それと交わってしまったわたしがより汚いような気がして、雷が落ちる日は毎回死にたくなった。
 拓海くんと出会って、少しだけ、自分が変われたような気がしていた。でも実際そんなことはなく、わたしは何も変わっていない。
 何をしようと、わたしが汚いことに変わりはない。身体の、心の奥底にその汚い思い出をしまっておいたとしても、いつか開けなくてはいけない日が来る。
 きっといつか、拓海くんに言わなくてはいけない日が来る――
 気づけば頬を涙が伝っていた。大丈夫、拓海くんは下にいるんだし、泣いたってばれやしない。
 そう思っても声を上げて泣くのは違う気がして、手で口を押さえて声を押し殺して泣いた。
 いつかこの汚い過去を打ち明けたとき、拓海くんはどんな反応をするのだろう。頑張ったねって優しい言葉を並べて、抱きしめてくれたりするのだろうか。それともわたしを汚いもののように扱うのだろうか。
 溢れる涙を拭って、鼻を啜った。鼻が詰まって息が上手くできない。
「――璃恋」
 暑いからと開けていたドアの方から、声がした。
 ゆっくりと起き上がって振り返り、声の主を見つめる。
「……拓海くん、なんで」
「今日の昼泣いてて、心配だったから。大丈夫かなと思って見に来たの。どうした、なんで泣いて」
 そう言いながら拓海くんがこちらに来る。ぎしりと音を立てて、ベッドに腰掛けた。
 拓海くんの眉は下がり、声色にも動揺が見られる。ああ、困らせてしまった。
「ごめんなさい、大丈夫なので」
「大丈夫じゃないだろ」
――優しくしないでよ。
 好きじゃないなら、わたしのことをなんとも思っていないのなら、優しくしないで。泣いていても放っておいてよ。
 でも、でも、今は助けて欲しい。ひとりでいたくない。
 そんな馬鹿みたいな考えが浮かぶ。独りよがりすぎて自分が嫌になった。
 昔から恋は向いてなかった。自分の発言とか行動とか、そういうものを振り返っては自分が嫌になる。受け取れる幸せより、自分が傷つくことの方が多かった。
 だからもう、恋はしないと決めた。
――はずだったのに。
 どうして好きになってしまったのだろう。彼がいないと苦しいほど、わたしは彼を好いてしまったんだろう。後悔ばかりがわたしを襲う。
 後悔したって仕方ないのに、この気持ちはもう誰にも止められないのに、悲しみばかりが溢れてきて、またひとつ、雫が頬を伝う。
 拓海くんの手が頬に触れて、溢れる涙ひとつひとつを丁寧に掬った。
「嫌なことでもあった?俺でよかったら聞くよ」
 どんよりと沈んでいる暗い気持ちを払拭したくて、ベッドサイドにおいてある小さいライトをつけた。柔らかい光を放つそれは、同じようにわたしの心を少しだけ、照らしてくれた。
 何を言うべきか、迷う。
 頭の中で言葉は大量に浮かんでいるのに、それが全くもって繋がらない。助けて、どうしよう、好き、嫌だ。どうしようもない程にぐちゃぐちゃな言葉の羅列。
 口から出せそうなのは穢れた過去だけ。ならいっそ、それを口に出してしまおうか。
「……わたし、雷が苦手なんです」
 拓海くんの手が、わたしの手に触れ、重なる。もう何度も知った、この温もり。
「数年前――中学の時、父親に無理矢理抱かれて。その日は、雷が沢山落ちてる日でした。それ以来、どうも雷がダメで」
 自分で言っておいて吐きそうになった。拓海くんの手に力が入る。わたしは笑みを浮かべて、拓海くんを見つめた。
「ごめんなさい、急にこんなこと言って。気持ち悪いですよね」
 手を払って、くっつけた膝の上に置いた。拓海くんは動かず、同じ場所に手を置き続けている。
 申し訳ないと改めて思った。わたしのせいで拓海くんを困らせている。
「……ごめん」
 小さく拓海くんが呟く。どうして拓海くんが謝るんだろう。悪いのはわたしだ。
 勝手に過去を押し付けて、その上勝手に謝って、勝手に完結して。人間の最低な部分を寄せ集めたような行動をしている。
「どうして、拓海くんが謝るんですか。悪いのはわたしです」
「いや、俺もごめん。嫌なこと話させたな」
 気まずい沈黙が流れる。何を言えば良いんだろう。分からなくなって視線を動かせば、拓海くんも同じような表情をしていた。
「今日は、大丈夫?雷。寝れる?」
――甘えても、いいのかな。
 一緒に寝て欲しいです。ひとりじゃ嫌です。そう言えたら楽なのに、申し訳なさがわたしをとどまらせる。喉の奥まで言葉が来ているのに。
 いつもならそれを飲み込んで、繕った笑顔を浮かべて、大丈夫ですと明るく言う。人に迷惑はかけない。自分が傷つくことで済むのなら、それでいい。
 今日も、そうするはずだった。
「……甘えても、いいんですか」
 右手が微かに震える。部屋の窓から雷が落ちる音が聞こえる。
 今手が震えているのはどうしてだろう。雷が怖いから?それとも嫌われることが怖いから?
 きっと、どっちもだ。
「……いいよ、甘えても」
 その一言で、片方に対する恐怖は少しだけ軽減されたような気がした。
 拓海くんが布団をめくる。わたしは身体を動かしてスペースを空けた。
 ふたりで寝るには少し狭い、シングルベッド。くっついていないと眠れなくて、わたしは顔が火照っていくのを感じた。
 なんせ目の前に拓海くんの顔があって、まじまじと見つめられているから。なんだか恥ずかしくて、顔を背けた。
「……こっち向いて」
 後ろからぎゅっと抱きしめられながら、耳元でそう囁かれる。低くて甘い声で頭がいっぱいになって、とろけてしまいそう。
 狭いベッドの上で身体を動かして、拓海くんと向き合う。背中に腕が回されて、そのまま身体ごと引き寄せられた。
 手を動かして胸板に触れる。ん、と拓海くんの声が漏れる。
 色っぽい、艶っぽい声を聞いた瞬間、ぶわっと身体の熱が上がっていくのを感じた。
「ねぇ、璃恋」
「なんですか?」

「――キス、していい?」

 拓海くんの指が頬に触れる。とくん、とくんと高鳴る、心臓の音が聞こえる。今聞こえている、この鼓動の音はどちらのものだろう。わたし?それとも拓海くん?もう分からない。
 分からないくらいに近い距離の中、わたしは拓海くんを見つめている。
「返事がないのは、いいってことでしょ」
 唇が、重なった。
 雷の音も、雨の音も。
 何も、聞こえなかった。


2

 雨がバタバタと屋根を打ち付け、雷鳴が轟く夜。
 雷に怯える璃恋に、俺は――
「あーもう!」
 わしゃわしゃと頭を掻く。深すぎる空に、俺の声が飛んでいく。
 あの夜から数日が経った。俺たちは何も変わらず、日常を過ごしている。
 変わっていないと思い込んでいるだけで、実は少しずつ変わってきているのだろう――そう思う。表面上だけ変わっていないふりをして、自分の気持ちを押し殺しているんだ。
 正直に言えば、俺は璃恋のことが好きだ。それはもう狂おしいほどに。とはいえ思いを伝えるのはそれはそれで違う気がして、言い出せていない。
 璃恋は何も変わっていない。普通一緒に暮らしている人にキスでもされたら、少しは意識したりするもんじゃないのだろうか。そんな様子をちっとも見せず、日々俺と一緒にいてくれている。
 浮かれているのは俺だけなのか。あの日のことを思い出しては、自分にイライラしたり、時々にやついたり、そういう自分が嫌になる。