木の下には椅子が2脚、テーブルの上にはアールデコ調のティーカップのセットが置いてあった。広大な砂丘のなかにポツンとある事に毎度違和感を感じてしまうが、むしろ幻想的な構図といえば、そうなのかもしれない。
 その木の下で彼女は出迎えてくれた。
 「……ええ。アニムトゥムも元気だった?」
 その名前を口にした時、忘れていた感情と記憶が波のように押し寄せてきた。そうだ、彼女は何度も会ってきた存在だった。そして、そのたびに、私は彼女に願いを託してきたのだ。

「今回は長い旅だったね。あれから一年くらいか、時が経つのは早いものね。つい昨日のようだわ」彼女は微笑みながら椅子に座った。
「そうか、今回は新学期が始まるところからだったから。そうね大体、一年前だね……」
「ささ、長旅の疲れもあるだろうし、とりあえずお茶でもいかが?今回は私特定ブレンドだよ!」
 彼女は慣れた手つきでポットからカップに紅茶を注ぐ。あたりに漂う爽やかで深みのある香り。
「……ありがとう、いただくわ」
 カップを受け取ると、その色、暖かさ、香りが五感を通してじんわりと体に染み込んでいくのを感じた。
「毎回不思議なんだけど、これって夢なのに香りまで感じられるのね」カップの水面に映る自身の瞳をまじまじと見た。普段はヘーゼルの色合いを湛えていた瞳が、今は牡丹の赤色に変わり、その鮮やかな輝きが揺らめく炎のように揺れている。
 ここに来るまでは、ベッドの上で絶望に打ちひしがれていたというのに、今はまるで別人になったかのように、気持ちが不思議と落ち着いていた。まるで嵐が過ぎ去った後の静寂が、心の中に広がっているようだった。
「夢……というか、どちらかというとここって現実と夢の狭間なんだけどね。あなたの意識がはっきりしているのも、明晰夢っていうのに近いからかな。それもまぁ微妙に違うんだけど」
 カップに口をつけ、一口啜った瞬間、これまでの辛さや苦しみが幾分か穏やかに溶けていく。温かな液体が体を包み込み、冷え切っていた心にわずかながらの安らぎをもたらしてくれる。
「ありがとうアニムトゥム、気持ちも少し落ち着いたわ」
「ふふ、それはよかった。頑張ってブレンドした甲斐があるってものだわ」彼女は微笑みながら続けた。
「で?今回はどうだった?」
 小さく首を横に振る。
「……ダメだった。今回は交通事故で亡くなちゃった。結局何もできないまま入院してしまったから、手も足も出せなかったわ」
 アニムトゥムはカップを唇に運び、ひと息含んでから「そうなんだ……」と呟いた。その声には、ほんの僅かに戸惑いの色が混じっている。
「そういえば今回の時間遡行なんだけど、記憶が断片的なのよね。原因は何なのかしら?アニムトゥムとの記憶が戻る度に、涼くんにそれとなく身の回りを警戒するように注意はしていたんだけど」
 この一年、常にこの場所の記憶が頭に残っていたわけではなかった。記憶を失っている間は、当然アニムトゥムのことも思い出すことなく、彼女の存在は意識の外へと消え去っていた。ただ、体に強烈なショックが走ったり、心に深い印象を残す出来事が起こると、その度に記憶が戻ってくる瞬間があった。
「うーん……直接の原因はわからないけど、おそらく一年の長旅だった事が起因なのかもね。由衣と私の時間的距離が離れると力が届きにくくなるんだと思う。トランシーバーが離れれば離れるほど、音声をキャッチしずらくなってノイズが入る、みたいな感じかな」
「そうなんだ。うん、わかりやすい!それにしてもあなた、神様なのによくトランシーバーとか知ってるね」
「ふふーん!逆だよ逆、神様だからね!最近の流行りにだって敏感なんだから」仁王立ちをしながら自信満々に答えた。
 かわいい。小さい子供がふんぞり変えり、鼻息を荒くしている姿を見ていると、なんだか微笑ましい気分になる。
「そんなに小さいのに神様なんだもんね……偉いわ、アニムトゥム」彼女の頭を撫でる。
「撫でられるのは存外悪いものでもないけどさ、私はあなたよりもずっとずっと年上なのよ。ちょっとは敬いなさいよ」
「フフフ、そうだったわね。ごめんごめん」そう言いながらも撫でる手は止めない。「もう!」と膨れっ面になるアニムトゥム。
「ねぇ、由衣……」神妙な面持ちに切り替わった彼女は語り始めた。
「由衣、あなたはもう何度もこの場所に来た。涼を失いたくない、その一心でまたここに戻ってきた。そして、私はあなたの願いに応えてきた。時間遡行の力で、涼の運命を変えようとしてきたよね」
 彼女の言葉は、冷静で、何の感情も込められていないように聞こえた。けれど、その意味は深く、重い。
「うん、そうね……本当にあなたには感謝してるわ」
 彼の死を何度も繰り返し見てきた事実を、改めて思い知らされる。
「ねぇ……私はどうしても涼くんを救えない運命なの?」
 視線を落とし、地面を見つめた。砂が風に吹かれてさらさらと流れる音が耳に入ってくる。 
「残念ながら涼の死は何度やり直しても、原因は違えど同じ結末に辿り着いてしまう。人の運命というのは、きっと変えられる部分と変えられない部分がある。その原因が前者だとして、涼の死という結果は、その後者だと思うんだ。時間遡行を繰り返しても、どうしても彼の死に収束してしまうんだよ」
 アニムトゥムの言葉はあまりにも重く、心に深い影を落とした。
「バタフライエフェクトってやつね。何度も試してみてやっと実感したわ。そういうのはてっきり映画や小説だけの話かと思ってた」
「まぁ、なんていうか……こうやって私と由衣が話しているのも十分なファンタジーなんだけどね」
「ふふ、そうね……」
 もう一口紅茶を啜った。寒暖がちょうど良くて、柔らかにそよぐ風が心地いい。
「時間遡行はもう何回目だっけ?」こめかみに人差し指を乗せながら尋ねた。
「少なくとも十回は超えてるね。普通の人なら精神に異常をきたしていると思うわ。あなたのメンタルは鋼でできてるの?」
「何言ってるの!人をロボットみたいに言わないで。私はこれでもか弱い十七歳よ」
「か弱い、ねぇ……」アニムトゥムは紅茶を啜った。
「自殺、他殺、溺死、病死に原因不明の死、そして交通事故。あの子のあらゆる死を何度も見ていて普通でいられる方がおかしいわ」
 カップをテーブルに戻し「ふぅ」と大きな息を吐きながら続けた。
 慣れているわけではない、決して。いつも心が引き裂かれ、それをツギハギで修復して、また引き裂かれの繰り返し。いや、とうの昔に心は壊れているのかもしれない。
「私は時間遡行したあなたに干渉できるわけじゃないから、収束しない可能性、つまり涼が死なない可能性はあなた自身が見つける事でゼロではないかも……っていう憶測だけで手伝ってきたわけだけど……でも……」
 彼女は何かを言いかけたが「いえ、また今度話すわ」と言って黙ってしまった。
 
「でもその運命が収束してしまう原因があったとして、それを事前にどう見極めたらいいの?」
「そんな確かなものがあるなら、由衣は何度も時間遡行の旅に出なくてもいいんじゃないの?」
「それもそうだね。おっしゃる通り」無意識のうちに斜め上を見ながら、顎に手をやる。
「旅に出た時点で、均衡が崩れて、死の原因は無限に別れるわ。でもそうね……前触れとしては、一度見た出来事と状況が変化しているかもね」
「ん?それは具体的にはどういうこと?」
「死の原因の近くの出来事も改変してるってことよ。例えば、ある日、お友達とドーナツ屋に行くとするじゃない?お友達はポン・デ・リングを食べていたとする。そして過去に戻って、同じ日、同じ時間、同じドーナツ屋に行った時、そのお友達はオールドファッションを食べてた。と言えば理解してもらえるかな」
「なるほどね。うん、理解はできるけど、その……そんな微妙な差なの?流石に気づかないと思うんだけど」
「些細な運命の捻れならその程度だと思う。でもそれが人の生き死にだったり、多くの人が関わるような運命だったら、乖離も広がると思うわ」
「つまり、人が死ぬとなれば、明らかに大きな変化になるというわけね」
「そういうことね。もちろん、これも憶測に過ぎないけど」
「もう一度……」
 諦めたくなかった。涼くんを救うためなら、どんなに繰り返しても構わない。彼女に懇願した。
「チャンスをくれないかな、アニムトゥム」
 静寂が訪れ、そしてゆっくりとアニムトゥムは口を開く。
「由衣……もう十分じゃない?何度も繰り返してきた結果は、すでに見えている。それでもまた、同じ苦しみを背負うの?私はあなたのメンタルの方が心配だわ」
 アニムトゥムの蒼い瞳が向けられる。そこには同情も拒絶もなく、ただ無言のまま、私の選択を見守っているかのような冷静な光が宿っていた。
「ふぅ……わかったわ。言って聞いてくれるあなたじゃなかったわね。じゃあ、あなたにその時間をあげよう。どこの時間に飛ばそうか?」
「うーん、今まで無作為に時間遡行してきたけど、決め手になるトリガーはわからないままなのよね」
「ふむ」
「そうね……じゃあ文化祭当日でお願い出来るかしら」
「文化祭?そこに何か根拠はあるの?」
「わからない、けど今までの傾向からすると、何か印象が強い出来事やイベントの時に涼くんは亡くなってる気がするわ」
「……なるほどね。じゃあ文化祭当日に。でも、無理だけはしないでね」
 そう言って大きな深呼吸をしたアニムトゥムは私の胸に手をかざした。するとその刹那、強い風が吹き、白い砂埃がまった。
 閉じた目を開けると、目の前にいたアニムトゥムは消え、急に周囲が静かな夜になった。視界も全体がぼやけ、そしてその体は暗闇に落ちていった。