第3章 紅雨
第1節 あなた
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『璃恋の彼氏、指名手配されたって出てるけど』
その瞬間、持っていたかごを床に投げ捨て、携帯を鞄に押し込みながらスーパーを出た。後ろから店員さんに声をかけられた気がしたけど、今はそんなの関係ない。
薄汚い路地裏を、ただ走る。家に向かって、走る。
薄々予想はしていたことだった。
――それでもいいんだ。お前らを潰す算段はもうできてる。その時がくれば、お前たちはもう笑ってられない。刻一刻とその時間は近づいてんだよ。
あの男が放った、意味深な言葉。よく意味が分からないままだったが、今なら分かる。
あいつは拓海くんのことを知っていた。殺しをしているということも名前も、わたしたちの幸せな日々をぶち壊すには十分なほどのことを、知っていた。だからあの男が情報を流せば、あっという間にわたしたちの日常は崩れる。
きっと大丈夫だと自分に言い聞かせていたけれど、やはりだめだったか。
鞄に押し込んだ携帯から、うっすらと母親の声が聞こえてくる。鬱陶しくて電源を切った。
息が苦しい。家までが遠く感じる。
ネットニュースとかにもなっているんだろうか。顔写真かでかでかとさらされて、わたしたちはあられもない言葉の矢をいくつも放たれているのだろうか。ああ、見たくない。
どうしてだろう。ただわたしたちは幸せに生きようとしているだけなのに、ふたりで支え合って生きていこうとしているだけなのに、それが上手くいかない。
何かひとつ乗り越えたと思ったら、またひとつ問題が浮かんでくる。
走っても走ってもゴールが見えない持久走みたいで、息が苦しくなる。
何とか家に着いた。鞄の中から鍵を探すけれど、焦りと手汗とで物が手を滑っていく。しかもこういう時に限って鍵が見つからないもので、苛立ったわたしは舌打ちを打つ。
底に入り込んでいた鍵を見つけ出し、差し込んで左に回す。ぜえぜえと喘ぎながら家に入って靴を脱ぐ。
家の中は誰もいないように静かで、ただテレビから流れるニュース番組の音だけが聞こえる。
――まさか。
足をもつれさせながらリビングのドアを開けた。
拓海くんはソファに座って、大きなテレビ画面を見つめている。
「……拓海くん」
「璃恋、買い物は?何も持ってないじゃん」
「それより」
「これのこと?」
拓海くんがテレビ画面を指差す。
画面には拓海くんの名前と、顔写真がでかでかと出されていた。
「これ見たから帰ってきたの?」
「違うんです、いや違くないんですけど、母親が突然電話してきて、それで」
「これを教えてくれたって?」
拓海くんが笑う。その瞳には光が灯っていなくて、いつしか見た男のようだと思った。
咄嗟に俯いた。嫌だ。拓海くんはあんなケダモノに落ちて欲しくない。
綺麗で、美しくて、それって意味が同じなのかもしれないけれど、わたしにとって拓海くんはそういうものでいて欲しい。復讐だとか嫉妬だとか、そういう醜い感情を抱いて欲しくない。ただただ、幸せでいて欲しい。
でも拓海くんが、ケダモノになることを望んでいるんだとしたら?もうこの際わたしのことすら殺して、すべてを失う気でいるとしたら?
その時わたしは、それを受け入れることができるのだろうか。でもきっと、拓海くんなら――
「逃げなよ」
俯いていた顔を上げる。瞳には暖かい光が灯っていて、それだけで少し安心する。
「え?」
「早く逃げなよ。それで、俺に誘拐されたって言いな」
「なんでそんなこと、する意味がないです」
「あるよ」
拓海くんが立ち上がって、わたしの前に立つ。
わたしを真っ直ぐ見つめて、言った。
「璃恋が、幸せに生きられる」
分かってしまった。わたしたちはどこまでも同じことを考えている。
――お互いに、幸せに生きて欲しい。
その為なら、命さえ惜しくない。
拓海くんはわたしに生きて欲しいのだ。共にいたら、わたしはもう日の光の下を歩けない。だからここで繋いでいた手を離して、己が犠牲になる道をわたしに歩ませようとしている。
それがわたしにとっての幸せになると、信じて。
「……そんなの」
でも。
「そんなの、全く幸せじゃないです」
拓海くんが困ったように眉を下げた。分かっている。困らせてしまっていることも、ここで出て行って拓海くんだけを犯罪者にすることの方がわたしにとって楽だということも。
分かっているのに、わたしはそれを選ばなかった。
「わたしにとっての幸せは、拓海くんといることなんです。どんなに辛くてもいい、苦しくてもいいから、拓海くんといたいんです」
気づけば瞳から涙が溢れていた。わたしはそれに構わず話し続ける。
「いっそのこと、拓海くんになら殺されたっていいんですよ」
「何言ってんの馬鹿」
わたしを突き放そうとしてくるくせに、殺すことはできないらしい。どこまでも優しい人だ。
「殺せないって言うなら、わたしは出て行きませんよ。足にでも縋りついて、ずっと一緒にいてやりますから」
何度だって言ってやろう。わたしは拓海くんといることだけが幸せなのだ。向かう先が地獄だっていいって言ったでしょう。見上げる空が曇り空でも、ふたりで見ればきっと輝きを見つけられる。誰かがわたしたちのことを指差したって、歪だと言ったって、わたしたちにとっては幸せだから。
やっと垂れてばかりだった涙を拭った。拓海くんは何も言わないままわたしのことを見つめている。
やがてずり、と拓海くんの足が動いて、ゆっくりとわたしの方にやって来る。拓海くんは壊れ物でも扱うような手つきで、わたしのことを抱きしめた。
「……いいの?一緒に逃げることになるよ」
「拓海くんとならなんでもいいって言ってるじゃないですか」
ここまで来てまだ逃げようとするなんて、案外覚悟決まってないんですね。なんて言ったら怒られるから言わないでおこう。わたしはもうずっと、覚悟決めてましたよ。拓海くんの手を取った、あの日から。この人と生きていくんだ、って。
ずび、と鼻を吸う音が聞こえる。拓海くんの瞳から何かがこぼれていくのが見えた。
「拓海くん、泣いてます?」
「泣いてないし。ちょっと目にゴミが入っただけだし」
「言い訳じゃないですか」
拓海くんは潤んだ目を隠すようにわたしから離れると、もう一度ソファに座った。わたしも隣に座り、ニュースを眺める。
もうポスターやら新聞やらが街中に張り出されているらしく、それらしき人物を見つけたという通報も何件か入っているそうだ。
「どうするんですか?ここにいるならばれるのも時間の問題ですよ」
「そうだよね。よし、取りあえず今日中にここを出よう。いい?」
「わたしはいいですけど、住むところはどうするんです?わたしの家無理ですよ?」
拓海くんがにやっと笑った。まさか用意でもあるのだろうか。
「もしもの時に備えて何個か用意してあるから。その心配はしないで」
「もしもの時って、指名手配される気満々だったんですか?」
「いやまぁ、そうはそうなんだけど」
拓海くんが立ち上がり、クローゼットを開ける。奥にしまわれていたスーツケースやボストンバッグを取り出すと、床に放り投げた。
「はい、まず必要なものだけ詰めて。あれだったらまた買えばいいし」
親の影響で引っ越しは何度も経験してきた。男が変われば住みたい場所が変わる母親の影響で、一年に二回も引っ越しをしたこともあった。