「……拓海くん?」
「今キスしたよね」
「起きてたんですか」
 胸元に入り込んでこようとする手をどけて拓海くんの方に向き直った。唇を突き出して不貞腐れたような表情をしている。
「いじわる」
「何がですか、ほら朝ご飯食べに行きましょ」
 本当は何がいじわるなのか分かっているけれど、分からないふりをしておいた。
 繋いだままになっていた手を振りほどいてリビングに降りる。拓海くんがゆっくり後ろを歩いてきてソファに座った。
 目覚めてしまえば拓海くんは元気だけど、目覚めるまでが長いので起こすためにコーヒーを淹れた。砂糖もミルクも入れないブラックコーヒー。わたしには苦すぎる味。
 今日の朝ご飯も昨日と同じパンだ。このあと買い出しに行く予定だから、今日の昼と夜は拓海くんの好きなものにでもしよう。
 わたしはカフェオレを作ってテーブルに置いた。ふたり並んでパンを食べる。昨日の夜も食べた味だし、もう何回も食べているけどなぜか飽きない。誰と食べるかが大事、ってこういうことなんだろうか。
 朝ご飯を食べたあとは歯磨きをして、それぞれ分担している家事をする。このアパートならわたしひとりでできるけれど、拓海くんがやりたいと言ったのでお言葉に甘えることにした。
 家事を素早く終わらせ、支度をしてショルダーバッグを肩にかける。
「買い物?行ってらっしゃい」
「行ってきます。何か食べたいものありますか」
 特にない、と答えられたから適当に買ってきますと言って家を出た。前のアパートと近いからか、なんだかあの頃に戻ったような気がする。
 勿論同じところには戻れない。だけれど少しだけ似ているような場所にやってきたような、そんな感覚。
 スーパーに行って食材を買う。そうだ、久しぶりにカレーにしよう。初めて拓海くんに手料理を振る舞ったとき、作ったのがカレーだった。
 それからというもの、カレーを出すと拓海くんは毎回喜んでくれた。食べ過ぎてお腹を壊したこともあるくらい。
 人参、じゃがいも、玉ねぎ、豚肉。毎回変わらないレシピで申し訳ないけど、拓海くんにはそれがいいみたいだ。
 他にも昼ご飯に食べるお弁当をいくつか選ぶ。お腹が空いていると全部が美味しそうに見えるから困る。
 買い物を終えて家に戻る。途中で誰かの視線がわたしを捉えた気がしたけど、知らないふりをした。
 ただいま、と声をかければ奥から元気なおかえりが帰ってくる。拓海くんはひとりでゲームをしていたみたいだ。
 夜に食べるものは冷蔵庫にしまって、お弁当をテーブルに出す。ふたりで分けっこしてお弁当を食べた。わたしが食べたかったお弁当を半分以上拓海くんに食べられてむっとしたけど、美味しいと笑う笑顔を見てしまったらどうでもよくなってしまった。
 お弁当をぜんぶ食べて、後始末をしてからソファに座った。今日は久しぶりにゲームをしようかと言っていたのだ。
 カーレースゲームにパズルゲーム、アクションゲームやホラーゲーム。いくつものゲームを熱中してやっていたら、いつしか火が落ちていた。
「そろそろ終わりにしましょ。ご飯作らなきゃ」
「えー、俺もっとやってたいんだけど」
「じゃあ拓海くんひとりでやっててください」
 わたしは握っていたコントローラーをテーブルに置いて料理の準備を始めた。拓海くんはひとりでゲームを続けているけど、表情はつまらなそうだ。
 カレーの下準備を始めていると、コントローラーをしまった拓海くんがキッチンの方にやって来る。もうゲームは飽きたみたいだ。
「やっぱやだ。璃恋とやるから楽しいんだよ」
 そう言って拓海くんも一緒にご飯を作り始めた。
 この前の一軒家よりは狭いキッチンだけれど、ふたりが並べないほどではない。ふたりでせっせと手を動かしてカレーを作った。
 出来上がったカレーをお皿に盛って拓海くんに渡す。拓海くんがテーブルに持っていってくれた。ふたりで座って、手を合わせる。
 楽しく話しながら持った分を食べきって、拓海くんはおかわりまでした。
残りの分はそのまま置いておく。カレーは一日経ってから本気を出すと言うし、また明日温めて食べれば美味しいから。
 空になったお皿を見ながら、ふと、嫌な考えが頭をよぎった。
 このカレーを、また明日ちゃんと食べられるのだろうか。
 ふたりでこうして並んで、手を合わせることはできるだろうか。
 ネガティブなことは考えないと、もう弱気にならないと決めたはずなのに、不安になってしまった。今日の昼に、謎の視線がわたしを貫いたからだろうか。
「……拓海くん、明日も一緒にいられますよね」
「そりゃそうでしょ。そんな明日急に死なないよ」
 どうしてだろう。そう言って笑う拓海くんが、消えてしまいそうに儚く見えた。
 消えないで。
 死なないで。
 わたしの隣から離れないでいて。ずっと一緒にいて。
 そう思って拓海くんの腕を掴んだ。拓海くんは少し驚いていたけれど、なにか言いたげなわたしの顔を見ると手を繋いでくれた。
 そのまま引き寄せられて、拓海くんに抱きしめられる。
 ああ、どうしてだろう。こんなにも息づかいを感じるのに、鳴っている鼓動を確かに感じるのに、目の前の拓海くんは、消えてしまいそうで。いつもとは、纏っている雰囲気が違う。どうして。
――いなくならないで。
 お願いします、神様。
 家族も友達も、将来も、もうどうだっていいです。
 だから、この人だけは奪わないでください。
 顔が近づいていって、唇が重なる。このふたりで吸った空気を、ずっと胸の中に閉じ込めておきたい。そうでもしておかないと、拓海くんをわたしの中に残しておけない気がした。
 何度も何度も唇が重なって、わたしはソファに押し倒される。拓海くんの手がわたしの着ているトレーナーの中に入り込んだ瞬間、インターホンが鳴った。甘い雰囲気を華麗にぶち壊していく。
「……わたし、出てきますね」
 少し荒い息のままそう言って立ち上がった。
 モニターに映し出された人物を見て息が止まりそうになる。わたしは応答せず、拓海くんの方に走った。
「――拓海くん、警察です、どうしたら」
 拓海くんは目を大きく見開いたまま、何も言わない。やがて立ち上がり、突っ立っていたわたしを押しのけるとボストンバッグの底にしまわれていた銃やナイフを取り出した。
「逃げよう、璃恋」
 力強いその言葉に、こくんと頷いた。
 玄関は警察に塞がれてしまっているので、靴を取って窓から逃げることにした。重いものと聞いて思いつくようなものを、玄関のドアの前に置いていく。これで防げるかは分からないけれど、簡易的なバリケードだ。
 片手に銃を持ち、もう片方の手は拓海くんと繋いだ。
 気づかれないように静かに窓を開け、誰もいないことを確認するとわたしたちは闇に駆け出した。
 ああ、わたしの嫌な予感は当たってしまった。
 一回家を出てしまった以上、もうあそこには戻れない。明日もカレーを食べられるかと思っていたのに、そんな些細なことは叶わなかった。
 拓海くんに手を引かれて、どこに向かっているのか分からないまま走る。
 息は不思議と苦しくない。
 すべての呼吸が夜の空に吸い込まれてしまいそうだった。
――どうか、わたしたちを見逃して。
 いるのか分からない神様に、何度目かになる願いを放った。
 今日の空には、どんな星が瞬いているのだろうか。それを眺めるときはどうか来ないで欲しい。もう力が尽きて、倒れて空を見つめているわけだから。
 あれほど好きだった夜空を、こんなにも見たくないと思ったのは初めてだった。