校舎に初冬の冷たい風が吹きつけ、曇ったガラス越しに灰色の空を見つめていた。ぼんやりと広がるその景色は、まるでどこにも行き場のない感情のように滲んでいる。外の世界は凍えるような冷気に包まれていて、木々はすっかり葉を落とし、枝が細いシルエットを描いている。学校の庭も寂しげで、人気のない校庭に舞い上がる枯れ葉が、どこか哀愁を漂わせている。冬の静けさが、そのまま心の奥底にまで染み渡るようだった。

 そんな時、ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、桜井さんからのメッセージだった。
「退院きまりました!完全復活!」
 ピースサインをしたうさぎのスタンプが添えられたその文字を見た瞬間、心の何かが弾けたようだった。急いで隣にいる蓮太郎へスマホを見せた。
「ねえ、退院決まったってさ!」声には自然と興奮が混じっていた。
「マジかよ!よっしゃ!」蓮太郎は勢いよく手を叩き、視線を合わせた。その瞬間、僕達の手は自然と宙を舞い、パンとハイタッチが響いた。クラスメイトたちは何事かと振り返ったが、僕達はその視線を気にすることなく、ただその場で小さなガッツポーズを交わした。
「やっとやなぁ……よかったわ、本当に」蓮太郎はしみじみとした声でそう言い、それに頷いて応える。ここ最近、桜井さんのことが心の中に重くのしかかっていたが、肩の荷が少し軽くなった。
 これでまた、いつもの三人に戻れる。
 その後すぐに続報が届く。
「新しい薬が効いたおかげで、病気は影を潜めたよ。まだ完治じゃないけど、通院で様子を見ていくことになった!」
 「完全に治ったわけじゃないにしても、退院できるんやったら一安心やな。ポジティブに考えるか」メッセージを読んだ蓮太郎は、スマホをポケットにしまい、ふと遠くを見つめるような目をしていた。
「退院できるってことは、それだけでも大きな一歩だよ」もちろん、完治という言葉が出てこなかったことに対する不安がなかったわけではないが、今は喜ぶべきことだと自分に言い聞かせる。
「日常生活にも少しずつ戻れるんだろうし……大丈夫やろ」蓮太郎のその言葉は自分にも言い聞かせるようだった。

 退院の日が刻一刻と近づいてきた。桜井さんとのやり取りを続け、次第にメッセージ越しに明るくなっていくのがわかり、彼女のその表情もまた明るいんだろうと容易く想像できる。そんな中、蓮太郎がグループメッセージで提案を出してきた。
「快気祝いにドーナツでも食べようや。久しぶりに三人でさ!」
「やったー!ドーナツだなんて最高!それなら、早速退院した翌日にでもどう?」
「いいね、賛成」と僕も返事を送った。画面に打ち込んだ文字が、まるで自身の気持ちを確認するかのように浮かび上がらせる。
「じゃあ決まりやな。明日は桜井が退院して、次の日にミスド集合やな。楽しみにしとくわ!」
「楽しみにしてる!」彼女からのその一言が画面に表示され、何かがようやく動き出したような気がした。
 三人は再び顔を合わせることが約束された。これまでの長い入院生活が終わり、また元の生活に戻れるという事実と安心が、ゆっくりと胸に広がる。
 冬の風が冷たく、外の景色はどこか寂しいものだったが、心の中には温かい期待が静かに芽生えていた。

 彼女が退院の日。放課後の教室を後にして、蓮太郎と肩を並べて校門を出た。夕暮れの薄い陽光が地平線に沈もうとしていた。遠くに見えるビルの輪郭が淡いオレンジ色に縁どられ、風が枯れた木々を揺らして乾いた音を立てている。いつものように特に急ぐわけでもなく、ただゆっくりとした足取りで自転車を押していた。桜井さんが退院するという知らせは、久しぶりの希望を与えてくれている。
「なあ、涼。やっとさ、俺も展望台の風景画が完成したんやけど……」蓮太郎が唐突に口を開く。
「本当に?それは良かった。完成までけっこう時間かかってたね、どう?出来は?」彼が時間をかけていることを知っていたからこそ、その達成感がこちらにも伝わってきた。
「まあ、なんだ……満足ってわけじゃないけど、なんとか形になったって感じやな。でも三人の絵を並べてたらどんな感じになるか、めっちゃ楽しみやな!」
「そうだね。僕もすごく楽しみだな」
 実際のところは、自分の絵が二人の作品とどう響き合うのか、期待と不安が入り混じった複雑な気持ちを抱えていたわけだが。
「桜井は、ちゃんと描いとるんやろうか……」
「もう完成させてるって言ってたよ」
「え。なんだよ、俺が最後か。それにしてもよく描けたな。体調も悪かったろうに……」
 そして、会話の流れは自然とドーナツの話題へと移っていった。蓮太郎は突然、思い出したかのように言った。
 「お前らが言ってたスパイシーチリマヨなんちゃらってやつ、どげんやった?」
 微妙だった、正直なところ。
 「いや、思ったより普通に美味しかったよ。最初は誰もこんなもの食べないだろうって思ってたけど、実際食べてみたら意外といけるんだよね。チリの酸味と甘さが不思議に調和してさ」
 実際の感想とは真逆の事を笑いを堪えながら答えた。
「マジかよ!チリとチョコとマヨネーズってどう考えても三つ巴でケンカするやろ。マジで大丈夫なん?」蓮太郎は半信半疑の表情を浮かべていた。
「食べてみたら分かるよ。桜井さんもあれ、美味しいって言ってたし。今度三人で食べようよ。快気祝いということで」
「いや、パスする。絶対ないわ」軽く笑いながら顔の前で手を振る。
 蓮太郎に食べさせる作戦は失敗かも。

 やがて、蓮太郎と別れる地点に来た。「また明日ね」軽く手を振った。
「おう!じゃあな」蓮太郎は笑顔で、反対方向に歩き出した。僕はそのまま自転車にまたがり、家へ向かってペダルを漕ぎ出した。自転車のタイヤがアスファルトを擦る音だけが、徐々に小さくなっていく。辺りの喧騒が薄れていく中、音がどこかへ吸い込まれるように消えていった。暗くなりかけた空に、街の街灯がひとつ、またひとつと点灯していく。
 心は穏やかで、三人で集まる明日のことを考えていた。ドーナツ屋で笑い合う、桜井さんの笑顔を思い浮かべると自然と微笑んでしまう。彼女も退院して家にいる頃だろう。明日が待ち遠しい、こんな日が今まであっただろうか。
 横断歩道に差し掛かり、信号待ちをしていると、冷たい風が一層強く吹きつけた。街路樹の葉が舞い上がり、足元を転がっていく。横断歩道の信号が青に変わり、自転車のペダルを踏み込んだ。
 その瞬間、耳元でけたたましいブレーキ音が響く。
 一瞬の驚きが体を包み込み、次の瞬間、ふわりと宙に浮いていた。
 光に照らされた自転車が道路に倒れるのが見えた。視界が一瞬でぐるりと回転し、時間が引き伸ばされたように緩やかに流れ、周囲の音も景色もどんどん遠ざかっていった。
 真っ暗な闇が、じわじわと視界を覆い尽くそうとしている。全てが静まり返り、まるで世界そのものが消え去ったかのような感覚に陥る。何が起こったのか理解することもできないまま、意識はゆっくりと途絶えていった。