し訳なかったが、涼くんとそのままベンチに腰を下ろした。周囲を見回しながら、不安を抑えつつ、彼に話しかける。
「いい天気ね、今日は。夏も終わっちゃったから、ちょっと寂しいけど、空気が澄んでて気持ちいよね」
「ねえ桜井さん」彼が訝しげな目をこちらに向けている。言葉にならない疑問を抱え込んでいるかのように、その視線が鋭く私を捉えていた。
「なんだか今日様子が変じゃない?目つきが怖いというか、どこか緊張してるような……」
「そう?絶好調に機嫌いいよ」
努めて軽い口調で返したが、彼は私の表情を読み取ろうとしているようだった。わずかに微笑みを浮かべ、彼の不安を打ち消そうとした。
それからしばらくして、蓮太郎くんが焼きそばを両手に持って戻ってきた。
「ほれ、焼きそば。ったく人使い荒いな、お前は……」
彼は不満げに眉をひそめたまま、焼きそばのパックを私達に差し出した。
「ねえ、焼きそばを買うときに変な人とか、見かけなかった?」
念のために尋ねてみたが、彼は呆れたようにため息をついた。
「強いて言うなら、俺の目の前にいる奴が今のところ一番変だな」
彼の言葉に、わずかに拳を握りしめたが、今はそれどころではないと深呼吸をして力を抜いた。不審者がいなかったのなら、それでいい。とにかく、今は涼くんの身に危険が及ばないよう見守るしかないのだ。
「とりあえず、腹ごしらえしようか」
焼きそばのパックを開け、一口食べてみる。柔らかな麺とソースの風味が口の中に広がり、僅かに安堵の気持ちが胸の奥に広がっていった。
私達はゆっくりと焼きそばを食べながら、静かに文化祭の喧騒に耳を傾けた。
焼きそばを一口、また一口と噛みしめるたびに、微かな違和感が頭の片隅に湧き上がってくる。屋台の騒がしい声と行き交う生徒たちのざわめきの中で、涼くんがふと箸を止めて顔をしかめた。
「なんか、これ……変な味がするような……」
彼が呟いたその一言に、心は弾かれたように動揺した。涼くんの顔を見つめる。何を言っているの?そんなはずない。焼きそばはちゃんと先に毒見した。それなのに、急にどうして。
「そんなことないよ、美味しいってば。お店の味そのままって言ってたじゃない」
努めて明るい口調を保ちながら、箸を口元に運ぶ。しかし、涼くんの表情は晴れないままだ。彼は少しずつ焼きそばを食べ進めていたが、眉間には深いしわが寄り、額には汗が滲んでいた。彼の頬が、じわじわと蒼白に染まっていく。
「涼くん、ねぇ……大丈夫?」
問いかけると、彼はわざとらしく、そして力なく笑顔を作る。
「大丈夫……だよ。なんでもないから……」
だが、その声はどこか虚ろで、喉を詰まらせるような乾いた響きを持っていた。蓮太郎くんも彼の様子に気づき、顔を覗き込みながら心配そうに声をかける。
「おい、涼。お前、顔色が真っ青やんか?本当に大丈夫とや?」
「うん……、平気、だから」
涼くんは無理やり言葉を搾り出すように笑う。しかし、その瞬間、彼の呼吸が突如として荒くなり、喉を押さえながら激しく咳き込み始めた。咳の音は徐々に苦しげに変わり、まるで喉の奥に見えない手が入り込み、息を絞り出そうとしているかのようだった。
「涼くん……苦しいの?涼くん!」
パニックになりながら、彼の背中をさすり続けた。しかし、涼くんの様子は悪化する一方だ。彼の唇が次第に紫色に変わり、手足が痺れるかのように震え始める。瞳は焦点を失い、遠くを見つめるような虚ろな表情を浮かべていた。
「ねぇしっかりして……!」
私の声は、冷たい風にかき消されるかのように頼りなく、届くことのない響きを放つ。蓮太郎くんは周囲のざわめきに向かって大声を張り上げた。
「誰か、保健の先生を呼んでくれ!それと救急車を!」
ざわざわとした人波が後退し、まるで私達を取り囲む結界が形成されたようだった。涼くんはその場に膝をつき、ついには前のめりに倒れ込んだ。
「駄目、駄目よ……!」
彼の身体を支えながら必死に呼びかけ続ける。だが、彼の反応は次第に鈍くなり、瞳の奥の光が薄れていくのを感じる。涼くんの体温がじわじわと下がっていくような気がして、冷たい汗が背筋を伝って流れ落ちた。
そのとき、保健の先生が駆けつけ、慌ただしく応急処置を施し始めた。涼くんの手を握りしめながら、先生の動きを見つめることしかできなかった。自分は無力なカカシだった。
「……重度のアナフィラキシーショックかもしれない。救急車は?」
「もう呼んでます!すぐくると思います!」
蓮太郎くんの声がどこか遠くから聞こえる。その声を耳に入れながら、どうしてこんなことになってしまったのかを考えていた。
「ごめん……ごめんね……」
知らず知らずのうちに、口から何度も同じ言葉が漏れていた。目の前で意識が遠のいていく涼くんを前に、私の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じる。
救急車のサイレンの音が耳を刺すように響き渡る。涼くんの身体は担架に乗せられ、救急隊員の手で運び出されていく。その一連の動作を、ただ呆然と見つめていた。何度も過去をやり直してきたのに、まただ、また彼を救えなかった。
せっかく、今回は彼を救えるチャンスだったのに。
膝を折った瞬間、身体はもはや己を支えることすら叶わず、失意に縛られたまま、その場に崩れ落ちた。
その日の夜、涼くんは病院で亡くなった。自室の暗がりで、力なくベッドに横たわりながら天井を見上げた。
私が、彼の死を早めてしまったのかもしれない。涼くんを救うどころか、彼を死に追いやってしまったのでは。退院する日に涼くんは亡くなるはずだった。でも、今回はそれよりもずっと早かった。自分が時間遡行を繰り返してきたことで、何か歯車が狂ってしまったのではないか——そんな考えが、頭から離れなかった。
私が積み上げてきたものは、砂上の楼閣に過ぎず、ひと吹きの風で消え去ってしまった。呆然としたまま、天井を見上げた。彼のいない世界は、どこか冷たく、どこまでも遠く感じられた。ふと彼の声が耳を掠めた気がした。しかしそれは、遥か遠くへ失われた存在の残響が幻として甦ったに過ぎない。彼はもう、手の届かない場所へと旅立ってしまったのだ。私の手の中から、再び消えてしまったのだ。
それからというもの、空虚な生活を送った。レアリエス肺症候群を患い、入院した。たまに蓮太郎くんがお見舞いに来てくれたりして、涼くんとの思い出を語る日々が続いた。
その内、レアリエス肺症候群は影を潜め、いよいよ退院の日が近づいてきた。そうだ、退院の日。あの世界では涼くんは交通事故で亡くなった。思い出したくはなかった。でもまだだ、まだ終わってない。またアニムトゥムに会わなければ。
反射的にポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された時間に目を凝らす。文化祭当日、昼前。アニムトゥムとの記憶も途絶えてない。
涼くんは今、どこにいるのだろうか?彼が無事であることを、今すぐ確かめなければならないという強迫観念が胸を支配する。焦りを押し殺しながら、短いメッセージを打ち込む。
「今どこにいる?」
指先が画面をタップするたび、心臓の鼓動が一段と速くなる。しばらくすると、涼くんからの返信が表示された。
「教室にいるよ」
その一文に目を通した瞬間、心に張り詰めていた緊張の糸が一気に弛む。よかった、彼は無事だ。少なくとも今のところは。少しでも早く彼の姿を確認したいという思いに駆られて、教室へと足を向けた。廊下を進むたびに、文化祭のざわめきが次第に近づいてくる。
教室に到着すると、彼は受付の椅子に腰掛けていた。表情はぼんやりとしていて、まるで異世界に漂う船のように不安定だ。
「お疲れさま、涼くん」
私の声に、彼はゆっくりと顔を上げた。
「お疲れさま。と言っても座ってるだけだから、疲れはないんだけど」
「おやおや閑古鳥が……」
部屋に視線を投げた時、激しく肩をすくめた。教室は生徒や父兄で溢れ、賑やかな笑い声があちこちから聞こえてくる。そこに違和感を覚えたのは、まさにその瞬間だった。以前の世界では、この教室は閑散としていたはずだ。まるで、運命の捻れがこの場所に影を落としているかのように。
何かがおかしい。もしかしたら、涼くんの死は既にこの瞬間にも迫っているのかもしれない。チャンスだ!彼が命を落とすのはもっと先のことだと考えていたが、もしこの日を無事に乗り越えられれば、彼は生き延びるかもしれない。
彼の顔を伺いながら、周囲を警戒するように目を走らせた。今のところ、人がたくさんいる事以外変わった様子は見受けられない。それでも、涼くんの安全を守るためには、彼のそばにい続けるしかないだろう。
「ここで一緒に受付をしていようか?」ごく自然な口調で提案してみる。
しかし、涼くんは首を横に振った。
「いや、ちょっとお腹空いたんだ。屋台を見に行かない?何か食べようよ」
彼の言葉に、一瞬ためらったが、彼の意志の強さを感じ取ると、やむを得ずその提案に頷いた。彼をひとりにするわけにはいかない。
「仕方ないか。じゃあ、私と一緒に行こうか」
次の受付当番の日菜と交代し、私達は連れ立って運動場の方へ向かった。秋の空気が肌に触れると、屋台から漂う香ばしい匂いが空腹をそそる。
今のところ、周囲に特に大きな変化はなさそうだし、不審な人影もない。涼くんも体調は良さそうだ。
喧騒の中で、チョコバナナを咥えたままの蓮太郎くんの姿を見つけた。彼は大きく手を振りながら、口を開かずに「ヨォ」と声をかける。
「何してるのよ、チョコバナナ咥えたまんまで……行儀がわるいよ」
彼に尋ねたが、ただ肩をすくめただけで、特に答えようとはしなかった。涼くんの様子を伺いながら、一計を案じた。
「ねぇ蓮太郎くん、焼きそばを2つ買ってきてくれる?」
今、涼くんと離れるわけにはいかない。
彼は露骨に眉をひそめ、口からチョコバナナを抜いた「はあ?なんで俺がそんなことをしなきゃならないんだよ」
「いいから、お願い。あと十パックしか残ってないんだから」
「……いや、なんでそんなこと知っとるん?」
彼の疑問が口をついて出た瞬間、焼きそば屋の方から叫び声が響く。
「焼きそば、残り十パックです!」
蓮太郎くんは驚きと疑念の表情を浮かべながら、私を見つめた。そして、面倒臭そうに首を横に振りつつも「マジか、あーもう、仕方ねぇな」と言いながら、焼きそば屋へ向かっていった。
蓮太郎くんには申し訳なかったが、涼くんとそのままベンチに腰を下ろした。周囲を見回しながら、不安を抑えつつ、彼に話しかける。
「いい天気ね、今日は。夏も終わっちゃったから、ちょっと寂しいけど、空気が澄んでて気持ちいよね」
「ねえ桜井さん」彼が訝しげな目をこちらに向けている。言葉にならない疑問を抱え込んでいるかのように、その視線が鋭く私を捉えていた。
「なんだか今日様子が変じゃない?目つきが怖いというか、どこか緊張してるような……」
「そう?絶好調に機嫌いいよ」
努めて軽い口調で返したが、彼は私の表情を読み取ろうとしているようだった。わずかに微笑みを浮かべ、彼の不安を打ち消そうとした。
それからしばらくして、蓮太郎くんが焼きそばを両手に持って戻ってきた。
「ほれ、焼きそば。ったく人使い荒いな、お前は……」
彼は不満げに眉をひそめたまま、焼きそばのパックを私達に差し出した。
「ねえ、焼きそばを買うときに変な人とか、見かけなかった?」
念のために尋ねてみたが、彼は呆れたようにため息をついた。
「強いて言うなら、俺の目の前にいる奴が今のところ一番変だな」
彼の言葉に、わずかに拳を握りしめたが、今はそれどころではないと深呼吸をして力を抜いた。不審者がいなかったのなら、それでいい。とにかく、今は涼くんの身に危険が及ばないよう見守るしかないのだ。
「とりあえず、腹ごしらえしようか」
焼きそばのパックを開け、一口食べてみる。柔らかな麺とソースの風味が口の中に広がり、僅かに安堵の気持ちが胸の奥に広がっていった。
私達はゆっくりと焼きそばを食べながら、静かに文化祭の喧騒に耳を傾けた。
焼きそばを一口、また一口と噛みしめるたびに、微かな違和感が頭の片隅に湧き上がってくる。屋台の騒がしい声と行き交う生徒たちのざわめきの中で、涼くんがふと箸を止めて顔をしかめた。
「なんか、これ……変な味がするような……」
彼が呟いたその一言に、心は弾かれたように動揺した。涼くんの顔を見つめる。何を言っているの?そんなはずない。焼きそばはちゃんと先に毒見した。それなのに、急にどうして。
「そんなことないよ、美味しいってば。お店の味そのままって言ってたじゃない」
努めて明るい口調を保ちながら、箸を口元に運ぶ。しかし、涼くんの表情は晴れないままだ。彼は少しずつ焼きそばを食べ進めていたが、眉間には深いしわが寄り、額には汗が滲んでいた。彼の頬が、じわじわと蒼白に染まっていく。
「涼くん、ねぇ……大丈夫?」
問いかけると、彼はわざとらしく、そして力なく笑顔を作る。
「大丈夫……だよ。なんでもないから……」
だが、その声はどこか虚ろで、喉を詰まらせるような乾いた響きを持っていた。蓮太郎くんも彼の様子に気づき、顔を覗き込みながら心配そうに声をかける。
「おい、涼。お前、顔色が真っ青やんか?本当に大丈夫とや?」
「うん……、平気、だから」
涼くんは無理やり言葉を搾り出すように笑う。しかし、その瞬間、彼の呼吸が突如として荒くなり、喉を押さえながら激しく咳き込み始めた。咳の音は徐々に苦しげに変わり、まるで喉の奥に見えない手が入り込み、息を絞り出そうとしているかのようだった。
「涼くん……苦しいの?涼くん!」
パニックになりながら、彼の背中をさすり続けた。しかし、涼くんの様子は悪化する一方だ。彼の唇が次第に紫色に変わり、手足が痺れるかのように震え始める。瞳は焦点を失い、遠くを見つめるような虚ろな表情を浮かべていた。
「ねぇしっかりして……!」
私の声は、冷たい風にかき消されるかのように頼りなく、届くことのない響きを放つ。蓮太郎くんは周囲のざわめきに向かって大声を張り上げた。
「誰か、保健の先生を呼んでくれ!それと救急車を!」
ざわざわとした人波が後退し、まるで私達を取り囲む結界が形成されたようだった。涼くんはその場に膝をつき、ついには前のめりに倒れ込んだ。
「駄目、駄目よ……!」
彼の身体を支えながら必死に呼びかけ続ける。だが、彼の反応は次第に鈍くなり、瞳の奥の光が薄れていくのを感じる。涼くんの体温がじわじわと下がっていくような気がして、冷たい汗が背筋を伝って流れ落ちた。
そのとき、保健の先生が駆けつけ、慌ただしく応急処置を施し始めた。涼くんの手を握りしめながら、先生の動きを見つめることしかできなかった。自分は無力なカカシだった。
「……重度のアナフィラキシーショックかもしれない。救急車は?」
「もう呼んでます!すぐくると思います!」
蓮太郎くんの声がどこか遠くから聞こえる。その声を耳に入れながら、どうしてこんなことになってしまったのかを考えていた。
「ごめん……ごめんね……」
知らず知らずのうちに、口から何度も同じ言葉が漏れていた。目の前で意識が遠のいていく涼くんを前に、私の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じる。
救急車のサイレンの音が耳を刺すように響き渡る。涼くんの身体は担架に乗せられ、救急隊員の手で運び出されていく。その一連の動作を、ただ呆然と見つめていた。何度も過去をやり直してきたのに、まただ、また彼を救えなかった。
せっかく、今回は彼を救えるチャンスだったのに。
膝を折った瞬間、身体はもはや己を支えることすら叶わず、失意に縛られたまま、その場に崩れ落ちた。
その日の夜、涼くんは病院で亡くなった。自室の暗がりで、力なくベッドに横たわりながら天井を見上げた。
私が、彼の死を早めてしまったのかもしれない。涼くんを救うどころか、彼を死に追いやってしまったのでは。退院する日に涼くんは亡くなるはずだった。でも、今回はそれよりもずっと早かった。自分が時間遡行を繰り返してきたことで、何か歯車が狂ってしまったのではないか——そんな考えが、頭から離れなかった。
私が積み上げてきたものは、砂上の楼閣に過ぎず、ひと吹きの風で消え去ってしまった。呆然としたまま、天井を見上げた。彼のいない世界は、どこか冷たく、どこまでも遠く感じられた。ふと彼の声が耳を掠めた気がした。しかしそれは、遥か遠くへ失われた存在の残響が幻として甦ったに過ぎない。彼はもう、手の届かない場所へと旅立ってしまったのだ。私の手の中から、再び消えてしまったのだ。
それからというもの、空虚な生活を送った。レアリエス肺症候群を患い、入院した。たまに蓮太郎くんがお見舞いに来てくれたりして、涼くんとの思い出を語る日々が続いた。
その内、レアリエス肺症候群は影を潜め、いよいよ退院の日が近づいてきた。そうだ、退院の日。あの世界では涼くんは交通事故で亡くなった。思い出したくはなかった。でもまだだ、まだ終わってない。またアニムトゥムに会わなければ。