世界が止まっていた。
 正確には、止まってしまったのは、私の内側にある世界だけで、現実は何事もなく動き続けている。通りを行き交う車の音も、隣の家から聞こえる犬の鳴き声も、すべてがいつも通りだ。
 
 ニュースを観た夜、蓮太郎くんが心配して家を訪ねてきた。
「桜井……」
 蓮太郎くんの声は揺れていた。彼の声も、どこか現実感が薄れている。
「……嘘だよね?」
 彼は俯いた。両手の握り拳は震えていた。
「いや、本当だ。現実なんだ……信じたくないが。でも、涼は……」蓮太郎くんの声が途切れる。
 呆然としていた。何をすればいいのか、どうすればいいのかがわからない。息ですら意識しないと止まってしまいそうだ。それが現実だという感覚が体を蝕んでいく。頭の中で何度も「嘘だ」と抵抗したが、それも無駄だった。胸の中が空っぽになるような、底知れない空虚感。
 そんなはずはない。そんなわけあるはずない。涼くんはまだ生きている。家で今頃スケッチブックに絵を描いてる。明日も何事もなかったかのように連絡くれる。ドーナツだって一緒に食べるし、そうよ、今度は神社巡りをするの。だって……「桜井、大丈夫か?」
 蓮太郎くんの心配そうな声が、不意に私の思考を遮る。その声が耳に届いた瞬間、思考の渦がぱたりと止まり、彼の方へと意識を向ける。でも、何も答えられなかった。言葉が出てこない。現実を受け止めきれない。
「……うん」
 ようやく絞り出した声が、自分のものとは思えなかった。乾いた、無感情な返事。
「ごめんね、蓮太郎くん。君だってショックを受けてるのに……」
「ああ。神社でお参りしてたからかな、なんかさ、ショックで体は固まりそうなのに……動くんだ。悲しいはずなのに、心も変にハイになってるんだよ、おかしいよな……」
 私は小さく首を振った。
「ううん。きっと、私も蓮太郎くんも現実を受け止められてないんだと思う。なんていうか……こんな感情味わった事ない」
「そうやな……俺もや……」
 長く沈黙が続いた。
「そんじゃ、俺行くわ。すまんな、病み上がりなのに時間取らせた……明日、通夜があるやろうけど、行けそうか?」
 勿論そうしたいと返事をしたかったが、心身がもう限界を超えていて考える力は残っていない。
「ごめんね、少し時間がほしい……」
「そうか……また色々わかったら連絡するわ」そう言ってリビングから蓮太郎くんは出ていった。
「お邪魔しました!」大きな声と一緒に玄関の扉が閉まると、静寂が訪れた。
 
 暗いベッドの上でラッコの人形を抱え込んだ。
 彼がいない世界なんて、これまで一度も想像したことがなかった。そんなことが現実になるなんて、ただただ不思議でたまらない。心の奥に渦巻く何かが、ふつふつと絶え間なく湧き上がってくる。
「嘘……嘘だよね……」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……」
 人形の頭を力任せにぐっと掴んだ。
「嘘だ!」
 振りかぶる体勢になったが、そのまま動けなかった。そのままベッドの上にゆっくり座り込み、ラッコの頭を申し訳程度にさすった。

 結局、翌日の通夜には行けなかった。彼との最後の別れなのに、身体中の力が抜け、家を出るどころか、ベッドの上から立ち上がる事すらままならなかった。
 今、彼はもうこの世にいない。心の中で、少しずつその事実が形を成していく。何もかもが白黒に見える。音や色が全て遠ざかり、世界が離れていく。私の内側で、何かがひっそりと壊れた。それは、心の奥底にそっと隠されていた大切なガラス細工が、ひび割れ、粉々に砕けていくような儚い感覚。
 「助けて……」その言葉は、当然誰に届くわけでもなく、その次には静寂が待っていた。
 スッと力が抜け、いつの間にか眠りに落ちていた。
 
 白い砂丘の上に裸足で立っていた。砂丘はどこまでも広がり地平線のその先まで真っ白に染め上げていた。地平線を跨いだ空は透き通るように青く、入道雲が遠くに見えた。その世界はいつまでも静かで、美しく、どこか懐かしい感じがする。風が砂丘を撫で、まるで絵画の中にいるような感覚だ。その光景を見ながら、胸の中にある感覚が徐々に形を帯びてくるのを感じた。
 「ねぇ由衣!ねぇってば!こっちだよ!」少女の声がした。
 振り向くと遠くの葉桜の木の下に、一人の少女が立っていた。足の裏で砂つぶを感じながら、彼女へゆっくりと近づいていった。
 絹のように白く長い髪、タンザナイトのような大きく蒼い瞳。真っ白でシンプルなワンピースを着たその出立ちはまるで人形のようで、どこか北欧の人を想起させる雰囲気を醸し出していた。
「久しぶりだね、由衣。元気にしてた?」
 知らないはずのこの子を私は知っている。しゃがんで、彼女の透き通る顔を見つめた。
 
「……ええ。アニムトゥムも元気だった?」私は彼女の名前を呼んだ。