3
この一軒家で過ごして一週間が経った。
いつでもこの家を出られるように、すべての荷物は出していない。とは言ってもスーツケースひとつとボストンバッグふたつほどの荷物だから、ほとんど出さないと生活できないのだけれど。
来た日の夜に近くを歩いて、何があるのか見て回った。
コンビニがひとつ、小さなスーパーがひとつ。あとはファストフードのチェーン店がいくつか。
スーパーもコンビニもこの前の家と同じ店で、なんだか勝手に嬉しくなってしまった。
今日は珍しく璃恋が遅起きだ。
時刻は十一時を回っているけれど、一向に降りてくる気配がない。最初は隣で起きるのを待とうかと思ったけど、目が覚めてしまったからリビングに降りた。
コーヒーを淹れて、息を吹きかけて冷ましながら窓の方に歩いて行く。
前の家のいいところは大きな窓があるところだった。ボロくて古くさいアパートだったけど、リビングに入った瞬間そこに目が行く。
その大きな窓から見える景色が好きで、季節によって移り変わる景色を、ふたりで窓に引っ付いて眺めた。
何の景色が好きだったっけな。雪の日とか晴れの日とか雨の日とか――いくつも浮かぶんだけれど、やっぱり一番に浮かんでくるのは璃恋の横顔だ。目を輝かせて、楽しそうに笑っている横顔。そんなん景色じゃないじゃんって思われるかもしれないけど、俺はその横顔を見るのが何よりも好きだった。
ここにも大きな窓はある。でも家の少し先には大きなビルが建っていて、そのビルが影を作っている。お陰で何にも見えない。
前の家の近くにも高い建物はあったけれど、上手く交差して窓から見える景色は開けていたのだ。
雪が降ったとか、遠くで雷が落ちたとか、どんな小さいことでも見えたあの窓。
今は、その景観は失われてしまっている。
「……拓海くん」
璃恋が寝ぼけ眼を擦りながら降りてきた。寒いからと最近買ったもこもこのパジャマがよく似合っている。可愛い。
「ごめん、起こしちゃった?そうだ、ココアでも入れようか」
ココアというワードに反応して瞼が少し上がった。寝起きで声が出ないのか口をぱくぱくしている。
「……朝ご飯、食べましたか」
「ん?まだ。だから一緒に食べよ」
この家に来てから俺も料理をするようになった。
本当に一から十まで料理が分からないから、璃恋に教えてもらいながら少しずつ、だけれど。
理由としては興味があったことと、アパートから一軒家になってキッチンが広くなったことが挙げられる。料理をしている璃恋の手元を覗き見するのが好きで、いつしか俺もやってみたいなという憧れを抱くようになっていた。
パジャマの袖をまくって、キッチンに立つ。いつここに立っても広いキッチンだよなぁと思う。前のアパートではふたり並ぶのに精一杯だったけど、ここはふたり並んでもまだスペースがある。
昨日の夜のうちに璃恋が用意しておいてくれたフレンチトーストを冷蔵庫から取り出す。前日のうちに用意しておけば翌日焼くだけだから簡単だ。
璃恋はまだ眠いのか、リビングの椅子に座ってうとうとしている。今にも船をこぎ出しそうだ。
そんな璃恋を横目に見ながら俺はフライパンを出した。
バターを入れて、中火で溶かす。卵液を吸ってほんのり黄色に染まっている食パンをのせた。
璃恋に教えてもらったけど、フレンチトーストは弱火でじっくり焼くことがコツらしい。
ぜんぶの面に焼き色がつくまで焼いたら皿に移す。すぐ食べると熱いから、その間にココアの準備をしておこう。
棚からコップ、ココア、マシュマロを取り出す。お湯はコーヒーを作るときに沸かしていたからそれを使おう。
コップにココアの粉を入れて、お湯を注ぐ。かき混ぜて粉を溶かしてからマシュマロを浮かべた。
熱いのか、マシュマロがひとつしゅわしゅわと溶けていく。
いつからか俺の様子を見ていた璃恋がおぉと声を漏らした。思わず顔を上げれば、にんまりと幸せそうに笑う。寝起きだとふわふわした雰囲気を身に纏っていて、それが可愛くて仕方がない。腹いせにマシュマロをもうひとつ乗せてやった。
はい、とココアの入ったコップを渡すと、上機嫌で椅子に座った。俺はフレンチトーストの乗ったお皿とカトラリーを両手に持つ。
机に置くと目を輝かせる璃恋。冷めないうちに食べな、と言うと手を合わせて早速食べ出した。
璃恋がフレンチトーストを切って口に入れる。反応が見られるまでの瞬間、俺はいつもドキドキしている。
口に入れた瞬間、ぱぁっと表情が明るくなった。よかった、口に合ったみたいだ。
「美味しい?」
そう尋ねれば、口を動かしながら首を縦に振った。
俺もフレンチトーストを一口食べる。もう少し甘くてもよかった気がするな。まぁ、俺は焼いただけなんだけど。
ふたりでフレンチトーストをたいらげ、俺が皿を洗う。璃恋は洗面所で歯ブラシをくわえている。
家事は前と違って分担制にした。アパートの時はほとんど璃恋がやってくれていたけど、家が広くなった分、璃恋の負担を少しでも減らしてあげたいと思った。
そんなの気にしなくていいですよ、と言われたけれど、やれることはやれるだけやっておきたい。
もう最期が近づいているのだ。
今日は何も予定はない。というか、昨日も今日も明日も、明明後日も予定はない。いつ見つかるか、なんて決まっていないのだから。
ここに来てから一歩も外に出ていない。そろそろ日光を浴びなきゃまずいなと思いつつも、外に出ればバレる危険性が高い。そこら中に顔写真がばら撒かれ、晒されている。俺は今追われている身だ。迂闊に行動をしてはいけない。
俺は近くのコンビニに行くことですら怖気づいてしまって、買い物はすべて璃恋が行ってくれている。
なんだか情けない。今までずっと俺が支えてきた璃恋に、俺が支えられている。情けないけれど、璃恋は拓海くんのためですと言ってくれた。
本当に強いよなぁ、璃恋。俺がもし璃恋だったら逃げると思うよ。逃げなよって言われちゃったら、俺は喜んでその選択肢を取る。だってその方が幸せになれるじゃないか。でも璃恋は違った。逃げないで、真っ正面から向き合って、俺と一緒にいてくれている。
璃恋は歯磨きと着替えを終え、小さな鞄を持ってリビングに降りてきた。一緒に冷蔵庫を確認し、昼ご飯と夜ご飯の相談をすると、必要なものをメモして買い物に出て行った。
俺はソファに座る。テレビをつけ、ニュース番組のチャンネルを押す。あの日から絶え間なく、俺に関するニュースがやっている。
高校での悪行だとか、幼いときはどこにいたとか、どうしてこんな風に狂ってしまったかだとか。根も葉もない噂や、よく分からない見出しばかり。
実際俺は高校になんか行っていない。嘘で飾り立てられたニュースだ。メディアも腐っているんだな。
テレビのチャンネルを変える。擦り切れるほど放送されている刑事ドラマだとか、コメンテーターがつらつらと自分の意見を述べていくだけのニュース番組とか、昼時のテレビほど面白くないものはない。
こんなものを見たってどうにもならない。俺は電源ボタンを押すと、大きく息を吐いてソファにもたれかかった。
――このソファに座るのも、最後になるとは知らずに。