第3節 ふたり
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あのアパートを出て一週間。最初はどうなるかと思ったけど、意外と上手くやれている。
来る途中で警察にバレたりしないかと密かに怯えていたのだけれど、何にも引っかかることなくすんなりと家まで着いてしまった。
それがあまりにもすんなりと行くもんだから、わたしは少し怖くなったけれど。何もないこと、平穏であることが不安だなんて馬鹿みたい。
最初はこの家も埃まみれの廃墟みたいな家だったけれど、掃除をして生活をしていれば、だんだんと綺麗になっていった。そうだ、この家に来てから拓海くんも家事を手伝ってくれるようになった。
想定していたよりも広い家だったから、すべての家事をひとりでするのかと思うと気が引けたけど、拓海くんが手伝ってくれたお陰でわたしの負担はかなり減った。
料理も一緒にするようになった。
ことあるごとに分からないを連発していたけれど、案外吸収が早いもので、今日の朝はフレンチトーストを焼いてくれた。
それだけのことかと思うかもしれないけど、何もしなかった頃と比べるとかなりの進歩だと思う。
鞄を持つ手が汗ばんできた。地球温暖化の影響なのか、二月の始めだというのに暑い。厚手のコートを着てきたのがいけなかったのだろうか。
買い物にはわたしが行く。
拓海くんには出歩いて欲しくないし、何より献立のメニューを考えるのがわたしだから。いつかの時みたいにふたりでスーパーを回って買い物をできたら楽しいんだろうけど、そんなハイリスクなことは今はできない。
必要なもののメモはしてきたけれど、夕飯のメニューは全く決まっていない。拓海くんに食べたいものを聞いてもないって言うし、わたしだって特に食べたいものはない。
取りあえず簡単に作れそうなメニューにでもしようか。そう思っているとスーパーに着いた。
自動ドアをくぐり、かごを手に取る。わたしも長居をしていられるほどの余裕はないので、必要な場所しか回らない。
前まではいるものがなくても全体を見て回っていたけど、今のわたしたちには本当に余裕がない。一分一秒、その気の緩みが命運を左右すると思う。
今まで仕事をしているときも死と隣り合わせではあったけど、今の方がよっぽど死と隣り合わせな気がする。
でもそうやって生と死の狭間に立たされたわたしたちの絆は、何をしても切れないほどに強くなっている気がする。ふたりの血が絡み合い、固まり、強固な絆となっている。
買い物を終え、逃げるようにスーパーを出る。逃げるようにと言っても、怪しまれない程度だけど。
いつもなら真っ直ぐ家に帰れるのに、この日だけは違った。
――声を、かけられてしまったから。
「――あの」
スーパーから出た瞬間、男の人の声がわたしを呼ぶ。突然のことに驚いて、身体をびくっと震わせてしまった。
無視して歩いてもいいのだけれど、そうすると追われたりとしつこいからやめた。声がした方を振り返ると、警察官がわたしのことを見ている。
汗がばっと噴き出る。手にかけたレジ袋が滑り落ちそうだ。
いけない。動揺したら認めているのと同じじゃないか。平常心、平常心。
わたしは何事もないように微笑むと、レジ袋をきゅっと握った。
「何ですか?」
「いや、この男を見ませんでしたかね。この辺りで目撃情報が出ているんです」
警察官が取り出したのは拓海くんの写真だった。
分からないような表情を作る顔とは裏腹に、どくどくとうるさいほどに心臓が音を立てる。
「すみません、分からないです」
「そうですか、こちらこそすみません」
「いえいえ、お役に立てず申し訳ないです」
去れ。早く去れ。わたしの目の前から、早くいなくなって。レジ袋を握った手に、どんどん力がこもっていく。
そんな願いは届かず、若干もたつきながら警察官は持っていたチラシをわたしに差し出す。
「これ、もし見かけたら連絡ください。大量殺人を犯して指名手配されていて」
どうも、なんてよそ行きの笑顔を浮かべながらそのチラシを受け取った。手で持ったそれを、今すぐ破ってやろうかと思った。
「それでは失礼します。ご協力ありがとうございました」
軽く会釈をして警察官が去って行く。自分でも気づかないうちに手のひらをきつく握りしめていた。それはもう血管が浮き出るほどに。
まずい。非常にまずい。
この近くで目撃された?拓海くんはここに来てから一歩も外に出ていないはず――いや、ここに来た初日。夜にふたりで家を出て、街を見て回った。だとしても数分だ。バレないように顔を隠していたし、何より夜だ。
でも、その時間にバレたとしか考えられない。誰もいないと思っていたけれど、実は誰かに見られていたのだとしたら?
わたしは走り出した。ここから逃げなきゃ。早く逃げなくては。
連絡でもした方がいいかと思って鞄から携帯を出す。でも文字だけじゃきっと伝わらない。伝えられない。髪をぐしゃぐしゃと掻きながら走った。
どうして、どうして。
「なんでこんな、上手くいかないんだよ!」
ぶんぶんと揺れるレジ袋にも、綺麗に整えてきた髪にも構わず、そう叫びながら走った。街ゆく人たちに不思議そうな目で見られる。ひそひそとわたしを揶揄するような声も聞こえる。
ああ、誰かに迷惑をかけてしまった。変な人だと思われてしまった。
わたしは今まで誰かを傷つけないように生きてきて、それと同時に誰かに傷つけられることのないように生きてきた。
誰にも迷惑をかけたくない。変な人だと思われたくない。
――傷つきたくない。
そういった思いから自分を作って見栄を張って、本心を隠して生きてきた。嫌われたくないから、傷つきたくないから、必死に行動をして。誰かが笑ってくれたら同じような行動を繰り返して、自分からは踏み込まないで。
それが一番、楽だと思っていたから。
でも、拓海くんといるときだけは、違った。
拓海くんの隣にいると、安心して息ができる。苦しくない。見栄なんか張らなくていいし、必死にならなくていい。安心できる。
――幸せなんだ。
拓海くんといるときが、わたしにとっての何よりの幸せなのだ。
でも、でも。
その幸せはもうすぐ、潰えてしまうのだろうか。
――人生なんて意味がない。
わたしはずっと、そう思って生きていた。人はいずれ死ぬ。不老不死の人間なんていない。数十年を――生涯をかけてなにかをなし得たとしても、数百年すればそれも忘れられる。
それなのにどうして生きるのだろうと、考えたこともあった。世界は理不尽なことばっかりで、何をしたって報われないこともあって、苦しいだけなのに。それなのに、生きる意味はあるのだろうかと。
わたしも元々、もう死んでいる予定だった。
家を出て、その先の未来なんて決まっている。親に連れ戻されるか自分で死ぬか、の二択だ。幸せなんてない。
運良く誰かに拾われたとして、どこかで生活に飽きる日が来る。そう思ったらひとりでに抜け出して、どっかで死んでやろうと思っていた。
――なのに、なのに。
どうしてそういう時に限って、神様は一緒に生きたくなるような人と出会わせたりするんだろう。
死ぬまで一緒にいたいと思える人と、出会わせたりするんだろう。
生きる意味をとっくに見失っていたわたしに、生きたいと思わせたりするんだろう。