桜井さんの病状が悪化していく中、彼女を見舞うために蓮太郎と一緒に病院を訪れた。廊下に漂う消毒液の匂いが鼻をつき、そのたびに現実の重さを思い知らされる。桜井さんの姿を見るたびに、心がかんなで薄く削られていく感覚に囚われる。
 病室のドアをノックすると、「どうぞー」という桜井さんの弱々しい声が聞こえた。僕達が中に入ると、桜井さんはベッドの上で笑顔を作って迎えてくれた。呼吸器が彼女の口元を覆っていて、笑顔すらもどこかぼやけて見える。
「二人とも、来てくれてありがとう」彼女が息を漏らす度に、白くなる呼吸器のマスク。横になっていた彼女は電動のベッドを操作してゆっくりと体を起こした。
 蓮太郎がコンビニで買ってきたカフェオレを袋から取り出し、彼女に差し出した。
 目を輝かせる彼女を見て「そげん喜ぶようなもんかね」蓮太郎は照れ臭そうに鼻をかいた。
「そりゃ喜ぶよ、こういうちょっとしたことが嬉しいんだよ。病院のご飯、味気ないから」桜井さんはカフェオレを受け取ると、「後でいただくね」とベッドに備え付けられたテーブルに置いた。
「どう?具合は……」そう聞きながら、桜井さんの顔をじっと見つめた。彼女は軽く首を振る。
「うん、まぁ……ぼちぼちかな。今日は少し疲れてるけど、大丈夫だよ。こんな風にしてるけど、みんなが来てくれるのが一番の楽しみだから」桜井さんが言葉を紡ぐたびに、呼吸器から流れてくる空気の音が聞こえる。
「そっか、それならよかった」微笑んではいたが、その言葉は自分でも空々しく感じた。桜井さんの「大丈夫」は、まるで何度も練習したセリフのようで、何もかもが普通じゃないのに、それでも普通であるかのように振る舞っている姿が痛々しく辛かった。
「二人ともあんまり心配しないでね。こんなのすぐに治るから。だから、そんな顔しないでよ。ね?」桜井さんはそう言って、咳き込むのをこらえながら親指を立てた。その姿を見ていると、返す言葉を見つけることができなくて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
 病院の外に出た時、蓮太郎が空を見上げた。「なんか、やりきれんな……」
「本当だね……僕達にできることがあればいいんだけど」小さくつぶやいた。蓮太郎がため息をつきながら肩をすくめる。
「できること、あるんかなぁ。俺、毎日手を合わせとるけど、神様なんておらんのやろうな……って考えてしまう」
「……そうかも」つぶやくように返した。神様に祈って何かが変わるとは到底思えなかった。だけど、それ以外に何ができるのか、まったくわからなかった。
「でもさ、涼。この理不尽を受け入れたらダメだと思わね?抗わないといけないよな……」
「……理不尽に抗う、か」その言葉に逞しさを感じた。

 スケッチブックを広げ、風景画のラフを再び描き始めた。けれども、どうしても納得できない。なぜ納得できないかが分からない。桜井さんが見ている風景と僕が見ている風景はまるで違う。彼女の期待に応えたいという気持ちはあるのに、その重圧が手を縛りつけている。
「くそっ……なんで……」意識せず声に出していた。無意識のうちにラフを縦に横にと破り捨てた。紙が破れる音が部屋の中に響き、黒い墨汁のような苛立ちと不安が部屋中に染み渡っていく。
 机の上には、破り捨てられたスケッチブックのページが散乱し、鉛筆も何本かが床に転がっていて、その光景がまるで心の中をそのまま映し出しているようだった。絵を描けば、彼女の病気がよく治るとでも?何をしても、どうにもならない。この無力感と焦りだけが膨れ上がっていく。
「……何してんだろうな、僕は」独り言のように口から漏れた言葉が、空虚に響く。桜井さんの為にできることなんて何もないのだ。彼女は毎日病気と戦っているというのに、ただ自分の苛立ちをどうにもできずに物にあたるだけ。情けなく、惨めだ。手を頭にやって、目を閉じた。桜井さんが笑顔で迎えてくれる姿が頭に浮かんでくる。彼女のために何かできることがあるはずだと思っているのに。どうしてこんなにも無力なんだろう。
 破れたスケッチブックを片手に立ち上がり、窓の外に視線を投げた。外の景色は静かで、何も変わらずにそこにあるのに、心の中では嵐のような感情が渦巻いている。
 床に落ちたスケッチブックと鉛筆を拾い上げながら「理不尽に抗う」という蓮太郎の声を思い出した。そして大きく頭を横にふり、頬を両手で叩き脳を鼓舞した。
 そうだ、諦めるわけにはいかない。

 翌朝、教室の窓際に座る僕の元にスマートフォンの通知音が響いた。画面を開くと、桜井さんからのメッセージがグループチャットに届いていた。蓮太郎と僕の二人宛てに短いメッセージが表示された。
「ごめんね、しばらく面会できなくなったの。体調が思ったよりも悪くて。少しの間、治療に集中するね」
 その文字列を凝視してから、ゆっくりと息を吐いた。蓮太郎も隣で画面を見つめていて、無言のままだった。教室のざわつきが一層響いてくるようで、その雑音が頭の中で反響した。
「……そっか、もうそんな感じか」彼の陽気な声はそこにはなく、重い空気だけが漂っていた。
 口を開こうとしたが、何も言えなかった。胸の奥を締め付けられるような感覚が喉まで侵食して、言葉が出てこなかった。思えば、桜井さんの元気そうな姿を見ても、それが一時的なものに過ぎないことを薄々気づいてはいたのだ。
「……あいつを守るカムイさんたちは、ちゃんと仕事しとるんかね」蓮太郎がポツリとつぶやいた。
 気持ちとは裏腹に彼女がいない教室に徐々に慣れつつある自分が嫌になった。

 その夜、ベッドに横たわりながら、普段の桜井さんの言葉や表情を思い出していた。彼女はいつも明るく振る舞っていたけれど、それがどれほどの忍耐を必要としたのか、想像もできなかった。僕達が不安にならないように、心配させないように、この一年、彼女はずっと気を張っていたのだ。
「……死ぬ病気じゃ、ないんだよね?」あの日、桜井さんの家での会話が頭に浮かんできた。あの時の彼女は、あまりに普通に答えてくれた。「私は死なないわ、絶対に。風の神様になるのはもっと先。」
 でも、その言葉が今は遠いものに感じられる。これまでの生活で桜井さんがいなくなるなんて、全く想像もしていなかった。ヒタヒタとそれが現実に詰め寄ってくる。そしてその現実を受け入れなければならない時がくる。
 不意に無念の涙が下瞼に溜まった。こんなにも情けなく、すぼらしい自分が嫌だった。昨日、諦めないと決心したはずなのに何もできないまま、ただうずくまることしかできなかった。自分はただの傍観者なのか。悔しさが頬を伝う。

 夢を見た。
 奇妙な感覚に包まれていた。そこには色とりどりの風景。極彩色になったかと思えば、絵本のようなパステルで描かれた優しい色にもなった。その中で時折現れる桜井さんの姿が薄く滲んで見えた。彼女は何も言わず、ただ微笑んでいる。
 何かを伝えたいのに、声が出ない。何とか声を出そうと喉をおさえ、叫んでみたがやはりだめだった。ただ手を伸ばして彼女に触れようとし、彼女も手を伸ばすが、その姿は次第に遠ざかっていった。
 場面が変わり、気がつくと自転車を全力で漕いでいた。冷たい風が顔を撫で、耳元をかすめる音が響く。足元から伝わるペダルの感覚が生々しく、夢の中でさえも僕の心臓は早鐘を打っていた。目指す病院が遠くに見えている。
「由衣が……もうすぐ……」
 桜井さんのお母さんの声が頭の中にこだまする。電話越しの声は震えていて、何かが大変なことになっていることを伝えていた。現実か夢かわからない感覚の中で、ただペダルを踏み続けていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、冷静でいられるはずがなかった。
 病院に到着すると、自転車を乱暴に止め、そのまま駆け込んだ。エレベーターのボタンを何度も押し、やっとの思いで彼女の病室にたどり着いたが、その病室から出てきた看護師さんに制止され「ご家族以外の方は待合室でお待ちください」と促された。
 ソファーで待っていると、遅れて蓮太郎が到着した。
「桜井は……」
「……まだ、よく分からない」
 どれくらいの時間が経っただろうか。「ご友人の方もどうぞ」と看護師さんが病室に通してくれた。
 ドアを開けると、そこには桜井さんが静かに横たわっている。
「桜井さん……」
 彼女は目を閉じたまま、静かに横たわっていた。その姿は、まるで深い眠りに落ちているかのようで、今にも「おはよう」と柔らかな声で目覚めそうに見えた。
 彼女の手に触れ、その冷たさに息を呑む。現実感が一気に押し寄せ、締め付けられるような痛みが胸に走った。
「どうして……」
 声を絞り出すように言ったが、返事はない。ただ、静寂だけが病室を包んでいた。
 病室を出ると、廊下で蓮太郎が壁にもたれている。彼の顔は硬く、目はどこか虚ろだ。僕達は無言で目を合わせ、そのまま歩き出した。
 救急外来の出入り口から出たとき、寒さを含んだ強い風が肌に刺さる。何も言えない時間が続き、やがて蓮太郎が口を開いた。
「なあ涼……、俺たちさ、桜井のために、もっとできたことが……あったちゃなかか」
「わからない……」その言葉にどう答えればいいのか、見当もつかない。僕達に何ができたのか、それとも何もできなかったのか。今となってはどちらが正しいのかさえもわからない。ただ、彼女がいないという世界で、どうしようもなく立ち尽くしているだけだった。
 場面は変わり、スケッチブックを手に取り、無我夢中で鉛筆を走らせていた。桜井さんが描こうとしていた風景を何度も、何度も描いた。清水円山展望台の景色がスケッチブックの中に現れては消え、また現れる。そのたびに、桜井さんの声が聞こえる気がした。
「涼くん、焦らなくていいよ。見えてるはずだから」
 だけど、その言葉はいつしか風に乗って遠くへ消えていく。手は止まらず、ただ無心で描き続けた。何も考えず、ただ彼女のために描いた。自分が描くことで、彼女がまだここにいるような気がしたからだ。
 ふと、アニムトゥムの話を思い出した。あの時、桜井さんは「風の神様になれたらいいな」と笑っていた。彼女の言葉が頭の中を何度も繰り返し、反響している。これまで、その意味を真剣に考えたことはなかった。けれど、今になってその重みがずしりと心に迫ってきて、その意味を噛みしめていた。
「桜井さん、君は……本当に」
 呟きながら、最後の一枚を描き終える。スケッチブックは鉛筆の跡で埋め尽くされ、ページはくしゃくしゃになっていた。その絵が何を意味するのか、自分でもわからなかった。ただ、涙が止まらず、スケッチブックを抱えながらベッドに倒れ込んだ。
 
 涙を流しながら目が覚めた。ベッドの中で、夢ではない目の前の現実を確認する。そこには誰もいない。ただ、自分の息遣いと胸の痛みが残っていた。外の世界は朝日が昇り始めており、時折轍の音が遠くで聞こえた。夢の中での出来事が現実とどこかで繋がっているようで、その感覚から逃れることができない。
 桜井さんが本当にいなくなってしまう。その恐怖が頭の中をぐるぐると回り続け、ただ布団の中で震えていた。