第二節 わたし


1

 十二月とは思えないほど、暖かい光が窓から差し込んでいる。
 わたしはひとりで洗濯物を畳んでいた。拓海くんは買い物に行ってくれている。
 ああもう、またポケットに物入れたまま洗濯しちゃった。ちゃんと確認しなかったわたしも悪いけど、物を入れたままにする拓海くんだって悪い。脱ぐ前に確認してくださいって言ったのに。
 なんて思っていると、空気が震える気配がした。顔を上げて机の上に置かれた携帯を取る。
 誰だろう。わたしに連絡をしてくる人なんて少ない。拓海くんか――いや、それ以外にはあまりいない。母親にはもう連絡してこないでと告げたし、他に連絡先を交換しているような人もいない。あ、瑠希。最近会ったし、遊びのお誘いでもしてきたのだろうか。
 そう思いながら携帯に電源を入れ、メッセージアプリを開くと、予想していなかった人からの連絡が来ていた。
「……お母さん」
 あのうだるように暑い夏に電話をかけてきたっきり、一度も連絡を取っていなかった母親だった。
 今回は電話ではなくメール。電話もメールも、もう二度としてこないでって言ったのに。
 大きくため息をついて、浮かんでいる通知を消した。
 携帯の電源も切って、机の上に戻す。再び洗濯物畳みに取りかかる。
――ああ、集中できない。
 服を取って畳む。それだけの些細なことが、何度も繰り返してきたことが、上手くできない。畳んでみても畳んでみてもぐしゃぐしゃになって、また最初からやり直しになる。
 さっきから送られてきたメールの内容が気になって仕方ないのだ。たった一件のメールに、どうしてこんなに感情をかき乱されないといけないんだろう。もう二度と会わないとまで思った母親だ。
 それなのに、どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう。
 携帯を取ろうと手を伸ばしては、寸前で手を引っ込める。見てみるか、見てみないか。
 もういっそ、見てみようか。好奇心には抗えない。簡単にやりとりできるアプリとは違ってメールは既読したかどうか分からないから、メールを開くだけ開いて、返さなければいい。
 膝の上に置いていた洗濯物を放り出して、わたしは机の上の携帯を握った。
 電源を入れ、メールアプリを開く。
 "璃恋へ"という件名で送られてきたメールを、わたしは開いた。

*

「ただいま~!」
 拓海くんの上機嫌な声が聞こえる。何かいいことでもあったのだろうか。
 あれ、どうしてだろう。その声が、どうにも、遠い。
 座っている足元に視線をやる。あれ、おかしい。
 拓海くんが家を出て行く前から洗濯物を畳んでいたはずなのに、もうとっくに畳み終わってクローゼットにしまっているはずなのに、わたしの足元にはまだ洗濯物が散らばっている。
 扉が開いて、いつも通りレジ袋を持った拓海くんが入ってくる。
 拓海くんはわたしを見るなり、手からレジ袋を落として、小走りでわたしの方に向かってくる。
「どうしたの璃恋、なんかあった?」
「……拓海くん」
 何もないよ。お母さんから届いたメールを見ただけ。それ以外、何もない。それなのに、どうしてこんな身体が重いんだろう。
 自分の声も、拓海くんの声もずっとずっと遠い。耳元で拓海くんが話しているはずなのに、数メートル離れているような感じがする。声がくぐもっているような、何か薄い膜にわたしだけ覆われているような――
 拓海くんが机の上に置かれたわたしの携帯を手に取る。
 画面を見た次の瞬間、拓海くんの目が大きく見開かれた。
「これ、本当なの」
 拓海くんから携帯を受け取る。画面には母親から送られてきたメールが表示されている。
 思い出した。身体が重怠くなったのも、声が、音が遠いような感覚がしてきたのも、すべてメールを見てからだった。メールには何が書いてあったんだっけ。
[璃恋へ。突然連絡してごめんなさい。急だけど、お父さんが亡くなりました。事故での致命傷が原因でした。それで、これからのことについて色々と話がしたいの。××日、ここで会える?]
 という文言と共に、とあるカフェの住所とホームページのリンクが貼られている。
 わたしはそれを見たまま動けない。どうしてなんだろう。
 もう親なんかどうでもよかったはずなのに。いっそのこと縁を切ろうとまで思っていたはずなのに。どうして。
「……どうして、なんですかね」
 わたしの手から携帯が滑り落ちて、床に落ちる寸前で拓海くんに拾われる。
「よく、分からないんです。自分でも。もうどうでもいいって思ってたのに、メールを見てからおかしくなって、それで」
 拓海くんに抱きしめられる。力が強くて、息が苦しい。
 それでも、わたしを想ってくれているということだけは、痛いほどに伝わってくる。
「変ですよね、こんな」
「変じゃないよ」
 体温が離れていく。苦しかった息は楽になったが、それが逆に少し寂しい。
「ちゃんと親のこと好きだったってことでしょ。誇り持っていいよ」
 何に誇りを持つんだか、よく分からないけれど。拓海くんのお陰で、わたしは笑うことができた。
 嫌いになろうが離れようが、わたしにとってはこの世でたったふたりしかいない家族なのだ。今更会ったところでもうどうにもならない、そんなことは分かりきっている。だからもう、これで終わりにするのだ。
「……これ、行ってもいいですか?けじめ、つけてくるので」
「勿論。言いたいこと言ってきなよ」
 拓海くんはわたしの言葉の意味を理解してくれたようだった。
 母親と会うのは、きっとこれが最後だ。次出会ったとしても、きっとどちらかは息をしていないだろう。
 ありがとうございます、と拓海くんに向かって小さく呟きながら、わたしはばら撒かれた洗濯物を手に取った。


2

――ピピピ、ピピピ。
 聞き慣れたアラーム音で目が覚めた。ベッドサイドを探り、何とか携帯に触れるとアラームを止めた。
 拓海くんはわたしの隣でまだ寝ている。
 彼を起こさないよう、ゆっくりと身体を起こす。何とか身体を起こした瞬間、腕が引っ張られて身体ごとベッドへ逆戻りし、拓海くんに後ろから抱きしめられるような体勢になる。
「……まだ時間あるよ」
 もうちょっとここにいてよ、という意味らしい。わたしだってそうしたいけれど何とかその気持ちを抑え、拓海くんの腕からするりと抜ける。今日のわたしに余裕はないのだ。
 リビングに降り、顔を洗い、昨日の夜に準備しておいたご飯を食べる。拓海くんの分も用意をして、ラップをかけておいた。
 歯磨きをして、着替えをする。いつもだったらこの間に掃除やら洗濯やら家事が挟まるけれど、今日は拓海くんがやってくれるらしいので任せることにする。
 クローゼットの前に立ち、今日は何を着ようか思案する。
 今日は母親と会う日だ。あの後連絡を取り、今日会うことになった。今もまだどういうことなのかよく分かっていない。
 電話じゃだめなの、本当に会わなきゃいけないのと連絡をしても、「色々厄介な決め事があるから」と返ってきた。
 本当なのか少し疑ってしまう。そもそも父親は死んでいなくて、わたしに会いたいが為に嘘をついていたり――なんてないか。あの女のことだ、こんな上手く嘘をつけるとは思わない。
 だとしたら本当なのだろうか。メールアドレスだってちゃんと親のアドレスだし、わたしの名前もちゃんと知っている。それだけで本人だと決めつけてしまうのは早すぎる気もするが。