桜井さんが入院して以来、学校での時間はどこか空虚で、意味を失ったようだ。いつも賑やかだった昼休みも、彼女の声がないだけでどこかぼんやりとした印象になり、景色全体が淡く色褪せたように見える。教室の窓から見える景色も、何だか味気ない。何もかもが単調で、フラットで、ゴシックなものに感じられた。
「おいおい、お前はいつまでそんな感じでおるんか?」
 蓮太郎がいつもの焼きそばパンの袋をあけながら声をかけてきた。普段通りのその姿は頼もしくもあり、少し羨ましくもあった。
「そうかな?別にそんなつもりはないけど……」
「嘘が下手やな。桜井が入院してから、ずっと気にしとるのが顔に出とるって。そげん心配なら見舞いに行ってこりゃいいやん」
 蓮太郎は、僕の顔をじっと見ながら、軽く笑う。からかうのが好きな蓮太郎だけど、今は本気で心配してくれてるようだ。
「まあ……うん、そうかもしれないけど、桜井さんには迷惑かけたくないし……」
「お前が来てくれたら絶対に喜ぶんやけん。遠慮せんで行ってやりや、ほんとに面倒臭いヤツやな」
「わかったよ」
 蓮太郎の言葉に、少し迷ったが彼の言う通りだと思った。「じゃ」と立ち去る彼のその手に焼きそばパンは残っていなかった。
 彼女に会いに行けば、少しは気持ちが晴れるかもしれない。重い腰を上げ、桜井さんに会いに行く決心をする。

 数日後、蓮太郎の言葉に後押しされて、桜井さんが入院している病院を訪れた。新しく建てられた病院は、ガラス張りのエントランスが広がり、明るい陽射しが差し込んでいる。エレベーターに乗り、桜井さんの病室へ向かった。どうやら少し緊張しているようだ。個室のドアをノックすると、すぐに彼女の明るい声が返ってきた。
「どうぞー」
 扉を開けると、ベッドに座っている桜井さんが、満面の笑みで迎えてくれた。
「わー!涼くん、来てくれたんだね!元気?」
「うん、元気だよ。桜井さんも元気そうだね……」
「ふふーん、まあね。こうして来てくれるともっと元気になるよ。ありがとうね」
 手に持ったドーナツの袋をテーブルの上に置く。
「これ、ミスドのドーナツ。食べれそう?」そのまま、病室に設けられた丸椅子に座った。
「もちろんよ!嬉しい!流石涼くん、私の好みわかってますなぁ」
 彼女は「いただきます」と言って袋を開け、中からドーナツを取り出して嬉しそうに頬張った。その様子を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。

 桜井さんとドーナツを食べながら、最近の日常の話をした。僕にとっては何気ない学校の話でも、少しでも彼女を元気づけられるならと、思いつく限りのエピソードを並べた。
「そういえばさ、この前蓮太郎がまた宿題忘れてさ、また『うちの犬が食っちまった』とか言ってたんだ。先生、真顔で『もう何度目だ?』って呆れてたよ」
「また?蓮太郎くん、懲りないね。せめて別の言い訳考えたらいいのに。で、先生信じてくれたの?」
「信じるわけないよ。でも蓮太郎は懲りもせず『いやマジっちゃけん!』って言い張ってた。結局、課題は補習でやらされてたけど。いよいよ蓮太郎自身が宿題を食べてると言う説が出てきたくらいだよ」
「ぷくくく!おもしろすぎる!そうかぁ、とうとう蓮太郎くんはヤギさんになったのね」
 その時の光景を思い浮かべながら、手で口を押さえて笑った。桜井さんも楽しそうに聞いてくれて、僕達は少しの間、その話で盛り上がった。
 ドーナツを一口かじった時、お店の陳列棚に見慣れないドーナツがあった事を思い出した。
「それにさ、最近ミスドで期間限定のドーナツが出たんだよ。『スパイシーチリマヨ・チョコクランチ』って名前で、なんか想像つかない味だけど、見た目だけは美味しそうだったんだよね」
「ねぇ涼くん……」彼女は訝しげな顔でこちらを見ている。
「それ、絶対嘘ついてるでしょ!」犯人をみつけた探偵かのように僕を指差している。
「いやいや、本当にあったんだって!最初はこんなの誰も買わないだろって思ってたんだけど、レジに並んでいたお客さんが買ってたんだよ、それも何組も……」
「本当かなぁ……ふふふ、でも面白いね。そっか、じゃあ今度外出したら、食べ……るわけないじゃない!そんな奇天烈ドーナツ」
 桜井さんは目を細め、次のドーナツに手を伸ばした。本当にその奇天烈ドーナツがあった事を彼女が信じてくれたどうかはわからないが、まぁいっかと手に持った缶コーヒーを一口含む。
 病室には穏やかな空気が流れていた。カーテン越しに差し込む午後の光が、静かな病室を優しく包み込み、夏の終わりの柔らかい風が吹いていた。外の世界は変わらずの日常が流れているけど、この部屋だけは時間が少しだけゆっくりと流れている。
「変な味のドーナツで思い出したんだけど、病院食って本当に美味しくないんだよ」と桜井さんが言った。
「そうだろうけど、患者の身体に合わせて作られてるんだから、健康にはいいでしょ?ちゃんと食べないと……」
「それは、そうなんだけど。全部薄味で、なんだか水っぽくて。毎日同じようなメニューで、飽きちゃうんだよね。だから、こっそり売店でカップラーメンを買って食堂で食べてるの。これくらいの楽しみはいいかなって」
「ばれたら怒られるんじゃない?」と呆れて尋ねる。
「たぶんね。でも、見つからなければ大丈夫。小さな反抗というか、自由を勝ち取るためには何よりも勇気と行動が必要なのよ」握りこぶしをつくる彼女。
 桜井さんはドーナツをかじりながら楽しそうに話す。カップラーメンの話をするたびに、手のひらでそっと笑みを隠すような仕草をしていた。まるで秘密を共有しているようで、その場にいるのが少しだけ特別な気分になった。
「あと個室とはいえ、病院内を移動するのは結構自由なんだよ。暇なときは外に散歩に行ってるんだ」
「外?病院の中じゃなくて?」
「うん、病院の敷地内なら大丈夫だって言われたから。朝一番に外の空気を吸うだけで、その日一日の気分が変わるよ」
「いい事だよ、退院した後の事も考えて体力つけておかないとだね。あ、この病院幽霊が出るって噂聞いたんだけど、あれ本当なのかな……」
「そうそう、お風呂場で白い服の髪の長い女性が手招きしてたってやつね。まあ、幽霊も話し相手がいなくて暇なのよ。私が相手してやってもいいんだけど、生憎私、そういう類のものは信じないタイプだからね」
袋に入っているドーナツが全てなくなり、砂糖で覆われた指をウェットティッシュで拭きながら彼女は尋ねた。
「そうだ涼くん……あの風景画、どうなってる?」
 彼女の目線が僕に注がれると、肩には突然プレッシャーという名の重りがのしかかってきた。
「スケッチブックにはラフを描いてるんだけど、どうも思ったようにいかないんだ。何度描き直しても、しっくりこない」頭を掻きながら、もどかしい気持ちを持て余すように視線を落とす。
「そっか。いいよ気にしなくて。大丈夫……涼くんにはちゃんと見えてるから。焦らずに進めてみて」
 彼女の言葉に頷いた。しかし、いざスケッチブックを開いてみると、手が止まってしまう。何度も描き直しては消し、また描き直しての繰り返し。キャンバスはいつまでも白いままで、その白さがむしろ僕の中にある迷いを映し出しているようだった。
 
 自室に戻ると、スケッチブックを広げて、鉛筆を走らせた。けれども、筆が進むたびに何かが足りないと感じてしまう。桜井さんが見ているであろう景色と、僕が見ている景色が重ならない。それがもどかしかった。
「もっと、こう……いや、違うか」「パースは、あってるよな……」
 独り言のように呟いては、線を消す。桜井さんの言葉が背中を押してくれているはずなのに、それでも手元は重いままだ。イーゼルに立てかけている白いキャンバスはまるで、迷いを吸い込むように広がっていた。
 桜井さんと会うたびに、彼女の期待に応えたいと思っていた。清水円山展望台の風景画を描き切る事が、今の僕にできる彼女への唯一の激励だった。
 
 その後も足繁く病院に通った。桜井さんはいつも明るく振る舞っていて、どうやら入院生活の中でもできる限りの楽しみを見つけているようだ。病院のカフェテリアで新しいデザートが出たことや、看護師さんが面白い人だったとか、そんな入院生活の些細な出来事が桜井さんの口からこぼれた。
 しかし、少しずつ変化が訪れた。最初はほんのわずかな違いだった。顔色も血の気が引き、少しの移動でも直ぐに肩を揺らすようになった。何より咳の回数が増えたように思える。それは、まるで波のようにじわじわと少しずつ、でも確実に迫ってきている。
 ある日病室を訪れたとき、桜井さんは呼吸器をつけてベッドに寝たまま小さく息を吐いていた。彼女の顔は笑顔だったが、目の下にはうっすらとクマができていて、その身体は一回り小さく見える。
「……ちょっと、疲れちゃったかな」
「無理しないで。ゆっくり休んで。今日はもう帰るよ」
「涼くん……ちょっと待って……」彼女が小さな声で呼び止めた。
「お願いがあるの。私の手を少しの間だけでいいから握ってくれないかな……」
 少し躊躇したが、彼女の希望に答えることにした。
 丸椅子をベッド横に移動させて腰を下ろし、手をそっと握った。細く、小さく、か弱い手。そのわずかに返される握力の小ささに、無力でしかなかった。
 時が経つにつれ、桜井さんの体力は少しずつ消耗し、僕達が共有する時間も、いつしか短く、静かなものへと変わっていった。かつて彼女が思い描いていた北海道の風景は、ゆっくりと遠ざかり、まるで手の届かない夢の中へ消えていくように感じられた。