第2節 しあわせ
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「拓海くん、わたしお腹空いてきちゃいました。どっかでサービスエリアでも寄りません?」
「いいよ。その代わり璃恋が買ってきてね」
「お安いご用です」
指名手配中だというのに、俺たちの会話は何一つ変わらない。
その理由のひとつとして、前々から覚悟をしていたことが大きいだろう。
まだこの業界に入って間もないときは本名を使っていたし、自分の身を顧みなければ俺の個人情報くらい簡単に入手できる。今思えば本名でこの業界に居座るなんて信じられないことをしていたもんだ。命を差し出しているのと同じだぞ。
もし指名手配されたら、自分で銃を使って終わりにしようと思っていた。追われるのは慣れていないし、自分から罪を認めて出頭するのはかっこ悪い気がしたから。
それでいいと思っていた。それしかないだろうとも。
なのに、今回ばかりは少しタイミングが悪かった。
一年前なら気兼ねなく死ねた。何も思わず銃を頭に突きつけ、引き金を引いただろう。どうして今なんだ。一番望ましくない、このタイミング。
――守りたい人が、できてしまったのだ。
俺の命を捨ててでも、生きていて欲しいと思う人と、出会ってしまったのだ。その人が幸せでいてくれるのであればそれでいいと、思ってしまった。
だから逃げて、と言ったのに。
俺のことは気にしないで逃げて欲しいと、俺のことは捨てていいからと。そしたら、璃恋は幸せになれるからと。
分かっていた。
それは璃恋の望む選択ではない。璃恋が喜んで選ぶような選択肢ではないと、もう分かっていた。
だって、好きだから。好きな人の、もう半年以上一緒に過ごした人の考えなんか、分かる。
俺だって辛いよ。この先俺たちが向かう道は、幸と呼べるようなものは何一つない。追われて、追われて、いつかは捕まって、死ぬしかない。この逃避行の先に何があるのかなんて簡単。死だ。それ以外何もない。
それが嫌だというなら、自分で命を投げ出すしかないだろう。だから璃恋を突き放そうとしたのに。
――どんなに辛くてもいい、苦しくてもいいから、拓海くんといたいんです。
――いっそのこと、拓海くんになら殺されたっていいんですよ。
どうやら璃恋は、俺より強かったみたいだ。
好きな人の、愛する人のためならなんだってする。その人になら殺されたっていい。そう言い切った璃恋は、誰よりも強いと思った。
俺もそうだ。璃恋のためならなんだってするし、璃恋になら殺されたっていい。
ただそれを口にできなかっただけだ。
――お前は弱いんだよ。いざってときに言いたいことを言えない。逆にそれが強いときもあるのかもだけどな。
誰かにいつか言われた言葉を思い出した。
俺は弱い。それを自覚していたけど、ずっと見て見ぬふりをしていた。
弱いことは悪いことだと思っていた。だって弱いって、欠点があるって意味だろう。そんなの、決してよくはない。
でも璃恋と出会って、弱いのも悪くないかと思えた。
璃恋は強い。芯があって、それを突き通し続ける一方で、どこまでも続く地平線のような優しさを持っている。
そんな風に強い璃恋と、弱い俺が混ざり合ったら、何でもできる気がする。
凸凹のピースがはまるように、ひとつの大きなものになれる気がする。
「拓海くん、一キロ先サービスエリアって書いてありましたよ」
「了解。一回休憩しよっか」
少し車を走らせてからハンドルを左に切り、サービスエリアへと続く道に入る。建物に近い場所に車を停め、シートベルトを外す。
「何食べたいですか?買ってきますよ」
「そうだな、甘いのがいい。メロンパンとか」
「ずいぶん可愛いもの頼みますね」
「いいだろメロンパン」
璃恋が笑いながら車を降りていく。お金を渡そうと財布を出したけど、璃恋に手で止められた。
「お金はありますので、大丈夫です」
そう言っていたけれど、本当に大丈夫なのだろうか。毎月ある程度の額は渡しているけど、この間ひとりで買い物に行って結構使ったみたいだし。年頃の女の子だ、お金なんていくらあったって困らないだろう。
ズボンの後ろポケットから携帯を取り出す。
何の気なしに開いたSNSは俺の話題で持ちきりになっていた。
『こいつ百人以上殺してるらしい。人間のクズだな』
『ちょっとまって似てる人近所で見たかもしれん、まってこわい』
『殺人鬼ってほんとにいるんだね』
『そんなに殺してんならうちのことも殺してくれよ』
画面をスクロールしていけば、それと共にどんどん投稿が増えていく。
俺を罵倒するようなコメントもあれば、俺に怯えるようなコメント、逆に殺して欲しいと懇願するようなコメントまで出てくる。
色々な人がいるもんだなと思っていれば、両手にソフトクリームを持った璃恋が肘で窓を叩いていた。
なんでアイス買ってんの、と聞きながらドアを開け、アイスを受け取る。璃恋が滑り込むようにして座席に座った。
「なんかアイス食べたくなっちゃって。あ、でもちゃんとメロンパンも買ってきましたよ」
手首にぶら下がった紙袋を揺らす。いくつかパンが入っているのか、重そうに手首を締め付けていた。
溶けるから早く食べましょうと璃恋に急かされ、ソフトクリームをペロリと舐める。ミルクの優しい甘みが口の中に広がった。
ふたりとも無言になってソフトクリームを食べた。食べ終えて璃恋の膝の上に置かれていた紙袋を取る。何か言っていたけれど、口にソフトクリームが入った状態で喋っているもんだから、なんて言っているのか全く分からない。
袋を開ければいい匂いが真っ先に飛び出してくる。
紙袋の中にはいくつもパンが入っていて、黄金色に焼かれたメロンパン、様々な食材が挟まれたサンドイッチ、くるくると棒に巻かれたポテト。他にも明太フランスとかガーリックトーストとか、俺の好みを押さえたものがいくつも。
「美味しそう、早速食べよ。体力つけないと」
「ですね。これからどうなるんでしょうか」
放たれた一言は純粋な疑問だった。これからどうなるのか、どうするべきなのか全く見当もつかない。端から見ればする必要のないことだろう。
「どうなんだろね。俺も分かんないや、指名手配初めてだし」
「二回目だったらちょっと困りますよ?」
メロンパンをかじりながら笑った。不安だらけだけど、こうして笑い合えている間は大丈夫な気がする。お互いに冗談を言い合って、くだらないことで笑って。今までの半年間、そうやって生きてきたんだから。
八分目くらいまでお腹を満たして、残ったパンは取っておくことにした。ここからひとつの家までもう少し時間がかかる。
「そう言えば、住む場所なら何個か用意してあるって言ってましたよね。あれ、どういうことなんですか?」
「あぁ、もしもの時に備えて確か三つくらい契約してたんだよね」
もう数年前のことになるからはっきりとは覚えてないけれど、確か三つだったような気がする。
ひとつはアパート、ひとつは一軒家。もうひとつはいわゆるタワマン。怪しまれないよう、すべて違う不動産屋と契約し、買った戸籍で登録しておいた。
「だから住む場所は大丈夫。ちゃんと毎月家賃引かれてるから」
「そう言われるとなんか嫌ですね」
俺はシートベルトをしめ、車のギアをドライブに入れた。ここからまた、数時間のドライブだ。
「なんか楽しいです、ずっと。こういうの楽しがっちゃいけないんでしょうけど」
璃恋がそう言えば疲れも吹っ飛ぶ。
俺は小さく微笑んで、アクセルを強く踏み込んだ。