そんなことを考えながらクローゼットを見ていく。いくつも服を引っ張り出して散々迷った結果、この前拓海くんに買ってもらった服に袖を通すことにした。
 着替えてメイクとヘアセットを終え、完璧に支度をしてリビングに戻ると拓海くんはもう起きていて、作っておいた朝ご飯を食べていた。
「おはようございます。もう起きてたんですね」
「うん、てかそれこの前俺が買ったやつでしょ?似合ってる」
「ありがとうございます。わたしそろそろ行きますね」
「え、早くない?」
 左腕につけた時計を見る。確かにまだ早いけれど、遅れるより何倍もいい。
「遅れるよりいいじゃないですか。ほら、五分前行動って言いますし」
「そうだけどさぁ」
 拓海くんが立ち上がり、こちらに歩いてくる。何かと思うと、わたしに縋るように抱きついてきた。
「なんですか、珍しいですね」
「んー、そう?俺だって甘えたいときあるんだよ」
 光によって照らされ、輝いた髪から拓海くんの匂いがふわりと漂う。拓海くんはわたしの鼓動を確かめるように、首元に顔を埋めてくる。
 息がかかってくすぐったい。わたしは拓海くんの頭を撫でた。それで満足したのか、拓海くんはわたしの身体から離れた。
 幸せそうに笑っていて、なんだか犬みたいだと思う。そう思えばそう見えてきて、思わず笑った。
「なんで笑ってんの」
「いや、犬みたいだなって。大型犬とか」
「やだ、もっと可愛いのがいい」
「大型犬も十分可愛いですよ」
 母親との話が終わり次第、拓海くんが迎えに来てくれることになっている。玄関で拓海くんに見送られながら家を出て、わたしは指定の場所に向かった。
 電車に乗り、ふたつほどの駅を通り過ぎる。三つ目の駅で降りて、五分ほど歩いた場所にそのカフェはあった。
 母親曰く予約をしておいてくれたらしい。珍しく気遣いができている。店に入り、店員さんに予約した萩乃です、と言えば、予約は入っていませんと言われた。
 何かの間違いだろう、そうだきっと予約をし忘れたんだ、店内にいたりするのかもしれない。萩乃という名前のお客さんはいますかと問えば、そのような方は来ておりませんと返ってくる。
 どういうことだ。頭の中が真っ白になって、冷や汗が噴き出る。すいません、と呟いて店を出た。
 近くのベンチに座り、鞄から携帯を取り出す。
 メールアプリを開いて、もう一度母親から送られてきていたメールを見た。店だって間違ってない、予約を入れたと書いてある。萩乃って名前で予約をしたから、先に店に入っておいてと――
 意味が分からなくなり、母親にメールを送った。どういうこと、予約は、もうすぐ待ち合わせ時間だよ、早く来てよ。不安になって何通も何通も送る。だが返信は何一つ来ない。
 どうしたらいいのか分からなくなり、拓海くんに電話をかけた。
『もしもし、どうした、もう終わった?』
 その声を聞いた瞬間、ひどく安心した。荒かった息は落ち着き、乱れた思考も少しばかり落ち着きを取り戻した。
「違うんです、店予約したって言ってたんですけど、そんな予約はないって。萩乃って名前のお客さんは来てないし、予約もなくて。どうしたらいいか分からなくて」
『ちょっと待って、どういうこと?』
 わたしは拓海くんの状況を説明した。動揺してばかりでいつもより聞きにくかっただろうに、拓海くんはいつもと変わらない様子で話を聞いてくれた。
『分かった。取りあえず俺がそっち行くよ』
「え、でも」
『大丈夫だから。ちょっと時間かかっちゃうけど、いい?』
 断る理由はない。お礼を言って電話を切ろうとした、そのとき。
 後ろから何者かに口元を押さえられ、変な感覚に襲われた。どうにも耐えきれない眠気が襲ってくるような、そんな感覚。
 それに耐えきれず、わたしは意識を手放した。
 意識を失う寸前で、見知らぬ人がわたしの携帯に向けて何かを話しているのが見えた。
 黒いパーカーのフードを被って顔を隠して、わたしに背を向けている謎の人物。低い声が聞こえる。きっと男の人だ。フードの隙間から見えた瞳は、冷たい光を放っていた。
 きっとこの人に何かされてしまうんだろうな。殺されるのか襲われるのか分からないけれど、きっと何か明確な目的があるんだろう。
 携帯は拓海くんと電話がつながったまま。拓海くんがわたしを呼ぶ声が遠くで聞こえる。
 返事をしなきゃ、ここで意識を失っちゃだめだ。分かっているのに、どうにも瞼が重い。
 一際大きい声で拓海くんがわたしの名前を呼ぶ。それを聞いたのを最後に、電話が切れる音がした。
 わたしももう耐えられない。
 重い瞼を、わたしは下ろした。


*


――身体が怠い。重い。節々が痛い。何だろう、床に寝ているみたいな感覚がする。
 そう思いながら大きく息を吐き、目を開けた。ここはどこだ。知らない場所だ。
 起き上がってみようにも身体が上手く動かせない。どうやらわたしは手と足を縛られているらしい。口にはガムテープが貼られ、声を出せないようになっている。
 なんだこれ。よくドラマで見るような光景だ。まさかそれに自分が巻き込まれるなんて思いもしなかった。
「――起きたか?」
 急に声が聞こえてきて、思わず身体を震わせる。
 見知らぬ男が、奥の方の部屋から出てきた。声と着ている黒色のパーカーが先程見たあの男だということを知らせている。
 男はわたしに近寄ると、身体を起こすのを手伝ってくれた。わたしは身体を起こし、壁にもたれて座る。
 手が伸びてきて、わたしの頬に触れようとする。条件反射で思わず後ずさってしまった。どれだけ後ずさろうと、後ろにあるのは壁だけなのに。
「……そんなビビんなよ、別に変なことするわけじゃねえし」
 そう言われてしまったら仕方がないので、わたしは彼を受け入れた。長くて細い指が頬に触れ、貼られたガムテープをゆっくりと剥がす。その手つきは意外にも優しくて、もしかしたらいい人なのかと思う。こんなことをしている時点で優しくはないけれど。
 ガムテープを剥がされながら、彼のことをじっと見つめた。
 茶色の長い髪が片眼を覆い隠していて、そのお陰でどこかミステリアスな雰囲気が漂っている。あまり手入れされていないのか、茶髪は傷んでいるように見えた。パーカーの袖の隙間、チラリと見えた腕は折れそうな程に細かった。手首には切り傷の痕がある。自傷行為でもしたのだろう。
 綺麗にガムテープが剥がされ、わたしは大きく息を吸う。改めて周りを見渡すが、やはり知らない場所だ。ここはひとつ、聞いてみるしかない。
「あの、ここどこなんですか」
「……へー、俺のこと大して怖くない感じ?突然襲われて攫われてんのに?」
 怖いか怖くないかで言ったら、そりゃ少しは怖い。ただ、わたしには、守ってくれる人がいるから。その人はきっと、わたしを見つけて助け出してくれる。
 そう思えば、何も怖くないような気がする。
「流石だわ、まぁそりゃ黒瀬拓海といればそうなるか」
「なんで拓海くんの名前を」
 そう言った途端に、彼の()の色が変わる。
「マジであいつと一緒にいんの?自分の身を守りたいならやめとけよ」
「どういうことなんですか」
 彼はわたしから離れ、ポケットからタバコとライターを取り出した。窓際に立ち、タバコを口にくわえ、ライターで火をつけると煙を吐き出す。