第1章 黒雨

第1節 であい


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 寒い。寒い。
 やっぱりもう一枚着てくればよかった。そんなことを思いながら、繁盛している駅前の端っこで地べたに座り、膝を抱き、顔をぐりぐりと埋める。
 昨日から今日にかけて、ずっと雨が降っている。それはもう、うんざりするほど。
 制服のポケットを探り、スマホを取り出す。お母さんから大量の電話とメッセージ。内容を見ないまま電源を消した。見なくても、大体分かる。どうせ早く帰って来いだとか、あんたがいないと私が困るとか、そういった類いのものだ。
――こういうときだけ、心配するんだ。
 一回そう思ってしまえば、鬱陶しくて仕方なかった。家にいたらいたで迷惑そうにするくせに、いないとなると頼ってくる。
――クソ親の手本みたい。
 心の中で悪態をつきながら、スマホをポケットにしまった。
 家出をしたのは昨日のこと。すべてに嫌気が差して、同時にすべてを諦めて、家を出た。何着かの着替えとスマホ、スマホの充電器にメイク道具、必要な生活用品。それらを詰めた鞄は重かったけど、これで家を出れると思えば軽かった。
――縋ってくる、親の重さより。
 さて、これからどうしたものか。
 昨日は友達の家に泊めてもらったけれど、流石に二日連続というわけにはいかない。友達もいやだろうし、わたしも申し訳ない。
 そこらにある安いホテルかネットカフェにでも泊まるか。どちらも薄汚いけれど、寝れるならいい。
 雨は相変わらず止まない。屋根のある場所にしゃがみ込んでいるからある程度凌げてはいるけれど、それでも時々防ぎきれなかった雨粒が落ちてくる。
 服が濡れるのも嫌だ。髪も濡れるのも嫌だ。今日はシャワー付きの所に泊まらなきゃかもな。シャワーが着いてると少し値段が張るから嫌なんだよ、今は少しでも節約したいのに。
 なぜか知らないけど、すべてが上手くいかない。上手く生きれない。生きることが向いていないんだろうか。
 ため息をついて下を向く。視線の先、地面はじわじわと雨によって色が変えられていく。
――こんな風に、簡単に変われたらいいのに。
 昔から周りに合わせることが苦手だった。逆にどうして周りに合わせられるんだろう、どうして合わせなくてはいけないのだろうと思っていた。
 わたしはわたしの意見を言っただけなのに、周りから冷たい目で見られた。それがよく分からない。
 わたしはわたしでいたいだけなのに。
――どうか、わたしを否定しないで。
 冷ややかな目で、わたしを見ないで。面と向かってぶつけられる罵詈雑言より、突き刺すようなその冷たい視線の方が、わたしにとってはダメージが高い。
 そんな願いは、いつも淡く消えてゆく。
 瞳からなにか溢れそうだ。あつくて、わたしの力では止められない。それをこぼしたくなくて、また膝に顔を埋めた。
 視界は焦げ茶色の地面でいっぱいで、耳から入ってくる音は雨に埋め尽くされている。
 それでも、一つの足音だけは耳に届いた。
 ありふれた雑音の中で、そのひとつの音だけ、こちらに向かってくる。まるで、わたしに吸い寄せられるみたいに。
 思わず、顔を上げた。
「……ねぇ。大丈夫?」
 綺麗な声、だと思った。声的に男性。声の主は傘を差しているから、顔がよく見えない。見た感じ、背はかなり高そう。
「ねー、聞いてるんだけど」
 急にしゃがんで視線を合わせてくる。突然揺れた衝撃で、傘についていた水滴が、いくつか落ちた。
――綺麗な、顔。
 一瞬女の人かと思ってしまうほどに、綺麗な顔をしていた。大きい瞳、高い鼻。怪しげに上がった口角。さらりとした黒髪。
 普通こういう人に話しかけられても無視や断りを決め込むべきなんだろうけど、この顔面にならなにをされてもいいような気がした。
「制服でこんなとこいるって、どういう状況?あ、分かった。家出?」
 そう言っていたずらっ子みたいに笑う。わたしはなにも言えず、ただ目の前の綺麗な顔を見つめている。
「……なんか言ってよ。口ついてるんでしょ?」
 なにを言うべきか分からない。家出しましたって正直に言っても、きっとなにも変わらない。言っても、この人はわたしを救ってくれるわけではないだろう。
 彼の指がわたしの首筋を通り、顎に伝い、唇に触れる。その綺麗な見た目とは裏腹に指はごつごつとしていて男らしくて、思わずごくりと唾を飲んだ。
「……家出、しました」
 あぁ、なんで言ってしまったんだろう。
 後悔してももう遅くて、目の前の彼はふっと口元を緩めた。
「へー、住むとこあんの?」
 自分から聞いてきたくせに、大して気にしていないような、そんな口調。なんだか少し腹が立つ。
「……ない、ですけど」
 きっと真下から彼を睨みあげた。彼は驚く様子も怯む様子も見せず、不穏に口角を上げ続けている。
「じゃあさ」
 彼の唇が、ゆっくりと言葉をなぞる。発せられる言葉は、予想外すぎるものだった。

「俺と生きようよ」

 その瞬間、世界から音がなくなったような気がした。
 聞こえるのはわたしの荒い息づかいと、どくどくと鳴る鼓動。雨が降り続いているはずなのに、わたしと彼がいるこの数メートルだけ、雨が降っていないみたいで。
 かすれたわたしの声も、きっと届いた。
「……はい」
 目の前に腕が差し出される。その手を掴むか掴まないか。この選択で、わたしの人生が決まるような気がした。
 この手を振り払って、家に戻って、真っ当な人生を生きるか。
 この手を握って、道を踏み外すか。
 普通の人だったら、前者を選択するんだろう。
――わたしは。
 にやりと笑って、彼の手を精一杯握った。そのまま彼に引っ張られて立ち上がる。
「来るんだ?その制服、かなりの進学校でしょ」
「行きます」
 わたしの通っている高校を知っていることに驚きつつ、きっぱりとした声で言った。
「どうなっても知らないよ?」
「いいですよ、もう。ぜんぶ諦めてるんで。最後くらい――」
 わたしはそこで口をつぐんだ。出会ったばかりなのに、最後の話をするべきではないと思ったのだ。
 とはいえ、最後、という言葉に嘘はない。生きるのが下手で、沢山傷ついて、沢山苦しんだ。最後くらい好きに生きて、負けるかもしれない賭けに、身を乗り出したっていいじゃないか。
 彼は少し驚くと、地面に無造作に置かれていたわたしの鞄を取った。
 手は繋いだまま。
 わたしに傘を持たせて、着いてきてと言わんばかりの大股で歩き出す彼。背が高い上に大股なんて、歩くのが速いったらありゃしない。
「あの、もうちょっとゆっくり歩いてもらえませんか?」
「悪いけど急いでんの」
 緩まるどころかどんどん上がっていくスピード。もう仕方ないと大きく息を吐いて、傘を握る手に力を込めた。
 路地裏に入り、角を曲がり、出た先でまた曲がる。蛇のようにくねくねと曲がり続ける。わたし今、家に向かってるんだよね?この人、どんなところに住んでいるんだろう。
 そう思ってしまうほど何度も曲がる。出る先出る先薄汚い路地裏で、こんなところに家なんてあるのだろうかと思ってしまう。
 彼に引っ張られながらもう少し歩けば、さっきよりは開けた場所に出た。遠くにスーパーが見える。されるがまま向かった先には一軒の古びたアパート。
「はい、到着。ここの四号室、一番端ね。俺ちょっとやらなきゃいけないことあるから、先入ってて」