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遠くに人影が見える。
視界全体がぼやけていて、誰なのか全く分からない。
「誰……?」
その陰に向かって歩いて行く。確かに歩いているはずなのに、影との距離が近づくどころか遠くなっていく。
「どういうこと、誰なの」
世界にはわたしの声しか響かない。誰も答えてくれない。誰の声も聞こえない。
ここは何なのだろう。わたしは拓海くんと車に乗っていたはずだ。窓の外から見えていた景色もこんなものではなかった。じゃあここは何なのだ。
「――拓海くん!」
遠くに拓海くんの姿が見えた。名前を呼んでも振り向いてくれない。それどころかわたしを置いてどんどん歩いて行く。
あれは拓海くんじゃない?いやそんなわけがない。毎日隣で見た拓海くんだった。間違うわけがない。絶対にそうだ。
必死に走る。転んでも転んでも立ち上がる。
ふと、拓海くんが振り向いた。それと同時に、少しずつ晴れていた視界がまた曇り出す。
「なんで、なんで……!」
拓海くんの方を見る。ああほら、やっぱり拓海くんだ。いつもと変わらない。
次の瞬間、はっと息をのんだ。拓海くんの顔がドロドロと溶けて、溶けた顔が地面に落ちていく。
わたしは叫び声を上げて、拓海くんではなくなってしなったものに背を向けて走り出す。なんなんだあれは。というかここは何なんだ。夢?それとも現実?
ちらっと後ろを見る。拓海くんはまだ遠くにいて、わたしのことを追ってくる気配はない。
よかった。そう思って足を止める。
その時、後ろにいる誰かから肩を叩かれた。ゆっくりと振り向くと、そこには――
――顔をぐちゃぐちゃにした、拓海くんがいた。
思いっきり叫んで身を捩る。拓海くんの力は強くて、わたしの肩と彼の手が接着されているんじゃないかと思うほどに離れない。
拓海くんは拓海くんではなくなって、よく分からないぐちゃぐちゃとしたものになっていく。次第にわたしはその物体に飲み込まれる。
もう終わりなのか。夢だとしたら早く目覚めさせて。
そう思った瞬間、世界を光が包んだ。銃声が何度も聞こえて、目の前の物体の中に弾丸が入り込んでいく。
「璃恋!」
大好きな人の声が聞こえた。
それだけでわたしは安心して、目を閉じる。
やっぱり、あなたはわたしの――
がたん、と車が段差に乗り上げる衝撃で目覚めたように思った。車は見知らぬ家に到着していて、後は駐車するだけ。
「大丈夫?なんかうなされてたけど。悪い夢でも見た?」
そう話す拓海くんはいつもの拓海くんで、さっきのは悪い夢だったんだと気づいた。
はぁと大きく息を吐く。どうしてあんな夢を見たのだろう。覚悟を決めて出てきたはずなのに、やはりまだ怖いのだろうか。
「わたし、どれだけ寝てました?」
「まぁ、わりと長く。よし、駐車完了。到着」
どこまで起きていたのか全く記憶がない。サービスエリアを出て三十分ほどは起きていたような気がするのだけれど。
立ち上がろうとしても身体に力が入らず、すとんと座席に逆戻りしてしまう。
「どうした、怖い夢だった?あ、それとも酔った?ごめん俺結構飛ばしてたかも」
「いや、酔ってはないんですけど。夢がわりと怖くて」
拓海くんが車を降りて、わたしの方のドアを開けてくれる。手を引かれて車を降りた。
「どんな夢だったの?嫌だったら話さなくていいけど」
「なんか、拓海くんが拓海くんじゃないみたいな夢で」
自分の語彙力のなさに思わず呆れる。拓海くんが拓海くんじゃない、なんて小学生が言いそうな台詞だ。
「何その夢。俺何かにでも変身してたの?」
「変身とかいう可愛いものじゃなかったんですよ。こう、顔がドロドロって溶けて」
ジェスチャー付きで話すと拓海くんは笑ってくれた。別に笑わせたかったわけじゃないんだけど。
「で、極めつけは、誰かに肩を叩かれて振り返るとドロドロな顔をした拓海くんがいるんですよ。怖くないですか?」
「それは流石に怖いわ。ごめん返信とか言って」
笑っていると強張っていた身体は元に戻り、すんなりと動いた。拓海くんが下ろしてくれたスーツケースを転がして扉の前に立つ。
「言ってた一軒家ですか?ここ」
「そう。長らく来てないからめっちゃ汚いと思う。まずは掃除からだな」
その拓海くんの言葉通り、家の中は埃だらけだった。
玄関の扉を開けた瞬間、埃臭い匂いが鼻を刺す。玄関のフローリングも埃で汚れていて、足の踏み場がなさそうだ。
まずは荷物の荷ほどきより、家の掃除を優先することにした。
ふたりで一階と二階を分担し、掃除をしていく。床を雑巾で拭き、クリーンワイパーで家具の下も綺麗にした。
そうやって掃除をしていると、二階から拓海くんの叫び声が聞こえた。
一瞬で鼓動が早くなる。何があったんだろう。そう思いながら急いで階段を上った。
「拓海くん、どうしたんですか」
「璃恋、あれ」
拓海くんは何かに怯えてドアの近くにしゃがんでいる。指を指された部屋に入るとそこは寝室で、一見何もないように見える。
「……何もないですよ?」
「あるって、そこ」
拓海くんの指の先を辿っていくと黒い何かがあるように見えた。近づいてみると拓海くんが大声を出す。
「ちょっ、近づかないでよ!飛んだらどうすんの!」
「拓海くん、こんなのに怯えてたんですか?」
拓海くんが怯えていたのは小さな虫。わたしは近くにあったティッシュでその虫をそっと掴むと、窓を開けて逃がしてやった。
「え、逃がしたの?」
「はい、だって殺すのはかわいそうじゃないですか」
「かわいそうじゃないって、この世から虫は消えるべき何だよ」
とんでもない暴論だ。それにしても拓海くんは虫が嫌いだったなんて。知らなかった。
拓海くんに掃除しっかりやってくださいよ、と言い残して一階に戻る。
キッチン、洗面所も綺麗にしたところで、二階の掃除をしていた拓海くんが降りてきた。灰色になった雑巾を手に持っている。
「お、終わりました?上の掃除」
「終わった。綺麗になったよ」
雑巾をゴミ袋に突っ込み、埃がついて汚れた手を洗った。
冬になると水が冷たく感じて、手を洗うのが億劫になる。これである程度の掃除は終わっただろうか。
手を拭いて、置いてあるソファに腰を下ろす。ソファは思っていたよりも固かった。
前の家で座っていたソファが柔らかかったから、そう思ったのだろうか。所々破けていて、もうぼろぼろになっていたけれど、身体を包み込んでくれるようで好きだった。
「あー疲れた。昼寝しようかな」
「いいですけど、近くに何があるか見ておいた方がよくないですか?」
「それは夜にしようよ」
拓海くんは寝る気なのか、背もたれに頭を預けて瞳を閉じていた。こうと決めればてこでも動かない人だ。こうなってしまえば、わたしにはもう何もできない。
わたしも背もたれに頭を預けようとしたけれど、拓海くんの肩が空いていることに気がついた。
少しくらい、いいよね。
えい、と拓海くんの肩に頭を乗せる。
拓海くんが一瞬わたしを見る。柔らかく微笑んだあと、優しくわたしの頭を撫でてくれた。
心地よい温もりが、わたしを包む。わたしの頭の中から、逃げるなんて言葉は抜けていた。
ただただ安心だけが、わたしのそばにある。