父親も文句のひとつくらい言ってくれればよかったのに、何一つ言わないから困ったものだ。
お陰で荷物をまとめることが得意になった。引っ越しの影響で友達もできなくなったが。
「拓海くん、家具はどうするんですか?」
「家具?面倒臭いから置いてく。他の家にも置いてあるし」
本当に指名手配される気満々だったんじゃないかというほど用意周到だ。取りあえずクローゼットからお気に入りの服を引っ張り出し、床に置いておく。すぐにたたんでしまった方がいいんだろうけど、今はとにかく時間がないので許して欲しい。
二階に上がって必要なものを探す。
ここに来てから置きっぱなしになっていたスクールバッグと、いつもお出かけの時に使っているショルダーバッグを手に取った。
他にも何かあっただろうかと辺りを見回し、何もなさそうなので下に降りる。
洗面所に拓海くんがいて、必要な道具を手当たり次第出している。
「拓海くん、何か入れましょうか?わたし詰めるの得意なんです」
「詰めるの得意って何?」
「引っ越し何回も経験してるんで、もう慣れたもんなんですよ」
じゃあ、と拓海くんにいくつか手渡された。歯磨きセットだとかドライヤーとかヘアアイロンとか、その他諸々。
リビングに戻り、服や様々なものを詰めていく。出しては入れ、出しては入れてを繰り返す。そうするとパズルのピースみたいにかちっとはまるときが来る。
拓海くんもボストンバッグにものを詰め始めた。取りあえず必要最低限のものだけを詰め終えて拓海くんに向き直る。
「よし、準備終わり。なんか手伝おうか?」
「いや、わたしももう終わったので大丈夫です。もう出発します?」
「そうしよっか」
拓海くんがボストンバッグとスーツケースを車に積んでくれた。
わたしはリビングの真ん中に立ち、部屋の中を眺めていた。
こうして見ると、昨日となにも変わっていない。家具がなくなったわけでもないし、目に見えた変化がない。だからだろうか、この部屋を出て行くという感じがしない。
それでも引っ越すとき特有の香りというか雰囲気というか、そういうものが漂っているような気がした。
「寂しい?この家じゃなくなるの」
「分かんないです」
ここを出て行く悲しさと、新しい場所への期待と、上手くやっていけるのだろうかという不安が心に混じっている。
その感情たちが混ざりに混ざりすぎてよく分からないけれど、拓海くんがいてくれるのであれば大丈夫だ。
最後に、と思って大きな窓を開けた。
今日はこの窓から暖かい光が差し込んでいる。
同じように暖かい光が差し込む日も、大きな雨粒が落ちていく日も、音もなく雪が降る日も。雷鳴が轟く日も、今にも雨が降り出しそうな黒い雲が見える日も。
幾度となくふたりで窓を覗いて、その景色を瞳に映した。
ふたつほどの季節をこの家で過ごしたことに気づいて、毎日があっという間だったなと思う。
拓海くんがわたしの隣に並ぶ。窓から手を伸ばして、冷たい風に触れている。
「……やっぱ、ちょっとだけ寂しいです」
拓海くんが少し驚いたような顔をしてから笑った。それからまた宙に視線を移す。
「俺は寂しくないよ。璃恋といられるなら」
そう言う横顔が何よりも好きだ。わたしも同じ。拓海くんがいてくれるのであれば寂しくなんてない。
微笑みながら窓を閉め、鍵をかけた。もうこの窓に触れることもないだろう。
「よし、行くよ」
拓海くんが先に歩き出す。わたしはリビングの電気を消し、大きな窓に背中を向けた。
靴を履き、ショルダーバッグを肩にかけて立ち上がる。拓海くんが部屋に鍵をかけ、鍵をポケットにしまった。
「またここに来ることってあるんですかね」
「どうだろ、でもあるかもね」
車に乗り込んでシートベルトをしめた。拓海くんが車にエンジンをかければ、低いうなり声を上げて車が動く。
「逃亡劇の始まり――ですか?」
「そんなかっこいいもんじゃないでしょ」
拓海くんが笑う。
わたしたちを乗せた車はどこに向かっているのだろうか。分からないけれど、拓海くんと一緒ならどこだっていいと思った。
車が高速道路に入る。わたしは窓を開けた。
わたしたちは今、大きなものから逃げている。逃げるということは罪を認めていることになるのかもしれない。
逃げた先には何が待っているのだろうか。
幸せ?それとも不幸?
わたしだって何を求めて逃げているのかわからない。
それでもこの行動は必要なものだと思えた。
これからわたしたちは苦しむのかもしれない。沢山の傷を負うのかもしれない。そう思うと少しだけ怖かった。
その恐怖もすぐに消え失せて、隣の人から得る温もりに満たされていく。
――拓海くんとなら、何も怖くない。
この状況とは似ても似つかないような爽やかな風が、わたしの髪を揺らす。
何も、怖くなかった。
お陰で荷物をまとめることが得意になった。引っ越しの影響で友達もできなくなったが。
「拓海くん、家具はどうするんですか?」
「家具?面倒臭いから置いてく。他の家にも置いてあるし」
本当に指名手配される気満々だったんじゃないかというほど用意周到だ。取りあえずクローゼットからお気に入りの服を引っ張り出し、床に置いておく。すぐにたたんでしまった方がいいんだろうけど、今はとにかく時間がないので許して欲しい。
二階に上がって必要なものを探す。
ここに来てから置きっぱなしになっていたスクールバッグと、いつもお出かけの時に使っているショルダーバッグを手に取った。
他にも何かあっただろうかと辺りを見回し、何もなさそうなので下に降りる。
洗面所に拓海くんがいて、必要な道具を手当たり次第出している。
「拓海くん、何か入れましょうか?わたし詰めるの得意なんです」
「詰めるの得意って何?」
「引っ越し何回も経験してるんで、もう慣れたもんなんですよ」
じゃあ、と拓海くんにいくつか手渡された。歯磨きセットだとかドライヤーとかヘアアイロンとか、その他諸々。
リビングに戻り、服や様々なものを詰めていく。出しては入れ、出しては入れてを繰り返す。そうするとパズルのピースみたいにかちっとはまるときが来る。
拓海くんもボストンバッグにものを詰め始めた。取りあえず必要最低限のものだけを詰め終えて拓海くんに向き直る。
「よし、準備終わり。なんか手伝おうか?」
「いや、わたしももう終わったので大丈夫です。もう出発します?」
「そうしよっか」
拓海くんがボストンバッグとスーツケースを車に積んでくれた。
わたしはリビングの真ん中に立ち、部屋の中を眺めていた。
こうして見ると、昨日となにも変わっていない。家具がなくなったわけでもないし、目に見えた変化がない。だからだろうか、この部屋を出て行くという感じがしない。
それでも引っ越すとき特有の香りというか雰囲気というか、そういうものが漂っているような気がした。
「寂しい?この家じゃなくなるの」
「分かんないです」
ここを出て行く悲しさと、新しい場所への期待と、上手くやっていけるのだろうかという不安が心に混じっている。
その感情たちが混ざりに混ざりすぎてよく分からないけれど、拓海くんがいてくれるのであれば大丈夫だ。
最後に、と思って大きな窓を開けた。
今日はこの窓から暖かい光が差し込んでいる。
同じように暖かい光が差し込む日も、大きな雨粒が落ちていく日も、音もなく雪が降る日も。雷鳴が轟く日も、今にも雨が降り出しそうな黒い雲が見える日も。
幾度となくふたりで窓を覗いて、その景色を瞳に映した。
ふたつほどの季節をこの家で過ごしたことに気づいて、毎日があっという間だったなと思う。
拓海くんがわたしの隣に並ぶ。窓から手を伸ばして、冷たい風に触れている。
「……やっぱ、ちょっとだけ寂しいです」
拓海くんが少し驚いたような顔をしてから笑った。それからまた宙に視線を移す。
「俺は寂しくないよ。璃恋といられるなら」
そう言う横顔が何よりも好きだ。わたしも同じ。拓海くんがいてくれるのであれば寂しくなんてない。
微笑みながら窓を閉め、鍵をかけた。もうこの窓に触れることもないだろう。
「よし、行くよ」
拓海くんが先に歩き出す。わたしはリビングの電気を消し、大きな窓に背中を向けた。
靴を履き、ショルダーバッグを肩にかけて立ち上がる。拓海くんが部屋に鍵をかけ、鍵をポケットにしまった。
「またここに来ることってあるんですかね」
「どうだろ、でもあるかもね」
車に乗り込んでシートベルトをしめた。拓海くんが車にエンジンをかければ、低いうなり声を上げて車が動く。
「逃亡劇の始まり――ですか?」
「そんなかっこいいもんじゃないでしょ」
拓海くんが笑う。
わたしたちを乗せた車はどこに向かっているのだろうか。分からないけれど、拓海くんと一緒ならどこだっていいと思った。
車が高速道路に入る。わたしは窓を開けた。
わたしたちは今、大きなものから逃げている。逃げるということは罪を認めていることになるのかもしれない。
逃げた先には何が待っているのだろうか。
幸せ?それとも不幸?
わたしだって何を求めて逃げているのかわからない。
それでもこの行動は必要なものだと思えた。
これからわたしたちは苦しむのかもしれない。沢山の傷を負うのかもしれない。そう思うと少しだけ怖かった。
その恐怖もすぐに消え失せて、隣の人から得る温もりに満たされていく。
――拓海くんとなら、何も怖くない。
この状況とは似ても似つかないような爽やかな風が、わたしの髪を揺らす。
何も、怖くなかった。