チャリン、という音と共に鍵が手渡される。彼はわたしの手から傘を奪うと、代わりに鞄を握らせ、歩いて行ってしまった。
 鍵を挿しながら、どこかに向かって歩いて行く彼の後ろ姿を視界に捉える。
 あの人、どこに行くんだろう。
 鍵を左に回す。ガチャリと音がして扉が開いた。おじゃまします、と声をかけて部屋の中に入る。きっとリビングであろう部屋の中は、生活感に溢れていた。
 脱ぎっぱなしのスウェットにズボン、流しに置いたままのカップ麺のゴミ。極めつけは散乱したティッシュ。
 ため息を大きくついて、鞄を床に落とした。
 このまま生活していくのも気が引けるので、取りあえず手に取ったスウェットとズボンを洗濯機に放り込む。なぜか落ちていたゴミ袋を拾い、その中にカップ麺のゴミとティッシュを入れていく。
 ある程度片づければ、それなりの達成感を感じた。
 近くにあったソファに座り、ぐっと伸びをする。それにしてもここはどこなのだろう。
 ポケットからスマホを出し、現在地を確認する。うわ、結構家から離れてる。
 まぁいいか。どうせ親は探しに来ない。男のことしか見えなくなる母親と、そんな母親の視線をかいくぐって浮気をしている父親。わたしのことなんか、どうでもいいのだ。
「ただいま~」
 ドアを開ける音と、呑気な声が聞こえた。一応おかえりなさい、と返事をする。リビングに入ってきた彼は手にコンビニの袋を持って、それを自慢するようにわたしに見せてくる。
「何買ってきたんですか?」
「さぁ、なんでしょうか。当ててみて」
「面倒臭い女みたいなこと言わないでください」
 彼はつれないなぁと口をとがらせ、レジ袋から中身を取り出す。
 フルーツサンドに菓子パン、それからカップ麺。よく分からない駄菓子がいくつか。それと、タバコにライター。
「……タバコ、吸うんですか?」
「え?あぁまぁ、たまにね。君がいるなら控えなきゃだけど」
 用がなくなったレジ袋をわしゃわしゃと潰し、ぽいとゴミ箱に捨てる。そのままわたしに向き直ると、思い出したように言った。
「そう言えば、名前聞いてなかった。君、名前は?」
 少し、悩む。相手は見知らぬ人だ。何をされるかなんて分からない。
 こうやって優しいふりをして、わたしをおとしめようとしているだけなのではないか。
 そこまで考えて、だんだん笑えてきた。彼の手を取ったのは、紛れもない自分だ。
 わたしが、わたしの手で、わたしの人生を歪めたのだ。
 今更、何に怯えているんだ。
「ごめん、嫌なら言わなくて良いよ」
「いえ」
 彼と視線がぶつかる。わたしは今、どんな顔をしているのだろうか。きっと、言葉では言い表せないような表情だろう。

萩乃(はぎの)璃恋(りこ)、です」

「はぎのりこ……どういう漢字?」
「萩は植物とかの萩で、乃はなんて言うんですかね……可愛いやつ?」
「なにそれ」
 あ、笑った。
 口角を上げた、妖艶かつどこか狂気的な笑みなら、何度も見た。そうではなくて、心からの笑みというか、本当に面白くて笑った時の顔のような、なんというか。
 どうにもむず痒くて、それを誤魔化すように口を開いた。
「璃は瑠璃色とかの璃で、恋は恋です」
「なんか綺麗な名前だな」
「そう言うあなたの顔も綺麗だと思いますけど」
「なんだよそれ」
 半分ふざけて言ったが、本当にそう思っていたことだった。第一印象は綺麗な人だな、と思ったから。
――あなたの名前は?
 咽の先まで出かかっているのに、あと少しの勇気が足りない。聞きたい、知りたい。あなたを形成する上で大事な部分となる名前を、わたしは知りたい。
 でも、もし嫌われたら?もし、それで彼の触れては行けない場所に触れてしまったら?
 その時、わたしは――
「聞かねえの?」
「え、何をですか?」
 笑ったつもりだったが、上手く笑えただろうか。
「俺の名前。俺だけ聞くってのもあれでしょ」
「聞いていいんですか」
「うん、別に減るもんでもないし」
 彼は立ち上がると電気ケトルに水を入れ、カチッとスイッチを押した。
「……じゃあ、教えてください。名前」
 唇を噛んで、私の方をちらっと見る。目が合って、すぐに逸らされた。

「……黒瀬(くろせ)拓海(たくみ)

「くろせ、たくみ?」
「うん。黒は色の黒。瀬はほら、なんかよくあるじゃん」
「なんですかそれ」
 声を上げて笑った。わたしにつられて彼――黒瀬さんも笑う。
「たくみ、ってどういう漢字ですか?」
「道を拓くの拓くみたいなやつに海。呼び方は任せるよ」
「任せるって言われるのが一番嫌いなんですよね」
「うわ、面倒臭い。じゃあ下の名前にして」
 下の名前。呼び捨てでいいのか、くんとかさんとかをつけた方がいいのか。
 悩んだあげく、わたしは、
「――拓海、くん」
 拓海くんは照れたのか、顔を背けた。なんだかわたしまで恥ずかしくなってくる。言ったのは自分だというのに。
 どこかほわほわとしている雰囲気の中カチッと音がして、お湯が沸いたことを知らせた。拓海くんは電気ケトルを手に持ち、カップ麺にお湯を注いでいる。
「あ、ごめん。勝手に俺カップ麺食べる気だったけど、食べたかった?」
「いや、大丈夫です。フルーツサンドもらってもいいですか」
「どうぞ」
 包みを開けて一口食べる。甘いクリームと少し酸っぱい苺の風味が口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
 思わずそうこぼすと、机に頬杖をついてわたしを見ていた拓海くんがふっと笑った。何を笑われたのだろう。
「……今笑いました?」
「笑った。可愛いなって思って」
 予想していなかった言葉に、思わず顔が火照っていくのが分かる。
 可愛いだなんて何度も言われた言葉なのに、言う人が変わると、こんなに照れくさいものなのだろうか。
「あ、こんなこと女子高生に言っちゃダメか、捕まるわ」
「こうやって一緒にいる時点でアウトじゃないですか?」
「そうじゃん、やば」
「大丈夫ですよ、わたしは警察に告げ口とかしませんから」
「絶対するやつだろそれ」
 拓海くんはそう言いながら立ち上がり、カップ麺のお湯を捨て、ぺりぺりと蓋をめくる。
 わたしの真正面に戻ってきて腰を下ろす。麺に息を吹きかけて、冷ましてから口に入れる。それだけの些細な仕草が色っぽく見えてしまって、わたしは反射的に目を逸らした。
「……何。やっぱラーメン食べたかった?」
「いいです、わたしうどん派なんで」
 よく分からないことを口走りながら、残りのフルーツサンドを詰め込んだ。急激な生クリームの甘さに身体が驚き、一瞬苦しくなる。それすら押し流すように、お茶を飲んだ。
「拓海くん、いつもそういうのばっかり食べてるんですか?」
「そういうのって?」
「カップ麺とか、コンビニ飯とか?」
「んー、まぁ。俺料理できないし」
 わたしはその言葉ににやりと口角を上げ、ひとつの提案を口にした。
「わたし、ご飯作りましょうか」
 料理の腕には少しばかり自信がある。親がお小遣いをくれるようなことは少なく、バイトでもらった収入しか金がない中、いかに節約をして美味しいご飯を作れるかを毎日考えていた。
「え、いいの?」
「はい。あ、でも食費」
「いいよいいよ、俺が出す。その分俺のも作ってよ?」
「当たり前です」
 ふたりで片付けをして、テレビの前に置かれた白色のソファに座る。