「……璃恋」
「拓海くん、まだ諦めないでください!あと数人ですから」
 あと数人、って言ったって、具体的にはあと何人?ここにいるのは数人だとしても、あとに何人控えているか分からない。
 それに――俺はもう、きっとだめだ。激しい痛みに意識がぼやけてくる。弾丸が当たった瞬間、悟った。俺はもうだめだろうと、もし仮にすべての敵を倒したとしても、その時俺は立ってはいられないだろう、と。
 手負いの俺と、銃の扱いに慣れていない璃恋。だとしたらどうなるかなんて、もう分かりきっている。
 意識がもうろうとする中、腰につけていたナイフを璃恋に差し出す。璃恋はそれを受け取らず、俺に突き返した。
「受け取らないですよ、拓海くんが死ぬまで持っててください」
「もう死ぬから渡してるんだよ」
 璃恋が叫びながら引き金を引いた。瞼が重い。息が苦しい。ちらりと撃たれた足に視線をやれば、履いていたジーンズは真っ赤に染まり、未だ血が噴き出している。
 何とか顔を動かし、璃恋を見つめる。大きい瞳には涙が溜まり、あとひとつ瞬きしたらこぼれてしまいそうだ。
「――拓海くん」
 声が震えて、瞳から雫がこぼれる。引き金を引いているときも、走っているときも璃恋はずっと首を横に振り続けている。俺と離れるのが嫌らしい。
 俺だって嫌だよ。こんな汚いところで死にたくない。
 もっと生きたい。璃恋とずっと一緒にいたい。手を繋いで、抱きしめ合って、キスをして。"当たり前"の幸せを、"普通"の日々を、積み重ねていきたかった。
 それだけの平坦なことが、どうにも叶わない。
 ぜんぶ、ぜんぶぜんぶ、奪われる。
「俺の人生、奪われてばっかだな……」
 涙が一粒こぼれた。口にして、よりそのことを自覚してしまった。
 俺の人生、奪われてばっかだったな。生まれたときにはもう幸せなんてなくて、ぜんぶ取り上げられてた。やっと手に入れた幸せも、手の中からするっと抜けていって、どっかに行ってしまうみたいだ。
 もがいてもがいて、憧れに手を伸ばして、でも掴めなくて、苦しい中で必死に生きてきた。
 明けない夜の中で蹲った日もあったし、真っ暗闇の中を突き進んだ日だってあった。その先に見えた景色に、絶望したことだって。
 ねぇ、せめてさ。最期くらいは、笑わせてよ。
「拓海くん、拓海くん!」
 璃恋の声で、ぼやけていた意識に光が灯った。俺は喘ぎながら、もうほぼ動かない足を動かす。
 璃恋が銃を構え、引き金を引こうとする。ただ、引き金を引いても弾丸は飛び出してこない。かちりと音が鳴るだけ。もう弾丸が切れたようだ。
「――くそ!」
 そう言い捨てた璃恋は、必死にポケットを探っている。弾丸がないか探しているようだ。
 俺は震える手で、持っていた銃とナイフを突きつけた。これが何を意味するか璃恋は悟ったみたいで、受け取ろうとしながらも首を何度も横に振る。
「嫌です嫌です、そんなの」
「いいから逃げて」
 いつか璃恋とふたりで見た、映画のワンシーンのようだと思った。
 俺は繋いでいた手をほどき、璃恋に銃とナイフを握らせた。璃恋はまた手を繋ごうとしているけれど、俺はもうその手を取る気はない。
――俺はもう無理だから、璃恋がこれを持って逃げて。
 目でそう伝えると、璃恋は俺に何かを呟き、ぼろぼろと涙をこぼしながら走って行った。
――愛してます、拓海くん。
 そう聞こえたのは、気のせいかな。いや、気のせいじゃない、ってことにさせて。最期くらい、自惚れたっていいじゃんね。
 璃恋という支えをなくした身体は力が抜けて、その場に倒れ込む。警察がすぐに俺に駆け寄ってきて、俺の身体を掴んだ。
 痛いんだよ、やめろよ。こちとら足に弾丸を食らって、まだ肉に埋まったままなんだ。最期くらい、優しくしてくれてもいいじゃないか。
 どんどん視界が白濁としていく。
 ああ、俺はここで終わるのか。
 奪われてばっかの人生、なんて言ったけど、最期としては悪くなかったような気がする。ひとりがふたりになって、俺は変わった。
 ひとりで見るには暗すぎて、蹲った夜も――ふたりで見た夜空には、星が瞬いていた。暗闇だって、璃恋と進んだなら、その先に広がるのはきっと美しい景色。ふたりで見るなら、何だって綺麗に見える。
 確かに辛くて、苦しい人生だった。もう投げ出したいと思ったそれを、璃恋が掴んで、そっとくるんでくれた。きっと助けてもらったのは自分の方だ、って璃恋は言うんだろうけど、俺だって璃恋と出会って、救われてたよ。
 ぜんぶくるんで、攫ってくれた。俺のぜんぶを、愛してくれた。
「――璃恋」
 身体が冷たくなっていくのを感じながら、俺は瞼を閉じた。
 瞼の裏側に、璃恋の姿が見えた。いつもと変わらない顔で、璃恋は笑っている。
 それを見て、俺も笑った。その俺の笑顔は、この上ないほどに明るかっただろう。
 夜空に、大きい星がひとつだけ、瞬いていた。


5

 苦しい。息が苦しい。それでも足を動かさなきゃいけない。
 きっともう、拓海くんの笑顔を見られることはないだろう。もう拓海くんとは会えない。名前を呼んでもらえることもない。大きい骨張った手を握りしめることもできない。抱きしめられることもない。もう、何も、ない。
 それが余計にわたしを苦しくさせる。こんな無我夢中で走っても、先には何もないのだ。だったら、もう――
 視界の先に、茶色くて錆び付いたアパートが目に入った。一緒に半年間、いやそれ以上過ごしたアパートだ。
 わたしは微笑んで、足に力を入れた。
 こんな薄汚い道で死んでたまるか。どうせ死ぬなら、自分の好きな場所で死にたい。
 後ろからわたしを追いかけてくる足音と、声が聞こえる。嫌だ嫌だ。あんなやつに殺されたくない。その思いがよりわたしの動きを早くさせる。
 少しずつアパートが近づいてきた。転びそうになりながらもアパートについて、ドアノブを勢いよく掴む。
 偶然か必然か、一番奥の四号室の鍵は開いていた。
 急いで中に入り、鍵を閉める。そこら辺にあった家具をドアの前に置いて、警察が入ってこないようにした。
 靴なんか気にせず、土足でリビングに入った。ここを出て行ったのは一週間程前だ。だけれど、あの時の温もりは何も消えていない。
 拓海くんはいないのに、拓海くんの何かがここに残っている気がする。
 右手に持っていた銃とナイフを見た。拓海くんがずっと使っていたものだ。どちらにも血の汚れがついてこびり付いたまま取れなくなっている。ナイフを床に置いて、わたしは銃をそっと抱きしめた。
 ドンドンドン、とドアを叩いてくる音がする。
 久しぶりのこの家に浸っていたというのに、台無しにされた。苛立ってガラス窓に向かって引き金を引いた。
 銃声と共にガラスが割れていく。暗い夜空を背景にガラスが美しく割れていく様を、わたしはスローモーションのように見ていた。
――拓海くんみたい。
 透き通ってしまいそうに綺麗で、強さと儚さと兼ね備えていて。でもどこか、垣間見える表情は脆くて、壊れてしまいそうで。寿命が尽きて死ぬ人間のように枯れて死んでいくのではなくて、こんな風に美しく割れて散っていった。
 拓海くんが割れて散っていったのだとしたら、その欠片を拾いたかった。そっと拾って、抱きしめていたかった。でも、それすら叶わない。
 名前の通り、拓海くんは海みたいだった。
 自分のことを顧みない優しさはどこまでも続く海のようで、真っ直ぐな芯の強さはうねる波のようだと思った。
 そんな拓海くんをわたしは愛して、そんな拓海くんに愛された。
 汚い水みたいに濁りきって、どれだけ頑張っても綺麗にはなれないわたしを、わたしのぜんぶを、拓海くんは愛してくれた。
――俺は汚いよ。
 何回も何回も拓海くんはそう言っていたけれど、わたしにとって拓海くんはこの世で何よりも綺麗なものだった。
 汚くなんかなかった。何よりも綺麗で美しかった。拓海くんがもたらしてくれる色なら、何に染まったって構わなかった。
 大好きだった。ずっと一緒にいたかった。
 だから、
――今行きますよ、拓海くん。
 銃の先を頭に当てて、わたしは引き金を引いた。