彼女の母親から電話があったのは、冬のやたら底冷えする寒い夜だった。容態が急変したという知らせに、僕は耳元に当てたスマートフォンを強く握った。それに合わせ目が痙攣し、つむじから血のめぐりが引き、それに沿うように全身の筋肉が緊張していく。
「由衣が……もうすぐ……」
 電話口の向こうに響く声はひどく脆く、震えるその音が、胸の内に薄氷のごとき悲しさを張り巡らせる。「すぐ向かいます」と伝えて電話を切った。ゆっくりと大きな深呼吸をした後、身体中を叩いて弛緩させた。自転車に飛び乗り両足の全力をべダルに加える。この寒空の下、コートも羽織らず薄着で出た事に気づいたのは西鉄大橋駅方面へ向かう道中、中村蓮太郎への電話を切った直後の事だった。

 廊下のソファーで待っていた僕と蓮太郎に看護師さんが「ご友人の方もどうぞ」と病室に通してくれた。
 病室は啜り泣きや空調の音が小さく鳴るくらいで、漂うのは静寂だけ。さっきまで規則的な電子音を発していたであろう機械は電源が切られている。彼女の小柄な体はベッドの上で静かに横たわり、その表情はどこか穏やかで、まるで夢の中の温もりに包まれ、いまだ覚めることのない安寧の中にいるようだ。
「涼君……蓮太郎君……」
 桜井さんのお母さんの声量はやっと聞こえるくらいの小ささだった。彼女の目は赤く腫れ、それでも気丈な微笑みを浮かべている。
「あの子は、最後まであなた達のことを気にかけたの……涼君と蓮太郎君が描いてくれる絵を、とても楽しみにしてたのよ」
 僕と蓮太郎は何も言えなかった。胸の奥を締めつけられるような痛みが広がり、発せば心の何かが崩れそうな言葉が喉の奥に詰まった。桜井さんが僕たちに託したもの、結局彼女が待ち望んでいた未来は、僕たちの手の中に未完成のまま残されたままだった。僕たちの前から去っていっても、彼女の想いは何かを訴え続けている。

 救急外来の出入り口から出た時、寒さを含んだ強い風が肌に刺さった。息を吸う度に肺の中まで凍るようだ。街灯の明かりが照らし出す病院の壁は、数年前に新しく建て替えられたにも拘わらず、それは無機質で、まるで別の世界のものみたいに感じる。
 隣を歩く蓮太郎は、自転車を押す僕の歩調に合わせるように、じっと前方を見つめていた。横顔に浮かぶ涙は絶え間なく流れ続け、悲しみだけでなく、彼の表情を複雑に歪ませているのは胸の奥で燻る悔しさだろうか。
「なあ涼……俺たちさ、桜井のためにもっとできたことが……あったちゃなかか」
 つかえつつも、気持ちを何とか伝えようとする蓮太郎をみて 「……わからない」と白い息と一緒に返事をした後、ゆっくりと空を見上げた。大きな瞬きをしてみたが、昔の歌の歌詞のようなこぼれそうなものは何もない。
 あぁそうか。彼女はもうこの世界からいなくなってしまったんだと、乾いた心の声が夜風に溶け込み、何事もなかったかのようにひっそりと流れていった。

 僕たち三人が過ごしたそれまでの日常は、普通の高校生が、普通に過ごすような、普通のごくありふれたものだったと思う。彼女はいつも明るく、何事にも前向き。クラスメイトからも好かれ、休み時間にはいつも彼女を中心に輪ができていた。
 桜井さんとはよく喋った。優しい風が吹きカーテンをゆらす部室の窓際で。
 僕と蓮太郎が口論しても、笑って間に入ってくれた。
 桜井由衣という人が今この世に存在しない。それは本来、受け入れるにはあまりにも残酷なはずだ。悲しみや切なさ、どうしようもない苦しみが僕を飲み込むべきなのに、僕の心はあの病院の冷たくて何も感じない壁と同じように、乾いた、無機質なものへと変わってしまった気がする。
 
 通夜には、足を運ばなかった。
 その時、僕はデスクライトだけが光る自室で、ただひたすらに描いていた。風景画のラフを機械のように無心で。時折彼女の笑顔が紙面によぎるが、それを消すかのように深い瞬きをしてまたすぐに黒鉛の先を走らせた。
 蓮太郎は通夜に参加すると言っていた。彼女との最後の別れを告げている頃だろう。彼は彼女の残した想いに応えようとしているのだろう。当然僕にとっても同じだったはずだが、そのときの僕にはまだその勇気がなかった。
 僕は桜井さんのことを、どこか特別な存在として捉えていたのかもしれない。けれど、その「特別」が何を意味するのか、自分の中ではっきりと理解することはできなかった。彼女が、僕の目の前から永遠に姿を消してしまう、その瞬間まで。
 そのとき、やっと気づいたんだと思う。彼女を見ているだけで、心のどこかが暖かくなること。彼女の声を聞くだけで、まるで小さな火が灯ったように、心の奥がじんわりと熱を帯びること。その一つ一つが、いつの間にか僕にとっては当たり前になりすぎて、意識すらしていなかった。もっと大事にするべきだったのに。
 彼女が夢見た景色、僕たちが一緒に描くはずだった未来を、僕は今この手で表現することができるのだろうか。その思いに耐えきれず、鉛筆をスケッチブックへ投げるように放り投げ、ベッドに体を横たえた。
「アニムトゥム……カムイ」
 あの日、彼女が教えてくれた言葉を思い出し、眠りについた。
 
 これは夢なのだろうか。目の前には果てしなく続く白い砂丘と澄み渡る青空が広がっている。
 すごい。こんな景色、今まで一度も見たことがない。ああなるほど、これは夢か。僕は自嘲気味に呟く。
 振り返ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。長く雪のように白い髪、夏空の色を宿した青い目。外国の子供のような佇まい。人形のように美しい彼女は、ゆっくりと唇を動かし、静かに言葉を紡ぎ始める。僕を見つめながら。
「いらっしゃい……私の名前は……」