ましてや璃恋が通っている高校がかなりの名門校であり、それなりに裕福なはずだ。でも璃恋は家を出た。
親も友達もすべて置き去りにして、死ぬ覚悟で。
――救ってやりたい。
そういった思いが浮かんでは消えていく。璃恋は気づいていないだろうが、俺は人殺しだ。身元がバレれば百パーセント逮捕される。
それに、璃恋はそんなことないと言うだろうけど、端から見ればこの状況は誘拐だ。女子高生を攫って、同居している殺人犯。
互いに助け合っているつもりでも、璃恋が未成年だとなると悪いのは俺になる。なんなんだよこの社会、と思う。ただ生きたいだけなのに、幸せになりたいだけなのに、それを邪魔してくる。理不尽だろ、こんなの。
どろどろと流れる真っ黒な感情に蓋をして、璃恋の髪を撫でて、俺は家をあとにした。
夜の空の色は濃い。黒色の絵の具で真っ黒に塗りつぶされたみたいに。
星でも浮かんでいれば少しばかり綺麗なのだけれど、今日は生憎星がひとつも輝いていない。
今日の"仕事"はとある男の始末。「形が分からなくなるまでやっていい」と言われたから好き勝手やらせてもらおう。
指定の場所に向かえば、男は俺を待ち構えていた。
俺は胡散臭い笑みを浮かべながら近づき、男が口を開く前に引き金を引く。急所は外して。
――あえて急所を外して、死にきれないでのたうち回るのを見る。それが楽しい。
逃げようとしたからナイフを突きつける。男は護身用に持っていたのか、小ぶりの銃を俺に向けた。
見たところ大した殺傷力はなさそう。そんなんで刃向かえると思ってんのかな。
銃を持っている手ごと捻り、その銃の先を男の顔の方に向ける。関節が外れたのか鈍い音が響き、男の絶叫が耳元で聞こえる。
「……うるさ」
雑音はその名の通り、いらないものだ。だったら、消さないと。
銃口が男の顔に向かったまま、引き金を引いた。顔に向かって弾丸が放たれ、おでこの辺りに入っていく。俺に縋りついていた腕をナイフで切り裂く。
男は気を失ったのか絶命したのか、後ろに倒れた。
――なんだ、もう終わりか。
正確に言えば終わりじゃないかも、だってまだあったかいし、脈あるし。でも、相手が逃げ回らなくなっちゃったら、俺からしたら終わりなんだよ。
ぐちゃぐちゃになるまで弄ぶつもりだったのに、すうっとやる気が失せていく。男の頭に銃を突きつけ、終わらせた。最近はどうも楽しくない。とか言って、昔も特に楽しくはなかったけれど。
スマホを出して殺しを依頼してきた奴に電話をかける。電話の向こうの主は興奮しているようで、あとで金は振り込んでおくと言い残して電話を切った。
地面に倒れ込んでいるそれを持ち上げて、四肢を縛って袋に入れる。返り血?そんなのもう気にならない。
俺はすべてを終えると、また夜空を見上げた。
空は相変わらず黒い。先程はなかった星がひとつだけ、瞬くように輝いていた。
音を立てないよう、ゆっくりと鍵を回す。そーっとドアを押し、部屋の中の様子を伺う。
璃恋は俺が家を出たときと同じ場所ですうすうと寝息を立てていた。あとで飲もうと思っていたのだろう、開けられていないエナジードリンクの缶が机の上にある。
白くてすべすべとした肌に触れようと思った瞬間、指先についた紅が目に入った。
途端に手を引っ込め、洗面所に駆け込む。必死になって手を洗い、排水溝に落ちていく赤みがかった液体を見つめる。
虚ろな目をしたままリビングに戻り、真っ白な璃恋の頬に触れた。壊れてしまいそうなものを手に取るように、丁寧に、優しく。ん、と少し色っぽい声が漏れた。
かわいい、と呟いた声は音にならずに消えていく。
暖かい感情を抱く度、同時になんとも言いがたい感情の波に襲われる。
――どうして璃恋を拾ってしまったんだろう。
――かわいい。愛おしい。
――どうして、どうして。
「……拓海くん」
璃恋の声で現実に引き戻された。瞳は相変わらず開かない。
寝言だと分かっているけれど、今名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
璃恋の細っこい腕を握る。
――ひとりじゃない。ひとりじゃない。
そう言い聞かせながら、眠りについた。
窓から差し込む光で目が覚めた。
握っていたはずの温もりは消えていて、寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回す。
璃恋はキッチンに立ち、鍋に入ったカレーをかき混ぜていた。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいました?」
「だいじょーぶ」
「もう朝ご飯にしますけど、いいですか?」
「いいよ。顔だけ洗ってきてもいい?」
「ごゆっくりどうぞ」
リビングを離れ、トイレに向かう。用を足したあとは洗面所に向かい、手と顔を洗った。
いつもなら顔を洗うだけで、手なんか洗わないのに――なぜか手を洗ってしまったのは、きっと昨日の夜のせい。自分が汚い、って自覚しちゃったから。
顔を水で洗って、視線を上げた。鏡に映った痩せ型の男と目が合う。水が髪の毛先について、雫となって落ちていく。
目が合った男は、どうにも頼りなさそうだった。
リビングに戻れば、もう朝ご飯の準備は完了していた。ほかほかと湯気を立てたカレーとパン、サラダが机に並んでいる。
「もう一品作ればよかったんですけど、寝坊しちゃって」
寝坊したことなかったのに、と口を尖らせて言う。見知らぬ人の家で眠るなんて通常無理だ。怖くなって怯えて、一睡もすることができないだろう。
寝坊するほど安心していた、ということなのだろうか。
ふたりでいただきますを言って手を合わせた。璃恋がカレーを一口食べて、おいしいと呟く。
その風景に、何かが溢れそうになるのを感じた。
「……初めてだなあ、誰かと朝ご飯なんて食べんの」
俺はずっと、ひとりだったからさ。みんなが知ってる"当たり前"も、俺にはないんだよ。朝ご飯を誰かと一緒に食べるとか、ただいまって言ったらおかえりなさいって返ってくるとか――そういうの、ないの。
いつの間にか凍っていて、周りに分厚い氷をつけていた心が、璃恋の手によって生み出された温もりに溶かされていく。
気を抜くと溶けた心の破片が溢れてしまいそうで、スプーンを握ってカレーを口に入れた。縮んでいた胃に急にものを入れたのと辛さとでむせる。
「拓海くん、大丈夫ですか」
璃恋が背中をさすってくれる。手のひらから伝わってくる璃恋の体温が心地よかった。
「拓海くん」
俺の名前を呼んでくれている。耳元で、俺に言い聞かせるように。何度も、何度も。
分かっているのに、どうもその声だけが遠い。俺だけ水の泡の中に閉じ込められたような感覚がする。
息が荒くなる。脳裏に昔の姿がちらつく。
璃恋は何度も、俺の名前を呼び続けている。
親も友達もすべて置き去りにして、死ぬ覚悟で。
――救ってやりたい。
そういった思いが浮かんでは消えていく。璃恋は気づいていないだろうが、俺は人殺しだ。身元がバレれば百パーセント逮捕される。
それに、璃恋はそんなことないと言うだろうけど、端から見ればこの状況は誘拐だ。女子高生を攫って、同居している殺人犯。
互いに助け合っているつもりでも、璃恋が未成年だとなると悪いのは俺になる。なんなんだよこの社会、と思う。ただ生きたいだけなのに、幸せになりたいだけなのに、それを邪魔してくる。理不尽だろ、こんなの。
どろどろと流れる真っ黒な感情に蓋をして、璃恋の髪を撫でて、俺は家をあとにした。
夜の空の色は濃い。黒色の絵の具で真っ黒に塗りつぶされたみたいに。
星でも浮かんでいれば少しばかり綺麗なのだけれど、今日は生憎星がひとつも輝いていない。
今日の"仕事"はとある男の始末。「形が分からなくなるまでやっていい」と言われたから好き勝手やらせてもらおう。
指定の場所に向かえば、男は俺を待ち構えていた。
俺は胡散臭い笑みを浮かべながら近づき、男が口を開く前に引き金を引く。急所は外して。
――あえて急所を外して、死にきれないでのたうち回るのを見る。それが楽しい。
逃げようとしたからナイフを突きつける。男は護身用に持っていたのか、小ぶりの銃を俺に向けた。
見たところ大した殺傷力はなさそう。そんなんで刃向かえると思ってんのかな。
銃を持っている手ごと捻り、その銃の先を男の顔の方に向ける。関節が外れたのか鈍い音が響き、男の絶叫が耳元で聞こえる。
「……うるさ」
雑音はその名の通り、いらないものだ。だったら、消さないと。
銃口が男の顔に向かったまま、引き金を引いた。顔に向かって弾丸が放たれ、おでこの辺りに入っていく。俺に縋りついていた腕をナイフで切り裂く。
男は気を失ったのか絶命したのか、後ろに倒れた。
――なんだ、もう終わりか。
正確に言えば終わりじゃないかも、だってまだあったかいし、脈あるし。でも、相手が逃げ回らなくなっちゃったら、俺からしたら終わりなんだよ。
ぐちゃぐちゃになるまで弄ぶつもりだったのに、すうっとやる気が失せていく。男の頭に銃を突きつけ、終わらせた。最近はどうも楽しくない。とか言って、昔も特に楽しくはなかったけれど。
スマホを出して殺しを依頼してきた奴に電話をかける。電話の向こうの主は興奮しているようで、あとで金は振り込んでおくと言い残して電話を切った。
地面に倒れ込んでいるそれを持ち上げて、四肢を縛って袋に入れる。返り血?そんなのもう気にならない。
俺はすべてを終えると、また夜空を見上げた。
空は相変わらず黒い。先程はなかった星がひとつだけ、瞬くように輝いていた。
音を立てないよう、ゆっくりと鍵を回す。そーっとドアを押し、部屋の中の様子を伺う。
璃恋は俺が家を出たときと同じ場所ですうすうと寝息を立てていた。あとで飲もうと思っていたのだろう、開けられていないエナジードリンクの缶が机の上にある。
白くてすべすべとした肌に触れようと思った瞬間、指先についた紅が目に入った。
途端に手を引っ込め、洗面所に駆け込む。必死になって手を洗い、排水溝に落ちていく赤みがかった液体を見つめる。
虚ろな目をしたままリビングに戻り、真っ白な璃恋の頬に触れた。壊れてしまいそうなものを手に取るように、丁寧に、優しく。ん、と少し色っぽい声が漏れた。
かわいい、と呟いた声は音にならずに消えていく。
暖かい感情を抱く度、同時になんとも言いがたい感情の波に襲われる。
――どうして璃恋を拾ってしまったんだろう。
――かわいい。愛おしい。
――どうして、どうして。
「……拓海くん」
璃恋の声で現実に引き戻された。瞳は相変わらず開かない。
寝言だと分かっているけれど、今名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
璃恋の細っこい腕を握る。
――ひとりじゃない。ひとりじゃない。
そう言い聞かせながら、眠りについた。
窓から差し込む光で目が覚めた。
握っていたはずの温もりは消えていて、寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回す。
璃恋はキッチンに立ち、鍋に入ったカレーをかき混ぜていた。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいました?」
「だいじょーぶ」
「もう朝ご飯にしますけど、いいですか?」
「いいよ。顔だけ洗ってきてもいい?」
「ごゆっくりどうぞ」
リビングを離れ、トイレに向かう。用を足したあとは洗面所に向かい、手と顔を洗った。
いつもなら顔を洗うだけで、手なんか洗わないのに――なぜか手を洗ってしまったのは、きっと昨日の夜のせい。自分が汚い、って自覚しちゃったから。
顔を水で洗って、視線を上げた。鏡に映った痩せ型の男と目が合う。水が髪の毛先について、雫となって落ちていく。
目が合った男は、どうにも頼りなさそうだった。
リビングに戻れば、もう朝ご飯の準備は完了していた。ほかほかと湯気を立てたカレーとパン、サラダが机に並んでいる。
「もう一品作ればよかったんですけど、寝坊しちゃって」
寝坊したことなかったのに、と口を尖らせて言う。見知らぬ人の家で眠るなんて通常無理だ。怖くなって怯えて、一睡もすることができないだろう。
寝坊するほど安心していた、ということなのだろうか。
ふたりでいただきますを言って手を合わせた。璃恋がカレーを一口食べて、おいしいと呟く。
その風景に、何かが溢れそうになるのを感じた。
「……初めてだなあ、誰かと朝ご飯なんて食べんの」
俺はずっと、ひとりだったからさ。みんなが知ってる"当たり前"も、俺にはないんだよ。朝ご飯を誰かと一緒に食べるとか、ただいまって言ったらおかえりなさいって返ってくるとか――そういうの、ないの。
いつの間にか凍っていて、周りに分厚い氷をつけていた心が、璃恋の手によって生み出された温もりに溶かされていく。
気を抜くと溶けた心の破片が溢れてしまいそうで、スプーンを握ってカレーを口に入れた。縮んでいた胃に急にものを入れたのと辛さとでむせる。
「拓海くん、大丈夫ですか」
璃恋が背中をさすってくれる。手のひらから伝わってくる璃恋の体温が心地よかった。
「拓海くん」
俺の名前を呼んでくれている。耳元で、俺に言い聞かせるように。何度も、何度も。
分かっているのに、どうもその声だけが遠い。俺だけ水の泡の中に閉じ込められたような感覚がする。
息が荒くなる。脳裏に昔の姿がちらつく。
璃恋は何度も、俺の名前を呼び続けている。