男が握っているペンダントトップは小さい小瓶のようなものだった。大部分が手に握られてしまっているからよく見えないが、何かさらりとした粉のようなものが入っている。きっと彼女さんの遺骨か何かだろう。
ふと申し訳なく思ってしまった。
大切な人を奪ってしまったことがどうにも申し訳なかった。人を殺しておいて何を言うと思われるだろう。ただ、俺だって大切な人がいる。俺がもし男と同じ状況に陥って、璃恋という大切な存在を喪ったとき、俺は俺でいられないだろう。
今更男に謝ることはできない。どれだけ謝罪の言葉を述べようが死んだ人間は戻ってこない。
男の服の袖がはらりと揺れた。ちらりと見えた腕にはいくつもの自傷行為の後があった。男はどういう思いで生きていたのだろうか。復習のためだけに生きる。それは苦しくはなかったのだろうか。
ただ――その復讐というものを男に突きつけたのは、紛れもない俺だったのだ。
男にとっては生きる意味になっていただろうが、同時に重い足枷にもなっていただろう。それを俺が突きつけてしまったのだと思うと、自分が憎らしくてたまらなかった。
ふと、自分の手が震えていることに気がついた。どうして手が震えているのだろうと考えて、ひとつの感情のせいだと気づく。
どうやら俺は、怖いらしい。
大切な人を失うのが。この幸せな日々が崩れるのが。生きるのが、怖い。こんな世界で俺は生きていいのだろうか。
何かにまとわりつかれているような、気持ち悪い感触が俺を襲う。怖いという感情はあまり抱いてこなかったのに、初めて知った感情は気色が悪くて仕方がない。
どんどん人間らしい人間になっている感覚がする。みんなが当たり前に感じている喜びだとか怒りだとか、恐怖やらは俺には眩しすぎる。
どれも似合わない。不快でしかない。
俺には、ぜんぶ――
「拓海くん」
璃恋の声ではっとした。また俺の世界に入り込んでしまっていたみたいだ。
俺は璃恋に駆け寄ると、手と足を縛っていたロープをナイフで切った。拘束からほどかれた璃恋は男に近づき、口元に手をやって、もう息をしていないことを確かめた。それから俺の方を向く。
「何だったんでしょうね、この人。拓海くんに恨みがあるとか言ってましたけど、本当なんですかね」
「……まぁ、多分本当だよ。なんて言ってたの?」
璃恋はまた男の方を向く。茶髪が片眼を覆い隠している。
「彼女さんを殺されたとか何とか。それだけでここまでするかって感じですけど」
璃恋の言うことも分からなくもない。彼女を殺されたからと言ってここまでするべきなのか。今までの俺ならくだらないと思って切り捨てただろう。
――今なら少し、この男の気持ちが分かる気がする。
縛られたことによって赤くなってしまった璃恋の手を取ってさする。他に何かされていないだろうかと思って顔を見れば、口元が赤くかぶれていた。
「どうしたのこれ。口なんかやられた?」
「あぁ、ガムテープで塞がれてて。案外剥がし方優しかったですよ」
そういう問題じゃない、と思ったが、璃恋が元気でいるならよしとしよう。
銃とナイフをしまい、手を繋いでアパートから出た。
通報でもしておくべきだろうかと思ったが、面倒臭いし俺のしたことがばれるのも嫌なのでしないことにした。少しすれば身体も腐り始め、鼻を刺すような腐敗臭が漂うだろうから、きっと発見されるだろう。
家に帰る前に、璃恋が母親と来る予定だったカフェでご飯を食べた。
おしゃれな雰囲気で居心地がよくて、料理もすごく美味しかった。また来よう、と言って家に戻る。
帰り道、その"また"は叶うのだろうかと、ふと思った。さっきから――男を撃ち抜いた瞬間から、どうも胸騒ぎがする。
平穏な日々が崩れてしまいそうで怖い。男の視線が俺をつきまとっているようで、気持ちが悪い。ずっとずっと、見られているようだ。
――なぁ、俺はどうなる?
誰に問いかけているのかも分からないまま、呟いた。隣にいる璃恋が心配そうに俺を覗き込む。なんもないよ、と言って笑って誤魔化した。
なぁ、誰か教えてくれ。俺はどうなる。俺たちの幸せな日々はどうなる。大丈夫だよな、突然崩れたりなんかしないよな。"また"は叶うよな。
どれだけ問いかけても、何も返ってこない。
きっと誰にも、分からないのだろう。
4
わたしが攫われたあの事件から、数週間が経った。
あの男は彼女を拓海くんに殺され、それを恨んでこの事件を起こしたらしい。遺体はあの日から一週間ほど経った後に見つかり、状況から自殺と判断されたそうだ。
なぜ母親を通じてわたしにコンタクトが取れたのかということについては、母親と連絡を取って知ることが出来た。
好意を持ったふりをして近づき、母親のいない隙にわたしに向けて送ったらしい。どこまでも策略家だなと少し感心してしまった。
「拓海くん、わたし買い物行きますけど、いるものあります?」
「いや、特にないかな。欲しいもの買ってきな」
わたしたちはなにも変わらない。殺しをやめたりもしていない。夜になるとふたりで家を出て、銃を握る。
昼は色々なところに行ったりもしている。今日はどこにも行かず、わたしがスーパーに買い物に行くだけだけれど。
路地裏を通ってスーパーに向かう。店内に入り、かごを手に取る。
いくつか食材をかごに入れていくうち、鞄に入れた携帯から着信音が鳴った。
画面を見てみると母親からの着信だった。出ないことも頭に浮かんだけれど、試しに出てみようか。
ボタンをスライドして電話に出る。すぐに母親の声が耳を通った。
『もしもし、璃恋!?』
相変わらずデカすぎる声にびっくりしたけど、前は言えなかったもしもしが言えるようになっただけよしとしよう。
「何もう、急にかけてこないでよ」
『ごめんごめん、ちょっと聞きたいことがあって』
聞きたいこと?何だろう。あの男についての話だろうか。
「何?聞きたいことって」
『いや、あんたの彼氏、名前なんて言ってたっけと思って』
聞いた瞬間にため息をついた。母親らしく、どこまでもくだらないことだった。そんなことでいちいち電話をかけてこないで欲しい。メールでもよこしてくれれば答えたのに。
「それが何?というかそんなことで連絡してこないでよ。メールで済ましてそういうことは」
『分かった分かった、これからは気をつけるから。で、なんて名前だっけ?』
軽く言う母親に呆れる。口では分かったと言いつつ、頭では理解していない。きっと数ヶ月後、また電話でもかかってくることだろう。
「黒瀬拓海、だけど。それがどうしたの?」
『漢字は?漢字』
母親がこんなに必死になることは珍しい。きっと男でも絡んでいるのだろう。
漢字を教えると母親は何かに驚いて声を上げる。
何がしたいのかよく分からない。何も言ってこないから切ってしまおうか。
「お母さん、何もないならもう切るよ?話がないなら連絡してこないでよ」
『……璃恋』
絞り出したような声が聞こえてくる。話したかったことを思い出したのだろうか。
「なに?悪いけど、今買い物中なの」
『ニュース、見た?』
よく分からないことを言っている。突然電話をかけてきた上、拓海くんの名前を聞いて、最後はニュースを見たかなんて。話の展開が変わりすぎているだろう。
「ニュース?見てないけど。なんで急に」
次の一言で、わたしの呼吸は止まりそうになった。
『璃恋の彼氏、指名手配されたって出てるけど』
ふと申し訳なく思ってしまった。
大切な人を奪ってしまったことがどうにも申し訳なかった。人を殺しておいて何を言うと思われるだろう。ただ、俺だって大切な人がいる。俺がもし男と同じ状況に陥って、璃恋という大切な存在を喪ったとき、俺は俺でいられないだろう。
今更男に謝ることはできない。どれだけ謝罪の言葉を述べようが死んだ人間は戻ってこない。
男の服の袖がはらりと揺れた。ちらりと見えた腕にはいくつもの自傷行為の後があった。男はどういう思いで生きていたのだろうか。復習のためだけに生きる。それは苦しくはなかったのだろうか。
ただ――その復讐というものを男に突きつけたのは、紛れもない俺だったのだ。
男にとっては生きる意味になっていただろうが、同時に重い足枷にもなっていただろう。それを俺が突きつけてしまったのだと思うと、自分が憎らしくてたまらなかった。
ふと、自分の手が震えていることに気がついた。どうして手が震えているのだろうと考えて、ひとつの感情のせいだと気づく。
どうやら俺は、怖いらしい。
大切な人を失うのが。この幸せな日々が崩れるのが。生きるのが、怖い。こんな世界で俺は生きていいのだろうか。
何かにまとわりつかれているような、気持ち悪い感触が俺を襲う。怖いという感情はあまり抱いてこなかったのに、初めて知った感情は気色が悪くて仕方がない。
どんどん人間らしい人間になっている感覚がする。みんなが当たり前に感じている喜びだとか怒りだとか、恐怖やらは俺には眩しすぎる。
どれも似合わない。不快でしかない。
俺には、ぜんぶ――
「拓海くん」
璃恋の声ではっとした。また俺の世界に入り込んでしまっていたみたいだ。
俺は璃恋に駆け寄ると、手と足を縛っていたロープをナイフで切った。拘束からほどかれた璃恋は男に近づき、口元に手をやって、もう息をしていないことを確かめた。それから俺の方を向く。
「何だったんでしょうね、この人。拓海くんに恨みがあるとか言ってましたけど、本当なんですかね」
「……まぁ、多分本当だよ。なんて言ってたの?」
璃恋はまた男の方を向く。茶髪が片眼を覆い隠している。
「彼女さんを殺されたとか何とか。それだけでここまでするかって感じですけど」
璃恋の言うことも分からなくもない。彼女を殺されたからと言ってここまでするべきなのか。今までの俺ならくだらないと思って切り捨てただろう。
――今なら少し、この男の気持ちが分かる気がする。
縛られたことによって赤くなってしまった璃恋の手を取ってさする。他に何かされていないだろうかと思って顔を見れば、口元が赤くかぶれていた。
「どうしたのこれ。口なんかやられた?」
「あぁ、ガムテープで塞がれてて。案外剥がし方優しかったですよ」
そういう問題じゃない、と思ったが、璃恋が元気でいるならよしとしよう。
銃とナイフをしまい、手を繋いでアパートから出た。
通報でもしておくべきだろうかと思ったが、面倒臭いし俺のしたことがばれるのも嫌なのでしないことにした。少しすれば身体も腐り始め、鼻を刺すような腐敗臭が漂うだろうから、きっと発見されるだろう。
家に帰る前に、璃恋が母親と来る予定だったカフェでご飯を食べた。
おしゃれな雰囲気で居心地がよくて、料理もすごく美味しかった。また来よう、と言って家に戻る。
帰り道、その"また"は叶うのだろうかと、ふと思った。さっきから――男を撃ち抜いた瞬間から、どうも胸騒ぎがする。
平穏な日々が崩れてしまいそうで怖い。男の視線が俺をつきまとっているようで、気持ちが悪い。ずっとずっと、見られているようだ。
――なぁ、俺はどうなる?
誰に問いかけているのかも分からないまま、呟いた。隣にいる璃恋が心配そうに俺を覗き込む。なんもないよ、と言って笑って誤魔化した。
なぁ、誰か教えてくれ。俺はどうなる。俺たちの幸せな日々はどうなる。大丈夫だよな、突然崩れたりなんかしないよな。"また"は叶うよな。
どれだけ問いかけても、何も返ってこない。
きっと誰にも、分からないのだろう。
4
わたしが攫われたあの事件から、数週間が経った。
あの男は彼女を拓海くんに殺され、それを恨んでこの事件を起こしたらしい。遺体はあの日から一週間ほど経った後に見つかり、状況から自殺と判断されたそうだ。
なぜ母親を通じてわたしにコンタクトが取れたのかということについては、母親と連絡を取って知ることが出来た。
好意を持ったふりをして近づき、母親のいない隙にわたしに向けて送ったらしい。どこまでも策略家だなと少し感心してしまった。
「拓海くん、わたし買い物行きますけど、いるものあります?」
「いや、特にないかな。欲しいもの買ってきな」
わたしたちはなにも変わらない。殺しをやめたりもしていない。夜になるとふたりで家を出て、銃を握る。
昼は色々なところに行ったりもしている。今日はどこにも行かず、わたしがスーパーに買い物に行くだけだけれど。
路地裏を通ってスーパーに向かう。店内に入り、かごを手に取る。
いくつか食材をかごに入れていくうち、鞄に入れた携帯から着信音が鳴った。
画面を見てみると母親からの着信だった。出ないことも頭に浮かんだけれど、試しに出てみようか。
ボタンをスライドして電話に出る。すぐに母親の声が耳を通った。
『もしもし、璃恋!?』
相変わらずデカすぎる声にびっくりしたけど、前は言えなかったもしもしが言えるようになっただけよしとしよう。
「何もう、急にかけてこないでよ」
『ごめんごめん、ちょっと聞きたいことがあって』
聞きたいこと?何だろう。あの男についての話だろうか。
「何?聞きたいことって」
『いや、あんたの彼氏、名前なんて言ってたっけと思って』
聞いた瞬間にため息をついた。母親らしく、どこまでもくだらないことだった。そんなことでいちいち電話をかけてこないで欲しい。メールでもよこしてくれれば答えたのに。
「それが何?というかそんなことで連絡してこないでよ。メールで済ましてそういうことは」
『分かった分かった、これからは気をつけるから。で、なんて名前だっけ?』
軽く言う母親に呆れる。口では分かったと言いつつ、頭では理解していない。きっと数ヶ月後、また電話でもかかってくることだろう。
「黒瀬拓海、だけど。それがどうしたの?」
『漢字は?漢字』
母親がこんなに必死になることは珍しい。きっと男でも絡んでいるのだろう。
漢字を教えると母親は何かに驚いて声を上げる。
何がしたいのかよく分からない。何も言ってこないから切ってしまおうか。
「お母さん、何もないならもう切るよ?話がないなら連絡してこないでよ」
『……璃恋』
絞り出したような声が聞こえてくる。話したかったことを思い出したのだろうか。
「なに?悪いけど、今買い物中なの」
『ニュース、見た?』
よく分からないことを言っている。突然電話をかけてきた上、拓海くんの名前を聞いて、最後はニュースを見たかなんて。話の展開が変わりすぎているだろう。
「ニュース?見てないけど。なんで急に」
次の一言で、わたしの呼吸は止まりそうになった。
『璃恋の彼氏、指名手配されたって出てるけど』