鏡の前で選んだ服を手に取り、悩んでいた。どの服も自分らしくないように思えて、決断できずにただ立ち尽くしてしまう。久しぶりに外で二人に会えるという喜びを感じながらも、どんな服を着ていくべきかが頭をぐるぐると巡る。クローゼットにはお気に入りのワンピースがいくつか掛かっているけれど、手に取るたびにどれも「これだ」という感覚が湧いてこなかった。
「黒だと重いし、明るすぎる色もなぁ……」
「これだとブリブリして可愛すぎるし……これはちょっと地味か……悩むなあ……」
 小さな声で独り言をつぶやきながら、最終的には落ち着いた厚手のデニムジャケットにワンピースを選ぶ。カジュアルだけど少しだけ特別感のある装い。涼くんたちに会えるのは久しぶりだから、何か新鮮な印象を残したいと思った。外は寒いだろうけど、これもオシャレのためだ。少々薄着でも我慢しよう。
 
「じゃあお母さん、行ってきます!」玄関で母にそう告げて家を出た。母はいつも通り、家事の手を止めずに「はーい!気をつけてね」と返してくれたが、その一言に何か普段と違う響きを感じ取ったのは気のせいだろうか。
 外に出た瞬間、吐く息が白く浮かび、ふわりと消えていく。そのたびに、心の中にほんの少しの重さが混ざり込むようで、冷たい空気がその重みをさらに際立たせていくのを感じる。入院している期間、季節を一つか二つ飛び越えたのだ。心身が気温に馴染んでない感じがする。でもこの寒さの中で友だちと会える喜びが、その重さを紛らわせてくれる。見慣れているはずの景色も新鮮に見える。普通って素晴らしい。
 午前十一時前、約束の場所である大型商業施設のミスタードーナツに到着した。待ち合わせより十分早かったけど、ソワソワして早めに来てしまった。ドーナツの甘い匂いが空気中に広がっているけれど、まだお店の中は静かだ。陳列棚に並べられたドーナツがキラキラしている。お気に入りのフレンチクルーラーを注文しようか、いや今日は違うドーナツへの冒険に挑戦しようかと考える。
「早く来ないかな……」
 そう呟いてスマホを確認するけれど、二人からのメッセージは届いていない。まだ時間はある。外の冷たい風から逃げ込んだこの場所で、ぬくもりを感じながら待つのも悪くない。二人が来るまでの時間、その場で小さく足を揺らしながら、落ち着かない気持ちを静めようとしていた。

 十分遅れて蓮太郎くんが現れた。遅刻している自覚はあったのだろう、急いだのか息を切らしていた。
「おー、すまん!遅れた。桜井……お前早く来すぎやろ。気合い入りすぎやって」
「いや遅刻してきた人の台詞じゃないよね、それ。こっちは病み上がりのか弱い女子なんだから待たせないでよ」
 大きな息を吐きながら「か弱い、ねぇ……」と口をへの字にしていた。
「難治の病気を跳ね返すマッチョな鋼の身体を持ってるじゃんか」
 グーパンチお見舞いしてやろうかしら。
 彼の周りを見渡した。「涼くんは一緒じゃないの?」
 蓮太郎くんは座りながら、スマホをポケットから取り出した。
「いや、俺はてっきり桜井と一緒に来ると思ってたんやけどな。あいつが遅れるなんて珍しいなぁ……」
 彼が遅刻するなんて、これまでになかったことだ。少し不安が過ぎったものの、それを大きくしないように、意識的に気持ちを切り替える。
 
 更に十五分程経過しただろうか。とりあえず、電話をかけてみることにした。スマホを耳に当てながら、着信音を待つ。でも、何度か鳴った後に自動的に留守番電話に繋がってしまった。ちょっとした心配が胸の中に広がるけれど、きっと何かの都合で出られないだけだろうと自分に言い聞かせる。
「留守電だった……」
「そうか。俺もメッセしてみるわ」
 蓮太郎くんは手際よくスマホを操作し、メッセージを送った。でも、彼のコメントに「既読」がつく気配はない。私達は黙ってしばらくの間スマホを見つめていたが、結局何も起こらなかった。画面に目を凝らしていても、何の変化もないまま、ただ沈黙だけが二人の間を埋めていく。
「そのうち、来るよね」
「まあ、そうやな。何もせんまんま待っとるのもあれやし。ほれ、とりあえずドーナツ頼もうや」
 蓮太郎の提案に頷いて、私達は陳列棚に向かい、それぞれ好きなドーナツを選んだ。私はやっぱりフレンチクルーラーとカフェオレ、蓮太郎くんはポン・デ・リング。いつもの定番。
 ドーナツを食べていると、ふと思い出した。「スパイシーチリマヨ・チョコクランチ」だ。あれは、以前涼くんが持ってきてくれた冗談みたいなドーナツで、思わず笑ってしまったものだ。でも、既に賞味済みではあるものの、存在しているなんて、未だに信じられない。いや信じたくない。
「ねぇ、蓮太郎くん、涼くんが前に話してたスパイシーチリマヨ・チョ……」
「いやだ!」
 商品名を言う前に拒否されてしまった。
 彼の顔は一瞬で曇り、眉間にしわが寄っていた。まるで食べたことのない奇妙な生物を口に入れようとしているかのような表情だ。
「涼にも言ったけどそんな冗談みたいなドーナツ、本当にあるん?」
「本当にあるのよ、見て!あれあれ!あそこに並んでるやつ」
 指を差して、陳列棚の端に控えめに並んでいる「スパイシーチリマヨ・チョコクランチ」を示す。蓮太郎くんはその方向を見たが、顔には明らかな抵抗感が浮かんでいる。
「絶対、無理や。俺の味覚が壊れる……誰がそんな組み合わせ考えたんや。どう考えても企画倒れやろ」
 蓮太郎くんが物凄く嫌そうな顔をするのがおかしくて、笑いが止まらなかった。 
「プククク……一口だけでも、試してみればいいじゃない。案外美味しいかもよ?」
 微妙だったんだけどね、正直なところ。
「無理!なんでお前らは、やたらとあれを勧めてくるんよ。俺は普通のポン・デ・リング一筋!今までも、これからもな!」
 結局、蓮太郎くんはスパイシーチリマヨ・チョコクランチに挑戦することなく、私達は他愛もない話に戻った。最近流行りの映画の話題や、共通で読んでいる漫画の考察の続き、そして学校で誰が一番パンを多く食べるかというしょうもない賭けの話題などが、自然と流れていった。
「そういえば蓮太郎くん、水族館の帰りの時、神社巡り行こうって言ってなかったっけ?」
「あーそうやったな。あれから色々調べてみたんだけど、太宰府天満宮って映えるスポットが意外と多いらしいんよね」
「太宰府天満宮?あそこ子どもの頃から行きすぎて、そんなに新鮮味はないんだけどなぁ」
「それは同意なんだが、本殿が建て替わったらしくてさ。行ってみる価値はあると思うけどな」
「そうなんだ……それならちょっとみてみたいかも」
 手帳を取り出し、空いているメモ欄に「1:太宰府天満宮」とペンを滑らせた。
「了解。じゃあ1箇所目は天満宮ね。他は?どこ行く?」
「桜井なら、そうやな……ここがうってつけなんじゃなか?恋木神社」
 彼は何度かスマートフォンをタップして検索結果が表示された画面を見せてきた。
「聞いたことない神社だなあ、でもなんか名前からして大体想像できるけど」
「日本唯一の恋の神様である恋命を祀る神社ってサイトには書いとる。御神紋はハート」
「うん、そんな感じだろうと思った。で、何でそれが私にうってつけなわけ?そんな予定ないよ」片方の眉をひくつかせながら蓮太郎くんを睨みつけた。
「あらら、俺の思い違いやったか?ああご心配なく、ここに行くときは俺はお暇させてもらうけん」
 ニヤニヤする彼の顔にやっぱりグーパンチをお見舞いしてやろうと思った。
「ちょっと!何でそうなるのよ、私は涼くんの事そんな風には……」
「いや落ち着け桜井、誰も涼だなんて一言も言ってないわけだが」
「う……ばかじゃないの!」頭を抱えた。
 
 涼くんの事を思い出し、もう一度連絡を取ることにした。スマホを取り出して、改めて発信ボタンを押す。しかし、今回も彼は電話に出なかった。留守番電話に繋がり、何かメッセージを残すべきかと一瞬迷ったが、何も言わずに切ってしまった。
「なんでだろう……涼くん、どうしたのかな」スマートフォンを見つめるが、何も反応がない。
「俺もメッセにも、まだ既読がつかん。何か急用でもできたんやろうか」
 蓮太郎くんの言葉に、胸の奥が少しずつ重くなっていくのを感じた。楽観的に考えようとしたけれど、涼くんがこれほど長く連絡を絶つことは普段はない。それが引っかかる。

 時計を見ると、既に午後二時を回っていた。二人とも不安を感じていたが、それを口に出すことはなかった。
「とりあえず、今日はこのくらいにしとこうか。桜井も病み上がりやしな。また後日、改めて集まろう」
 蓮太郎くんが提案に、静かに頷いた。「そうだね、私もちょっと疲れちゃったし。じゃあ一旦解散としますか」そう言って店を出た。
「今日はありがとうね、蓮太郎くん。久しぶりにこうやって外で話せて楽しかったよ」
「おう!ゆっくり体休めとけよ。あと涼から連絡あったら、教えてな!」
 次に集まる日までには、きっと何事もなかったように現れるだろうと信じて。

 家に帰ると、母がリビングでお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「おかえり由衣、今日はどうだった?二人と話せた?」
「うん、蓮太郎くんと一緒にドーナツを食べたたんだけど、涼くんが来なかったんだよね……本当どうしたんだろう」
 ソファに座る。少しぼんやりとした気持ちだ。
「急ぎの用事でもあったのかしら……」
「私もそう思ったんだけど、それならそうと連絡してくると思うのよね」
「そうね、何事もなければいいけど」
 母は、夕方のローカルニュースが流れるテレビに目を戻す。スマホを手に取り、もう一度涼くんにメッセージを送ろうとしたが、思うように指が動かない。それは、テレビから聞こえてきたニュースが私の耳を捕らえたからだ。
「昨日夕方頃、市内で高校生が交通事故に遭い、死亡したという痛ましい事件が……」
 一瞬、時間が止まったかのようだった。ニュースキャスターの声のピッチが下がり、空間全体がゆっくりとうねりだした。無意識のうちに立ち上がり、テレビの画面に目を向ける。そこには、「乗用車と衝突。自転車の高校生が死亡」というテロップとともに、事故現場の映像が映し出されていた。見慣れた路上に散乱した破片、車のブレーキ痕、車を誘導する警察官の姿。そして見慣れた自転車。
 「高校生……交通事故……ちが……違うよね……」
「亡くなったのは福岡市に住む高校3年の田中涼さん十七歳で、頭を強く打ち病院に運ばれましたが……」
 スマホを手から滑らせ、口を押さえた。震えが体全体を包み込み、身体中のあらゆる筋肉が弛緩していった。現実感が徐々に消えていく。
 「田中涼さん(17)」というテロップから目を離すことができない。
 彼の名前が頭の中で何度も響いたが、声にはならない。膝が体重を抑えきれず、そのまま床に崩れた。
 咄嗟に席を立った母は私を頭から抱きしめ、その体は小さく震えていた。母は何かを言っていたはずなのに、その声はかすれていて、何を話しているのかまるで聞こえなかった。
「そんな……きっと……何かの……」
 心は、仄暗い穴の中を延々と落ち込んでいく。どこまでも続くその暗闇は、重苦しく、抜け出せない深淵へと引きずり込む。