桜井さんが学校を休み始めたのは、何の予兆もなく、突然の出来事だった。一日目は、ただの軽い風邪だろうと僕も思っていたし、桜井さんの友人たちも「どうせそのうち来るだろう」と、特に心配する様子もなかった。だが、二日、三日と桜井さんの席が空いたまま続くと、さすがにその空白が気になり始めた。一種間経つ頃にには、教室の空気が少し違って見えた。
昼休みの弁当を開きながら、蓮太郎が箸で唐揚げをつつき、うつむいたまま口を開く。
「桜井……大丈夫なんやろうか」
「……どうだろう。四日も休むのって普通じゃないよね」
僕達は同じ心配をしている。教室の片隅にぽつんと残された桜井さんの席を見ると、いつも元気だった彼女の存在感がどれほど大きかったのか改めて思い知らされた。周囲の生徒たちはいつもと変わらない日常を過ごしているが、僕達の中には一つの大きな穴がぽっかりと空いているような気がする。
「夕方にでも連絡してみるか?」
「じゃあ放課後、桜井さんにLINEしてみるよ」
蓮太郎はうなずき、もう一度弁当に目を戻す。その小さなやりとりの中で、お互いに桜井さんが無事であることを祈っていた。何もないはずなのに、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
その日の夕暮れ時、スマートフォンが振動した。桜井さんからグループチャットにメッセージが届いていた。蓮太郎もその通知音に反応し、自分のスマートフォンを取り出すため、鞄の中に手を突っ込んでいた。
「桜井か?」
「うん。『今日、うちに来てくれない?』って」
彼女から送られてきたメッセージは、短く、そしてシンプルだ。けれど、その端的な言葉の中に漂う灰色の重みが、胸に何かを予感させる。すぐに桜井さんの家に行くことを決めた。何かが起きたのだろう。それが何であるかは、想像の域を出ないが、桜井さんに会いたかったし、彼女の顔を見て話がしたかった。
「んじゃ、行こうぜ。とりあえず、顔を見に」
「そうだね」と応じて、僕達は自転車を押し出し、橙色の夕日が照らす街の中を駆け抜ける。長く伸びた影が、背中を追いかけるようにして、静かに道を進んでいく。
「二人ともいらっしゃい、中にどうぞ」
桜井さんの家に到着すると、いつものように白いフェンス越しに桜井さんのお母さんが出迎えてくれた。彼女はリビングへと通してくれたが、その瞳には、かすかな暗い影がぽつりと揺れている。
リビングに入ると、桜井さんが台所で来客用の飲み物を準備していた。少しだけ倦怠感があるのか、口角に力が入ってないようにも見えるが、それでもヘーゼルアイの綺麗な瞳と太陽のような笑顔で僕達を迎え入れてくれる。彼女の周りには、普段の彼女らしい穏やかな空気が漂っていた。
テーブルの上には、数冊の本とペンケースが無造作に置かれていた。そしてテーブルの横にある大きなスーツケースが目に入る。
「久しぶりだね、と言っても一週間くらいか。私に会えなくて寂しかったでしょ」
桜井さんの声には活気があり、彼女の明るい笑顔がリビングの空気を和ませていた。しかし、その笑顔とは対照的に、背後に控える大きなスーツケースが、何か良くないことを暗示しているように見えた。僕達は座布団に座り、机を囲んで向かいのソファに桜井さんが腰を下ろす。
「元気そうで何よりやん。よかった、本当に心配したばい」
蓮太郎が机に用意された麦茶を一口含んだ。桜井さんは軽く頷き、右腕で力こぶを作った。
「ごめんね、心配かけちゃって。でも、ほら、私は元気だよ。大丈夫だから!」
言葉にも力が込められていた。彼女が元気であることの安堵と、その背後に隠された何かを探ろうとする疑念が、未だ心の片隅で交錯していた。
「ところで桜井さん、そのスーツケース……旅行にでも行くの?」
旅行。いやそうではないと確信しながらも、あえてその言葉を選んだ。桜井さんは一瞬視線を落とし、目を伏せたまましばらく沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「ううん……違うの。この一週間、学校を休んでたのは、実は病院に入院してたからなの……」
その言葉に一瞬、凍りついたように黙り込んだ。蓮太郎も同じように驚いた表情を浮かべていたが、すぐに言葉を絞り出す。
「そっか……でもここにおるってことはさ、もう退院してきたんやろ?」
桜井さんは少しだけ首を横に振り、手元に視線を落とした。コップの中でくるくると回される小さなスプーンに、いつの間にか目を奪われていた。スプーンの動きに合わせて、液体が静かに波打ち、そのさざめきをただ見つめることしかできなかった。彼女のその動きは、何かを覆い隠そうとしているかのような気配をまとっている。まるで心の内を見せないために、無意識に作られた動作。
「ううん、明日また病院に戻るの。今日は荷物整理するために、一時帰宅してるだけ」
彼女は、できるだけ明るく振る舞おうとしている。だが、その表情の奥に潜むものが、心に不安を呼び起こす。リビングの空気が少し重たくなり、時計の針の音だけが静かに響いていた。何かが起きているのは明白だったが、それを言葉にすることができずに、ただ桜井さんの次の言葉を待っていた。
「検査が全部終わってなくてさ。でもね、大したことないと思うから。すぐに戻るよ」
桜井さんはそう言いながら、柔らかく笑う。その笑顔が本物なのか作りものなのか、わからない。
短い沈黙の後、重い口を開けて尋ねた。
「桜井さん、どういう病気なの?」
彼女は少しの間考え込むようにして、深く息を吐いた。彼女はスプーンを回す手を止め、僕達の目を見た。彼女の瞳の奥には、知らない何かが見え隠れしていた。
「レアリエス肺症候群って言うんだ。聞いたこと……ないよね」
僕と蓮太郎はお互いを見つめ、顔をしかめる。特定疾患に入るような有名な病気などは、ある程度知ってはいるが、そんな病名聞いたこともない。
桜井さんの表情には、ふっと不安がよぎったように見えたが、すぐにそれは消えた。
ふうっと大きな息を吐いた後、彼女は続けた。
「一年前くらいかな。私も最初、風邪だと思ってたんだけど、朝、学校の準備をしているときに咳が止まらなくなっちゃってね。ほら、校外学習の時のこと覚えてない?あの咳こみ。それで何かあるんじゃないかってお母さんが言うもんだから、病院に行ったの。そしてその病気の診断を受けたんだけど、最初はピンとこなくてさ」
「レアリエス肺症候群って……それ、具体的にはどんな病気なん?」
蓮太郎の問いに、桜井さんは一度うなずいて答えた。
「簡単に言えば、肺がうまく働かなくなる病気なんだって。血が肺の中に溜まったり、炎症が起きたりして、呼吸がしにくくなるみたい。進行性だけどゆっくりだから、この一年普通の学校生活を送れていたの」
桜井さんの説明は冷静だったが、その内容はどうにも重い。その説明を飲み込むのに時間がかかり、頭の中が混乱していた。そもそもあの元気の塊のような桜井さんが病気という事実が信じがたい。
「治療法とかは?その……何か治療できる薬とか、あるんでしょ?」
焦りを隠せない問いかけに、桜井さんはゆっくりと首を横に振った。
「なんでこういう症状が出るのか、お医者さんも原因が特定できてないって言ってた。まだ治療法を探してる段階みたい。薬とかもいろいろ試してるけど、詳しい結果はまだわからないんだ。とりあえずはお医者さんに任せるしかないかな」
その言葉を聞いて、再び黙り込んだ。言葉にならない感情がリビングを包み、桜井さんの淡々とした声だけが空間を満たしている。蓮太郎は眉間にシワを寄せ俯き、僕はただ桜井さんの顔を見つめていた。
沈黙が続く中、蓮太郎が重い口を開いた。
「でもさ桜井、それって……治るんやろ?どのくらい入院するんか、わかっとるん?」
桜井さんは肩をすくめた。
「今のところ、どのくらい入院するか期間は決まってないの。でも、大丈夫だよ。私は絶対に治すから」
彼女の言葉に何とか頷いたが、その言葉に完全に安堵できるわけではない。彼女がどれだけ明るく振る舞っても、不安を完全に隠しきれるわけではない。この質問を投げかけることが許されるのかどうか、判断できない。けれど、それでもどうしても確かめなければならなかった。
「……死ぬ病気じゃ、ないんだよね?」僕の声は、自分でも分かるほどに震えていた。
彼女はその問いに一瞬だけ視線を逸らした後、牡丹色の瞳で僕を真っ直ぐに見て微笑んだ……牡丹色?
「私は死なないわ、絶対に。風の神様になるのはもっと先。それよりも……」
桜井さんの言葉は力強かった。その言葉に救われるような気がしながらも、それでもどこか遠くの存在のように感じられた。
「それよりも涼くん……君は……大丈夫?今、体の具合とか悪くない?」
体の具合?僕の?
「うん……僕は元気だよ」
なぜこのタイミングでそんな事を聞くのか理解できない。具合が悪いのは彼女の方なのに。しかしその真剣な瞳に気圧された。
「そうか……ううん、ならいいのよ。私みたいにならないように何か異変があったらすぐ病院に行ってね……」
少しの沈黙の間、僕達はどういう顔をしていたのだろう。それをみた彼女は手をブンブンと振る。
「ちょっとちょっと!二人とも暗いよ!なんかごめんね、こんな話になっちゃって……そうだ、ドーナツ買ってきてたんだった。二人ともそれ食べて元気出してよ」
桜井さんはそう言って、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。その笑顔にほんの少しだけだが、希望が見えた気がした。
「……僕達は、桜井さんが元気になるのを待ってるしかないね」
ようやく言葉を絞り出した。それが正解なのかどうか確信が持てなかった。けれど、今の僕にはその言葉以外に、彼女に気持ちを伝える手段はなかったのだ。蓮太郎も頷いて彼女に言った。
「そやな。桜井、僕達はお前が戻ってくるのを待っとるけん、何も心配せんで、しっかり治療してこい」
「ありがとうね、二人とも」
リビングの隅にあったスーツケースが、少しだけ小さく見えたのは、桜井さんの強さが僕にも伝わったからかもしれない。
昼休みの弁当を開きながら、蓮太郎が箸で唐揚げをつつき、うつむいたまま口を開く。
「桜井……大丈夫なんやろうか」
「……どうだろう。四日も休むのって普通じゃないよね」
僕達は同じ心配をしている。教室の片隅にぽつんと残された桜井さんの席を見ると、いつも元気だった彼女の存在感がどれほど大きかったのか改めて思い知らされた。周囲の生徒たちはいつもと変わらない日常を過ごしているが、僕達の中には一つの大きな穴がぽっかりと空いているような気がする。
「夕方にでも連絡してみるか?」
「じゃあ放課後、桜井さんにLINEしてみるよ」
蓮太郎はうなずき、もう一度弁当に目を戻す。その小さなやりとりの中で、お互いに桜井さんが無事であることを祈っていた。何もないはずなのに、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
その日の夕暮れ時、スマートフォンが振動した。桜井さんからグループチャットにメッセージが届いていた。蓮太郎もその通知音に反応し、自分のスマートフォンを取り出すため、鞄の中に手を突っ込んでいた。
「桜井か?」
「うん。『今日、うちに来てくれない?』って」
彼女から送られてきたメッセージは、短く、そしてシンプルだ。けれど、その端的な言葉の中に漂う灰色の重みが、胸に何かを予感させる。すぐに桜井さんの家に行くことを決めた。何かが起きたのだろう。それが何であるかは、想像の域を出ないが、桜井さんに会いたかったし、彼女の顔を見て話がしたかった。
「んじゃ、行こうぜ。とりあえず、顔を見に」
「そうだね」と応じて、僕達は自転車を押し出し、橙色の夕日が照らす街の中を駆け抜ける。長く伸びた影が、背中を追いかけるようにして、静かに道を進んでいく。
「二人ともいらっしゃい、中にどうぞ」
桜井さんの家に到着すると、いつものように白いフェンス越しに桜井さんのお母さんが出迎えてくれた。彼女はリビングへと通してくれたが、その瞳には、かすかな暗い影がぽつりと揺れている。
リビングに入ると、桜井さんが台所で来客用の飲み物を準備していた。少しだけ倦怠感があるのか、口角に力が入ってないようにも見えるが、それでもヘーゼルアイの綺麗な瞳と太陽のような笑顔で僕達を迎え入れてくれる。彼女の周りには、普段の彼女らしい穏やかな空気が漂っていた。
テーブルの上には、数冊の本とペンケースが無造作に置かれていた。そしてテーブルの横にある大きなスーツケースが目に入る。
「久しぶりだね、と言っても一週間くらいか。私に会えなくて寂しかったでしょ」
桜井さんの声には活気があり、彼女の明るい笑顔がリビングの空気を和ませていた。しかし、その笑顔とは対照的に、背後に控える大きなスーツケースが、何か良くないことを暗示しているように見えた。僕達は座布団に座り、机を囲んで向かいのソファに桜井さんが腰を下ろす。
「元気そうで何よりやん。よかった、本当に心配したばい」
蓮太郎が机に用意された麦茶を一口含んだ。桜井さんは軽く頷き、右腕で力こぶを作った。
「ごめんね、心配かけちゃって。でも、ほら、私は元気だよ。大丈夫だから!」
言葉にも力が込められていた。彼女が元気であることの安堵と、その背後に隠された何かを探ろうとする疑念が、未だ心の片隅で交錯していた。
「ところで桜井さん、そのスーツケース……旅行にでも行くの?」
旅行。いやそうではないと確信しながらも、あえてその言葉を選んだ。桜井さんは一瞬視線を落とし、目を伏せたまましばらく沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「ううん……違うの。この一週間、学校を休んでたのは、実は病院に入院してたからなの……」
その言葉に一瞬、凍りついたように黙り込んだ。蓮太郎も同じように驚いた表情を浮かべていたが、すぐに言葉を絞り出す。
「そっか……でもここにおるってことはさ、もう退院してきたんやろ?」
桜井さんは少しだけ首を横に振り、手元に視線を落とした。コップの中でくるくると回される小さなスプーンに、いつの間にか目を奪われていた。スプーンの動きに合わせて、液体が静かに波打ち、そのさざめきをただ見つめることしかできなかった。彼女のその動きは、何かを覆い隠そうとしているかのような気配をまとっている。まるで心の内を見せないために、無意識に作られた動作。
「ううん、明日また病院に戻るの。今日は荷物整理するために、一時帰宅してるだけ」
彼女は、できるだけ明るく振る舞おうとしている。だが、その表情の奥に潜むものが、心に不安を呼び起こす。リビングの空気が少し重たくなり、時計の針の音だけが静かに響いていた。何かが起きているのは明白だったが、それを言葉にすることができずに、ただ桜井さんの次の言葉を待っていた。
「検査が全部終わってなくてさ。でもね、大したことないと思うから。すぐに戻るよ」
桜井さんはそう言いながら、柔らかく笑う。その笑顔が本物なのか作りものなのか、わからない。
短い沈黙の後、重い口を開けて尋ねた。
「桜井さん、どういう病気なの?」
彼女は少しの間考え込むようにして、深く息を吐いた。彼女はスプーンを回す手を止め、僕達の目を見た。彼女の瞳の奥には、知らない何かが見え隠れしていた。
「レアリエス肺症候群って言うんだ。聞いたこと……ないよね」
僕と蓮太郎はお互いを見つめ、顔をしかめる。特定疾患に入るような有名な病気などは、ある程度知ってはいるが、そんな病名聞いたこともない。
桜井さんの表情には、ふっと不安がよぎったように見えたが、すぐにそれは消えた。
ふうっと大きな息を吐いた後、彼女は続けた。
「一年前くらいかな。私も最初、風邪だと思ってたんだけど、朝、学校の準備をしているときに咳が止まらなくなっちゃってね。ほら、校外学習の時のこと覚えてない?あの咳こみ。それで何かあるんじゃないかってお母さんが言うもんだから、病院に行ったの。そしてその病気の診断を受けたんだけど、最初はピンとこなくてさ」
「レアリエス肺症候群って……それ、具体的にはどんな病気なん?」
蓮太郎の問いに、桜井さんは一度うなずいて答えた。
「簡単に言えば、肺がうまく働かなくなる病気なんだって。血が肺の中に溜まったり、炎症が起きたりして、呼吸がしにくくなるみたい。進行性だけどゆっくりだから、この一年普通の学校生活を送れていたの」
桜井さんの説明は冷静だったが、その内容はどうにも重い。その説明を飲み込むのに時間がかかり、頭の中が混乱していた。そもそもあの元気の塊のような桜井さんが病気という事実が信じがたい。
「治療法とかは?その……何か治療できる薬とか、あるんでしょ?」
焦りを隠せない問いかけに、桜井さんはゆっくりと首を横に振った。
「なんでこういう症状が出るのか、お医者さんも原因が特定できてないって言ってた。まだ治療法を探してる段階みたい。薬とかもいろいろ試してるけど、詳しい結果はまだわからないんだ。とりあえずはお医者さんに任せるしかないかな」
その言葉を聞いて、再び黙り込んだ。言葉にならない感情がリビングを包み、桜井さんの淡々とした声だけが空間を満たしている。蓮太郎は眉間にシワを寄せ俯き、僕はただ桜井さんの顔を見つめていた。
沈黙が続く中、蓮太郎が重い口を開いた。
「でもさ桜井、それって……治るんやろ?どのくらい入院するんか、わかっとるん?」
桜井さんは肩をすくめた。
「今のところ、どのくらい入院するか期間は決まってないの。でも、大丈夫だよ。私は絶対に治すから」
彼女の言葉に何とか頷いたが、その言葉に完全に安堵できるわけではない。彼女がどれだけ明るく振る舞っても、不安を完全に隠しきれるわけではない。この質問を投げかけることが許されるのかどうか、判断できない。けれど、それでもどうしても確かめなければならなかった。
「……死ぬ病気じゃ、ないんだよね?」僕の声は、自分でも分かるほどに震えていた。
彼女はその問いに一瞬だけ視線を逸らした後、牡丹色の瞳で僕を真っ直ぐに見て微笑んだ……牡丹色?
「私は死なないわ、絶対に。風の神様になるのはもっと先。それよりも……」
桜井さんの言葉は力強かった。その言葉に救われるような気がしながらも、それでもどこか遠くの存在のように感じられた。
「それよりも涼くん……君は……大丈夫?今、体の具合とか悪くない?」
体の具合?僕の?
「うん……僕は元気だよ」
なぜこのタイミングでそんな事を聞くのか理解できない。具合が悪いのは彼女の方なのに。しかしその真剣な瞳に気圧された。
「そうか……ううん、ならいいのよ。私みたいにならないように何か異変があったらすぐ病院に行ってね……」
少しの沈黙の間、僕達はどういう顔をしていたのだろう。それをみた彼女は手をブンブンと振る。
「ちょっとちょっと!二人とも暗いよ!なんかごめんね、こんな話になっちゃって……そうだ、ドーナツ買ってきてたんだった。二人ともそれ食べて元気出してよ」
桜井さんはそう言って、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。その笑顔にほんの少しだけだが、希望が見えた気がした。
「……僕達は、桜井さんが元気になるのを待ってるしかないね」
ようやく言葉を絞り出した。それが正解なのかどうか確信が持てなかった。けれど、今の僕にはその言葉以外に、彼女に気持ちを伝える手段はなかったのだ。蓮太郎も頷いて彼女に言った。
「そやな。桜井、僕達はお前が戻ってくるのを待っとるけん、何も心配せんで、しっかり治療してこい」
「ありがとうね、二人とも」
リビングの隅にあったスーツケースが、少しだけ小さく見えたのは、桜井さんの強さが僕にも伝わったからかもしれない。