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璃恋の手を握って、ただひたすらに足を動かす。
いつか家まで来るようなことが起きるだろうとは思っていたけれど、こんなに早いなんて想定外だった。
警察に少しだけ恐怖心を抱きながら、唾をごくりと飲んだ。
どこに行こう。璃恋は俺についてきてくれているから、俺が動かなきゃどうにもならない。
家まで来ている割に、近くに警察の姿は見当たらない。何人もの警察を手配するほど、徹底的に潰そうとしているわけではないのだろうか。そんなわけはないか。家まで来るくらいだ。
それにあの家は俺の名前で買ってるわけじゃない。名前も性別も年齢も、経歴だってすべてが違う。それなのに警察はどうしてあの家が分かったのだろうか。
車のナンバーか。十年ほど前に買った車は俺の名前で買った。車屋を当たってナンバーを探したのだろうか。そんなことはないだろうと思いつつも、逆にそれ以外に俺を見つけられる要素がない。警察の操作力に驚いた。
十数年こうして生きてきたのに全く罪に問われる様子がないから、てっきり大丈夫なものかと思っていたのに。それは違ったのか。力を秘めていた、とでも言うべきか。
どこに行こうか迷った末に大きな公園に行くことにした。璃恋と雪遊びをした公園だ。
あそこの高台に登れば辺りを見渡せる。それに規制されている公園の奥には、深い森が広がっている。ふたりくらいなら軽々身を隠せるだろう。そこで"仕事"をしたこともあるから、もう地形は分かりきっている。
周りを警戒しながら公園に向かって、辿り着いた頃にはふたりとも疲労困憊だった。まずは森の中よりも高台にいることにした。まだ追っ手の姿は見えていないし、いざとなっても殺せば何とかなる。
小さいベンチに腰掛けて、一度休憩を取る。璃恋がかなり疲れていそうだったから寝かせることにした。「拓海くんこそ休んでください」と言っていたけど、俺は護るものがあるなら強くなれる。
ベンチに座ったまま眠ってしまった璃恋の頬にキスを落として、俺は辺りを見回す。勿論、璃恋に手が届く距離のままで、左手には銃を握っている。
――飛んでいけそう。
頭を振ってその考えを消し去った。飛んでいけそう、と思っても実際には飛ばなかったけれど、璃恋と出会っていないときの俺ならその考えに身を任せて飛んでいたように思う。
美しい青空が見えるわけでもない。かと言って沢山の星が輝くような夜空でもない。ありふれた街並み。どうして俺はそんなものを見て、飛んでいけそうだと思ったのだろう。
きっと、ありふれたような、特別感がないようなもの――むしろ少し寂れたようなものが俺にとっては丁度よくて、それに少しの不安も交わることで、ワクワクを生んだのだと思う。だから、飛んでいけそうだと思った。
眠っている璃恋の手が、俺の手をぎゅっと掴む。
さっき家で腕を掴まれたとき、思ったことがひとつあった。きっと俺たちは、お互いに縋りながら生きているのだろうと。
お互いもう死ぬ寸前、ぎりぎりの縁まできていて、ただこの世に引き留める存在としてお互いがある。
俺だって璃恋がいなきゃ死んでいた。璃恋は俺がいなくても生きていられたような気がするけど。
お互いをぎりぎりの段階で留めて保っている、腕に繋がったロープのような存在なのだろう、と。ただ、やがてそのロープだって朽ちるときが来る。切れないロープなんてないし、劣化しないロープなんてもっとない。
だとしたら、俺という名のロープはもうすぐ切れるのだろうか。
またこうやって暗いことを考える。璃恋に堂々としろと言われたのに。
俺は璃恋の手を握ると、銃を持つ手に力を込めた。
「拓海くん……?」
璃恋がゆっくりと身体を動かす。
数時間寝ただけだけれどだいぶ疲れは取れたみたいで、先程までは重そうに身体を動かしていたけれど今は楽そうだ。
「だいぶ疲れ取れましたよ。拓海くんも寝てください」
「分かった。何かあったらすぐ起こしてよ」
「了解です」
璃恋に銃を渡して、ベンチに座る。自覚していないだけで身体は疲れていたみたいで、すぐに眠気が襲ってきた。
その眠気にふっと溶け込むように、俺は目を閉じた。
かなり悪い夢を見て目を覚ました。言葉では表現しきれないほどに惨くて、苦しい夢。ただひとつだけ簡単に言うとするならば――璃恋を失う夢だった、ということ。
こういう状況で見る夢としては正解になりそうな夢だった。普通の人ならこの夢を見て怖がるのかもしれないけど、俺は逆に力が湧いてきた。
あんな風にはさせないと、俺が護ると。
お互い十分とは言えないけど睡眠を取ったから、もうすぐに移動できる。とはいえ迂闊に移動して捕まるのも嫌なので、追っ手がひとりでも近づいてきたら移動することにした。
「拓海くん、見てください、あれ。前住んでたアパートです」
「ほんとだ。うわ、こうして見るとめっちゃボロいね。錆びてるし」
アパートを見つけたり、スーパーを探したり。改めて見ると前住んでたアパート古いなぁなんて思ったりして。足元に雪があれば雪合戦でもしたんだけど、生憎雪はなかった。
ふたりで楽しく喋っていると下に警察官の姿が見えた。
次第に会話が減り、顔を見合わせると同時にこくんと頷く。俺は王子さながら璃恋に手を差し出し、それを璃恋が艶やかな笑みを浮かべながら握った。場所が場所ならかなりドラマチックになっていただろう。
"立入禁止"と書かれている看板をどけて、深い森の中に入っていく。璃恋が怖くなったのか握った手に力を込めてきた。大丈夫、とでも言うように力を込める。
低い音で唸りながら虫が飛んでいく音が聞こえる。この状況でなければ叫び散らかしていただろうけど、賭けているものが命の中でそんな余裕はない。
久しぶりに来たけれど、相変わらず辺鄙な場所だと思う。道はほぼなく、木が生い茂り、伸びた木のお陰で常に視界は薄暗い。少しずつ夜が明けてきているけれど、暗さは全く拭えない。
こっそりと忍び足で歩けば見覚えのある道に出た。俺の脳内地図はちゃんと機能し、向かっていた路地裏に来られたようだ。
路地裏に入ってしまえば俺の価値も同然だ。ここはもう俺の領域であり、誰にも踏み入れさせない。もし入ってきた人間がいるなら――始末するだけ。
璃恋も勝ち誇ったような笑みを浮かべている。どれだけ俺たちはここにいたと思ってるんだ。何日も何日もここにいたわけじゃないけれど、毎日数十分の蓄積はかなりのものになる。
警察はきっと極悪非道な手を使ってくるだろう。逃げてるものがそんなことを言うかと思われそうだが、銃とナイフしか持っていないふたりの人間に数人の追っ手を送り込んでいる。よっぽど暇なのだろうか。
耳を澄ます。足音も呼吸の音も何も聞こえてこない。
今俺たちは路地裏の角にいる。挟み撃ちされてしまえば終わりだけれど、一気に二人以上が襲ってくるんだとしたら、足音や呼吸音は絶対に消せない。
璃恋も耳を澄ましている。何も聞こえないこの静寂が逆に気持ち悪さを生む。人々の喧騒とか生活音とか少しは聞こえてもいいはずなのに、まるで俺たちだけがこの世界にいるような感覚がする。
やがてずり、と動く足音が聞こえた。璃恋には動かないよう合図をし、俺は息を入れると素早く動いた。
角から飛び出し、現れた警察官の頭に銃の焦点を合わせて引き金を引く。ヘルメットでもしているかと思って連続で何発も撃ったけど、弾丸はすぐに何も被っていない頭に入り込んでいった。