第2節 しあわせ


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 最近毎日雨が降っている。どうやら日本は梅雨に突入したみたいだ。
 拓海くんと出会って数週間――わたしたちは、幸せな日々を過ごしている。
 お昼ご飯を食べ終えて、ソファに座ってテレビを見ている拓海くんの横顔を見ながら、幸せな日々を振り返ってみる。
 朝はふたりとも遅く起きる。拓海くんと一緒に暮らすようになって数日はわたしも張り切って早く起きていたけれど、ふたりとも遅起きだと気づいてから遅く起きるようになった。
 朝ご飯はわたしが作る。
 パンの日もあればご飯の日もある。たまにスープや味噌汁をつけたり、ちょっと風変わりなメニューにしたりすると、拓海くんは喜んで食べてくれる。
 ふたりで昼間で寝過ごして、一日二食になるような日もある。今までだったら考えられないような生活リズムだ。
 でこぼこでばらばらだけれど、元々のわたしがガタガタだから丁度いいんだろう。
「今日は何をしますか、拓海くん」
 テーブルをふたりで囲んで座って、朝ご飯を食べながらそう話す。
「そうだな、どっか行く?」
 ある日は水族館に行った。優雅に泳いでいるエイがかわいくて、水槽に張り付いて見ていたら拓海くんに笑われた。ひどい。
 ペンギンコーナーの匂いがどうもダメで、しかめっ面をしていたら拓海くんも同じだった。
 またある日は映画館で映画を見た。わたしは映画を見て号泣していたけれど、拓海くんはずっとポップコーンを食べていた。
 感動的なシーンのところで、隣からポリポリポップコーンを食べる音が聞こえるもんだから笑えてきてしまう。
 映画館を出て、拓海くんに泣きすぎと指を指された。そっちこそポップコーン食べすぎです、と言い返してやった。
 動物園に行った日もあった。近すぎる動物に驚いて、変な顔をしているところを拓海くんのスマホに収められた。
 消してくださいと言っても拓海くんは聞かず、壁紙にでもしようかなと言った。
 様々な場所に行ったけれど、ふたりでなら何をしていても楽しい。
 最近は雨の影響で外に出ていない。
 仕事に出て行った拓海くんがなにやら大きいものを持って帰ってきたと思ったら、ゲーム機を買ってきたこともあった。肝心なゲームソフトを忘れて、数日お預けになったけれど。
 ふたりで並んでソファに座って、コントローラーを握りしめた。
 うるさいくらいに騒いで、笑って。
――ああわたし、幸せだなぁ。
 そう思う度、心のどこかに不安が蓄積されていく。
――もし、拓海くんがいなくなったら?
――もし、拓海くんに捨てられたら?
 そのことを考えると寒気がする。
 身体を浸食してくる寒気をかき消そうと、わたしは隣にいる拓海くんの手を取った。
 突然のことに驚いたのか、拓海くんがゆっくりと首を傾けてわたしを見る。
「どうした?」
 おかしいよね。まだ出会って数週間なのに、お互いのことも深くは知らないのに、わたしはもう、拓海くんがいないとだめになってしまっている。
 大丈夫だと自分に言い聞かせて、考えないようにしようと思っても、わたしの頭は最悪の想定ばかりをしてしまう。幸せだからこそ、怖い。
 考えたくない。現実になんかしたくない。現実になんかさせない。
 拓海くんと一緒にいれるのなら、嘘をいくつ重ねたっていい。わたしのことを犠牲にしてもいい。
 だからどうか、わたしを捨てないで。わたしから離れないで。一緒にいて。
「……拓海くん」
 ああ、もうだめだ。どんどん視界が潤んで、泣きそうになっていく。
 わたしが泣きそうになっていることに気づいたのか、拓海くんはわたしを引き寄せると、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、大丈夫だから」
 少し焦ったような声色に、涙が出そうになる。困らせてしまった、迷惑をかけてしまったと思う一方で、拓海くんの温もりに安心している自分もいる。
 拓海くんの背中に腕を回して、少し力を入れれば、それ以上の強さの力で拓海くんが抱きしめ返してくる。また、涙が溢れそうになる。
――ああ、好きだなぁ。
 どうしようもなくそう思った。
 わたしは拓海くんを好きになってしまって、それはもうどうにも隠せそうにない。
 自覚しなければ楽なのに、目の前の彼がそれに気づかせる。
 優しくて、温かくて、たまにひどくて。
 でもわたしは、そんな彼のことを好きになってしまった。そんな拓海くんだから、好きになった。
 それだけが事実で、動かせないものだった。

*

 あの後わたしは拓海くんの肩に顔を埋めて泣きじゃくり、拓海くんが着ていたグレーのTシャツを黒地に変えてしまった。
 どうして泣いたのか問われたけど、上手く言えないままはぐらかした。未来が怖いなんて馬鹿なこと、言えない。
 いっぱい頑張って来たから疲れちゃったんだよ、今日は休みな、と優しい言葉をかけてくれて、また泣きそうになる。何とかそれを堪えて、夜ご飯を作ろうとキッチンに立った。
 休んでよ、と拓海くんが声をかけてくれたけど、わたしはそれを振り切って料理をした。何もしないで休んでいるときの方が苦しくなる。それを知っている。
 夜ご飯をちゃんと作って、一緒に食べて、お風呂に入って、今日は早々にベッドに入ることにした。
 この家にはベッドがひとつしかない。そうなるとふたりでひとつのベッドに寝るか、ひとりがソファで寝ることになる。
 いつも拓海くんはソファで寝ている。身体が痛くなるだろうから変わりますよ、といっても聞かない。女の子なんだから身体を大事にしなさいと言われた。
 恋心を自覚してしまった以上、そういうことを言われると恥ずかしくなってしまう。この思いがいつバレるかも時間の問題な気がする。
「もう寝よっか、おやすみ」
「おやすみなさい」
 拓海くんはリビングのソファに横になり、薄手のブランケットを身体にかける。そしてそのまま瞳を閉じた。
 わたしはそれを見届けると、二階に上がった。寝室に入り、ベッドに横になる。
 本音を言うならば、一緒に寝たかった。寂しいときとか苦しいときは人の肌の温もりが恋しくなるもので、大好きな人の温もりに包まれたまま寝られたら、どんなにいいだろう。
 わたしは布団を被り、固く目を閉じた。寝ようとしても、涙が目に浮かぶばかりで全く寝付けない。外から聞こえる雨の音も、わたしの眠りを妨害してくる。
 窓を完全に閉め切って音を遮っているはずなのに、大量に降る雨の方が強いみたいだ。加えて今日は雷も落ちている。たまに一瞬光ったと思えば、ゴロゴロと近くで雷が落ちる音が聞こえる。
 布団の中で身体を丸め、手のひらで耳を塞いだ。手のひらだけじゃ塞ぎきれなくて、空いた隙間から雨と雷の音が入ってくる。
 わたしは雨と雷の音が怖い。
 昔、父親に無理矢理抱かれたことがあった。
 その時わたしは中学生とかで、知識も経験も何もなくて、だからこそ父親にされるがまま、行為を受け入れてしまった。
 気持ちいいなんて思いは一ミリも浮かばなかったけれど、逆に抵抗しようとも思わなかった。もうどうでもいいと思った。
 その日は、何度も雷が落ちる日だった。父親の背中越し、四角い窓の中に、雷の閃光が走るのが見える。
 それ以来、雷の音を聞くとあの時のことを思い出してしまう。
 迫ってくる唇。いやらしい手つきで身体をまさぐってくる手。汚い言葉ばかり吐き出す口。