理不尽だよ、こんな世界。
 そんな人と出会わせておいて、未来には死ぬしかないだなんて。わたしたちが幸せになれる道はなくて、いやあるのかもしれないけど、そこに行くためには必須条件として死がある。
――ふたりで生きて、幸せになれる道はないの?
 視界が曇ってきて、出っ張った石に躓いた。見知らぬ人が助けようと近づいてくるけれど、わたしの顔を見ては離れていく。
 きっと泣いて、泣いて、メイクがぼろぼろになっていたからだろう。
 その場に蹲って地面を見つめたまま、泣いた。溢れるものを抑えられずに、嗚咽を漏らしながら泣いた。
 泣いたって世界はどうにもならないのに、それよりもしなくてはいけないことがあるのに、わたしはそんなことなんか考えずに、泣いた。
 お願いします、神様。どうかどうか、このままでいさせてください。もう手を汚さないから、銃だってナイフだって握らないから、ふたりでいさせてください。だから、どうか。
 泣きながら祈った。ただ残念なことに、泣いたから神様がどうにかしてくれるというわけではない。そんな世界だったら、わたしは涙という涙が枯れるまで泣いただろう。
 あまり泣かない拓海くんだって、それくらい泣くはずだ。いやでも拓海くんは泣かないのかな。「璃恋の前では泣きたくない」みたいなことを言っていたし。
 ぐっと目と鼻を真横一直線に拭った。
 マスカラとアイラインの黒と、柔らかい色のアイシャドウのラメが服の袖につく。これ拓海くんが買ってくれた服だ。汚しちゃったな。
 立ち上がって足についた砂利を払った。擦りむいた膝の傷に小さい石が入り込んでいて痛い。真っ赤な血が膝から垂れている。
 転んだ拍子に肘もぶつけたのか、肘からもたらりと血が出ていた。
 何も気にせず、再び走り出す。
 巻いていた髪の巻きも取れて、ただ邪魔でしかない。肩にかけていた鞄が揺れるのが鬱陶しくて、手でがしっと掴んだ。
 一週間過ごした一軒家を視界に捉えた瞬間、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
 急に身体が冷えて、どっと汗が噴き出すような感覚がする。どうしよう。もし家に向かっていたら?もう拓海くんが連れて行かれてしまっていたら?
 そう思うとより足の動きが速くなった。
 足はあんまり速くないし、体力だってない。長く走ると脇腹の辺りが痛くなるのに、今は全くそれに気づかない。火事場の馬鹿力、ってやつだ。
 なんとか家の前まで来た。恐る恐る後ろを振り返れば、パトカーは違う方向を進んでいた。
 ひとまず安心し、鞄から鍵を取り出す。この前はすぐに出てこなかったのに、今日はどこにあるかすぐに分かった。
 鍵を差して捻る。いつもなら出る「ただいま」の一言が出ない。呼吸が苦しい。来ていなかった疲労がどんと来たようだ。
「おかえり――って、どうしたの」
 玄関に入るなり倒れ込み、肘と膝から血を流して、肩で息をするわたしに拓海くんが駆け寄ってくる。
 上手く息ができなくて、言葉が出なくて、身振り手振りで言いたいことを伝えようとするけれど、上手くいかない。
「ゆっくり息して。ほら、すー、はー」
 わたしの心配なんかしないで欲しい。何とか息を整えて、口を開こうとすると今度は咳が止まらなくなる。
 使い物にならない自分の身体に腹が立つ。大事なときくらいしっかり動いてよ。瞳の縁に涙がにじんだとき、拓海くんが立ち上がった。
「大丈夫?えっと、まず消毒?」
 そのままリビングに戻ろうとする拓海くんの腕を掴んだ。上手く力加減ができなくて、拓海くんは痛そうに顔を歪ませる。
「拓海くん、はやく――逃げないと、来てる、警察」
 点と点のように言葉を並べた。拓海くんはそれを繋いで意味を受け取ったのか、みるみる顔が青ざめてく。
「嘘、なんで」
「警察が、この辺りで目撃情報が出たって。結構捜索してるみたいなので、早く逃げないと」
 わたしの息も整ってきて、ようやく立ち上がり、リビングに入った。
 拓海くんはもうスーツケースとボストンバッグを出して荷物をまとめ始めている。
「目撃情報ってどういうこと?俺外出たの最初の日だけでしょ」
 二階にある救急箱を取りに行こうと思って階段を上っていると下から聞かれた。救急箱とある程度の荷物を持って下に降りる。
「分かんないんですわたしも。その日に見られてたんですかね?夜だし顔隠してたから大丈夫だと思ってたのに」
 ガーゼに消毒液を浸しながら言う。準備をした方がいいのは分かっているけれど、このままだと傷が悪化する。走って逃げなきゃいけないような場面で足が痛いとなると拓海くんのお荷物になってしまう。それは嫌だ。
 手早く消毒を済ませ、膝と肘に絆創膏を貼った。ズキズキと痛んでいたけれど、少しだけマシになった。
「璃恋、二階行って服取ってきてくれる?俺下のやつやるから」
「了解です」
 救急箱をリビングのテーブルに置いて、二階へと続く階段を駆け上がった。寝室に入り、クローゼットにかけられた服を片っ端から取る。
 他にもいるものはないかと辺りを見回す。部屋の隅に追いやるようにして置かれた、スクールバッグと制服が目に入った。
 少し悩んで、それには手を伸ばさなかった。
 もう必要ないと思った。
 リビングに戻り、支度を終わらせる。最後に忘れ物がないか、ふたりで確認をした。
 スクールバッグと制服に気づいた拓海くんがわたしを見る。
「いいの?あれ」
「はい。もういいんです」
 そう言いながら、妙に清々しい気分がした。
 電気を消して、荷物を持って家を出る。車に乗って、すぐにシートベルトをした。それを確認した拓海くんが、すぐに車を走らせる。
 一週間。たった一週間しか、ここにはいられなかった。次の家に行っても同じなのだろうか。
「……本格的に逃亡って感じだね」
「ですね。次の家はどこですか?」
「迷ってる。どっちがいい?タワマンかアパート」
「タワマンの方がバレそうじゃないですか?」
「じゃあアパートね」
 これ、と差し出されたメモに書かれた住所をパネルに打ち込む。無機質な音声がナビを開始した。
「これ、最初のアパートの近くなんですね」
「あー、そうそう。わりと近いんだよ」
 もしまた追っ手が迫ってきたら――また危なくなったら、今度は最初のアパートに移ろう。そう決めた。
 どちらからともなく喋らなくなり、静寂が訪れると急に不安が襲ってくる。
 大丈夫だと思っていたのに追っ手はすぐそこまで迫っているみたいだ。
 分かっている。逃げる意味なんてない。逃げた先には死ぬしかない。もし仮に生きられたとしても、その時わたしの隣に拓海くんはいない。
 だってきっと、ふたりで一緒に生きられる未来はない。
――もし捕まったら、拓海くんはどうなるんですか。
 あのアパートで逃げることを決めたあの日、ぽつりとこぼした。
――そうだなぁ、死刑じゃない?
 言わないで、と願った言葉を、拓海くんは当たり前のように言った。指名手配されるくらいだ、きっとそうなる。分かっていたけれど、心のどこかで違うんじゃないかと思う自分がいた。
――そんなの、わたしはどうしたら。
――大丈夫、なるようになるよ。
 そう言って頭を撫でてくれる。拓海くんから頭を撫でられるのは大好きで、いつも安心できたはずなのに、どうにも落ち着けない。
 だって、拓海くんがいない世界で、わたしは生きていけない。いなくてはいけない人、なんていないけれど、わたしにとって拓海くんは、いなくてはいけない人なのだ。